メトロポリタン・カメリヤ
わたしは何をしても、人並みの速さではできなかった。
何かひょっとしたら生まれたところから間違えたのかな、とかそういうことを考えるのもよくわからないし、そうするともうこのまま座っているのも面倒になって、ぐったりと目を閉じていたくなった。いつのまにかここにいて、園長先生は優しくて、周りの人はちょっと怖いけれどそれでもわたしを殺しに来るわけじゃないから言葉は全部受け止めた。返事をちゃんとしようと思うとどうしても時間がかかってしまって、余計に鬱陶しがられるだけだということはいままで生きてきてよくわかってるから。返事をするよりうん、いや、そのどちらかを見せたほうが楽だしわたしも傷つかないし不便じゃない。わたしは思われるままの人間でいいし、わたしは誰かのことを思わない。だからこうやって手をひかれて体育倉庫の隅で人形扱いされて精液を呑んでいるのもまったく苦痛になんて思わなかった。そういうふうにされるのは、むしろ楽で言葉じゃなくていいから、わたしは考える必要もなく差し出される腕に甘えて、代わりにこっちから腕を差し出して、カラダで相手にすべて教えればいい。
会話が苦手なわたしでも、話してくれたひとはいた。人の名前を覚えるのは苦手。あのひと、あのこ。だって誰に対してもわたしはその人を指し示して呼ぶことはない。わたしがあのひとだと理解できていればいいので、覚えることもなくて、そんなわけでわたしは人の名前も覚えなければ勉強もまったく覚えなかった。でも学校にいるのは辛くなかった。結局皆、わたしのようなのがいると何やかんやと心配をしてくれる。それが偽善でもべつにいいな、と思えるからここにいるのは辛くない。あ、ちがう。わたしと話してくれたひとのことだ。ひとりはどうしようもなくわがままで、ひとりはどうしようもなくおくびょうで、わたしはどっちも好きだった。わがままなあのひとはカラダも好きだったけれど、わたしの声も聞かなきゃ満足しないと言ってわたしが唇を開くまで待った。それからわたしがたった一言あのひとの名前を呼んだのだけれど、それで満足したみたいでわたしの頭を撫でてくれた。わがままで乱暴だと思っていたのに、手はどんな人間もおなじにあたたかくてわたしは感心してしまった。もうひとりのおくびょうな人は、どこで知り合ったんだったか、明るくてかわいいひとだったからわたしは彼がしゃべるのに任せて時々うんとかいやとか言うだけでよくて、気が向いたらわたしも笑ったりそうだねと言ったりした。わたしが話すことを強要しないからとても楽で、わたしは決していいかげんな気持ちでいっしょにいたのではないのに周りにはそうは見えなかったみたいだった。いろんな噂を立てられてそのひとはとても辛い思いをして、わたしはどうしていいかわからなくてうっかりその手を放してしまった。気が付いたらもうその笑顔は見えなくなっていて、わたしは薄情にも名前さえ思い出せないでいる。きっとわたしとそのひとがうまくいかなかったのは、わたしが全部言葉でどうにか伝えようと無理をしたからだと思う。からだでないと伝える方法がわからないことがたくさんあった。それでも今度会っても、からだがほしいとはきっと思わないと思う、わたしにだって特別なひとを思う気持ちはあるし、そんな関係になりたいと思えない何かがあるのだからもう仕方ない。きっともう一度会ってもうまくいかないだろうなと思う。生きていく世界が違いすぎて、言葉が通じていることはわたしとあのひとの間では奇跡のようなものだった。
わたしがはじめて名前を覚えたのは、さいかわ、という男だった。苗字がさいかわ、なまえはまほろ。不思議な音だなぁと思ったら覚えてしまっていて、わたしは誰にこの男のことを語るつもりなのだろうとむしろ驚いたくらいだった。犀川はかわいい男で、あのひとほど明るくわらわないけれどどこか擦れたような、気取った笑顔の下に隠し損ねた子供っぽさがかわいくてわたしはつい甘やかしてしまう。言葉でどうにかしようとしてしまう。犀川も犀川で、わたしをカラダでどうにかしようとするのだけれど、それもなにか違和感があるようでわたしにキスをするのだけれど、やり方がわからないから見よう見まねで唇の角度はこれでいいのかなんてその都度確かめているようなのだ。人に触られてくすぐったいと思ったのは初めてでどうも変だなと思った時にはもう犀川のことが好きでたまらなかった。きっとそういう手管に長けた男なんだなというのはにおいでわかるし、犀川はわたしをおんなと同じに扱っていいのか迷うように中途半端な扱い方をした。そんなふうにおくびょうにされると、わたしはあのひとを思い出して怖くなる。涙を流さないで。汚れないで。わたしのために、ばかげているってそんなこと言わなくてもわからないんだろうか、苦しいなあと思ったらもう水に浸かっているほどわたしは愚鈍なのだから。でも犀川はわたしが思わず頼りしろにしてしまうほどに甘やかでやさしくて、ついわたしは媚態をとるのを忘れてこのまま言葉だけでセックスができるのではないかなと勘違いしてしまう。それが大いなる幻想で打ち砕かれて然るべきなのはわたしがいくら間抜けだとしても深く深くわかっていた。不安定な綱渡りを無茶して二人で渡ろうとする、このまま落ちてもいいなと思うのはやっぱり愚かで犀川はそれをよく思わないだろうな、それでもいいや落ちてしまいたいなあとわたしは何度も同じ夢を見た。その夢では犀川なのだかあのひとなのだか、そんなことはわたしにはもうどうでもよくなって、わたしは誰かの腹の上で目を閉じる。それがいけないことなのだと罵られても、わたしにはそれしか誰かを理解する手段がないのだから仕方ない。犀川はわたしを叱らなかった。それは素敵な夢だねと言って、話すのが遅いわたしの言葉をいつまでも待っていた。
「…それで、まほろ。」
わたしはぽつぽつと零す言葉で、そのうち犀川の体があふれてしまわなければいいな、と思った。
わたしはぽつぽつと零す言葉で、そのうち犀川の体があふれてしまわなければいいな、と思った。