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夜の港湾には、潮の匂いと冷えた風だけが満ちていた。
遠くでは波が防波堤にぶつかり、鈍い音を繰り返している。
積み上がったコンテナの影は長く伸び、月光が鉄の表面を青白く照らしていた。

その向こう、夜の縁には灯台の灯が小さく滲んでいる。
まだ遠く、頼りないほどか細い光だった。
けれど確かに、この港湾の闇の先に進むべき場所があるのだと、それだけは示していた。

運命に導かれるように辿り着いた、この港湾。
そこで見つけたのは、破損した首輪――大金卸樹魂の亡骸から回収した、絶対の枷に穿たれた、たった一つの綻びだった。
アビスが用意した完全無欠の拘束具に生じた、あり得ざる破断。
そしてその綻びは、確かに脱出への道を指し示していた。

メリリンはコンテナの陰に腰を下ろし、手の中の工具を軽く弄ぶ。
即席のドライバーとピンセット。廃材に超力を施して作り上げた、簡素な道具だ。
どちらも驚くほど軽い。
だが、これから挑むものの重さを思えば、その軽さが妙に心許なく感じられた。

やがて彼女は顔を上げ、目の前にいる青年を見る。

「……アンリくん」

呼びかけられ、安理は小さく顔を上げた。
龍人の瞳が月光を受けて、かすかに光る。
大金卸の亡骸を前にした衝撃をまだ引きずっているのか、その眼差しには沈んだ色が残っていた。
それでもメリリンの声色から何かを察したのか、彼はすぐに意識を切り替えるように背筋を伸ばした。

「はい」

返ってきた声は、少し掠れていた。
メリリンは破損した首輪を持ち上げ、その断面をちらりと見せる。
月光を受けた裂け目が、鈍く光を返した。

「これから私たちは灯台に向かう」
「……はい」
「でも、本格的に調べるなら、首輪をつけたままじゃすぐ時間切れになる」

メリリンの指が、安理の首輪へと向けられる。
冷たい金属の輪が、夜の光を無機質に照り返していた。

灯台は、禁止エリアの内側にある。
港湾への寄り道もあり、発動の時刻はもうすぐそこまで迫っていた。
首輪をつけたまま踏み込めば、すぐに猶予は尽きるだろう。
遠くに見えるあの灯も、首輪を嵌めたままではただの幻に終わる。

「だから、選んで」

静かな声で、メリリンは選択を促す。

「エリアの外で待つか。それとも、リスクを承知で――ここで首輪を外すか」

安理はすぐには答えなかった。
ただ、自分の首輪へそっと手を触れる。
指先に伝わってくるのは、冷たく、重い感触だった。

この島に来てから、ずっと首に嵌められている枷。
これより先へ進むためには、これを取り払わなければならない。

だが、それは自分の命を他人に預ける選択でもある。
ほんの僅かな手元の狂いで、首から上が吹き飛ぶかもしれない。
そんな賭けを前にして、怖くないはずがなかった。

けれど――ここで足を止めれば、真実には届かない。
トビたちが繋いだ脱出の可能性も。
エンダが命を懸けて託した道筋も。
すべてを、みすみす手放すことになる。

安理はゆっくりと息を吸った。
その表情には、まだ迷いが残っていた。
こわい気持ちも、逃げ出したい気持ちも、確かにある。
それでも、その目だけは逸れなかった。

「……調べたいです」

ぽつりと、呟くような声だった。
けれど、その一言には確かな意志が宿っていた。

「ようやくここまで来たんです。あの灯のところまで、自分の足で行きたい。そこに何があるのか……ちゃんと知りたい」

果たされることのなかった約束の場所。
イグナシオと落ち合うと決めた、あの灯台へ。
そこに、真実が待っているのだから。

「だから……メリリンさん」
「うん」

メリリンが短く応じその先の言葉を待つ。
怯えを飲み込み、その上でなお前へ進もうとする者の言葉を。

「首輪を外してください」

その答えに、メリリンは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、小さく息を漏らして笑う。

「……了解。あとはこの私に任せて」

彼女は工具を握り直す。
彼女の表情が、技師の顔へとすっと変わる。

「じゃあアンリくん。怖くても、苦しくても、絶対に動かないで」
「は、はい」

緊張が喉に張りついているのか、返事は硬い。
それでも安理は姿勢を正し、覚悟を決めたように肩の力を落とした。

メリリンは彼の首元へ手を伸ばす。
指先が首輪に触れた瞬間、ひやりとした金属の冷たさが伝わってくる。

夜の港湾に、目に見えない緊張がゆっくりと張り詰めていった。

わずかな震えが、指先に伝わる。
それが自分のものなのか、安理のものなのか、一瞬では判別できなかった。

「……動かないで」

念を押すように、低く言う。
安理は静かに頷く。
呼吸さえ浅く抑え、全身の動きを殺していく。

「唾を飲み込むのも、なるべく我慢して。首の筋肉が動くと困る」
「……はい」

返事は小さい。
だが、その短い音の奥にある張りつめた恐怖は隠しきれていなかった。

メリリンの手の中には、二本の工具。
細いドライバーと、工業用ピンセット。
自分の首輪を外した時に使ったものと、ほとんど同じだ。

けれど、決定的に違うことがある。
今度は自分の首ではない。
ほんの僅かな狂いで吹き飛ぶのは、自分ではなく、目の前の青年だ。

しかも相手の首に嵌まったままの状態では、視認も角度も大きく変わる。
雑な真似はできない。
許されるはずもない。

メリリンは首輪の縁を指先でなぞり、断面を探る。
大金卸樹魂の首輪で見た内部構造が、脳裏に浮かび上がる。

システムAの外装。
内側を走る回路。
爆破装置。
信号線。

ひとつひとつを記憶の底から引きずり出し、頭の中で正確な位置へと配置していく。
見えていなくても分かる。
分からなければ、ここで終わる。

メリリンは浅く息を吸い、余計な感情を押し殺した。
迷いも、恐怖も、責任の重さも、ただ手元を鈍らせるだけだ。
今、必要なのは集中だけ。

彼女はゆっくりと工具を構えた。

「――――始める」

開始の宣言と共に、ドライバーの先端が首輪の縁へと触れた。

かち――と、微かな金属音が鳴る。
月下の静寂に溶けるほど小さな音だったが、その瞬間、安理の肩がびくりと強張った。
その反応すら視界の端で捉えながら、メリリンは顔を上げない。
ただ、手元だけを見ていた。

「力を抜いて」

囁くように告げる。
安理は返事をしなかった。
喉を鳴らすことすら堪え、ただ必死に身を固めている。

メリリンは、静かに息を整えた。
意識はすでに、工具の先へと沈み込んでいる。

――見える。

それは視覚ではない。
理解として、そこに在るものが見えていた。

見えているのは表面ではなく、その内側だ。
灰色の合金に覆われた外装の奥がありありと脳裏に浮かび上がる。
樹魂の遺した破損サンプルから読み取った断面図が、透明な設計図のように安理の首元へぴたりと重なって見えた。

メリリンの超力第二段階――『鼓動を打て、機械仕掛けの魂(コラソン・デ・イェロ)』。

それは、ただ無機物を読むだけの力ではない。
形ある人工物に宿る『組まれた意志』を掴み取る異能だ。

機械は嘘をつかない。
人の手で積み上げられた物質には、設計思想と言う名の意思がある。
この首輪にも、それはある。
完成品として閉じられた機械を、設計思想の段階まで遡って見通していく。

メリリンはドライバーをほんの僅かに捻る。
外装の接合部へ、針のような力を差し込む。

首輪は頑強だ。異様なまでに頑強だ。
だが、頑強であることと、継ぎ目がないことは違う。

人が作った以上、そこには組み立ての順番がある。
順番が読み取れるなら、そこから解体手順も逆算もできる。
表からは見えないように潰してあっても、接ぎ目そのものをゼロにはできない。

かち、かち、かち。

ドライバーの先端が、金属のごく薄い継ぎ目を探り当てていく。
視認できないはずの位置へ、迷いなく刃先が吸い込まれていく。
まるで見えているようだった。
否。実際、彼女には見えていた。

メリリンの瞳の奥で、首輪の輪郭が分解されていく。
ひとつの閉じた機械が、彼女の認識の中で無数の部品へとほどけていく。
彼女の超力が触れるたび、難攻不落の首輪はただの硬い輪へと姿を変えていく。

「――ここ」

小さく呟く。
次の瞬間、ドライバーの先で一点を押し込んだ。
先端がわずかに沈み、小さな手応えが返る。

かちり。

乾いた感触とともに、首輪表面のごく一部が浮いた。
爪で剥がせるほど小さな、しかし決定的な隙間だった。
メリリンは即座にピンセットへ持ち替え、その裂け目へ繊細に先端を差し込む。

露出した内部を覗き込む。
外装の奥に潜んでいた微細な回路群。
樹魂のサンプルで一度だけ覗いた景色と、ほとんど同じだ。
違うのは、今それが安理の喉元に密着しているということだけだった。

メリリンは静かに息を吸う。
その瞬間、意識はさらに深く沈んだ。

『鼓動を打て、機械仕掛けの魂』
その本質は、改造ではない――対話だ。

人工物に刻まれた論理へ触れ、その振る舞いを理解し、必要とあれば別の理屈へと書き換える。
壊すのではない。説き伏せるのだ。
お前はもう、そう動かなくていい――と。

ピンセットの先が、回路の一点へ触れる。
ただ摘まむだけではない。
そこへ、超力が流れ込む。

システムAに守られていた外装を越えた今、この内側はもう純然たる機械だ。

金属。樹脂。導線。起爆素子。
それぞれの配置と役目が、鼓動のような感覚となってメリリンの指先へ返ってくる。
心臓が脈打つように、首輪の機構が彼女の認識に応えた。

「そう……そこにいるんだ」

思わず笑みが浮かぶ。
人の喉を吹き飛ばす爆弾を前にしているというのに、その表情には怯えよりも理解の歓びが勝っていた。

起爆系統は二重。
表向きの警報回路と、警報が鳴った時点で自立して走る内蔵起爆系が分かれている。
前者だけを潰しても意味はない。
後者の点火後の継続を止めなければ、爆弾は最後まで走り切る。

だから狙うべきは、起爆装置そのものではない。

その直前にある、制御の分岐。
点火命令が物理的な起爆へ変わる、その刹那。

「あった」

メリリンの声が、わずかに弾む。
ピンセットの先端が極小の端子を挟み、ドライバーで隣の固定具をそっと押し広げる。
その一連の動きには、もはや迷いがなかった。

きき、と嫌な感触。

直後。

――ピッ。

首輪が鳴った。

安理の身体が強張る。
空気が凍りつく。
波音さえ遠のいたように思えた。

――ピッ。ピッ。

警告音。
紛れもない、起爆予告の音だった。

だが、メリリンの目はむしろ冴えた。
予想通り――そう言わんばかりに、唇の端が僅かに吊り上がる。

「いい子だから、大人しくしてなよ」

誰に向けた言葉なのか、一瞬わからなかった。
安理へか、首輪へか。
おそらく、その両方だった。

ピッ、ピッ、ピッ。

規則的な音。
猶予は長くない。

警告音を聞きながらも、メリリンはさらに深く首輪の内部へ潜っていく。
彼女の超力が、剥き出しの回路へまとわりつく。

物質の形を読むだけではない。
その繋がり、その優先順位、その流れを読む。

この瞬間、メリリンは首輪をひとつの機械としてではなく、ひとつの意思決定として捉えていた。
どの流れを狂わせれば、この首輪は爆発すべき状況ではないと誤認するのか。

メリリンの瞳が細くなる。

この首輪は、あまりに堅牢であるがゆえに、逆に融通が利かない。
破壊されない前提。
改造されない前提。
内部へ干渉されない前提。

だからこそ、一度その前提が崩れれば脆い。
それは自身の首輪をもって証明済みだ。

ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

音が速くなる。
だが、メリリンは慌てない。
ピンセットをわずかに持ち上げ、ドライバーの先で別の接点を弾いた。

かち。

その瞬間、警告音の間隔がほんの僅かに乱れた。

ピッ、……ピッ、ピッ。

「やっぱり」

確信が宿る。
首輪は起爆を完了したのではない。
まだ起爆状態へ移行し続けているだけだ。
ならば、その遷移自体を別の状態へ誤認させればいい。

メリリンの指先が踊る。
ピンセットが導線を押さえ、ドライバーが固定具を緩める。
そこへ超力が浸透し、電子の流れそのものではなく、構造の意味を書き換えていく。

解除とは、破壊ではない。
再定義だ。

お前は爆弾じゃない。
お前はもう、ただの輪だ。

第二段階の超力が、機械の深部へ浸透する。
単なる配線細工では届かない領域まで、彼女の感覚が届いていく。
部品ひとつひとつの噛み合いが、鼓動のように聞こえる。
それらを撫で、押さえ、ずらし、繋ぎ替える。

まるで機械に、新しい癖を教え込むように。

――ピピッ。

音が跳ねた。

次の瞬間、警告が止まる。

夜の静寂が、戻ってきた。

「……よし」

最後の一手として、固定爪のロック部へ触れる。
ここまで来れば、残るのはただの留め具だ。

かち、という軽い音。
次いで、ごく僅かな金属の緩み。

首輪が、開いた。
輪を安理の首からそっと離していく。
冷たい金属が、皮膚をかすかに擦って抜けていった。

それはあまりにも静かで、拍子抜けするほどあっけない瞬間だった。
拘束の輪が、ついに首元から外れる。

安理は目を見開いたまま、しばらく動けなかった。
動いてはいけないと言われたまま、まだ身体がその命令を解いていない。
そんな彼の前で、メリリンは外した首輪を片手に持ち上げる。

「……取れた」

静かな声だった。
誇示でもなければ、勝ち誇りでもない。
ただ事実を告げるだけの、乾いた声。

その一言で、ようやく安理は息を吐いた。
肺の奥に詰め込んでいたものを一気に吐き出すような、大きく震える息だった。
喉元へ手が伸びる。

そこにはもう、何もない。

受刑者を縛る絶対の枷が。
アビスの支配を象徴する、あの首輪が。
今、確かにこの首から消え去った。

そしてその向こう、遠い灯台の灯が、さっきまでよりもわずかに近く見えた。
首元から枷が消えた今、あの光はようやく辿り着くべき先として輪郭を持ち始めていた。

メリリンは外した首輪を握り締めたまま、深く息を吐く。
張り詰めていた全神経が、ほんの一瞬だけ弛緩した。
肩に力が戻る。
指先の震えが、遅れて意識に上ってくる。

ようやく終わった。
ようやく一つ、越えたのだと。

月光に照らされた灰色の輪は、もはや絶対の枷ではない。
ただの、取り外し可能な機械だった。

そんな実感が胸の奥を掠めた、その瞬間だった。

――――パァンッ!!

乾いた破裂音が、夜の港湾に突き刺さった。

反応するより先に、メリリンは視界の端で『何か』を見た。
月光を裂いて飛来する、一条の閃き。
一直線。寸分の狂いもなく、自らの顔面――その中心へと吸い込まれてくる死だった。

認識した時には、もう避けられない。
脳が理解に追いつくより早く、弾丸はそこまで来ていた。

「――ッ!!」

だが次の瞬間、横合いから割り込んだ影が、その運命を捻じ曲げた。
安理だった。

ほとんど反射だった。
膝立ちのまま身を乗り出し、左手を無理やり差し込むようにして、メリリンの頭部を庇ったのだ。

鈍い衝撃音が響く。
弾丸が、龍人の手の甲へと突き刺さった。
手の甲にめり込んだ弾丸が、焼けた鉄片を押し込まれたような激痛をもたらし、安理の顔が苦悶に歪む。

「ぐ……っ!」
「アンリくん!?」

メリリンは弾かれたように彼の腕を掴んだ。
左手を引き寄せ、傷を確かめる。

掌の側までは抜けていない。
弾は手の甲の鱗の隙間に半ば食い込み、そこで止まっていた。
血は滲んでいる。だが、手を吹き飛ばされたわけではない。骨まで砕かれている様子もなかった。

安理は荒い息を吐きながら、それでもどうにか頷く。

「だ、大丈夫です……手、だけ……」
「手だけって……十分大事でしょ!」

叱るように返しながらも、メリリンの視線はすでに周囲を走っていた。

どこからだ。
どこから撃たれた。

目につく射線を片端から洗うが、姿はない。
撃ち手は、一発で位置を晒すほど甘い相手ではないらしい。

襲撃者が来たのは明らかだ。
ここで止まっていれば、二発目が来る。
その直感に突き動かされるように、メリリンは安理の肩を強く引いた。

「立てる!?」
「……はい、なんとか」
「だったら走る! ここにいたら的だよ!」

言うが早いか、メリリンは外したばかりの首輪をデイパックへ乱暴に突っ込んだ。
今この場で応戦する選択肢はない。
遮蔽物の多い港湾では、どこに殺意が潜んでいるのか分からない。
視認できない相手と撃ち合うのは、自殺行為に等しかった。

安理もまた、負傷した手を庇いながら立ち上がる。
痛みは強い。だが、足はまだ動く。
走れるのなら、今は生き延びることを優先すべきだ。

二人は同時に地を蹴った。
コンテナの隙間を抜け、倉庫群の脇をすり抜け、港湾の端へ。
月光の広がる草原を目指して、ただ一直線に駆ける。

草原の向こうには、灯台の灯が細く浮かんでいた。
闇の只中に刺さる、一本の火だった。
二人はそれに吸い寄せられるように、ただ前へ走った。
凍てついた地面を踏み抜く足音だけが、夜の静寂を荒々しく掻き乱していった。

その背が闇の向こうへ消えてから――ようやく、ひとつの影が姿を現す。

月明かりの縁。
港湾を見渡せる高所、その陰から静かに歩み出たのは、長い黒髪の青年だった。

氷月蓮。

手にした銃をゆるやかに下ろしながら、彼は遠ざかる二人の背を見送っている。
整いすぎた輪郭には、驚きも苛立ちも浮かばない。
あるのは、淡々と盤面を眺めるような観察だけだった。

「やはり」

小さく、誰に聞かせるでもなく呟く。

「複数いると、死の最適解は少し歪むな」

メリリン・"メカーニカ"・ミリアン。
一仕事終え、隙だらけのその頭部を撃ち抜く。
それが、視認した瞬間に脳裏へ浮かんだ最適解だった。

だが、彼女の傍らには北鈴安理がいた。
龍の硬質な肉体。
そして、誰かを庇うことを躊躇わない、あの性質。
アビスでは珍しいタイプと言うエネリットの言葉にも納得がいく。

一人ではない時点で、殺しの設計図には微細な誤差が生じる。
その誤差が今、実際に弾道を逸らした。

とはいえ、大した問題はない。

氷月は何の感慨もなく、手元の銃を見下ろす。
初弾がメリリンへ届かなかったのは事実だ。
だが、それはプランAの失敗に過ぎない。
そして、プランBの楔はすでに撃ち込んである。

「想定内だ」

月明かりの下、夜風が彼の髪先だけを揺らした。
男は静かに、一歩を踏み出す。

その歩みは、まるで夜道を散策する者のように穏やかだった。
けれど、その実態はただひとつ。
獲物を追い込み、逃げ場を削り、確実に仕留めるための歩みだ。

「さあ――狩りを始めよう」


港湾を抜け、二人は草原を走る。

背後に追手の姿は見えない。
だが、見えないことそのものが、かえって不気味だった。

夜の草原はあまりにも開けすぎている。
こちらが走れば、その輪郭は月下にくっきりと晒される。
身を隠せる場所も少ない。
まるで、誰かに見下ろされるためだけに設えられた舞台のようだった。

メリリンは歯噛みしながら前方を睨む。

「頑張って……灯台まで行ければ、私たちの勝ちよ」

メリリンも、安理も、首輪はもう外れている。
ならば禁止エリアは、もはや死地ではない。
むしろ追手を振り切るための、絶対的な安全圏に変わる。

禁止エリアまではそう遠くない。
あそこまで辿り着ければ勝ちだ。
少なくとも、この不利な状況はひっくり返せる。

「アンリくん、走れる!?」
「……はい、まだ……ッ」

答えは返る。
けれど、その声はどこか妙だった。
反応が重く、鈍い。呼吸も噛み合っていない。
先ほどの被弾のせいか――そう思いかけた、その時だった。

安理の足が、がくりと崩れた。

「っ!?」

前のめりに膝をつく。
どうにか倒れ込むのは避けたものの、その動きは明らかに異常だった。
負傷したのは手のはずだ。脚をやられたわけではない。
それなのに、立てない。

「アンリくん!? どうしたの!?」
「わ、分かりません……急に……」

息が荒い。
視線が揺れている。
身体の芯から力が抜けていくように、安理の肩が不安定に傾ぐ。
その様子を見た瞬間、メリリンの脳裏にひとつの答えが閃いた。

「……まさか」

安理の手に食い込んだ、あの一発。
自分を庇った代償に受けた、あの弾丸。
その場を離れることを優先し、銃弾は刺さったままにしていた。
もしあれが普通の弾ではなく、別の役割を帯びていたのだとしたら――。

「ごめん、少し痛むよ……ッ」

メリリンはすぐに安理のそばへ膝をつき、その左手を取る。
傷口に食い込んだ弾をピンセットで慎重に摘まみ、引き抜いた。
ぬるり、と血に濡れた弾丸が抜ける。

取り出したそれは、明らかに通常弾とは形状が違っていた。
殺傷のための鋭さではなく、薬液の送達を前提とした構造。
見た瞬間、メリリンは舌打ち混じりに吐き捨てる。

「麻酔弾……ッ!!」

呟いた瞬間、安理の指先が痙攣するように震えた。
龍人化した肉体だから、即座に倒れなかっただけだ。
これが普通の人間なら、その場で死んでもおかしくない量――そう理解した途端、背筋が冷えた。

最初から、襲撃者は二通りの勝ち筋を仕込んでいたのだ。

メリリンを撃ち抜ければ、それで終わり。
庇われたとしても、庇った側を潰せる。
どちらに転んでも二人の足並みは崩れる。

「最悪……!」

メリリンが吐き捨てるように毒づき、安理が片膝のまま、苦しげに息を吐く。
焦点の定まらない瞳でメリリンを見上げ、震える唇をどうにか動かした。

「メリリンさん……行って、ください……」
「何言ってるの」
「ボクを置いて……灯台へ……今なら、まだ……」

声の端が掠れる。
意識が揺らぎ始めている。
それでもなお、彼は自分より彼女を優先しようとしていた。

置いていけ、と。
自分を餌にでもして逃げろ、と。

あまりにも安理らしい言葉だった。
だからこそ、メリリンの胸の奥を強く抉った。

一瞬だけ、灯台が脳裏をよぎる。
ここで安理を置いて走れば、辿り着けるかもしれない。
サリヤが残した手がかりに、届けるかもしれない。

けれど、

「置いていけるわけないでしょ……ッ!」

考えるより先に、メリリンの口がそう吐き捨てていた。

メリリンは安理の肩を掴み、無理やり顔を上げさせる。
その瞳に宿っているのは、怒りに似た熱だった。
ただ、譲るつもりのない意志だけが、そこにある。

「エンダは、自分で残るって決めた。自分で戦うって言った。だから私は、あの子の覚悟を呑んだの」

声が震える。
だが、それでもメリリンは言い切った。

「けど、あんたは違うでしょ。動けなくなったまま置いていけなんて、それは覚悟でも何でもない。
 ただ私に、また同じことをやれって言ってるだけだ」

脳裏をよぎるのは、幾つもの喪失だった。
手を掴めなかった相手。通じ合えなかった相手。置いていくしかなかった背中。
その全部が、今のメリリンを形作っている。

サリヤの時も、ジェーンの時も。
手を伸ばせたかもしれないのに、届かなかった。
言えたかもしれないのに、言えなかった。
そうして取りこぼしたものが、今も胸に風穴みたいに残っている。

だからこそ、分かる。
ここで安理を置いていけば、たとえ灯台に辿り着けたとしても、自分はまた同じ傷を抱えたまま進むことになる。
安理がいなければ首輪の突破口だって見つからなかったくせに。
道をくれた相手を、ここで切り捨てて先へ行くことになる。

そんなのは、嫌だった。
そんなふうにして掴む答えなんて、もう欲しくなかった。
メリリンは自分自身に言い聞かせるようにはっきりと呟く。

「私は、置いていく側に戻りたくない」

安理の目が、わずかに見開かれた。

「……あなたが動けないなら、ここでやるしかない」

言いながら、メリリンは立ち上がる。
この状況で、相手に勝てる保証などどこにもない。
それでも、やるしかなかった。

人工物の乏しい草原。
自分の力が最も活きにくい地形。
しかも守るべき相手は、麻酔で動けない。

最悪だ。
笑えてくるほど、最悪の盤面だった。

だが、それでも。
ここで安理を置いて逃げるよりは、ずっとマシだった。

その時だった。
夜の草原の向こう、白く差し込む月光の帯の中へ――ひとつの影が静かに歩み出た。

長い黒髪。
彫刻めいた輪郭。
騒がしさの欠片もない、整いすぎた貌。

こちらへ向かってくるその歩みには、焦りも高揚もない。
まるで、すでにこの場の結末が見えている者の足取りだった。

その正体を、二人はまだ知らない。
けれど、一目見ただけで理解できた。
理由もなく、本能が告げていた。

あれが今夜の襲撃者だ。
あれこそが、自分たちへ向けられた殺意の主だと。

メリリンは身構える。
安理もまた、朦朧とする意識を繋ぎ止めながら、片膝をついたまま身構えた。
ふらついてはいる。だが、その目はまだ死んでいない。
彼もまた、この場で終わるつもりはなかった。

月下に立つ殺人鬼は、そんな二人を静かに見つめ返す。

標的、メリリン・"メカーニカ"・ミリアンは逃げなかった。
北鈴安理を見捨てず、この場に残ることを選んだ。

勇敢な判断だ、と氷月は思う。
そこには感情がある。人間らしさがある。
賞賛に値する強さすら、あるのかもしれない。

だが、誤りだ。

氷月の標的は、あくまでメリリンだ。
彼女が逃げれば、自分は彼女を追っただろう。
少なくとも、優先順位が大きく落ちる北鈴安理はその場に放置されるだけだ。

つまり、安理の安全を本気で確保したいのなら。
メリリンが取るべき最適解は、彼を置いて逃げることだった。

自分が狙われていると知らぬこととはいえ、それを選ばなかった。
選べなかった。

ならばここから先は、彼女自身が招いた袋小路に過ぎない。

氷月は港湾へ到達した時点で、物陰からメリリンが安理の首輪を解除する様子を見ていた。
それで、アビスがメリリンの排除を急がせた理由も理解した。

受刑者を縛る枷を破壊する者。
それは、この刑務の前提を揺るがす異常だ。
アビスが危険視するのも当然だった。

もし港湾に籠もられれば厄介だった。
人工物の多いあの領域は、メリリンの超力を最大限に活かせる舞台だからだ。
倉庫、コンテナと彼女の手札になり得るものが多すぎる。
そこで粘られ北鈴安理が回復でもすれば、氷月の勝率は著しく落ちる。

だから、氷月はすぐには撃たなかった。
首輪の解除完了まで待ち、銃撃の方向で逃げ道を示した。
首輪が外れれば、彼らは必ず禁止エリアへという安全圏へ逃げ込む。

メリリンは技術者であり、北鈴安理は善良な少年だ。
戦うという選択肢を持っていないわけではないだろうが、それを選ぶ優先順位は低い。
少なくとも他の手段が潰れるまでは選ばないだろう。

ならば、逃げ道を用意し、その逃走先を誘導してやればいい。
読み切った先で、追い込めばいい。

そして今が、その時だった。

北鈴安理は動けない。
メリリンは、彼を守るために戦うしかない。
人工物のない草原という、最悪の地形で。

氷月はわずかに目を細める。
全ては予定通り。
何一つ狂いはない。

「さて」

静かな声が、夜へ溶けた。

「始めようか」


月の帯の中に立つ男――氷月蓮。

焦りも、苛立ちも、殺気すら見せない静かな立ち姿。
こちらは二人がかりで身構えているというのに、まるで夜道の散歩の途中で足を止めただけのような顔をしている。
その薄気味悪い平静さが、かえってメリリンの警戒心を煽った。

メリリンは動けない安理を庇うように一歩前へ出る。
同時に、彼女の足元で金属音が鳴った。

デイパックの脇に括りつけていたフルプレートアーマーの各装甲片が、超力に応じて一斉に浮かび上がる。
甲高い接続音を立てながら、重厚な鋼の鎧が瞬く間にメリリンの全身を覆った。
銃撃へ備えるための防御策。

だが、戦いは防御だけでは成立しない。
続けて、メリリンは足元へ転がしていたデイパックを蹴り開けると、工場エリアから持ち出していた廃材が草の上へぶちまけられた。

「――――来なさい」

その声に応じるように、廃材が宙へ舞い上がった。
小さな鉄片ひとつひとつへ、メリリンの第二段階の超力が浸透していく。

そこにメリリンは迷いなくグロック19を放り投げた。
さらにデイパックから手榴弾を二つ抜き取り、同じく宙へ放る。

自分で拳銃を構えても、所詮は下手の鉄砲だ。
ならば、その武装ごと統合し、最強の人工物へ仕立て上げる。
それが、技術者としてのメリリン・"メカーニカ"・ミリアンの結論だった。

廃材の量は多くない。精々、メリリンが持ち運べる程度だ。
大仰な兵器など造れない。まして、この人工物の乏しい草原で新たな部品調達など望めるはずもなかった。

造れるのは、せいぜい一体。
だからこそ、最も効率のいい形へ、全てを収束させる。
宙に浮いた部材群が、一気に収束する。

ただ動かすのではない。
ただ組み立てるのでもない。
部材は意味を変え、用途を変え、別の存在へと生まれ直していく。

低い重心。
強靭な四肢。
鞭のような尾。
長くしなやかな胴。
鋭角に構成された頭部。

生まれたのは、豹の形をした獣だった。

ただし、本物の豹ではない。
生物の骨格をなぞりながら、それを上回る無機の合理で組み上げられた、殺戮用の獣。
有機的な流麗さと、工業製品特有の冷酷さが同時に同居した、動物型ドローンだった。

その胸部内部へ、グロック19が格納される。
腹部には手榴弾が内蔵され、各関節には即席の駆動補助機構が走る。
牙は刃となり、爪は鋼の鉤爪となった。

豹型機械兵が、低く唸るような駆動音を漏らす。
次の瞬間、地を抉って飛び出した。

「――ッ」

さしもの氷月も、その初速にはわずかに反応を早めた。

速い。

人の身体能力では届かない低空の疾走。
草を裂いて迫る鋼の肉食獣が、氷月の喉笛へ一直線に食らいつく。
氷月は半歩で軸をずらし、爪の一撃を紙一重でかわした。

だが、躱された瞬間には豹型機械兵の腹部が開き、格納されていた拳銃が火を噴く。

乾いた発砲音。
すれ違いざまの射線が氷月の側頭部をかすめる。
氷月は上体だけを反らして弾道を外し、着地した豹の尾による薙ぎ払いを跳んで避けた。

間髪入れず、豹型機械兵が再跳躍する。
本物の野生獣以上の柔軟さで軌道を変え、氷月へ牙を突き立てようと迫る。

近接の圧。射撃の圧。
生物の挙動と機械の精密さが融合した猛攻。
ただ強いだけではない。人間の直感が追いつきにくい。

「……なるほど」

氷月は短く息を吐いた。
この時点で理解する。
今は、メリリンを殺せない。

あの鋼の獣を無視して本体を狙うのは悪手だ。
殺すための道筋が見えない。
あれは独立した殺傷兵器であり、放置した瞬間にこちらの命を狩り取る獣だ。
まずはあれを削らなければ、突破口は開かない。

氷月の思考が、一切の迷いなく切り替わる。

豹型機械兵が再び襲いかかった。
鋼の前脚が大地を打ち、後脚のばねが弾ける。
氷月の胸部を抉るような鉤爪。噛み砕くための顎。至近距離から吐き出される銃弾。

一歩でも誤れば喉を裂かれる。
一瞬でも遅れれば脳を撃ち抜かれる。
一手でも間違えば身を割かれる。

爪の軌道から半歩外れる。
銃口の向きが合う前に首を傾ける。
跳躍先の着地点へ尾が来ると読んで、そのさらに先へ身を流す。

明らかに運動性能では豹型機械兵の方が上回っている。
それにもかかわらず、氷月はその全てを僅差ではあったが避け続けていた。

まるで未来でも見ているかのように、ぎりぎりの線上だけを踏み続ける。
その動きは、あまりにも洗練されていた。

相手を殺害するための最適解を見る超力――『殺人の資格』。
攻撃に特化した超力と思われがちだが、その本質はそれだけではない。

相手を殺すためには、殺人鬼は生きていなければならない。
殺人鬼は一方的な加害者でなければならない。

だからこそ氷月には、殺すために必要な生存の道筋もまた見えている。

彼は生き残るために避けているのではない。
殺すために、避けているのだ。

豹が跳ぶ。
氷月が躱す。
銃弾が掠め、爪が地面を裂き、草がばらばらに吹き飛ぶ。

紙一重の攻防の中、一瞬の隙を見つけた氷月の右手が閃いた。
投げたのは、フォーク。
廃墟から拝借した、食卓用の安物めいた一本。
だが狙いは正確だった。

豹型機械兵が跳躍し、着地へ移る一瞬。
額部の薄い装甲へ向けて、金属片が一直線に突き刺さる――そう見えた、その瞬間。

「モードチェンジ!」

メリリンの指示が飛ぶ。

豹の輪郭が、空中で崩れた。
四肢が畳まれ、背骨が伸び、頭部が二つに割れて翼骨格へ再配置される。
尾は尾翼へ変わり、胴体内部の武装ユニットごと構造が組み替わる。

鋼の肉食獣は、一瞬にして猛禽へと生まれ変わった。

それは大型の鷲だった。
巨大な翼を広げた機械兵が、フォークを躱して宙へ舞い上がる。

夜空を切り裂き、月光を背負って旋回する。
近接を制する豹から、上空を支配する鷲へ。

メリリンは最初から、ひとつの兵器を固定形態で使うつもりなどなかったのだ。
状況に応じて変形し、相手に合わせて形態を変え続ける。
それこそが、この即席兵器の最大の強み。
第二段階に至ったメリリンの超力だからこそ可能な芸当だった。

上空へ退いた鷲型機械兵の腹部が開く。
それを見た、氷月の瞳が鋭く細まる。

そこから投下されたのは、内蔵していた手榴弾だった。
氷月は即座に進路を捨て、横手の窪地へと跳び込んだ。

爆発。

白光と轟音が、夜の草原を穿つ。
爆風が草を根元から薙ぎ払い、土と火花が舞い上がる。
鷲型機械兵はその上を悠々と旋回し、なおも氷月の位置を上から押さえ続けている。

氷月は低く身を伏せたまま、爆炎の向こうを見上げた。

ひとまず生存はできる。だが突破はできない。
このままでは上空制圧を許し続け、地上で動くたびに爆圧か銃撃を浴びる。
メリリン本体へ届く前に、少しずつ削り取られていくだけだ。

それでも、氷月に慌てた様子はない。
窪地に身を隠しつつ必要な距離を取り、盤面を組み替えるための思考へ移っていく。
草原の冷気の中で、冷徹な攻略法を組み立てていく。

「うぉぉおおおおおおッ!」

その思考を断ち切る雄叫びが響いた。
横合いの草を蹴散らして、一つの影が強引に飛び出す。

「アンリくん!?」

メリリンの声が飛ぶ。
飛び出したのは安理だった。

麻酔に揺れる意識を力ずくで繋ぎ止め、龍人の身体能力だけで無理やり前へ出る。
安理はふらつく足を叱咤するように踏み込み、氷月へと迫った。

横合いから振るわれる龍爪の一撃。
咄嗟にそれへ反応し、氷月は身を引いて躱す。

動きは明らかに重く、踏み込みも鈍い。
だが、龍人の人知を超えた膂力だけは依然として健在だった。
鈍っていようと、掠りでもすれば氷月の痩躯など容易く砕け散るだろう。

その突進を避けた氷月は、後方へ引きながら僅かに目を細める。

(…………まだ動けるのか)

意外ではあった。
如何に龍人とは言え、そろそろ昏倒してもおかしくないはずである。
氷月は静かに観察し、瞬時に相手の状態を理解した。

「なるほど。そういう事か……」

冷気を自らの体内へ流し込み、代謝を落として麻酔の巡りを遅らせている。
龍種の頑強な肉体があってこそ成立する応急措置だろう。

苦し紛れではあるが、理には適っていた。
ただし、無理に無理を重ねたその動きは、やはり重い。

二対一という盤面は、本来『殺人の資格』を乱す。
標的が複数存在し、介入の可能性が増えるからだ。

本来なら避けるべき盤面。
だが逆に、その複雑さそのものを利用することもできる。

安理の突撃によって、窪地から強制的に追い出された氷月へ鷲型機械兵が狙いをつける。
上空から、射撃の射線が通る。
だが氷月は、自ら危険な安理の懐へ半歩踏み込み、さらに角度をずらした。

「……っ」

その位置取りに、メリリンが顔色を変え、射撃命令を停止する。
氷月と鷲型機械兵、その射線の間に安理の体が滑り込んでいたのだ。
踏み込んできた氷月に、安理は爪を振るう。
だが、鈍った動きでは当たらない。

「ちッ……!」

メリリンが舌打ちする。
その位置取りは明らかに意図的だった。

氷月は安理の懐に潜り込みながら、盾にするように、鷲型との間へ安理を置くよう立ち回っていた。
龍の一撃が怖くとも、機敏な鷲型機械兵より、鈍った安理の方が与しやすい。
明らかに安理を侮った判断だった。

上空からの制圧火力を、安理を盾にして封じている。
安理が近接している限り、手榴弾のような範囲攻撃も使えない。
氷月は防戦に見せかけながら、すでにこちらの強みを削りに来ていた。

鷲型機械兵は、攻めあぐねるように上空を旋回し続ける。
遠距離からの攻撃手段は封じられた。
急降下からの近接戦という手もあるが、それでは飛行型としての優位を捨てることになる。
迂闊に突っ込ませれば、逆に破壊される危険もあった。

豹型に戻すべきか、それともまた別の。
次の選択を考える僅かな逡巡。
それを見抜いたようなタイミングで、氷月の腕がしなる。

月光を掠めて、銀色の軌跡が走った。
投げられた刃は、真っ直ぐ上空の鷲型機械兵へ向かう。
メリリンの目が見開かれる。

ナイフが、鷲型機械兵の胴の中心へ突き刺さった。

その瞬間、鷲型は空中で大きく姿勢を崩す。
否、単に崩れたのではない。
胴を穿たれたその機体は、身を裂かれたかのように分解していった。

「――モードチェンジ!」

メリリンが叫ぶ。

その崩壊は破壊ではない。
意図的な変形だった。

鋼の骨格が一気に分散し、それぞれが別個の機構へと組み替わっていく。
無数の小さな駆動音が、夜の静寂を細かく震わせた。

小さな回転翼。
鋭い針のような尾部。
光を反射する薄い外装。

月下でばらけた金属片は、それぞれが羽音を立てる小さな機械へと変わっていた。

蜂を模した無数の飛行機械群。
一撃の重さを捨て、手数で飽和させる形態。
範囲攻撃を持たない相手へ押しつけるには、最も鬱陶しい散兵形態だった。

「行け!」

メリリンの指示で、羽音を立てた蜂群が一斉に氷月へ殺到する。
正面からだけではない。上下左右、死角を刻むように散りながら包囲し、収束する。

全方位から迫る飽和攻撃に対しては、安理を盾にすることはできない。
蜂の羽音が草原を埋め、氷月の周囲に金属の嵐が生まれた。

同時に、安理もまた賭けに出る。
自分が盾にされ、明らかに侮られたこの状況で、そのまま終わるわけにはいかない。
せめて、この盤面を崩す。

安理は喉の奥から低く唸るように息を吐く。
朦朧とする意識の中、自身に向けていた冷気を外へ向かって解放した。

白い霧が足元から広がる。
夜の草を一瞬で凍らせ、空気中の水分まで軋ませるような冷たさ。

安理の冷気と、蜂群の羽音が重なり、一斉に氷月へ襲いかかる。
避けようのない冷気と、物量の飽和攻撃。

その瞬間、氷月は懐から金属缶を取り出した。

容量500ミリほどの、ありふれた缶。
白い息を吐きながら、それを躊躇なく横薙ぎに振り抜く。

ばしゃり、と中身が月夜へ散った。
月光を受けた飛沫が、きらめきながら広がる。

振りまかれたそれは、何の変哲もない海水だった。
その塩水はちょうど殺到してきた蜂型機械兵の群れへ広く浴びせかけられる。

そこへ、安理の冷気が重なった。

ぱきり、と。

薄い機体表面に、一斉に霜が走る。

海水を浴びた蜂型たちは、次の瞬間には飛翔能力を失っていた。
塩水が薄い駆動部や羽根の継ぎ目に絡み、冷気によって瞬時に凍りつく。
小型軽量ゆえに、耐える余地もない。

凍結した機体は、ばらばらと地面へ落下した。
草の上に散らばるその姿は、虫の死骸のようだった。

蜂群を叩き落とした氷月は、すでに距離を取っている。
白い息を吐きながら、身にまとわりついた霜を静かに払った。

「そんな……!」

メリリンの声が裏返る。

無数にいたはずの蜂群が、一瞬で半壊した。
残ったのは、海水を免れ月明かりの中をふらつくように飛ぶ数匹だけだった。
その僅かな数匹を除けば、氷が張りつき、再利用も不能に近い。
機械として、ほとんど死んでいる。

だが、今の対応はあまりにも出来すぎていた。
港湾から汲んできたのか、それとも最初から持ち歩いていたのか、海水をたまたま持ち歩いていたなんてことがあるだろうか?
それだけではない。麻酔弾に始まり、全ての用意があまりにも良すぎる。

この何もない草原で、こちらの手札へ正確に噛み合う準備。
まるで最初から、メリリンと安理の戦い方を知っていたかのような立ち回りだった。

襲われる二人は、まだ知らない。
氷月が、彼らの能力についてエネリットからある程度の情報を得ていたことを。
この男が、情報を揃えた上で、最適解を選び続ける殺人鬼だということを。

安理は絶望するように息を呑んだ。

自分の冷気が、まんまと敵に利用された。
自分が踏み込んだから、メリリンの蜂群は落とされた。
守られるだけではなく、戦うつもりで前へ出たのに、結果として足を引っ張る形になってしまった。
その事実が、麻酔による酩酊よりも鋭く胸を刺した。

「……ボクの、せいで」

ふらつく膝を、安理は無理やり前へ押し出す。
ここで止まれば、本当に全部が無駄になる。
自分が足を引っ張ったまま終わる。
それだけは、どうしても嫌だった。

「アンリくん、待って!」

メリリンの制止が飛ぶ。
だが、安理は止まらない。
失態を取り戻そうと言う責任感と、何とかせねばと言う焦りが少年を突き動かす。
眩む視界の中、ただ氷月だけを見据えて踏み込む。

「まだ来るのかい?」

その声音に、嘲りはなかった。
純粋な確認に近い、静かな声だった。

安理は返答の代わりに腕を伸ばした。
重い。遅い。足先が地面へ縫い付けられたように鈍い。

まともな戦士の動きではない。
理から外れた執念だけが、前へ前へと身体を押していく。
その揺らぎが、逆に完全には読み切れない揺らぎになっていた。

氷月はするりと半身を引いた。
だが、完全に躱しきれず安理の指先が、氷月の衣服を掠める。

その瞬間だった。

ぞわり、と。
首筋から背骨へ、氷の針を流し込まれたような悪寒が走る。

視界が反転する。
夜の草原が、別の景色へと塗り替わった。


――薄暗い、夕方の教室だった。

窓の外は赤く染まり、倒れた机と椅子が床に散らばっている。
その中で、氷月蓮が立っていた。

まだ幼い。
中学生特有の細さを残した身体つき。
だが、その眼だけは今と何ひとつ変わらない。
冷たく、静かで、何かが決定的に欠けている。

机が倒れ、椅子が散らばっている。
その傍らには、喉を裂かれ血だまりに沈む男子生徒がひとり。
さらにその横では、別の男子生徒が床に膝をつき、怯えきった顔でこちらを見上げていた。

『な、なんで……』

震える声。
意味を求める声。
助かるための言葉。

だが、その問いに対して氷月の内側には、答えるべき感情が何ひとつ湧かなかった。

可哀想だとも。
悪いことをしたとも。
やめようとも思わない。
ただ、思う。

――ああ、簡単に殺せそうだ、と。

憎しみもない。
怒りもない。
恨みもない。
我慢の限界だったわけでもない。
虐げられていたわけでもない。

ただ、できそうだと思った。
やってみようと思った。

理由など、それだけだった。

倒れた机の陰では、別の生徒が涙を流して呻いている。
鼻水を垂らし、意味のない許しを乞うている。
それを見ても、やはり何も感じない。

ただ観察する。
どうすれば一番簡単に死ぬのか。
どこをやれば、どの順番で静かになるのか。

そんなことばかりが、妙に明晰に頭の中へ浮かんでくる。

泣き顔も、震える声も、命乞いも。
その全てが、氷月の中では殺し方の参考情報でしかなかった。

ひとりの喉を押さえる。
目を見開いて抵抗する相手を振り回し、机の角へ頭を打ちつける。
後頭部から赤いものが広がる。
しばらく痙攣し、やがて動かなくなる。

次へ。

泣きながら許しを請う声を聞きながら、どうすれば一番早く壊れるのかを考える。
考えて、試して、確かめる。

氷月が、床に倒れた生徒を見下ろす。
その眼差しは、まるで虫の標本でも眺めるように冷静だった。

そこには激情も、逸脱の快楽もない。
あるのは淡々とした実行だけだ。
だからこそ、おぞましい。

そして、その最中に。

氷月の胸の底へ、別種の愉悦が差し込んだ。

――これを知ったら、父さんはどう思うだろう。
――母さんは、どんな顔をするだろう。

善良で、賢くて、少し大人びた息子。
そんなものを演じてきた自分の中身が、最初からこれだったと知った時。
あの整った家庭は、どんなふうに壊れるのか。

その想像だけが、妙に可笑しかった。
氷月の胸の奥には、確かに愉悦があった。

誰かを殺すことそのものより。
それを知った誰かが絶望することを思い描いて、愉しんでいる。

そこまで見えた瞬間、安理の視界がぶつりと切れた。


「――ッ!?」

安理は弾かれたように氷月から離れる。
触れた時間は、現実にはほんの刹那だった。

息が詰まる。
胃の奥がひっくり返り、肺がうまく開かない。
喉まで込み上げた吐き気を堪えきれず、その場で激しく咳き込んだ。

「う、え……っ」

膝が笑う。
視界の端が暗く滲む。
指先から力が抜けていく。

今、何を見たのか。
頭では、わかってしまっている。
けれど心が、それを認めることを拒んでいた。

動機がない。
理由がない。
怒りも、悲しみも、歪んだ正義すらない。

ただ『殺せそうだったから殺した』。

そんな理解不能な理由で、同級生を三人も殺した。
そのうえで、真実を知った親たちの絶望を思い描いて、愉しんでいた。
麻酔で曖昧になった頭は自我の境界まで乱し、その感覚をこれまで以上に生々しく叩きつけてきた。』

安理の喉がひくりと震える。
そこにいたのは、追い詰められて壊れた人間ではなかった。
救いを求めて狂った人間でもない。

人の形をしているだけの、何かだ。

共感が届かない。
理解が届かない。
こちらの言葉も、祈りも、何ひとつ届かない場所に立っている怪物。

安理の顔色は、死人のように青ざめていた。
最悪の地獄を覗き込んだ者の顔だった。

その表情を見て、氷月は察したように目を細める。

「……ああ」

口元に、薄い笑みが浮かんだ。

「そういえば君には、過去を視る力もあったんだったか」

安理の肩がびくりと震える。
なぜそれを知っているのかという疑問と、平然としている相手への恐怖が、一気に押し寄せた。

「僕の過去を見たのかい?」

氷月は小首を傾げる。
まるで世間話の続きをするような口調だった。
その穏やかな所作が、かえって不気味だった。

「どうだった? 感想を聞かせてくれるかな」

読後の感想でも求めるような軽さで、氷月は言う。

安理は答えられない。

理解不能だった。
怖いというより先に、認識したくないものを認識してしまった恐怖があった。
けれど、それだけではない。

理解できないものへの恐怖。
認識してしまったことへの嫌悪。
そして何より――見たくないと、心の底から思ってしまった自分自身への嫌悪。

まただ、と安理は思った。

見たくないものから目を逸らしたい。
受け止めきれないものを、なかったことにしたい。
そうやって曖昧なままにして、自分の中で都合よく薄めて、その果てに何度も後悔してきた。

ちゃんと見なかった。
ちゃんと考えきれなかった。
その結果が、いつだって最悪の形で跳ね返ってきた。

「……っ」

安理は奥歯を噛みしめる。
吐き気で滲む口内に、血の味が混じった。

理解不能なものは恐ろしい。
昔から、ずっとそうだった。
他人がわからないことが怖かった。
自分と噛み合わない心が怖かった。

だから人と深く関わることを避け、自分の殻に閉じこもって生きてきた。

けれど、そんな生き方で苦しくないはずがない。
社会と折り合いをつけなければ、生きづらいに決まっている。
見ないふりをしたところで、自分が何者かという問いから逃げきれたことなど、一度もなかった。

この島に来て、たくさんの人に導かれてきた。
逃げるなと。
決めつけるなと。
自分の中を見ろと。

そうやって少しずつ、教えられてきた。

目を逸らしたままでは、いけないのだと。

まして、自分は探偵を目指している。
人の真実を暴き、隠されたものに手を伸ばす側でありたいと願っている。

ならば。

探偵を目指す者が、殺人鬼から目を逸らしてどうする。

探偵は、知らなければならない。
目の前の殺人鬼が、何者なのかを。
真実を知るために。

それを見ようとすることから逃げたら、自分はまた『怖かったから』『見たくなかったから』で思考を止める人間に戻ってしまう。
そんなのは、嫌だった。

震える指先を、安理はもう一度だけ持ち上げる。
腕は重く、指は氷のように冷えていた。
それでも、伸ばす。

「まだ……終わって、ない……!」

朦朧とする意識のまま、安理は再び氷月の過去へ触れた。
先ほどは意識が薄弱だったのもり共感できないものに共感しすぎた。
ブラックペンタゴンで受けたエンダの教えを思い返し、より奥に踏み込みながらも、他者と自己の境を間違えないように線を引く。

さらに深く。
断片の流れを追う。
その先にある真実を、無理やり手繰り寄せるように。

ぶつぶつと、古いテレビのチャンネルを回すように、視界が短く、激しく切り替わっていく。
ひとつの過去に焦点が合いきる前に、別の映像が割り込み、音が潰れ、輪郭が滲む。
安理はその濁流の中で、ただ必死に『今、必要なもの』だけを掴もうとした。


鉄格子の影が伸びる独房。
東京第1少年刑務所。

世界の変わる開闢の日。
GPAによって告知された、人類に革新を齎すというその日は、この刑務所にも平等に訪れていた。

囚人たちは両手両足をベッドへ拘束され、刑務官たちの監視下に置かれていた。
新たな力を得た囚人たちの暴動を警戒しての措置だ。
誰もが、自分の身に何が起きるのかを知らない。
変わった世界で、何が可能になり、何が壊れるのか。
誰にもわからなかった。

そして訪れる。
目に見えないウイルスが散布され、人類は別の生き物へ変化していく。

その瞬間、氷月にも脳の一部がどこかに繋がる感覚があった。
新しい腕が生えたような、臓器がひとつ増えたような、奇妙で生々しい拡張感。
世界のどこかと、自分の内側が接続されたような、不気味な感覚だった。

周囲から、戸惑いと恐慌の声が上がる。
氷月を監視していた看守も同様なのか、自らの変化に戸惑っているようだった。
その喧噪の中で、一人だけ騒ぐでもなく静かな氷月の視線が、ふと刑務官の首筋へ止まる。

拘束されたままでも、目の前の相手の殺し方がわかる。

看守に呼びかけ、近づいてきた喉元へ噛み付く手順。
ベッドの金具を外し、相手の眼球へ突き立てるまでの手順。

幾つもの最適なルートがナビゲーションされるように、鮮明に視界へ浮かび上がる。
まるで現実の風景の上へ、透明な赤い線で『ここを通れば死ぬ』と書き込まれていくように。

それは、ただ答えだった。

目の前の相手をどうすれば最も容易く、最も確実に、最も少ない手数で殺せるか。
その解法だけが、呼吸をするような自然さで脳裏へ流れ込んでくる。

ああ、人はこんなにも容易く死ぬ。
人間がその気になれば、人間を簡単に殺せる。
誰かがそうしないだけで、誰もがそうする権利を持っている。

人は誰でも『悪』を為せる生き物なのだ。

それは氷月にとって、驚愕ですらなかった。
むしろ、ずっと前から世界の方がそれを隠していただけで、彼はその幕を剥いだだけだ。
誰もが衝動を堪え、倫理を被り、秩序を演じているから見えないだけで、世界は初めから、こんなにも混沌と死に満ちている。

氷月の口元が、初めてわずかに歪む。

『そうか』

得心したような、静かな声だった。

『これが、僕の力か』

そこでまた、映像が乱れる。
ぶつり、と音が潰れ、場面がひび割れた。
もっと深い場所へチャンネルが合っていくように、独房の風景に、別の断片が割り込んでくる。


次の瞬間、浮かび上がったのは、薄暗く、無機質で、息の詰まるような閉鎖空間だった。
安理にも見覚えがある。ここはアビスの一室だ。
その部屋の中で、氷月が誰かと向かい合っていた。

相手の輪郭は曖昧だ。
顔は見えない。声も、どこかフィルター越しのように遠い。
だが、それでもわかる。
向かい合っている相手が、アビス側の人間であることだけは。

空気そのものが、そう告げていた。

どうやら氷月は、何らかの役目について話を受けている最中らしかった。
単なる呼び出しではない。
確認と説明。あるいは勧誘。
そうしたものの途中であることが、断片的な空気から伝わってくる。

[……氷月蓮]
『まだなにか?』

氷月の声音は、今と同じく静かだった。

[君はヴァイスマン直々の推薦だ。その意味が理解できているか?]
『もちろん。私の解釈が合っているなら――』

そこで、氷月はほんのわずかに口元を歪めた。
笑みというには薄すぎる。
だが、相手の思惑を先回りして言い当てること自体を、面白がっている気配があった。

『私の役割は潜伏と攪乱。それに――メッセンジャーだろう?』

わずかな沈黙。

[……何故、そう思う?]

問い返す声の奥に、ほんの僅かな硬さが混じる。
見透かされていることへの警戒か、それとも不快か。

『何故って、話の順序で明らかだろう? 台本を書いたのは看守長かな。彼と直接話が出来ればよかったのだけど』

氷月は肩を竦めるでもなく、ただ当然の帰結を述べるように続けた。
難解な謎を解いたというより、机の上に置かれたものを順番に数えただけ、という温度だった。

『内容の説明を先にして、その後に受けるかどうかの意思確認をするのは、どう考えてもおかしい。
 詳細を明かすのは、相手を引き込んだ後にすべきだ。
 断られた場合、ただの情報漏洩になる。君らはそんなに迂闊ではないはずだ』

相手を持ち上げるようでいて、逃げ道を塞いでいくような言葉運びだった。

『そもそも、拒否権があるのがおかしい。君らと僕らの立場は平等じゃない。
 本当に必要なら、この刑務作業に参加させるよう強制すればいいだけの話だ。
 つまり、君らにとってジョーカーへの勧誘は二の次なんだ』

氷月は、与えられる情報をただ受け取っているのではない。
与えられ方そのものから、相手の本音を逆算している。

『この席の主目的は、刑務内容の本当の目的を数名に伝えることにある。違うかな?
 もちろん、無差別に情報が拡散されることは望んでいない。そのための緘口令だ。
 重要なのは、情報を抱えた存在がその場にいること。必要なのは共有ではなく、配置だ。
 つまり君たちは、GPAとは違う別の目論見を――』
[そこまでだ!! それ以上の発言は許可しない]

鋭い制止が飛ぶ。

『そうだね。誰が見ているともわからない』

氷月はそこで初めて、ほんの少しだけ愉しげに笑った。

『僕に任されたジョーカーとしての役割は理解したさ。君たちの意図にも従おう』

役割を受け入れ従順さを見せる。
だが、この男はそんな殊勝な男ではない。

『――――僕なりの形でね』

命令を受け入れながら、その運用権は自分にあると言わんばかりの返答だった。

そこで、記憶は唐突に途切れた。


「――――はっ」

安理の意識が、夜の草原へと引き戻される。

喉が震える。
恐怖は消えない。
目の前の男が理解不能の怪物であることに、何ひとつ変わりはなかった。

それでも。
今、ようやく手がかりを掴んだ。

「この人は……運営側、の……ジョーカーだ!」

絞り出すような声で、安理は叫ぶ。
自分が見た真実をメリリンへ伝えるために。どうにかこの場へ繋ぐために。
氷月の瞳が、ほんのわずかに細まる。

「よく読み取ったね。ご褒美だ」

その一瞬。
安理の意識が過去視へ寄りすぎた、その隙を、氷月は見逃さなかった。
刃が閃く。

「っ――!」

遅れて痛みが来た。
安理の脇腹へ、ナイフが深く突き立っていた。
咄嗟に力を込め、防御態勢を取ったことで、龍人の分厚い筋肉が硬い盾となり、致命の角度は外れている。
それでも、熱いものが脇を伝い、焼けるような痛みが遅れて噴き出した。
ほんの一瞬、動きを止めるには十分すぎる痛みだった。

「アンリくん!」

メリリンが叫ぶ。
だが、氷月はもう安理を見ていなかった。

必要な一撃だけを入れ、その脇を抜け前へ出る。
最短の軌道で。
一直線に。

標的――メリリンへ向けて。

「……来る!」

メリリンは、わずかに残った数匹の蜂型機械兵を差し向ける。
だが、虫型は群体でこそ力を発揮する形態だ。
数匹だけでは牽制にも足りず、小さな蜂は氷月に払われ、容易く蹴散らされた。

それでいい、とメリリンは思う。
数秒でも稼げれば十分だった。
その間に、新たな『武器』を組み上げる。
そのための『素材』ならまだ残っている。

フルプレートアーマーの表面を、メリリンの超力が奔る。
胸部装甲、腕部装甲、肩の厚板が一斉に外れ、砕けるように再配置されていく。
前方へ収束した装甲が胸の前へ集まり、腕の延長として巨大な砲口めいた輪郭を形作った。

装甲収束砲。
重厚な火力を即席で捻り出す、迎撃のための背水兵装。
防御を捨て、その全てを一撃に注ぎ込む形だった。

「止まれッ……!」

メリリンが吼える。
収束砲の砲口が唸りを上げ、眩い火花とともに衝撃が迸った。
火薬ではない。構造そのものに仕込まれた機構によって、一発限りの砲弾が撃ち出される。
圧縮された装甲片の奔流が、至近距離で氷月へ叩きつけられた。

遅い、と氷月は思う。

砲弾の速度が、ではない。
その判断が、だ。

切り札は追い詰められてから切るものではない。
本来なら、初手から全火力を叩き込み、突破口を無理やり押し広げるべきだった。

けれど彼女たちは戦士ではない。
技術者と、ただの少年。
だからこそ、その勝負勘がなく、切り札を最後まで温存してしまった。

氷月は身を沈めるようにして、至近距離から放たれた砲撃の軌道をやり過ごす。
直撃は逸れ、砲弾は肩口を掠めながら背後の草原を穿った。
遅れて大地が抉れ、土と火花が夜空へ跳ね上がる。

武器の選択もまた誤りだ。
一撃で仕留めることを想定した大火力なのだろうが、この距離では近すぎる。
今必要なのは大砲ではなく、散弾のように面で殺せる武器だった。

氷月は止まらない。

月光を裂き、草を踏み、一直線にメリリンの懐へ届く。
対応しようにも、大口径兵装は振り回すには重すぎた。
距離を潰された大火力兵器をどう扱えばいいのか、その身体が理解していない。

氷月の手の中で、ナイフが振り上がる。

狙いは喉。
装甲収束砲へ組み替えたことで薄くなった防御の隙間へ、吸い込まれるように最短の線が描かれる。
死を覚悟し、メリリンは歯を食いしばった。

だが、その瞬間。

横合いから、巨体が割り込んだ。

「ッ――メリリン、さんッ!!」

安理だ。
麻酔で揺らぐ意識を、脇腹を裂かれた痛みで無理やり繋ぎ止める。
必死で駆け出した彼は、メリリンを庇うために身体を投げ出した。
躊躇はない。考えるより先に、その身が動いていた。

それを見た氷月の瞳が、静かに細まる。

そして、くるり、と。
あまりにも自然に、ナイフの軌道が切り替わった。

否。切り替わったのではない。

最初から、こちらが本命だった。

これこそが『殺人の資格』が導き出した、『北鈴安理』殺害の最適解だった。

氷月の標的はメリリンだ。
だが、それを実行するために障壁となる龍人は邪魔だった。
まずは邪魔者を一つずつ排除する。

だから、この瞬間を待っていた。

「――――ッ」

無防備となった龍人の胸板へ、ナイフが通る。
筋肉の重なりの薄い一点。骨格の隙間。心臓へ届く、最も通りやすい角度。

龍人であっても致命となる、たった一本の線。

そこへ、氷月は迷いなく刃を差し込んだ。

ぐぶり、と。

嫌な手応えが夜に沈む。
安理の身体が、びくりと震えた。

「……あ」

掠れた、幼い声だった。

刺されたのは左胸。
筋肉と肋骨の隙間を澄まし通り、刃は心臓に届いている。
どう考えても、助かりようのない致命傷だった。

「アンリくん――――!!」

悲鳴に近い声が迸る。

安理の口元から、赤黒い血が溢れた。
どくどくと、内部から逆流するように。
ナイフが引き抜かれ、噴き出した血が冷気に触れた端から凍りつき、細かな赤い雪となって降り注ぐ。
痛ましいはずの光景は、どこか歪んだ芸術作品のようだった。

殺人鬼は振り返る。

あとは赤子の手をひねるようなものだ。
残るのは、武器の大半を失った技術者ひとり。
氷月はメリリンの死を視つめる。
何十通りもの最適解が脳裏に浮かび、その中からどれを選ぶか静かに思案する。

だが、その手が横から掴まれた。

「……まだ、だ」

血を吐きながら、安理が呻く。

龍族の生命力。
常人なら即死している一撃を、安理はまだ耐えていた。

見れば、刺し貫かれた傷口からの出血は、ほとんど広がっていない。
心臓の周囲へ冷気を流し込み、破れた箇所を凍らせて無理やり止血していた。
正気の治療ではない。そんな余裕はない。
ただ、血の流出を一秒でも遅らせるための、無茶な延命だった。

氷月は、ほんの一瞬だけ眉を動かす。

即死しないのは、さすがに龍種と言うべきか。
だがこの生存は一時的なものに過ぎない。
龍であろうと心臓を刺されて生き延びられるはずがない。
少年の死は確定している。後は、僅かな猶予が残っているだけだ。

「離してくれないか」
「……いや、だ」

掠れた声だった。
喉に血が絡み、ひどく情けない音になっている。
けれど、その答えだけは驚くほどはっきりしていた。

「離したら……あなたは、メリリンさんを殺す」

氷月は答えない。
答える必要もない、という沈黙だった。
その無言が、肯定の代わりだった。

「メリリンさん……!」

呼びかける声に、メリリンの肩が揺れる。
彼女はまだ動けずにいた。
見捨てるかどうかではない。どうすれば二人とも生きられるかを、本気で考えてくれている。

その優しさを、安理はもう知っている。
だからこそ、今度は自分が押し返さなければならなかった。

「行って、ください……!」

安理は息を吸う。
胸が焼ける。肺が軋む。
喋るたびに血が込み上げてくる。
それでも、声を絞り出した。

「こいつは……ボクが食い止めますから…………っ!」

その言葉は、夜の草原に静かに落ちた。

「けど…………っ」

メリリンの唇が、言葉を失ったように震える。
ジェーンに、サリヤに、エンダ。そして安理に。
命を懸けて送り出されることへ、彼女は強い罪悪感を抱いていた。

だが、それは違う。
安理自身も抱えていた、見当違いな思い違いだ。

「これは、ボクが自分で選んだことだ……!
 あなたを灯台へ行かせるって、そう、自分で決めた……!」

イグナシオが言っていた。
命に価値などないのだと。
生き残るべき命があるのではなく、生き残った命があるだけなのだと。

だったら、自分の命も、メリリンの命も、軽い重いで比べるものじゃない。
ならば今、自分はただ選べばいい。
誰のために、自分のために、どう使うのかを。

それが、イグナシオに送り出された自分の答えだった。
そして今、自分はその背中を押す側に立つ。

「灯台へ行って、見つけてください。
 真実でも、希望でも、脱獄の道でも……何でもいい。ここで終わらせないでください」

そこで安理は、一度だけ咳き込んだ。
血が唇の端から零れる。
それでも、最後に思い出したように言葉を継ぎ足す。

「それと……アビスは、GPAとは違う狙いを持ってる……
 詳しくは、まだ掴みきれない……けど……運営の思惑は、一つじゃない……!
 灯台に行けば……その答えに、届くかも……しれない……!」

メリリンの目が、大きく見開かれる。
灯台へ向かわねばならない理由が、また一つ増えた。
それはもはや脱獄のためだけではない。
この刑務そのものの裏側に触れるための道でもあった。

安理は、最後にもっと強く言った。

「だからこれは、ボクの我儘なんです……だから……ッ!」

そう言って、笑おうとした。

うまく笑えたかは分からない。
顔は血と汗でぐしゃぐしゃで、とても格好いい顔ではないだろう。
それでも少なくとも、前みたいな泣き顔ではなかった。

氷月が、絡みつく腕を外そうと静かに力を込める。
時間がない。もう、本当に残されていない。
安理は近づく死の気配を感じながら、最後の力で叫んだ。

「行ってッ!!」

その声は誰かの背を先へ押し出すための、送り火のような叫びだった。
その一言が、ついにメリリンの迷いを断ち切る。

彼女の目から、躊躇が消えた。
悲しみも、怒りも、何もかも残ったまま。
それでも前を向く者の目になる。

「……絶対、無駄にしない」

掠れた声で、メリリンはそれだけを返した。

それから踵を返し、駆け出す。
この場で自分の覚悟を受け取ったからこその速さだった。

装甲をその場に置き去りにし、身軽になったメリリンは灯台の方角へ走る。
禁止エリアへ向けて、まだ続くその先へ。
託されたものを繋ぐために。

安理はその背を見送る。
これは置いていかれたのではない。
送り出したのだ。

それだけで、不思議と胸の奥にあった冷たい穴が、ほんの少しだけ違うものへ変わる気がした。
喉の奥へ込み上げる血を、安理は無理やり嚥下した。

草原に取り残される二人。
致命傷を負った少年と、殺人鬼。
月はなお白く、静かにその場を照らしていた。

呼吸をするたび、胸の奥で泡立つような嫌な音が鳴る。
心臓を刺されている。
もう助からない。

その事実だけは、妙に澄んだ形で理解できていた。
それでも安理は、氷月へしがみつく腕を緩めなかった。

氷月もまた、逃げていく標的――メリリンの背を一瞬だけ追う。
だが振り払う事も出来ず、拘束されている事実を認め。
すぐに視線を切り替え、自らの腕を掴む龍人の少年を見下ろした。

「君はもう死ぬ。こんな悪あがきに、何の意味がある」

氷月の声は静かだった。
苛立ちも焦りも、まだ表には滲ませていない。
安理は血に濡れた唇を震わせ、どうにか息を絞り出す。

「……そうだ、ボクは死ぬ」

覆しようのない真実だった。
声はすでに血泡に混じり、ひどく掠れている。
それでも、その目だけはまだ死んでいなかった。

「――――だからこそ、できることがある」

安理の脳裏に、過去視で掠め取った情報が蘇る。

『殺人の資格(マーダー・ライセンス)』。

人を殺すための経路。
人を殺すための角度。
人を殺すための順番。
相手をどう殺すか、その最適解を見る力。

だがそれは裏を返せば、殺す必要のある相手に働く力である。

今の安理は、違う。
心臓を刺された安理は、放っておいても死ぬ存在だ。

今の安理は、死にかけているからこそ。
もう終わる存在だからこそ。

この瞬間、氷月にとって安理は『殺すべき対象』ではない。

安理は知っている。
死してなお、世界へ爪痕を残す存在を。
死してなお、自由であり続けた圧倒的な強者を。
条理そのものを踏み砕く、あの『Desastre』の在り方を。

ならば、やることは決まっていた。

死人が動けないと、誰が決めた。

「ボクが、お前の『災害』だ――――!」

世界を変えるような大業はできなくとも。
冷徹で完璧な殺人鬼の最適解を乱す不条理として。

少年は、災害となる。

――――大金卸のように、力強く。

命を振り絞るように、安理はさらに力を込めた。
龍人の膂力が氷月の腕を締め上げ、骨の軋む感触が掌に返る。

痛みからか、氷月がわずかに眉を顰めた。

だが氷月は、掴まれていない側の手に握ったナイフで、安理の指へ斬りつける。
指先が裂け、鋭い痛みが奔る。
それでも安理は離さない。
ここで離せば、全部が終わると分かっていた。

肉厚な龍人の指は、ちゃちなナイフで容易く切り落とせるものではない。
『殺人の資格』の導線に乗らない、ただの切り傷など脅威ではない。

だが、氷月の狙いはそこではなかった。
切り裂かれた指先から血が流れる。
その血の滑りを利用し、拘束を抜けるつもりだ。

――――イグナシオのように、冷静に。

安理は即座に冷気を流し込んだ。
慌てることなくその狙いを読み切っていた。
傷口から溢れる血液を、自分の手ごと凍らせる。
赤い氷が絡みつき、氷月の腕と安理の腕を、まるで手錠のように固定した。

氷月の表情が、初めて明確に険しくなる。
氷月は腰を落とし、張りついた皮膚ごと引き剥がすつもりで力を込めた。
ならばそれ以上に、食らいつくしかない。

氷月はナイフを手当たり次第に突き立ててくる。
腕を、脇腹を、肩口を。
だが硬い鱗に弾かれ、ついに刃が悲鳴を上げた。
金属音とともに、ナイフが途中から折れる。

「……っ、ああああああッ!!」

血を吐きながら、安理が吼える。
死にかけの身体をなお前へ押し出す。

その咆哮に重なるように、龍人の牙が剥き出しになった。
喉の奥から迸るのは、怒りだけではない。
怖さも、痛みも、悔しさも、全部混ざった絶叫だった。

――――ローズのように、超激情!!

氷月の首筋へ、安理は喰らいつく。

氷月は咄嗟に身を捻った。
喉笛を食い千切られるのだけは、辛うじて避ける。

だが、完全には避けきれない。
龍の牙が、首の横へ深々と突き刺さった。

しかし、氷月は咄嗟に、先ほど海水を撒くのに使った空き缶を安理の口へ差し込んでいた。
噛み込みを少しでも浅くし、喉笛への到達を防ぐための、苦し紛れの防御。

だが、それでも安理は止まらない。
口を開けば敵を逃す。
ならば缶ごと、噛み潰すまで。

「ッ……!」

さしもの氷月も、そこで息を乱した。

ごりごり、と嫌な音が鳴る。
金属が軋み、牙がさらに食い込む。
氷月は首元を庇いながら、これまでにない必死さで肘と膝を打ち込み始めた。
策も技術もない。力任せに引き剥がそうとしているだけだ。

それでも龍人の少年は、狂ったように離れない。
安理はなおも食い下がる。
死にかけの身体で、ありったけを叩き込む。

「ぐぅぅぅぅううう!!」

どちらの声とも分からぬ唸りが響く。

もはや華麗さの欠片もない。
泥と血に塗れた、無様な組み合いだった。

牙は、じわじわと食い込んでいく。
だが同時に、安理の限界も近づいていた。

もう感覚が薄い。
冷たいのか熱いのかも分からない。
身体のどこまでが自分のものなのか、輪郭が曖昧になっていく。
視界の端が暗い。

命の灯が尽きかけているのを、安理自身もう分かっていた。
それでも、その最後の明るさを、ただ一度だけ誰かの進路のために燃やし尽くそうとしていた。

離すな。
今、離したら、全部が終わる。
その思いだけで、もう意識のほとんどを繋いでいた。

胸の奥で、何かが限界を迎えつつあるのが分かる。
凍らせていた心臓が、もう持たない。
冷気で無理やり縫い留めていた命綱が、音を立てて千切れかけている。

それでも安理は、最後まで噛み砕こうとした。
血の味も、鉄の味も、自分のものか相手のものか分からないまま、ただ顎に力を込め続けた。

ぶちり、と。
生々しい断裂音がした。

それと同時に、安理の中で何かが完全に切れた。
全身から、力が抜ける。
今まで自分を支えていたものが、一斉に遠のいていく。

安理の身体が、氷月へもたれかかるように傾いた。
龍人の爪が地面を掻き、最後に小さく土を抉る。

ほんの一瞬だけ、指先が草を掴もうとする。
まだ終わりたくないとでも言うように。
だが、そのわずかな動きも、次にはもう続かない。

月光の下、伏した横顔から血が細く流れていく。
口元は微かに開いたまま、もう声を作ることはない。
見開かれていた瞳も、次第に焦点を失っていく。

身体がゆっくりと草の上へ崩れ落ちた。
そこで、ようやく完全に動きが止まった。

それはあまりにも静かな終わりだった。
さっきまで必死にしがみついていた熱も、吼えていた声も、もうそこにはない。
ただ、北鈴安理という一人の少年が、命を使い切って倒れている。
その事実だけが、冷たく草原に残された。

夜風だけが、草を揺らした。
安理が倒れ、首に刺さっていた牙が赤い糸を引きながら外れる。

瞬間――氷月の頸動脈から、血が噴き出した。

温かな血潮が首元から一気に溢れ、周囲の草を赤に染めていく。

氷月は数歩よろめき、首元を押さえて膝をつく。
圧迫による止血を試みるが、指の隙間からなお血が溢れ続ける。
脈打つような出血。
放置すれば、自分も長くはもたない。

「…………治療……キットだ。転送、しろ」

掠れた声で、デジタルウォッチへ告げる。
だが、すぐには反応がない。

氷月の眉間に、初めて露骨な苛立ちが走った。

「ッ…………早くしろッ!」

掠れた怒声が、夜の草原を切り裂く。

その催促でようやく、空間が歪んだ。
小さな転送の光が生まれ、治療キットが地面へ落ちる。

傷口を抑えながら氷月は即座にそれを開いた。
最新鋭の治療キットで首筋の裂傷へ手早く処置を施し、圧迫して血を止める。
乱れた呼吸の合間に増血剤を打ち込み、失われた血液を補う。

これで、麻酔銃と合わせて特権ポイントは完全に枯渇した。
安理の首輪は解除されているため新たにポイントを手に入れる事も出来ない。大損だ。

眩暈は消えず、世界がわずかに傾いている。
立ち上がるだけで、視界が暗くなる。
だが、何とか命は繋げた。

氷月は荒い息のまま、デジタルウォッチを起動した。
標的の座標を確認する。

メリリン・"メカーニカ"・ミリアン。

その反応は、すでに禁止エリアへ到達していた。
本来、囚人たちを閉じ込める致死領域。
だが、今のメリリンにとっては追撃不能の安全圏となっている。

ジョーカーといえど、首輪に縛られる氷月には追うことができない。

取り逃がした。
任務は、失敗だ。

氷月は無言のまま、その表示を見つめる。
首元を押さえる手に、わずかに力がこもる。

「……わかっているさ。このままでは終わらない」

独り言のように呟く。

メリリンが危険なのは、首輪の解除という秩序破壊を実行できるからだ。
だがその価値は、他の受刑者へ届いてこそ意味を持つ。

灯台で何をしようというのかは知らない。
だが何を知ろうと、どんな可能性を得ようと、それを一人で抱えたままなら、まだ盤面は壊れない。

その成果を持ち帰り、他者と接触するために彼女が禁止エリアから出る時は、必ず来る。
その瞬間、位置情報を追っている自分なら、今度こそ仕留められる。

既にジョーカーとして事前に定められたノルマは達成した。
このまま生き延びるだけで、氷月は恩赦される。

だが、これで終わる話ではない。
終わらせるつもりもない。

ここから先はジョーカーの任務も関係がない。
殺人鬼としての矜持が取り逃した獲物を許さない。
メリリンを逃すつもりはない。

氷月はゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、夜に浮かぶように灯台が見える。
いずれにせよ今すぐには動けない。
今は休息の時だ。

「次は、終わらせる」

静かな誓いだけが、夜の草原へ落ちた。
その視界にあるのは、獲物の位置と、仕留めるための手順だけだった。
誰かを送るための灯など、そこにはひとつもない。

氷のような月は変わらず白く、何も答えず、ただ全てを照らしていた。

【北鈴 安理 死亡】

【B-2/草原/一日目・夜中】
【氷月 蓮】
[状態]:出血多量(増血中)、首に重症(治療済み)、左腕に凍傷、超力『殺人の資格(75%)』
[道具]:Tシャツ、フォーク2本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ、ロープ(使い古し)、ワイヤレスマイク、通信機、麻酔銃、治療キット
[恩赦P]:0pt(残り特権0p、麻酔銃:-15pt、治療キット:-50pt)
[方針]
基本.殺す。其の為に生きて、其の為に死ぬ。
0.身を休めて回復
1.メリリンを殺害する。

※ジョーカーの役割を引き受けました。
 恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
 デジタルウォッチに全ての参加者の位置情報が表示されます。
 また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成済)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。(達成済)


灯台の灯が、ようやく目の前まで来ていた。
そこへ辿り着いた時、メリリンはようやく、自分の呼吸がどれほど乱れているのかを思い出した。

肺は焼けつくように痛い。
喉は裂けたように熱く、脚は鉛を流し込まれたみたいに重い。
それでも、止まらなかった。止まれなかった。
草を踏み、石を蹴り、月光に白く浮かぶ灯台だけを見つめて、ただそこへ向かって走り続けた。

背後を振り返る余裕は、もうなかった。
振り返ってしまえば、きっと足が止まる。
止まった瞬間、胸の奥へ無理やり押し込めていたものが一気に溢れ出し、二度と前へ進めなくなる気がした。

だからメリリンは、歯を食いしばったまま走った。
自分をここまで押し出してくれた、幾つもの背中に縋るように。

多くの人間が、彼女の背を押してくれた。
誰か一人でも欠けていたなら、ここには来られなかっただろう。

誰もが、それぞれ違う形で火を遺した。
燃え尽きるように散った者も、静かに熱だけを残した者もいる。
その小さな灯の連なりに送られて、メリリンはようやくここまで来たのだ。

ようやく灯台の根元へ辿り着いた時、メリリンはその場に膝をついた。
荒い呼吸が、白く夜へ溶けていく。
肩が大きく上下し、心臓が嫌になるほど速く脈打っていた。

灯台は、静かだった。

禁止エリアの内側。
本来なら受刑者を拒絶するはずの死地。
けれど今のメリリンにとって、その沈黙はむしろ奇妙な安堵をもたらした。

ようやく、追ってこられない場所まで来た。
ようやく、ほんの僅かだけ息をついていい。
そんな実感が、遅れて胸の奥へ染み込んでくる。

だが、その安堵はすぐに別の熱へと塗り替わった。

「……っ」

胸元で、小さな熱が灯る。

メリリンははっとして、服の内側へ手を差し入れた。
指先が触れたのは、流れ星のアクセサリー。
サリヤの亡骸から回収した、あの小さな形見だった。

冷たいはずの金属が、今は微かに熱を帯びている。
脈打つように、淡く、けれど確かに。

これはただの熱ではない。

この耳飾りは、サリヤの理論を受けて、メリリンが形にしたものだ。
それが何を意味するのかは、他でもないメリリン自身が一番よく分かっていた。

魂を収集し、超力を記録する。
シエンシアの研究していた物とは違う。
サリヤの提案した別アプローチによる『システムC』のプロトタイプのようなものだ、

人の魂が、何かの形で触れた時にだけ生まれる、あの曖昧で、それでいて確かな手触り。
理屈だけでは説明しきれないくせに、間違いようのない感覚。

流れ星の先端が、ほのかな光を宿す。
それは月光を反射しただけの輝きではなかった。
内側から、じわりと灯った光だった。

その瞬間、メリリンの脳裏へ、たったひとつの確信が落ちてくる。

「……アンリくん」

声に出した瞬間、熱がまるで返事のようにほんの少しだけ強まった。
それはまるで残された者を先へ送るための、小さな送り火のようだ。

かつて辿り着けなかった約束の場所へ。
北鈴安理という少年の魂が、今まさに辿り着いたのだと。
そう理解した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

メリリンはアクセサリーを強く握り締める。
流れ星のアクセサリーは熱を帯びたまま、かすかに震えていた。
サリヤの形見であるはずのそれに、今は安理の残響が重なっている。

喪った者たちの想いが、奇妙な形でひとつに束ねられていく。

サリヤが遺したもの。
安理が託したもの。
その両方が、今のメリリンの手の中にある。

それは偶然ではないのかもしれない、と彼女は思う。
ここまで幾つもの縁と死と選択が絡まり合ってきた以上、もうただの偶然と言い切るには、あまりにも出来すぎていた。

メリリンはゆっくりと立ち上がった。
脚はまだ震えている。
胸の奥には、喪失の痛みが焼きついたままだ。
それでも、手の中の熱が彼女を立たせた。

まだ入口に辿り着いたにすぎない。
本番は、これからだ。

灯台の白壁が、月光を受けて青く光る。
その入口は、夜の奥へぽっかりと口を開けていた。
真実があるのか、希望があるのか、脱獄の道があるのか――まだ分からない。

それでも、多くの願いに背を押されて、ようやくここまで来たのだ。
メリリンは熱を宿した流れ星のアクセサリーを、そっと胸元へ押し当てた。

それは死者を悼むためだけの火ではない。
サリヤから。安理から。幾つもの想いから手渡された、先へ進むための灯だ。
メリリンはその熱を胸に抱いたまま、灯台の闇へ向き直った。

「行こう」

それが誰への言葉なのか、自分でも分からなかった。
サリヤへか。
安理へか。
それとも、自分自身へか。

答えはない。
けれど今は、それでよかった。

メリリンは灯台の闇へ向き直る。
その胸には、流れ星の熱。
その手には、託された力。
その背には、もう数え切れないほどの想いが重なっている。

そして彼女は、一歩を踏み出した。

【A-1/灯台/一日目・夜中】
【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(小)、薄黄色のボイラースーツ、帽子とゴーグル、流れ星のアクセサリー(R)、首輪解除
[道具]:デジタルウォッチ、銀鈴・宮本麻衣・ドンの首輪(使用済み)、ジェーンの首輪(未使用)、北鈴安理の首輪(解除済み)、デイパック(催涙弾×2、食料一食分)
[恩赦P]:50pt
[方針]
基本.ローマンと共に、生き延びる。
1.「灯台」を調査する。“サリヤ”に手を貸す。

※サリヤ・K・レストマンの遺体から「流れ星のアクセサリー(R)」を中心とする物資を回収しました。
北鈴 安理の魂を回収し過去視の超力を使用可能です。
※大金卸 樹魂の破損した首輪の解析、および超力第二段階への覚醒によって、首輪を解除しました。
他の受刑者の首輪も同様に解除できるようになりました。
※超力の第二段階に至った『到達者(プレシード)』です。
形ある無機物に対する極めて高度な解析・改造を行う超力『鼓動を打て、機械仕掛けの魂(コラソン・デ・イェロ)』が使用可能です。

159.パッション 投下順で読む 161.自由
時系列順で読む
1%の殺意 氷月 蓮 魂の冒涜者
Liberty or Death メリリン・"メカーニカ"・ミリアン 結び目
北鈴 安理 懲罰執行

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最終更新:2026年05月20日 09:56