<ブラックペンタゴン南東部 山岳地帯>


山肌を撫でるように吹きゆく風が、乾いた音を残して草を揺らしていた。

三人の女が命を落とし、生き残った三人の男は二手に分かれてそれぞれの道を行く。
その一人、ジョニーが重く刻み込むような足取りで進み行くのを、ディビットとエネリットは無言で見送った。
しばらくして、ディビットは小さく息を吐くと、視線を隣へと滑らせた。


「さて、バンビーノ」
ディビットは傍らのパートナーへと声をかける。
その声に応じて、エネリットが顎を上げる。

「俺たちもそろそろ次の手を打つ頃合いだろうが……その前に確認しておくべきことがあるよな?」
「ええ、僕も話を切り出そうとしていたところです。避けては通れませんから」
二人の視線が交差する。

「俺たちの考えていることは一致しているのだろうな」
「同時に口に出してみますか?」
「ふん」



「「契約の更新」」



二人の声が寸分の狂いもなく重なった。
そして、先ほどまで漂っていたはずの哀愁を含んだ雰囲気はどこへともなく霧散した。
代わりに、合理と策略の匂いが場を支配していた。


「今の段階で、俺は200ポイント。
 いい数字だ。同盟は当初の狙い以上に機能している」
「ですが、そうなると問題は次の一手です。
 これまではポイントを稼ぎ一辺倒で良かったですが、新しい指針が加わるということですね?」
「話が早いな。
 受刑者を相手に、ポイントの"運用"という選択肢がここから加わるだろう。
 端的に言えば、スカウトだ」
「なるほど。賛成です」


エネリットとディビットの『ポイントを稼ぐための同盟』は、互いの信頼がゼロであるときに構築された同盟だ。
当然、戦力の拡充になど言及していない。
段取りがない以上、既存の契約ではカバーできない部分も出てくるだろう。

先ほどは役割分担の流れに乗って、ディビットはジョニーを取り込もうとした。
そのときは問題は起こらなかったが、リスクとしてエネリットとディビットのそもそもの目的も異なるということもある。

地獄の鉄火場において、パートナーとの思い違いは命取りだ。
取り込もうとしていた戦力をいざ前にした状況で、殺害と懐柔とで方針が決裂しようものなら目も当てられない。
ましてや、アビスの囚人を前に、それを晒して狼狽えるなど、自殺行為以外の何者でもない。


ジョニーの引き込みを目論んだのはディビットだが、首輪を取得する権利を最初に口に出したのはエネリットだ。
二人の中で、戦力の強化に移るのは確定事項となっていた。
故に、契約の更新は必須。前提の見直しも必要。
両者の認識は一致している。


「俺がすべてのポイントを報酬に使ったとして、帳消しにできる刑期は50年。
 仮にお前が上乗せすれば、80年。
 死刑囚と無期懲役囚を除けば、恩赦の条件をクリアできる量だが……」
「無秩序に取り込むわけにはいかない。
 ここはアビスです。適性を見極めずに手を出そうものなら、440ポイントを相手に献上すると同義です」
「まったくその通りだ」
ディビットは鼻で笑いながら、小さく指を鳴らした。


「極端な例を出そう。
 たとえば、ドンだ。
 数値上は320Pであの男を買えるが、どう思う?」
「冗談にもなりませんね。
 口に出しただけで、アビス中の笑いものでしょう」

ドンならば首輪を渡した途端に、ディビットとエネリットをまとめて殺しにかかるだろう。
何故なら、二人の首にまだ120ポイントが着いているからだ。
あれは根っからの略奪者であり、底抜けの欲望の体現者。
キングに対抗できる確かな戦力であろうとも、決して候補にはなり得ない。


「ブラックペンタゴンに突入する前に、そういう連中を洗い出す。リストアップしよう。
 逆に、ポイント次第で交渉に応じる意思がありそうな有望株もな。
 交渉か、殺害か、あるいは回避かあらかじめ目星をつけよう」

戦力とするのか、ポイントとするのか、相手にするのを避けるのか。
すらすらとディビットが取り決めを固めていく。
エネリットは真剣な表情で内容を反芻し、おもむろに頷く。


「スカウトの優先権については、こればかりは縁もあるのでな、囚人一人一人に傾斜をつけよう。
 そして、引き込んだ戦力の運用については、交渉を成立させた者がその権利を得る。
 入手した首輪の所有権や順番に関しては引き続き継続としよう。
 どうだ? ここまでは問題ないか?」
運用優先権、ポイント取得権。
意見対立が起きた時、人数増加に伴い二手に別れざるを得なくなった時などの例外規定等、詰めていく。


「さて、あとはリストアップだが……。言いたいことがありそうだなバンビーノ」
「……」
デジタルウォッチを開くディビットだが、無言の返答に、視線を上げる。
その視線は、エネリットの瞳の奥に潜む"炎"を捉えていた。


「……作業に移る前に、僕から一つ。
 明確にしておかなければならないことがあります」

その声音は、さきほどまでの理知的なものとは異なっていた。
深く、静かで、それでいて地の底から響いてくるような気迫があった。


「僕の復讐相手についてです」

風が止まった。空気が静まった。
ディビットの指が、無意識に自身の胸元へと伸び、その動きを止めた。
もし、彼が煙草を手にしていれば、火をつけて煙をふかしていただろう。



「……ようやく話す気になったか。言ってみろ」
ディビットが顎を軽くしゃくった。

エネリットはほんの少しだけ目を伏せ、一呼吸置いたのち、顔を上げて復讐相手の名を告げる。

「バルタザール・デリージュ。鉄仮面で素顔を隠した大男。
 ――この刑務に参加しています」


「――あの男か」

ディビットは直ちにバルタザールの名と容貌を記憶から引き出し、関連情報を思い返す。
ある意味、アビスの囚人として破格の扱いを受けている男。
そして、ディビットの情報力を以ってしても謎に包まれた男だ。
正体も超力も、その素顔さえ一切の謎。
いわば秘匿受刑囚に次ぐ未知数である。


「お前たちの因縁に興味はない。
 だが、一つだけ質問に答えてもらうぞ」
「はい」

ディビットの言葉に、刃物のような鋭さと、押しつぶす様な重圧が入り混じった。
ここで誤魔化すようであれば、同盟の決裂も視野に入るだろう。
それほどの圧をエネリットは正面から受け止め、ディビットから決して目を逸らさなかった。



「お前は――自分の手でそいつを殺したいのか?
 それとも、そいつが死にさえすれば満足か?」


その問いには無視できない重みがあった。



ディビットは組織人として敵対組織への報復を取り仕切った経験はある。
だが、それは断じて私怨に基づくものではない。
報復とは、綻びかけた組織の基盤を補修し、より盤石にするための一手段だ。
そのため、合理性を以て行われねばならない。

リカルド・バレッジは、キングとの直接抗争で半身の自由を失っている。
専用の治療装置に繋がれ、表に出る機会も大きく減少した。
だが、キングス・デイとの徹底抗戦論をディビット含むバレッジの上層部は抑えきった。
他ならぬ、リカルド・バレッジ本人を説き伏せた。
キングス・デイとの全面抗争はバレッジ・ファミリーの終焉に繋がることを理解しているからだ。
できることならばこの手で八つ裂きにしたい衝動を抑え込み、ディビットはファミリーの存続のための手を打ち続けてきた。


だが、エネリットの復讐は違う。
そもそも個人の復讐というのは、私怨によって構成されるものだ。
そこには、非合理が確実に入り混じる。


エネリットはディビットの言葉の意味を咀嚼し、しっかりした口調で言葉を紡ぎ始める。

「――僕は、自分の手で復讐を果たすことを望みます」


ディビットの目が細められた。
選択の幅が、ぐっと狭まる答えだった。
その反応を認識しながら、エネリットは言葉を続ける。

「ただし、それは僕が剣を振るい、首を落とすということではない」
「ほう?」
ディビットの価値を見定めるような目を前にしても、
エネリットの言葉に込められた意志は鋭く澄んでいた。


「僕は王子です。騎士ではない。
 僕の描いた盤面で、僕が駒を動かし、計略の果てに復讐を完遂できるのであれば、それで構いません」
「なるほどな。つまり、バルタザールが勝手に事故で死ぬのは許容できないが、お前の策で殺されるのは構わんということか」
「ええ、それが"僕の手での復讐"の範囲です」


それが王子としての矜持。
人を動かす者として、正道のやり方で復讐を完遂できるのならば、むしろ本懐ですらある。
非合理の塊たる私怨による復讐でありながら、合理を重視した王族としてのやり口で復讐を果たす。


「ああ、よく分かったよ」
ディビットとしてもその解答は及第点であった。

思い出すのは、メアリーを葬ったときのエネリットの一連の選択。
ルメスとメアリーの交渉次第では、あの場で命を落としたのはエネリットである可能性もあった。
エネリットはそれを正しく認識したうえで、生き残る意志と賭けに出る胆力の双方を見せた。
あの短時間で殺害までの道筋を構築し、見事に標的を葬って見せた。


「お前は、賭け方ってヤツを知ってる。
 だから俺はお前に投資を続ける」
「光栄です」


かつてディビットは、100ポイント以上の価値を示し続けろと注文した。

信用とは、価値とは、言葉ではなく行動で積むものである。
聡明さと実行力、胆力、何より動くべきところで正しく動ける決断力。
それらを併せ持つエネリットは100ポイントを超える価値がある。


唯一気になったのは、先のジョニーとの対話の際に見せたあの激情。
おそらく、本人が自覚しきれていない感情。
冷徹で抜け目ないアビスの王子の胸中には、どろどろとしたマグマのような激情が宿っている。
では、エネリットは信用しきれない相手か?


――断じて否。


たとえ激情に身を焦がされようとも、冷徹な意志で復讐を完遂する。
それがディビットによるエネリットという男への見立てである。


新たな契約内容と前提情報の共有。
そのすべてを終え、二人の男は握手をかわす。
ポイントを稼ぐ同盟から、互いの目的を果たす同盟へ。
契約が、この場で確かに更新された。



<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック連絡通路内側 物置前廊下>

足音が、空間を裂くように鳴り響く。
ブラックペンタゴンの長い廊下。
二つの影が景色を置き去りにして走り抜ける。



先頭を行くのは只野仁成。
その洗練されたボディは、走破に特化したスポーツカーのごとし。
エンダ・Y・カクレヤマを担ぎ上げるように抱え、回廊をひた走る。


背後。
石床を叩き割るような重低音が近づいていた。
それはまるで、戦場の一切を薙ぎ倒していく戦車のようなプレッシャーを放っていた。
エルビス・エルブランデス。
無敗のチャンピオンが敗者を決して逃がさぬと追い縋ってきているのだ。


仁成のさらに先。
彼をナビゲートするのは黒霞で構成された蝿。
他の受刑者の元へ導くべく、ルートを切り拓いている。


前時代のアスリートの最高速度が時速40km強。
そして開闢を経た今、人類最高峰である仁成の最高速度は車両の速度に匹敵する。
エルビスがいかに拳闘の王者と言えども、純粋な走力では仁成に大きく溝を開けられるだろう


だが、事実として仁成とエルビスの差は縮まっていく。
肉体の限界に迫る深刻なダメージが、本来の隔絶した走力を逆転せしめているのだ。


仁成は時速30km、エルビスは時速35km。
すなわち秒速換算で8.3メートルと9.7メートル。

二人の差、9メートル。
すなわち6秒。
これが仁成とエンダのタイムリミット。
それを超えるとエルビスが仁成に追いつき、仁成の背に破壊槌が撃ち込まれることにになるだろう。
仁成は背後に一切目をくれず、ひたすらに前を向き走り続ける。


――7メートル


長い回廊と部屋とは、扉によって仕切られる。
扉をぶち破るには、仁成はダメージを蓄積しすぎた。
立ち止まって開く動作に1秒弱。
その間、10メートル弱の距離を一気に詰められる。

さらにそこから最高速度に戻るまでさらに1秒弱。
十分な距離を確保しなければ、追いつかれてゲームオーバーだ。


――6メートル


迫り来るチャンピオン。
その姿を映すエンダの目が細められる。


――くすくす。
――くすくすくす。


黒く蠢く霞が空中に集められる。
エンダの右手に集約され、形を成す。


――5メートル


エルビスは走りながら背を低くかがめ、構えを取った。
ファイティングポーズ。
エルビスが何千回と繰り返した型。
エンダのいかなる攻撃も見切って打ち砕き、確殺の反撃を叩きこむ基本にして奥義。


――2メートル


『ははははははははッ!』


その瞬間、図書室から響くけたたましい笑い声。
人類の本能に干渉するような悍ましい嬌声、エルビスが警戒の一部を一瞬だけそちらに割く。

その一瞬で、仁成が脇に置かれていた容器に手を叩きつけ、中身をぶちまけていく。
それは図書室南側入り口に置かれた文房具。
大量のボールペンやマジック、画鋲が床に転がり、走行を阻む。
動きの読めない極小の障害物がわずかに一歩を戸惑わせる。


――3メートル


足元に気を取られた隙を狙うはエンダ。
黒霞を鞭のようにしならせ、袈裟斬りのように上空からエルビスを狙う。


「……甘い」

これ見よがしに動き回る小物に気を取られた隙に、別の死角から一撃を叩きこむ。
そんな戦法はネオシアン・ボクスの2勝目にすでに下した。

エルビスはただ一度の踏み込みで黒霞の鞭の内側に潜り込み――。

「そっちこそ……!」

鞭の形をしているが、黒霞は決して鞭にあらず。
地面にたたきつけられた黒霞はそこから急転回。
背後から足を刈り取るような軌跡を描く。


だが、この程度でエルビスの虚は突けない。

甘いと言ったろうとばかりに、エルビスは瞬間的にギアを上げ、内側に潜り込む。
だが、エンダとて然るもの。
鞭の形状をしていた黒霞が、エルビスの真下でぶわりと扇のように広がった。

これにはさしものエルビスも為すすべなく、黒霞の沼に秒間足を突っ込む形となる。


――6メートル


薄めて薄めて引き延ばした黒霞に、人体の奥部まで浸食するほどの濃度はない。
エルビスに警戒を促し、足の動きをわずかに緩めるだけに過ぎない。
その程度、エンダも承知の上。
黒霞がさらに広がる。黒霞がふわりと浮き上がる。


――くすくす。
――くすくすくす。


黒い金属球。
先に撒き散らされた針や画鋲を取り込み、黒霞の塊がふわりと浮かび、破裂するように中身を拡散する。

さらに図書室前に置かれた回収用台車に黒霞が付着。
トリモチのように接着したそれを、エンダが掃除機のコードのように急激に巻き取れば。

金属片を撒き散らす塊に、くすくす笑いと共に直線上を高速移動しその道中を轢き潰す金属塊。
ポルターガイスト現象のような様相を呈したそれは、背後と上空の死角二ヵ所からの同時攻撃だ。


そんなものは、21勝目ですでに下した戦法だ。


エルビスは振り返ることもなく、背後の台車を裏拳で叩き潰して強引に鹵獲。
それを盾に破片の大半を受け止める。
お返しとばかりに潰れた台車をぶんまわして投擲するも、仁成は後ろに目があるかのように冷静に回避。

いや、事実仁成の前方には鏡のように磨かれた黒曜石の板が浮遊している。
前方へ一心不乱に駆け抜けながら、その目はバックミラーのような黒曜板を介して背後の状況を逐一確認しているのだ。


――15メートル


唸る鉄拳、響く轟音、炸裂する嬌声。
回廊が一際騒がしくなる。
それに紛れて、殺意が忍び寄る。


――くすくすくすくす。


足元の沼から異物が静かにその光を覗かせていた。
それは、金属のナイフ。
エンダが密かに黒霞に紛れ込ませていた刃。
ただの遅延行動、時間稼ぎ、子供のいたずら。
そこに紛れ込ませた悪霊じみた致命の一手。


『イがあああああああ!! あはははははははははッ!!』


嬌声のバックコーラスが鳴り響く。
命を奪いとる悪意が、背後と上空の同時攻撃をいなした直後に、足元から音もなく飛びだしていく。
エルビスの心臓目がけて刃を煌めかせる。

警戒と警戒の狭間。
来ると分かっていなければ避けられない一撃だ。


だが、そんなもの、7勝目で既に叩き伏せてきた。


ようやく来たかとばかりに、エルビスは上体をそらすだけで刃を回避。

背後、上空、足元の死角三方向からの同時攻撃。
攻撃をさばいた瞬間に繰り出される致命の一手。
前者は69勝目に、そして後者は7勝目から幾度も下し続けている。


木っ端な怨霊の悪意ごときがチャンピオンを冥界に引きずり込むなどできはしない。
だが、それでも足止めとしては十分。


――20メートル


致命の一撃が防がれても、時間稼ぎの役割は十分に果たせた。
稼げた距離は20メートル、すなわち約2秒。
回廊から図書室へ。
十分な時間だ。


多数の受刑者を巻き込む乱戦へ突入しようとしたその時。

「仁成! 何か来る!」

仁成には、その正体が理解できた。
背後から音速で迫る圧縮された空気弾。
時速3桁キロにも及ぶその遠当て、到達までの所要時間は1秒未満。
エンダの黒曜石の盾とて、十分なチャージをおこなった百歩神拳の前では画用紙の盾も同然。
なれば、仁成は断腸の思いで回避を選択。


アッパーのような軌道から放たれたその空気弾はいったん地面すれすれを並走すると、ライズボールのように浮き上がっていく。
一秒前まで仁成の背中があった空間を通り抜け、着弾したのは図書室北口の扉枠上。
恐るべきは、カーブを描く軌道で遠当てを放てる練度か、それとも狙った場所に着弾させるそのコントロールか。

空気弾は大きくカーブを描いて北口の扉にぶち当たり、大きく形を歪ませた。
扉の建付けが狂う。
そうなれば開閉に数倍の秒を有し、けれども背後には既に駆け出したチャンピオンの姿。


――18メートル
――17メートル


稼いだアドバンテージは一挙に喪失。
いよいよ仁成は、チャンピオンと四度相対する覚悟を決め。


――15メートル
――13メートル


「仁成、構わない! 思いっきり開けて!」


――12メートル
――10メートル


エンダの言葉を信じ、力いっぱいに扉を引く。
黒霞が扉枠をコーティング、表面をわずかに削って摩擦を極限にまで抑え込んだ。


――9メートル
――7メートル


勢いよく扉が開き、図書室と回廊を隔てる仕切りがなくなり。
そしてエルビスがそこにまで迫っている。


――5メートル
――4メートル


決死の思いで仁成とエンダは図書室に飛び込もうとして。

「エンダ! 息を止めろ!!」
「えっ……?」


『アアアアアアアア"ア"ア"ア"ア"ッッ!!!!』
悲鳴のような絶叫に、仁成の忠告はかき消される。
開いた扉の向こうから紫煙の霧が噴き出し、あたりを包み込んだ。




<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック連絡通路中央 図書室北口前廊下>

爆ぜるように吹き出した紫煙の霧が、瞬く間に仁成とエンダの視界を埋め尽くした。
閉鎖空間に新たに開いた風穴。
内部の空気は殺到。ぶわりと廊下にまで噴き出した。

咄嗟に息を止めた仁成とは対照的に、エンダは紫煙を多量に吸引してがくりと項垂れる。
だが、目の粘膜をも通じて染み込むような心地よい刺激は、容赦なく仁成の意識のコントロールをも奪い去ろうとしてくる。
これが毒ガスか、催眠香か、超力か、純粋な兵器なのか。判断の暇すらない。


仁成はためらわずにエンダを紫煙の外へと向けて放り投げた。
速度・角度・距離は一瞬で計算完了。
ごろごろと転がり、紫煙の外へとはじき出された小柄な身体がやがて動きを止める。
新時代の人類であれば十分に耐えられる落下である。


「すまない……!」
乱暴だが、こうせざるを得ないのだ。
これより追撃に現れるは無敗のチャンピオン。
仁成はせめてもの抵抗として、全身の筋肉に硬化し、次に来る衝撃を迎え撃つ。


「がっ……!」
轟音。
紫煙すら吹き飛ばすほどの風圧を纏った拳が仁成の腹を撃ち抜く。
世界が一瞬揺らぎ、走馬灯のような幸福の日々が脳裏をよぎっていく。
痛覚が麻痺したのか、死を覚悟して脳が覚醒したのか。
時間が引き延ばされたかのようにチャンピオンの動きがスローモーとなる。


「チャンピオン、君も来い!」
「……!!」


仁成は肉体の軋みを無視し、振り抜かれたエルビスの腕を絡めとった。
そのまま紫煙の領域へと引きずり込み、チャンピオンもろとも、もつれ合いながら床に叩きつけられた。


「……うっ!」
「……ぐッ!」
互いに身体を打ちつけ、多量の紫煙を吸い込む。



上下が反転し、次の秒にはさらに反転。
天井と床が高速で回転し、そのたびに紫煙は肺へと侵入。
呼吸の荒いエルビスがより多くの紫煙を吸い込み、
傷の深い仁成がより大きく紫煙の影響をより受ける。
腐敗の花が咲く。肉が爛れ、喉が焼ける。
紫煙と腐敗、回転、朦朧としていく意識。
力関係と上下の位置は目まぐるしく入れ替わり、体中に浅い傷を作り、からまりつつ転がって行く。


不意に、視界が開けた。
ここは通気口の真下、廊下に噴き出た不浄な気はすべて天井裏へと吸い込まれていく。


その時点で、上を取っていたエルビスの容赦なく拳が振り下ろされ――。
必死で首を動かした仁成の、その顔のすぐ隣をエルビスの拳が撃ち抜く。
回避。だが、第二撃。


――来ない。

チャンピオンの力が抜けている。
紫煙の許容量が限界を迎え、夢へと引きずり込まれたのだ。
だが、反撃に移る前に、仁成も限界を迎える。
意識が夢へと引きずり込まれていく。




それは、恋人に見守られ、"息子"を高く抱き上げる夢の続き。
それは、家族と共に食卓を囲んだささやかな夢の続き。

エルビスの隣で微笑むダリア。
仁成を囲んで誕生日を祝う父母と妹。

誰もが自分たちを知らない外国の街で、誰の顔色をうかがうこともなく、心の底から笑うことができる日々。
何の娯楽もない日本の田舎村で、警官として人々を守り、人々から感謝の言葉を受ける平和ながらもつまらない日々。

ダリアが微笑む。
家族が微笑む。

そして口を開く。

「「――――――」」




目を開く。
仁成が、エルビスが、同時に目を開く。
『起きて』という言葉に目を見開く。

一瞬の幸福を噛み締め、名残惜しみ、現実へと意識を移す。
僅かに早く現実に戻った仁成が、巴投げの要領でエルビスを補助電気室へと投げ飛ばした。


安全に着地できることなど考えていない投げだ。
しかし、これで決まるとは到底考えられない。
事実、着地音は極めて小さい。受け身を取られた証拠である。
エルビスはすぐに立ち上がり、呼吸を整えている。


紫煙の残滓か疾走による酸素不足か、思考が鈍る。
幸せの幻が脳裏をよぎる。
麻薬中毒に近い症状であり、本能が紫煙を吸い込むことを求めている。
それはエルビスも同じようだ。
チャンピオンだからこそ、品行方正な私生活と体力づくりを心掛けていたのか。
さすがに麻薬じみた快楽の対処には幾分骨が折れるらしい。



聞こえるのは、互いの呼吸音、あとは図書室の中から未だ聞こえてくる絶叫のような嬌声のみ。
じりじりと相手の出方を伺う両者。

期せずして、互いに小休止に入った。
わずかな静止時間が生まれ、仁成が言葉を発する。


「なあ、さっき、どんな夢を見た?」
「……藪から棒に、なんだ?」
「これだけ長く追い回されてるんだ。
 理由くらい、知っておきたいだろ?」

仁成の視界の端、いまだエンダは眠りに沈んでいる。
その表情には僅かばかりの安らぎと幸せの色が射している。
紫煙には、そういう性質があるのだろう。


「……恋人の夢を見た。
 アイツが、俺を幸せな夢からこのクソッタレた現実に引き戻してくれた」
「そうか。いい女性だな」
「ああ。最高の女だ」


それは、エンダが目覚めるまでの時間稼ぎ。
だが、この男への僅かばかりの興味も含まれていた。

沈黙。
荒い呼吸が、徐々に整っていく。



「お前はどうだったんだ?」

今度はエルビスから、同じ問いが仁成に返された。
答える必要などない。
だが――。


「家族の夢を見た。
 生き別れた家族が、僕を現実に呼び戻してくれた」
「いい家族だな」
「ああ、僕には勿体ないくらいだ」


言葉を紡いだのは、ただの気まぐれか。
それとも、自分が取り戻したいものを言葉にして焼き付けたかったからなのか。
あるいは、秘匿受刑囚という実験体でなく、100ポイントの囚人でなく、『只野仁成』という個を相手に刻みたかったのか。
仁成は、見たままの夢を言葉として紡ぎ、エルビスに聞かせた。


「そこの女は、本当にお前の恋人ではないのか?」
「違う。言っただろう、ただの協力者だと」

それまでの仁成なら、ただ事実を事実と述べて話を打ち切っていただろう。
だが、一抹の感傷か、それとも夢に引きずられたのか。


「だけど、仮にたとえるなら……」

あるいは、同じような夢を見ていた目の前の男に共感してしまったのか。


「妹みたいな存在なのかもしれないな。
 大人ぶってるけど、純粋で、危なっかしくて、そして放っておけない子だ」
「……そうか」

そのとき、仁成の目から、澱みが消えていた。
昨日まで、人類すべてを敵だと見なしていたその荒んだ瞳から。
その一瞬だけ、濁りが消えていた。



「俺はダリアのいるところに帰る」
「僕らは家族の元に帰る。夢を果たす」


「「そのために」」


闘士二人が宣言する。


「お前たちを殺す」
「僕たちは生き延びる」

確かな意志を、言葉に刻み込んだ。




<紫煙の幻郷・拝殿>


香ばしい木材で作られた、厳かな空間。
信仰や祈祷の場であるこの部屋にいるのはたった一人。
黒霞をまとった白髪の少女――エンダ・Y・カクレヤマが朗らかに笑う。


――神さま、神さま。
――今日は241人、無事に故郷に帰すことができました。


かつての東欧の紛争地帯。
超力戦争直前にまで加熱した二国間の紛争。
故郷を失い、ヤマオリ・カルトへと逃げ込んできた者も大勢いた。

その紛争にて多大な犠牲者を出した"戦犯"や"ギャルテロリスト"は裁かれ、二国は講和。復興が始まった。
エンダは元信者たちを引き連れ、組織のトップとして帰還事業を果たしてきたのだ。


――うん? それ以上に増えてるじゃないかって?
――ええ、そうですね。
――だって、みんな帰る場所を失ったって言うんですもの。
――だから、一晩でもどうかなって。

――帰る場所を失った哀しみは、私にもよく分かりますから。


欧州最大のヤマオリ・カルト。
山折に属する者を拉致し、非道な実験を繰り返していたのは過去の話。
エンダは自身に降りた土地神や、自分を慕う穏健な信者たちと協力し、組織に革命を起こした。
組織そのものを生まれ変わらせた。


人々を故郷から連れ去っていく非道の団体から、人々を故郷へ帰す団体へ。
そして、帰る場所のない人々や、信じるべきものを失った人々の寄る辺となる団体へ。
貧困。紛争。抗争。薬物。飢餓。差別。テロリズム。
故郷を失い哀しみに喘ぐ者たち。
命を失い現世と幽世の狭間を彷徨う者たち。
欧州を席巻する哀しみの連鎖を和らげるべく、組織を作り替えたのだ。

そこに生者と死者の区別はない。
超力によって、魂の想いを感じ取れるエンダにとって、同じ人であることに変わりはない。
迷える人々に等しく差し出される一泊の宿だ。


――私も攫われて、最初は思うところもたくさんありましたけれど。
――それ以上に哀しくなってきたんです。

――神はこの世界を救わないんだとか、神は私たちを見放したんだとか。
――裏社会の悪い人たちだけじゃなくて。
――GPAの偉い人や、慈善家の人たち。果ては、神父様たちまでそんなことを言っている。


エンダはかつて自分の超力を深く知るため、英国のとある神父とリモート越しの面会を果たしたことがある。
それは、死者の思念を取り込み、精神世界に内包させる群体型の超力者であった。
エンダと同じく、死者の思念を纏う超力者であった。
神を深く信仰し、周囲から高い尊敬を受けている神父であった。
そんな徳の高い聖職者でさえ、神を見失いかけている。
哀しみを背負っている。


――神さまをこの身に降ろした一人として、それだけは否定したかったんです。

――けれど、これは私のワガママ。
――神さまを縛り付けたくありませんでした。
――ですから、見守ると言ってくださったとき、本当に嬉しかった。


神は人々を救わない。
神は我々を見放したもうた。
そうして絶望していた人々に、"神さま"が寄り添ってくれる。
生者も死者も分け隔てなく、"神さま"が寄り添ってくれる。


それは、神を騙る不届者なのかもしれない。
信仰を愚弄する異端なのかもしれない。
エンダという少女は神を蔑ろにし、得体の知れない邪神の信仰を広げる紛れもない悪なのかもしれない。


けれど、こんな哀しみに満ちた世界にも、寄り添ってくれる"神さま"は確かにいるんだと証明し続けたかった。
それがエンダという少女の夢。


とある側近の男の子が、はじめて"神さま"を信じ、安寧を願った時、エンダも自分事のように喜んだ。
元信者たちが新しい居場所を見つけたとき、エンダは涙を流しながら笑顔で送り出した。
そうして、出会いと別れを繰り返しながら家をここまで大きくしてきた。


――ありがとう、神さま。
――私ひとりじゃ、きっと打ちひしがれていました。
――きっと他の人たちと同じように、この世界に絶望していたと思います。
――だから。
――私は本当に神さまに会えてよかった。


――ありがとう。
――私と一緒にいてくれて、ありがとう。


ああ。
これは泡沫の夢。
紫煙によって作り出された"神さま"の夢想郷。
だって、そうでなければ。
私たちの大切な家の名前を思い出せないはずがないのだから。


これはそうあってほしかった未来。
これはそうはならなかった未来。
神は人を救わない。神は"神さま"を救わない。
故に"神さま"は世界≒神を恨む。
哀しみと恨みを携え、この世を彷徨う魂を再び霞として纏い、"神さま"はエンダとして世界に戻る。




<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック連絡通路外側 機械室前廊下>


エンダが目を覚ました瞬間、見た光景。
それは、エンダを守るように立ち塞がる、仁成の大きな背中だった。
絶望的な勝算の中、覚悟を決めてエルビスを食い止めようとする仁成の姿だった。



「仁成ぃっっ!!」


エンダが魂の奥底から叫ぶ。
人間嫌いで辛辣な、人ならざる上位存在。
それが、無力で無垢な子供のように、恥も外聞もなく叫ぶ。
それは、超力も神力も宿らないただの振動の伝達。
それでも、その響きは仁成の拳に何かを灯した。



衝突音よりも先に、エルビスの肉体が大きく吹き飛ばされていた。
その鍛え上げられた肉体が、凄まじい勢いで後ろに押し退けられる。
チャンピオンの砲弾のようなストレートよりも早く、仁成の拳がエルビスの身体に届いていた。
それはエルビスにも、仁成にとってすら予想外の事態であった。



自らの限界を超えた出力に、仁成は唖然とする。


数年にわたる逃亡生活、ずっと戦ってきた仁成には分かる。
この一撃は自分の実力を超えた一撃だった。
すぐにエンダがその名を呼び、意識が現実へ引き戻される。
エンダは仁成を先導し、逃亡劇が再開される。


孤独で、独りで、自分のためだけに戦い続けてきた彼に、その現象は言語化できない。
だが、仮に理由があるとするならば。
傍らに並ぶ足音が、不思議とその答えに近い気がした。





<ブラックペンタゴン 北東ブロック外側 機械室>


超巨大施設であるブラックペンタゴンを支える機械室は、やはり相応に巨大な部屋である。
複雑に絡み合った空調管や配線の群れが天井から壁面へと這い、どこかで稼働する機器の唸りが床板を震わせる。
壁に沿って設けられた補助通路は立体的に張り巡らされ、まるで迷宮の一角のようだった。


――くすくす。
――くすくす。


本来、この島には存在しないはずの羽虫が、機械室の扉前にまで忍び寄っていた。
やがてそれは、扉の隙間に染み込むように身を押し付けたかと思うと、
次の瞬間、霧のごとく厚い鋼鉄の障壁をすり抜けて内部へとすり抜ける。


――くすくす。
――くすくすくす。


そして、新たな生贄を求めて、飛び立とうとしたところで。


――――――斬。


黒蝿は白銀の軌跡に触れ、その身を塵と化した。



「なんだ、今のは」
黒蝿を一刀に斬り捨てたのは征十郎。
周囲の喧騒を確かめるべく、出入り口に向かう途中で、異質な存在の気配を捉えた。
それを一刀のもとに斬り捨てたのだ。


「げっ、ヤマオリ様じゃん」
タチアナが言葉の端に露骨な嫌悪をにじませる。

ヤマオリ様。
魔王ほどではないがまた突飛な単語が現れ、征十郎の眉間がわずかに寄る。
耳慣れない響きだが、どう解釈しても山折村と無関係とは思えない。


「もうお前の突拍子もない話にいちいちリアクションを返すのも辟易してきたのだが……。
 なんだ? そのヤマオリ様というのは。
 また村の誰かなのか?」
「いや、私の話は全部事実ベースだからね!?」

タチアナはそう主張するが、少なくとも山折村にそのような名前の神や怪異の伝承は存在しなかった。
外の人間が土地の名を勝手に怪しげな連中の呼名に使い、噂を膨らませることは珍しくないが、やはり当事者としてはあまり気分のいいものではない。


「ヤマオリ様ってのは、欧州最大のヤマオリ・カルトの巫女様。
 本名は知らない。ってか、アビスで生きてたことも初めて知ったし。
 たぶん、噂の秘匿受刑囚ってやつだよ」
「ヤマオリ・カルト……あの冒涜者どもか」
征十郎の声が自然と低くなる。


ヤマオリ・カルトとは、開闢以降各地で勃興した、新興宗教群の総称。
"ヤマオリ"という概念を崇め奉る集団だ。
だが、実態は"ヤマオリ"にまつわる物品や人間を見境なく接収し、
誘拐や窃盗はもちろんのこと、生物テロや薬物テロにまで手を染める犯罪結社のような存在である。


無論、八柳流を修めた征十郎とその母が標的にならないわけがなかった。
それどころか、無関係な父や友人まで巻き込んだことも一度や二度ではない。
山折村に関わる人間にとって、ヤマオリ・カルトの連中は敵対的異星人のようなものだ。
言葉は模倣、会話は鳴き声。
見かけ次第、ためらいなく制圧すべき永遠の宿敵である。

加えて、秘匿受刑囚とされるほどの凶悪な犯罪者ときた。
どれほど警戒しても足りないことはないだろう。



「お前が狙われるのも、警戒するのも道理だな」
「でしょ? アイツら全ッ然かわいくないんだから!」
……どことなく漂ってきた誤魔化しのニオイを征十郎は見逃さなかった。


「……本当のところは?」
「ルーさん――ルーサー・キングの依頼でちょこっと、本部を、ね?」
「それだけか?」
「……私がヤマオリ様の暮らしてた村を襲ったことにされてる」
「ん??」
「いやね、五年前に山折村にカチ込んだって言ったじゃん?
 シビトのおっさんが捕まった後、放置された村人がヤマオリ様のいた村になだれ込んだらしくて、めちゃくちゃ小言を言われた」

征十郎は頭を抱える。
やっぱコイツここで斬ったほうがいいんじゃないのか?
この調子だと、受刑者と出会うたびにギャルの余罪がもりっと追加されてきそうだ。


タチアナは自業自得だが、いずれにせよヤマオリ・カルトの連中は押しなべて話が通じない。
故に斬り捨てるべき相手には違いなく。

と、ここで征十郎は一つの違和感をおぼえた。


「……待て、お前、そのリアクションからするに、依頼に失敗したのか?」
あの凶悪極まりないギャルが、ヤマオリ様などというビッグネームを見逃して帰る?
とても考えられない事態である。


「あの子、超力を封じてくるわ、信者爆るたびに強くなってくわ、なんでも器用にこなすわでめちゃくちゃ強いの。
 あの時は周囲から潰していったら、ちょ~っと手ぇ出せないバケモノになっちゃって……。
 いやー、参った参った ☆彡」
口調で誤魔化しているが、清々しい敗北宣言であった。



機械室は壁の厚みが必要な関係で、連絡通路から東に曲がって、少々奥まった箇所に扉がある。
征十郎は壁を背に、連絡通路の様子を伺った。
この世ならざる美しさの少女が、なぜか探偵服を着て、護衛らしき男と共に向かってくる。

「ただ守られているだけの子供にしか見えんが……」
「ヤマオリ様って二重人格なんだよね。
 普段は虫も殺せなさそうな深窓の令嬢を演じてるけど、
 ちょっかい出したら、尊大で冷酷非道な祟り神さまが出てくるぞ~」


タチアナの話を総じるに、ヤマオリ様は条件次第で異常な戦闘力を発揮する類の超力者らしい。
一撃で殺せなければ狂暴化して手が付けられなくなる。
ならば征十郎の超力はうってつけであるが、護衛らしき男と、さらに後ろの男が予測不能のノイズである。



「で、どうする征タン? カチ込む?」
「お前が完敗するほどの相手にバカ正直に突っ込むやつがあるか。
 この部屋に入ってきたところを一撃で仕留める」
「征タンなら真正面から『斬る……!』って言いながら突っ込むものだと思ってたんだけど」
「お前、さっきから私をなんだと思ってる。
 少なくともお前よりは常識に満ち溢れているぞ」
「そうかなあ」
「少なくとも私は、掘られても芋のように余罪が出たりはせん。
 ……お前との果し合いがなければそうしていたがな」
「……やっぱやるんじゃん」


軽口をかわしながらも、着々と奇襲の準備を進めていく。
機械室入り口頭上の補助通路に身を移し、標的が入室した瞬間に頭上から仕留める算段だ。
近づいてくる足音と、徐々に大きくなるくすくす笑いを聞きながら、征十郎は奇襲のタイミングを測っていた。





<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック前連絡通路中央 補助電気室前廊下>


足音が遠のいていく。
身体を貫く痛みと共に、肺の奥に溜まった紫煙が吐き出される。
温んだ頭がクリアになり、エルビスはゆっくりと立ち上がる。


エンダと仁成はいったんは逃げおおせた。
だが、この程度で諦めはしない。
それはダリアへの誓いであり、そしてエルビスの意地でもあった。


機械室の入り口から、轟音が響いた。
瓦礫と機械の残骸が廊下にまで飛び出している。
何者かが、二人が飛び込んだ瞬間を狙ってその悪意を炸裂させたのだ。

だが、ポイントを奪われた可能性があるにも関わらず、エルビスには何の動揺もなかった。



――あの仁成という男が、その程度で死ぬタマか?

チャンピオンとの本気の試合を4ラウンドも生き延びた男が。
家族に再会するという願いを秘めた男が。
そして大切な女をそばに置いている男が。

今更ケチな横槍程度でくたばるだろうか。


――そんなはずはないだろう。
その程度でくたばるのなら、既に自分が下している。



機械室の入り口が塞がれたのなら、出口で待ち構えればいい。
エルビスは何の焦燥もなく、堂々と次の舞台へ移る。
そこにいる一人に、声をかけて。


「俺はあいつらを追う。
 お前と事を構えるつもりはない」
「そうかよ。俺だってアンタとやり合う趣味はねえさ」

補助電気室、その機材の影から現れたのは、ネイ・ローマン。
アイアンハートのリーダーにして、ストリートを束ねる新進気鋭のギャングスタ。
あの牧師の命を狙い、なお潰されずに立ち続ける強者。


それほどの強さでありながら、刑期はたった15年。
あまりに旨味に欠けるその受刑者は、ポイント狙いならば徹底して交戦を避けるべき相手だった。


先の仁成との会話。
エルビスの心中に仁成への興味は確かにあったが、それだけであれば会話には応じたかどうかは分からない。
決め手は、潜んでいた第三者の存在である。

仁成たちが別の受刑者を巻き込もうとしていたことくらい、エルビスも気付いていた。
そしてネイ・ローマンの存在に気付いたからこそ、背後からの奇襲を警戒し、時間をかけて出方を伺ったのだ。


結果的には取り越し苦労だ。
ローマンからは殺気も、欲望も感じられなかった。
ローマンから発せられるのは、俺を巻き込むなという無言の警告のみ。
200ポイントの獲物を放り出して、15ポイントの強者と時間を潰すつもりはなかった。

「牧師の居所は知らん。会ってもいない。
 探しているなら他をあたれ」
「そうさせてもらうぜ。
 もっとも、他にも落とし前を付けたいヤツがいてな。
 そっちを優先するがよ」

ローマンは図書室へ足を進める。
エルビスは補助電気室を通り抜けて先に向かう。


「ああ、そうだ」
再び動き出したエルビスに、背後から声が届く。


「俺の女がいるんだよ。
 アンタと事を構えるつもりはないが、メリリンに手を出そうってんならアンタとて容赦はしねえ」
「俺はダリアにこの身を捧げた。その女がどんなに魅力的だろうと、手出しはしないさ」

それはある意味、ローマンからの宣戦布告であった。
愛を語っていた男に、一人の男として敢えて伝えておきたかった。
お前の愛は深いだろうが、俺の愛も負けちゃいない、と。


チャンピオンはギャングスタとすれ違い、交わることなく各々の道を進む。
それは世界のどこにでもある、何の変哲もないすれ違いであった。





<ブラックペンタゴン 南東ブロック外側 倉庫>


ブラックペンタゴン。
システムBの中央に位置する、漆黒の建造物。
それはまるでブラックホールのように受刑者たちを引き寄せていく。

ディビットとエネリット。
今もまた、新たな二人の受刑者がブラックペンタゴンの門をくぐり抜け、足を踏み入れていた。



倉庫に踏み入った二人が早々に見つけたものは二つ。
一つは誰かを誘導するように付けられた傷であり、工場エリアへと続いている。

もう一つが、二人にとって重要なものであった。
それは、コンテナに詰め込まれている備品の物色の痕跡。
より正確に言うなら、食料補給の痕跡である。


「床にパンくずが落ちてやがる。
 誰かが必要に迫られて、急いで食事を終えたって証拠だな」
「そして、死体や血の跡が近くに残っていないということは、この食料が毒や罠ではないという証拠ですね」

実際にディビットが免疫を四倍にして、携帯糧食を毒見。
本当に何の変哲もない食品であった。
もうすぐ十二時間、特にエネリットにとって補給は死活問題であったが、それがこうもあっさり解決できた。


「これはただの勘だが、長居はすべきじゃなさそうだ」
「同意見です。早々に離れるべきでしょうね」
「標的がいなければ、だがな」

水と食料の確保について、二人は危機感を持って議論を重ねていた。
それらがこうも簡単にそれらが手に入る状況は異常にすぎる。

問題は、多くの受刑者がこの建物に集い、その中にエネリットの標的が存在する可能性が高いという点である。
キングなら、この建造物の異常性を知った上で留まる選択は取らないだろうが、バルタザールがどう動くかは分からない。
食料に加え、大量の標的がいるとなれば、むしろ積極的に留まる可能性のほうが高いだろう。
必然的に、エネリットもこの建物に留まる理由ができてしまう。
つくづく、イヤらしい仕掛けである。


「手早く用を済ませましょう。
 おそらく、三グループ程度と接触することで、おおよその受刑者の分布は把握できるはずです」
「いいだろう、それで行こう」


方針を手早く決定。
エネリットはクラッカーと果物で素早く栄養を補給する。
その間にディビットは聴力を四倍にし、屋内に響く争いの音を捉える。

「予想通り、鉄火場だな。
 五人や六人なんて数じゃねぇぜ、十人はいそうだな」


爆発、破壊、悲鳴。
目立つのは、爆発と悲鳴。
ただし悲鳴はいつの間にか止まり、代わりに巨大な爆砕音が響く。
遠くのエリアで争っているらしく、どこで争いが起こっているのかは分からなかった。

一方、爆発の方はすぐ近くで起こっていた。
これに加えて、重い何かが倒れるような重低音に、金属同士がぶつかるような甲高い騒音。
十中八九、機械室で争いがおこなわれている。


「バンビーノ。準備はできたか?」
「ええ、食事は済ませました」

「機械室で騒いでる奴は、十中八九ギャルだ。
 まさかポイントで手榴弾をしこたま買い込んでバラ撒いてるなんてことはないだろうよ」
「ギャル・ギュネス・ギョローレン。
 会話はできるが話が通じない危険人物、でしたか」


欧州で活動していたギャルのパーソナリティについては、ディビットも当然把握している。
キングス・デイともバレッジファミリーともつながりを持ち、その独特の価値観に基づいて破壊活動をおこなう傭兵。
表向きこそフレンドリーだが、ポイントで釣ることは決してできないだろう。
根本の価値観が常人とは異なる、いわば怪異の類だ。
それでいてキングと通じている可能性もあるギャルは、可能であれば排除しておくべきコマである。


「では、まずは機械室の方から?」
「いや、その近くを一人でうろついてるヤツがいやがる。
 まずはそちらと接触し、情報を得るべきだろう」
「分かりました。それでは、誰が来たとしても」
「ああ、手筈通りに済ませよう」

かくして、ディビットとエネリットの二人はブラックペンタゴンの奥へと侵入する。
最初の目的地は、補助電気室方面。




<ブラックペンタゴン 北東ブロック外側 機械室>


――斬。


征十郎が人影を穿つ。
だが、それは肉ではなく霞だった。
ヤマオリ様は白髪の美しい少女、しかし貫いたのは黒髪のナニカである。


仕損じた。
そう認識するのと、手筈通りに通路への道が爆破され、塞がれたのは同時だった。
直後、迫りくる男の剛拳。
刀の腹で受けようものなら、刀身がへし折られてしまうだろう。
征十郎は後ろへ大きく跳び退き、中空の配管群の上に足を乗せた。


くすくす、くすくすと嘲笑うかのような笑い声を残して、黒霞でできた少女は霧のように散っていく。
ヤマオリ様を一撃で仕留め、直後に爆発で退路を断ち、護衛の男を二人がかりで仕留める。
その構想はあえなく瓦解した。


「手荒い歓迎だね。
 八柳の人斬りは、八柳らしく礼儀を知らないらしい」
壮絶な笑みを浮かべるヤマオリ様に、征十郎の背筋がうすら寒くなる。
言外に、学校を襲撃して子供たちを斬り殺した開祖への呪詛が含まれている気がした。



エンダの黒蝿は図書室と配電室、集荷エリアに補助電気室、機械室。周辺のすべての部屋に飛ばしている。
そのうち、図書室と機械室の黒蝿の反応が消失した。
凄腕が待ち構えていることくらい予測できる。
来ることが分かっているならば、いくらでも対処法はあった。


「八柳の人斬りだけじゃないね。
 さっきの爆発。ギャル・ギュネス・ギョローレンがいるだろう。
 なるほど、錚々たる悪党どもだ」
「私は自分を悪党だと理解している。
 だが、カルトを率いて山折の名を汚すお前に悪党呼ばわりされるのは心外だな」
「ふっ、山折を汚したのはそちらだろう?」


――くすくすくす。
――くすくすくすくす。

恨みが肥大化していく。
会話を重ね、記憶を掘り下げ、恨みを醸成させていく。


神を降ろしたエンダという少女は、神と会話をすることができた。
この世ならざる者の声を聞くことができた。

八柳に斬り殺され、永遠に囚われ、偽りの命を与えられて弄ばれた山折の住人たち。
かつて彼女はその呪詛を聞き、自分のことのように苦しんだ。
運命に見放された『ヤマオリ』の屍人に対して思うところはあるが、その原因となった八柳に対して良い思いなど一つもない。
まして、八柳の所業を知りながら呪われた剣術を修める輩に、加える情けなど持ち合わせていない。


「……エンダ」
「……分かってる」

囁くような声で仁成が名を呼ぶ。
恨みに呑まれていないかを確かめるようにその名を呼ぶ。
エンダは憎悪の仮面をかぶり、その奥で理性の光が灯らせている。

退路を塞がれたことで、エルビスの追跡は免れた。
だが、あの男がこれくらいで諦めるはずがない。
それはエンダも理解をしている。
だからこそ、次の一手を胸の奥で組み上げていた。


「……ギャルは話も常識も通じない。
 アイツが何か話しかけてきても、鳴き声だと思ったほうがいい。
 あれがチャンピオンを前にして、どう動くか予測もつかない。
 ままならないけど、今は部屋を無事に出ることを考える」
「……分かった」


直後、頭上の配管で極小の爆発が起こる。
配管が千切れ、エンダの頭部目がけて落下してくる。

仁成は慌てた様子は一切なく、傍らの少女の身体を抱えあげて、離脱。
床を蹴る一瞬、エンダの目が細くなった。
次の瞬間、増幅された黒霞の刃があたりの機材を紙細工のようになぎ倒す。
配管を次々に引き裂き、照明を壊していく。

ほどなくして、熱を含んだ白い吐息のような蒸気が、配管の裂け目からほとばしった。
漏れ出た水が床を濡らし、湿り気と熱気とが混じり合う。
視界が濁り、ぴゅうと噴き出す蒸気が笛の音のような高音を伴い、足音すら覆い隠す。
熱とともに蒸気が噴き出し、視界が悪くなる。
仁成とエンダは配管と蒸気の迷宮の中へと紛れ込んでいく。


「私の超力をよく理解した戦術だね。
 さすがに一筋縄じゃいかないけど、今回はそれを利用させてもらうよ」

エンダの超力は恨みによって強化される。
だが、浅い恨みというのは徐々に忘れられる。
時間が経てば経つほど、恨みは薄れる。
逆に姿を見せれば、声を聞かせれば、それだけ恨みは残りやすくなる。
だから、"ギャル"はエンダの前には姿を見せず、征十郎だけが前に出て戦った。

裏を返せば、それはエンダたちを見失いやすいということである。



タチアナと征十郎は同時に舌を打つ。
してやられたと思うほかない。
恨み骨髄のような顔をしておきながら、ヤマオリ様は最初からまともに交戦する気がなかったのだ。


蒸気の向こうで影が走る。
蒸気の粒子に音が反響する。
足音、倒壊音、爆発音。
絡み合い、反響する。

「入り口は一つだ! 抑えるぞ!」
「りょーかい!」

征十郎とタチアナは視界の確保できる補助通路上を走り抜け、もう一方の出口へと向かう。
視界の悪い中、機械室の下層を二つの影が走り抜ける。
それはタチアナの血による爆撃を、つかみどころのない霧のようにすり抜け、一心不乱に出口へと向かっていく。

タチアナと征十郎は出口で合流、そのまま影を追い、反対側の連絡通路へと脱出。
霧の向こうには、大柄な影と小柄な影、二つの影が立っていた。





<ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路中央 補助電気室前廊下>


「よう、カンピオーネ。そんなに急いでどこに行くつもりだ?」
新たな男の登場に、エルビスの足が止まる。
その威圧感は、あの牧師に勝るとも劣らないものであった。


「バレッジの金庫番に、アビスの王子か……」
欧州の大物ギャング。ディビット・マルティーニ。
かつて、ヴェネチアで権勢を振るっていた敵対組織をたった一人で壊滅させた怪物。


「まあ、そう威嚇するなよ。
 俺たちは殴り合いをしに来たわけじゃあない」

相対してみて思う。只者ではない。
これほどのプレッシャーを放つのであれば、エルビスとしても手こずる相手だろう。
それでいて、刑期は20年。ネイ・ローマンほどではないが、割に合わない相手だ。

何より、二人はエルビスが来ると分かっていて待ち構えていた節がある。
そんな彼らの要件とは何か?


「俺たちは戦力を求めている。
 それも、"ドンを倒せるほどの"戦力をな」

それは、戦力の拡充であった。
すなわち、エルビスのスカウトだ。
だが、語られたその内容には大きな違和感がある。


エルビスは、その内容を反芻する。
何故、"ドンを倒せるほどの"戦力なのか?
死人が蘇ったのか、あるいはそのような超力持ちが存在するのか。

あるいは――



「俺は身の程を知ってるさ」

エルビスは静かに語る。
エルビスは、その意味に当たりを付けた。
ディビットが倒そうとしている相手、それすなわち。




エルビスは思い返す。
それは、エルビスが入獄して一週間ほどのことだったか。


その日は、食事の時間がいつもとずれていた。
訝しみながらも看守に連れられて食堂に向かうと、一人の男がすでに席についていた。
ルーサー・キング。
音に聞く、世界の暗部を統べる暗黒街の帝王であった。




――まあ、座れよ。

一番奥の席を堂々と陣取り、監獄にしては上質な椅子に深く腰を沈める。
そしてゆったりとした仕草で煙草を口元に運び、白い煙を吐き出した。
一受刑者が監獄内でそのような態度を取れるということがまさに異常であった。


――近頃の裏格闘技界の流儀には疎いがな……。

灰皿でタバコを軽く叩いて灰を落とすと、ひどく寛いだ表情でエルビスを見据えた。


――飯の誘いにも応じられねえほど、荒んじゃあいねえだろ?

これはたまたま食事時間がかち合っただとかそういう次元の話ではない。
キングが、意図を以ってエルビスを食事に誘ったのだ。
刑務官を後ろ目で見れば、"目こぼし"が発生している。
この異常事態を最大限に警戒し、だが決してそれを表には出さず、静かに椅子に座る。


――ハッ、常在戦場ってヤツか。
――チャンピオンってのはそうでなくちゃあな。

エルビスの警戒を見抜きながら。
目の前の老人から、目の前の巨悪から、流れてくる感情。
それは、まるで子供の無垢な好奇心。
これにはさすがのエルビスも困惑する。


――おいおい、俺がボクシングに興味を持っちゃ悪いかい?
――人間である以上、娯楽ってヤツは必要さ。
――チャンピオンを一度は夢見た一人として、君のことは買っていたんだ。

キングの体術はボクシングの型を土台としている。
ある程度裏に通じた者であれば、それは常識の中の常識だ。

ネオシアン・ボクスにおいて、選手に支給される鋼鉄の手甲。
それは、キングス・デイが協賛していることの証に他ならない。


――俺はどんな形であれ、頂点に立った奴には敬意を払う。
――辿り着くまでの困難さも、その座を守り続ける重圧も知っているからだ。
――179勝0敗だったか?
――ラテンアメリカの伝説と呼ばれるのも納得だ。

子供のように目を輝かせ、饒舌に話すキング。
その表情が一転、真剣みを帯びたものに変わった。
アイスブレークを終え、本題に入ろうというのだ。


――悪かったな。
――うちが無節操に手を伸ばしたことで、つまらねえ奴らをつけあがらせた。
――君の経歴に傷が付いちまった。

牧師の後ろ盾を得たことで、最強のチャンピオンですら、俺には逆らえない。
そんな麻薬のような快楽がネオシアン・ボクスの胴元のマフィアを蝕んだ。
チャンピオンが強ければ強いほど、それを支配下に置く自身の万能感が肥大化する。
それが、チャンピオンが懇意にする女を犯すという愚か極まる行為がおこなわれた真相であった。


だが、そんなことよりも、牧師が謝罪の言葉を述べたということ自体が驚愕すべき内容だった。
そして、続く言葉はエルビスを恐怖に陥れた。


――ダリア、だったかい?
――詫びと言っちゃあなんだが、彼女の面倒を俺のところで見てやってもいい。

それは謝罪だった。
そして脅しだった。
キングを殺しうる実力者、そして正当な恨みを抱いてしかるべき男に対して、キングはこう述べたのだ。


お前の家族を知っているぞ、と。



牧師には逆らうな。
その言葉の意味を、エルビスはあの時噛み締めた。
アビスに堕ちた極悪人が恋人面をして償いをしたところで、枷でしかないだろうと牧師の提案を断り。
エルビスの心はそこで一度、完全に折れた。


――そうかい。
――まあ、辛気臭い話はこれくらいにしよう。
――今日は食事を楽しもうじゃないか。

その日の食事会は、砂とゴムを食べているかのように、空虚で何の味もしなかった。



「俺は身の程を知ってるさ」
牧師相手に殴り合いで勝つ?
リングの上なら可能だろう。
それこそ、肉体的な強さならエルビスは牧師を確実に上回る。
ボクサーの夢破れた老人と若きチャンピオンではその地力が違う。


だが、殺し合いにおいては、エルビスは牧師に勝つことは決してできない。

それは武器の有無ではない。
いかに武装しようとも、武装越しに拳を叩きこめばいい。

それは手下の数ではない。
いかに徒党を組もうとも、全員まとめて打ち倒せばいい。

それは超力の練度ではない。
いかに強力な超力の使い手であろうとも、使わせる前にノックアウトすればいい。


では、チャンピオンが牧師に勝てない理由とは何か。

無敵のチャンピオンが無敵である理由にして、最大の弱点。
それは、愛する女が手の届かない場所にいるということだ。


未だに牧師が表社会へ隠然たる影響力を及ぼしているのは、アビスにすら息のかかった看守がいるからこそ。
キングが協力者に一言合図を送れば、それだけでエルビスへの報復が約束される。
報復の仕組みを知らないエルビスに、合図がどのようにおこなわれるかは分からない。
監視をおこなっている看守にリアルタイムで合図を出すのか、それとも刑務が終わった後に何らかの方法で外と連絡を取るのか。
それを知るすべは一切ない。


ダリアともう一度会うために刑務を勝ち抜く。それはエルビスの悲願だ。
だが、同時にそれはエルビスの我儘だ。
ダリアの知らないところで牧師の怒りを買い、ダリアを破滅に巻き込んでしまったら。
そうなれば、エルビスは未来永劫、後悔に苛まれるだろう。
だから、エルビスは牧師には絶対に勝てないのだ。


「バレッジとて、同じことができるんだろう?」
そして、社会的影響力について言うならば、ディビットであっても同じこと。
キングさえいなくなれば、アビスの"目こぼし"を取り仕切れるほどの男だ。
キングとディビット。アビスの外にまで影響力を及ぼす二人に、エルビスは抗えない。

一方で、ディビットもダリアの身柄を口実に、エルビスを無理やり従わせるようなことはできない。
そのようなことを口走りでもすれば、エルビスは確実にキングの庇護下に入るからだ。



ディビットと相対したとき、エルビスはまず二人の首輪を見た。
ディビットとエネリットという個ではなく、二人のポイントを見たのだ。
それは、エルビスがポイントを狙って動いている証拠であり、キングの下についているわけではないという確信であった。


「他を当たってくれ。
 そっちの王子にも、今、手は出さないでおこう」
「そうか、残念だ」

エルビスはディビットの申し出を穏当に断る。
そうなれば、ディビットに為すすべはない。
ディビットは、キング討伐の戦力として彼を引き込むことを断念した。




エルビスは牧師に決して敵対しない。

――それを、ディビットが理解していないはずがない。

「それでは、僕からの依頼はどうでしょう」
依頼主が入れ替わる。
ターゲットが入れ替わる。
いまだ表社会をも牛耳る帝王から、影響力のすべてを奪われた敗者へと入れ替わる。
エネリットは自身の持つ未使用の首輪、100ポイントを餌に、チャンピオンという強者に手を伸ばしたのだ。


エルビスはその提案を咀嚼する。
エネリットの持つ首輪、100P。確実に手に入れられる100Pだ。
だが、エネリットのパートナーはディビットである。
これからはすべてのポイントをエルビスが回収する。
そんなナメた約定をこの金庫番が認めるはずがない。


それを知ったうえで、エルビスは言う。

「悪くはない提案だな。
 奴らも徒党を組み始めている。
 秘匿も、"アイアンハートのリーダー"も、一筋縄ではいかんだろう」


ディビットがぴくりと眉間を動かす。
アイアンハートのリーダー、すなわちネイ・ローマンの目撃情報。
キング討伐のパートナー、その筆頭候補である。


「あんたたちの推測通り、俺は恩赦を目指している。
 手を組むのはやぶさかではないが、ポイントの分配はどうなっている?」
仮にエネリットから100Pを譲り受けたとして、残りは300P。
だが、エネリットと手を組むことで、仕留めるべき受刑者の数が増えてしまっては本末転倒である。


事実、今エネリットと結託すれば、6人の受刑者を仕留める必要が出てきてしまう。



――そのようなことを、ディビットとエネリットが考慮していないはずがない。



「僕たちは交互に首輪単位でポイントを得る契約を結んでいます。
 僕の戦力となってくれるならば、僕の分の首輪所有権はお譲りしましょう」
「で、次に首輪を得る権利は俺にあるワケだが……。
 確かに、カンピオーネからすれば面白くない話だな?」

ディビットは不敵に笑う。


「なあ、カンピオーネ。アイアンハートのリーダーは、どうしても殺したいヤツかい?」
「奴の刑期を考えれば、深追いする気はない」
「なら、俺の好きにしてもいいということだよなあ?」


実のところ、ディビットは周辺にネイ・ローマンがいることはとっくに看破していた。
ブラックペンタゴンの物資搬入口周辺、衝撃波によってなぎ倒されたような痕跡。
道中の工場エリアにも似た痕跡があるとなれば、この周辺にいることは間違いない。

そして言外の交渉を重ねた末に、ディビットはエルビスから、ネイ・ローマンが図書室にいるという情報を得たのだ。
首輪を得る権利の一時放棄は、言うなれば"情報料"である。


「バンビーノ、俺はいったん別行動を取る。
 約定通り、その間に得たポイントに俺は関与せん。好きに分けるといい」


エルビス・エルブランデスは巨大な戦力であるが、その扱いについては決めかねる部分が多かった。
故に、ブラックペンタゴンに突入する前に選択肢を二つに絞っていた。
彼が牧師のために動いているのなら敵対を。
ポイントのために動いているのなら懐柔を。

そして、キングの討伐という呑めない条件を先に出すことで、エネリット側の勧誘ハードルを下げ、自陣営に引き込んだのだ。


ディビットは、キングの陣営に傾きうる巨大な戦力、エルビス・エルブランデスを中立に引き込む。
エルビスは、ディビットとローマンを結託させることで、ポイントの低い強者たちの行動を縛る。
エネリットは、単純に対バルタザールとして巨大な戦力を得る。
三者三得の結果をディビットは導き出した。
エルビスが裏切る可能性については、バレッジの看板がにらみを利かせてくれるだろう。


「放送の後、例の場所で落ち合いましょう。
 それでは、検討を祈ります」
「ああ、そっちもうまくやれよ」

ディビットとエネリットは各々の目的のため、一時的に別行動を取る。
ネイ・ローマンの勧誘。
戦力を加えてのポイント獲得。
新たな戦力との連携の確認。

それぞれの思惑を胸に、男たちは動き始めた。



<ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路外側 機械室前廊下>

機械室から飛び出したギャルと征十郎の前に、大柄なそれと小柄なそれ、二つの影が立っていた。
仕留めるべく、征十郎が刀を構えて突進し――。


それは、黒い"髪"によって受け止められた。


二つの影。
エルビス・エルブランデスと、エネリット・サンス・ハルトナ。


追っていたはずの影は霞のように霧散し、跡形もなく消えていた。
タチアナと征十郎を嘲るようなくすくす笑いが、どこからか聞こえてくる気がした。


【D-5/ブラックペンタゴン北東ブロック中央・補助電気室/一日目・昼】
【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、ドミニカ・マリノフスキの首輪(未使用)、メアリー・エバンスの首輪(未使用)、携帯食料
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める
1.ネイ・ローマンと提携を結ぶ
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.タバコは……どうするか。


【D-5/ブラックペンタゴン北東・南東ブロック連絡通路/一日目・昼】
【ギャル・ギュネス・ギョローレン】
[状態]:疲労(大)、“タチアナ”
[道具]:学生服(ブレザー)、注射器
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.周囲の喧騒を鎮める
2.改めて征十郎を燃やす。
※刑務開始前にジョーカーになることを打診されましたが、蹴っています。
※ジョーカー打診の際にこの刑務の目的を聞いていますが、それを他の受刑者に話した際には相応のペナルティを被るようです。
※永遠は斬られたので、今後は年を取ります。

【征十郎・H・クラーク】
[状態]:ダメージ(大)
[道具]:日本刀
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.周囲が喧噪を鎮める
2.復活したら改めてギャルを斬る。

【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、宮本麻衣の首輪(未使用)、携帯食料
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.エルビスを戦力として運用する
2.ディビットの信頼を強める
3.…命を懸ける理由、か。
※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。

①マーガレット・ステイン(刑務官)
 信頼度:80%(超力再現率40%)
 効果:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
 超力:『鉄の女』

②ディビット・マルティーニ
 信頼度:40%(超力再現率同値)
 効果:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
 超力:『4倍賭け』

【エルビス・エルブランデス】
[状態]:疲労(大)、腹部にダメージ、幾らかの裂傷、腹に銃創(軽) 、右腕、右肘にダメージ、強い覚悟
[道具]:ルメス=ヘインヴェラートの首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.必ず、愛する女(ダリア)の元へ帰る
0.ディビットが戻る前にポイントを稼ぐ
1."牧師"と"金庫番"には特に最大限の警戒
2.ブラックペンタゴンを訪れた獲物を狩る。





<ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路外側 機械室前廊下>


エンダと仁成は、いまだ機械室の霧の中に紛れていた。
エンダの超力で作り上げた黒霞の替え玉を先行させ、征十郎たちを欺いたのだ。
近くで見ればすぐに分かる粗悪なダミーではあったが、それをカモフラージュするために照明を落とし、蒸気で部屋全体を覆ったのだ。
征十郎と会話を交わしたのは、恨みの補充のためである。
本物のエンダを間接的に悲しませたといういちゃもんで、大した補充はできなかったが、それでも何とか仕上げることができた。


補助電気室に飛ばした黒蝿の動向から、機械室の出口に人間が二人待ち構えていたことも分かっていた。
征十郎たちを引き連れてチャンピオンと当たるより、先に征十郎たちをぶつけて疲弊させたところに割り入るほうが消耗が少ないだろう。
ギャルの刑期が短いはずがない。
エルビスは必ずギャルを狙うはずである。

そうして得られたつかの間の休息であった。


「ねえ、仁成。
 図書室でした話、覚えてるかな?」
「ああ。エンダの夢と、僕の過去の話だったね」

いつか信頼できるようになったら、お互いの夢を話そう。
そう決めた二人だけの約束。


「チャンピオンと夢の話、してたでしょ」
「……聞いていたのか?」
エルビスには、エンダを妹のように思っていると話していた。
本人に聞かれていたら恥ずかしいどころではない。
というより、不敬である。


「全部は聞いてない。けど、最後にそんな会話で〆てたところだけは、聞こえた」
仁成はほっと胸をなでおろす。
霧の向こうで、エンダがしてやったりという表情を浮かべた気がした。
それは神ではなく、年相応の少女が見せる表情のようだった。


「だったら、私の夢も聞いてくれないと不公平でしょう?」
「そうだね」

くすくすとエンダは笑う。
ぞっとするような笑いではなく、純心を秘めた笑顔を見せる。


エンダは静かに語り出す。
エンダという少女が、籠の中の巫女として何を聞き、何を感じていたのかを。
そして、彼女の夢を。
神を見失った人々のいる世界で、"神さま"が寄り添ってくれる家を作りたいという願いを。


現実には、その夢は潰えた。
ヤマオリ・カルトを創設した並木旅人が、自らの組織にGPAのエージェントを呼び込んだのだ。
エンダを信仰していた者も、そうでない者も、分け隔てなく皆殺しにされ、エンダの理想は潰えた。
エンダ本人は死に、仇敵である旅人も知らぬところで命を散らし、残ったのは道を失った"神さま"だけ。
そんな状況で、すべてをゼロから作り直す。途方もない夢だ。


「君が人間を憎んでいるのは分かってる。
 嫌いな人間に安らぎを与える家なんて、君にとっては地獄のように感じられるんじゃないのかな?」
「僕一人なら、きっとそうだね。
 世界に絶望して、打ちひしがれていた僕なら、そう感じていただろう。
 けれど、君が隣にいる」

白い蒸気が、二人の声を柔らかく包み込んだ。

「だから、僕ももう一度歩き出せる」


仁成が、過去を語る。
そして、小さなころに抱いた夢を思い出す。

警察官。正確には、"お巡りさん"だった。
GPAや自警団が遠い外国のように感じるほどの田舎で、外敵や病の脅威も薄れたこの時代に。
身近に感じられる、人々を笑顔にできる職業がそれだったから。
世間の広さも悪意も知らず、誰もが成り上がることを夢見るこの世界で、しごく常識的な夢しか持たなかった。

その夢も長い逃亡生活で朽ちて、ひび割れてしまったけれど。


「僕は、君に会えてよかったと思う」

隣にいる、純心で放っておけない小さな"神さま"と一緒なら。
もう一度あの頃の純心を取り戻せる気がした。


「僕と……一緒にいてくれてありがとう」


束の間の休息に、二人は語り合う。
夢。過去。人生を、二人は語り合う。
視界を覆い尽くす霧の中。
結露が二人の頬を伝っていた。


【D-5/ブラックペンタゴン北東ブロック外側・機械室エリア/一日目・昼】
【エンダ・Y・カクレヤマ】
[状態]:ダメージ(中)、疲労(小)
[道具]:デジタルウォッチ、探偵風衣装、ドンの首輪(使用済み)、ドンのデジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱出し、『エンダの願い』を果たす。
0.エルビス・エルブランデスとギャル・ギュネス・ギョローレンに対処する。
1.仁成と共に首輪やケンザキ係官を無力化するための準備を整える。
2.囚人共は勝手に殺し合っていればいい。
3.ルーサー・キングには警戒する。
4.ヤミナ・ハイドを使うか、誰かに押し付けるか考える。
5.今の世界も『ヤマオリ』も本当にどうしようもないな……。
※エンダの超力は対象への〝恨み〟によって強化されます。
※エンダの肉体は既に死亡しており、カクレヤマの土地神の魂が宿っています。この状態でもう一度死亡した場合、カクレヤマの魂も消滅します。
※黒靄による超力干渉でエルビスの腐敗毒をある程度遮断できます。
ただし〝恨み〟による強化が発揮しない限り、完全な無効化は出来ないようです。

【只野 仁成】
[状態]:疲労(極大)、ダメージ(中)、全身に傷、右掌皮膚腐敗、右手薬指骨折、左頬骨骨折、左奥歯損傷、ずぶ濡れ、服の全面が溶けている、精神汚染:侮り状態、強い覚悟
[道具]:デジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き残る。
0.エルビス・エルブランデスとギャル・ギュネス・ギョローレンに対処する。
1.エンダに協力して脱出手段を探す。
2.今のところはまだ、殺し合いに乗るつもりはない。
3.エンダが述べた3人の囚人達には警戒する。
4.家族の安否を確かめたい。
5.少女(四葉)にも対処したい。
※エンダが自分と似た境遇にいることを知りました。
※ヤミナの超力の影響を受け、彼女を侮っています。

108.破戒 投下順で読む 109.[[]]
時系列順で読む
スピリッツ・オブ・ジ・エア ディビット・マルティーニ [[]]
エネリット・サンス・ハルトナ [[]]
Re'Z 征十郎・H・クラーク
ギャル・ギュネス・ギョローレン
愛にすべてを エルビス・エルブランデス
只野 仁成
エンダ・Y・カクレヤマ
熱き血潮のカプリチオ(前奏) ネイ・ローマン 名前のない怪物(A)

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最終更新:2025年08月11日 17:16