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ときわのおやすみ

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ときわのおやすみ



教会の中はしんと静まり返る。響くのは、時折外から聞こえてくる足音や、教会の長椅子辺りから聞こえる僅かな寝息のみ。

緑色の神父は彼らを起こさぬようにゆっくり起き上がり、足音を立てずにそっと足を運ぶ。脇に抱えた赤い聖書は、もはや持ってないと落ち着かないような、そんな存在になっていた。
木製の扉はそっと開いたつもりだったが、思っていた以上に無音の中に反響する。翠は慌ててさっと教会の外に出、ため息をついて僅かに上を見上げた。

「…炎龍、もうやめましょう」
「……」

翠の頭よりも少し高い位置から見下ろす金色の瞳。陸の身体は以前よりも強く、赤い皮膚に侵されていた。両手には鋭い爪、両足は固い皮膚に完全に覆われている。

「……しん…ぷ」
「炎龍、貴方はまだ私に一回も勝てていないでしょう?
…今のままじゃ、貴方は私にはいつまで経っても勝てませんよ」

紅のいたあの廃墟に行った前にも後にも、この教会に何度も陸は姿を現していた。
翠が記憶を取り戻したあの時から、ずっとだ。クレセリアと翠を殺すことを目的に、彼はここを訪れる。
だがクレセリアとはあの時以来見かけてはいないし、当然この教会にいるはずもない。“今”いるのは翠と、刹だけだ。

どうしたものかて考えていた翠の頭上へ、陸がゆらりと、巨大な爪を持った左手を振り上げる。

「……ころさない、と…」

だが、それはなかなか降りてこない。

「………炎龍?」
「……!」

陸は突然、ぐるりと自分の真後ろを振り返った。そして喉の奥から深く、唸る。少しだけ顔を覗かせた翠は、僅かに息を飲んだ。
いつの間にか、橙と緑の大きな翼がそこにあった。その竜を思わせる姿は前にも見た記憶はある。だが今のそれは、何故だろう、随分禍々しく見えた。
陸は一度下ろした爪をもう一度振りかぶり、その<リザードン>へと襲いかかった。
橙色の青年の腕が、するりと持ち上がる。


「…っが…!!」

酷く綺麗な色をした炎が、陸に噛みつきにかかる。間一髪固い皮膚の腕が炎を抑えたが、それは顔への直撃を防いだだけだ。

「炎龍!」
「…ころ、す」

グラードンが一声大きく吠えた。もはや人の叫び声や悲鳴でない、雄々しい巨体の生物の哭き声が世界に響く。
グラードンの<きりさく>が、橙の青年の心臓を切り裂かんと光った。
だが、強烈な爆音と共に襲いかかった<ねっぷう>は、陸の脅威ばかりか後ろの翠にまで飛びかかってきて。


*

刹は大きな音で目が覚めた。
何かが爆発するような、衝撃と音の重さで鼓膜が破れそうな。
慌てて眠っていた長椅子から立ち上がり、音のした場所―自分のすぐ後ろ、教会の後方にある大きな扉を見た。
木製の扉があったはずの部分は真っ黒に焦げ、そこからほんの微かに煙が上がる。一瞬そのぽっかりと開いた先に誰かが見えた気がしたが、もうそこには何も居ない。ともあれ駆け寄って見ると、そこには赤い本を抱いたまま地面に倒れる翠と、それより一メートル向こうにいつぞやの赤い化物がいた。
翠の方は、ほとんどダメージは無いようだった。何か強い力で叩きつけられた、それだけのダメージ。一方、化物の方は酷い重傷だった。どんな敵からどんなわざを喰らったのか。全身の至る所に火傷を負い、荒々しい咳混じりの呼吸はこちらまで聞こえてくる。

「おい、神父!…生きてるか」
「…かい…えん」

刹がしゃがみこんで顔を覗くと、翠のうつろな瞳と目があった。はっきりとした意識もあるようで、とりあえず刹は安堵の息をつく。

「説明しろ、一体何が…」
「……ごめんなさい」
「…謝らなくて良いから、まず話せ」
「…炎龍が」

続きを言おうとした翠の瞳から涙が溢れ出す。いきなりのその現象は、刹を軽いパニックに陥れた。
頬を伝い聖なる空間に落ちる涙をそのままに、翠は続けた。

「炎…炎龍が、死んで……」
「…おちつけ、アイツはそこにいる、まだ何とか生きてる…はずだ」
「でも今のままじゃ、」

翠が思わず、海淵の薄汚れたローブに手をかける。
その瞬間、ばさりと二人のすぐ横で物が落ちる音。二人は同じタイミングで、そちらを向いた。

真っ赤な表紙の聖書、
思い出される<三日月>の言葉、
『空瑚、いえ、翠は、誰か一人の命を代償に一人を癒せる』

吹き込む風にめくれるページ、
『その業は、目覚めた今でも』
開いたページに書かれていた、『使えるはずよ』

ストックは、零。

…翠の瞳が、今まで刹の見たことの無いような光を映した。
ゆっくり立ち上がると、取り憑かれたようなふらふらとした足取りでその聖書へ向かう。
刹は翠が本を取りに行き帰ってくるまで、その場から一歩も動かなかった。
翠は左腕に聖書を抱き、右の手で刹の頬を優しく撫でながら、ささやく。


「…ごめんなさい、海淵」
「……っ!…や、いやだ…!」
「…分かってください」
「いやだ……いやだ、俺は、しにたく、」

しにたく、ない。
翠はその言葉を、一陣の風で遮った。
赤に染まる聖なる空間。刹の目は大きく見開かれたまま。

「……どう…して」
「…これしか方法は、無いでしょう」

ね?と翠はにっこり微笑んだ。
その口元からは一筋の赤い液体。
翠は自分の腹を切り裂いた。喉にしようかとも迷ったが、それでは最後に言いたいことも伝えられない。

「海淵」
「……」

「炎龍とカルロを、お願いしますね」

ぱたり。あっけなく、翠は後ろに倒れた。血で刹の服が汚れてはいけないとでも、思ったのだろうか。

「…しんぷは、しんだ…のか」

刹は自分にかかる影をゆっくり見上げる。傷も火傷も全て完全に癒えた化物。

「…なら、次は……クレセリア、と…おまえか」




地面の僅かな身震いに気づくと、刹はぐったりとした神父の体を引き寄せて立ち上がる。
逃げよう。刹には、そんな結論しか出せなかった。自分はろくにわざの一つも使えない。味方がいなければ、戦えない。

…だが、どうやって逃げよう。目の前には、完璧なコンディションの状態の化物。その数メートル後ろに大きく開いた出入口はある。教会の前方…教壇のある方にも、出入口がないことはないが。

――…無理だ。殺される。
どう考えても、この状況を突破できることなんて…!

「…っそ…」
「…クレセリ…ア、は?」

あの女の場所でも尋ねているつもりなんだろう。だがあいにく、刹も翠もクレセリアの居場所はしらない。
答えない刹も用済みだと感じたのだろうか、陸の腕がゆっくりと、刹を殺す構えになった。
思わず固く、目をつむる。
だが不意に、体がぐいと後ろに引っ張られた。
かきん、という硬質の音が聞こえたのは、その直後。

「目を開けて」
「…っ……?」

自分と陸との間に、凛とした少女がいた。小柄な彼女の手の中の小さな牙は、鋭い陸の爪を的確に捕らえている。

「お前、出てたんじゃ、」
「…早く神父を連れて、遠くへ。あるいはまだ、生きているかも」

少女の声はするりと耳まで届く。刹は少女と陸の体格差に僅かに躊躇いつつも、翠の体を細い背に背負った。地面を蹴り、駆ける。
「…じゃま……や」
「そう思うなら、退けてみろ」

*



「…っは、はぁ……っ」

振り返り、誰も追ってきていないのを確認してから、地面にへたりこんだ。教会よりもずっとずっと離れている場所。


「っ……起きてるか、神父…!」
「……」
「…返事、くらい、しろよ……」

こちとら大の大人一人背負って走ってたんだ。こっちの気持ちも分かりやがれ、馬鹿神父。
神父はだが、地面に寝たまま起きようとはしない。
近くからの強烈な血の臭いに刹は気づき、自分の血に濡れたローブを脱ぎ捨てた。下に着ていたのは、青い着物のような服。だけれど、自分がいつから、どうしてこんな服を着ていたか、思い出せない。

「…何なんだよ……」

――何故自分は、忘れることを望んだ?
忘れる前の自分は、考えてもいなかったのか?

…ざり、ざり、と、足音。

――自分が自分を忘れたって、人が自分を忘れたって、世界が自分を忘れたって。

…足音が、止まった。刹は虚ろな目で、そちらを見上げる。赤い獣と、赤い、空。

――所詮何も、変わりはしないのに。
――……ああそうか、何も変わらないのか。ならどうせなら、別の願いにしとけば良かったかな。

――そうだな、例えば……

「…お前、<お師匠さん>を殺す気か?」
「…強い奴…は……殺す…」
「そうか、なら」

俺を殺していけよ、<炎龍>

骨が折れる音、肉が裂ける音、心臓が鼓動を全身に響かせる。

「……!!」

その陸は一歩だけ後ずさった。だが金色の瞳は、ずっと刹を捕らえている。
青い肌が刹の両腕を覆いつくし、衣服の隙から覗く胸の辺りまでそれは及んでいた。そして両腕はまるで巨大魚のヒレのように肥大化し、一対のそれとなっている。

陸は嬉しそうに、ぽつりと彼の名を呟いた。

「……<カイオーガ>…!!」
「……」

刹だった<カイオーガ>は、ゆっくりと左手を持ち上げ、その金色の目でじぃと眺める。ちらりと陸に目をやった後、刹は突然飛びはね、近くの建物の上へと登った。
挑発するような視線を陸に送ると、軽い足取りで刹はその場から立ち去っていく。

「やっ、と……見つけた」

独り言のようにそう呟くと、刹が消えていった方角へ陸もまた走り去る。


そしてこの日、
初めて、赤い空から雨が降り注いだ。



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