22-723「アンダー・グラス・ラブソング」-4

10「柔らかな関係」


 部室のある旧校舎の階段を一歩一歩かみ締めるように上っていった。今にも雨になりそうな湿気を帯びた空気と木造校舎にはどこか懐かしい匂いがした。
「どいつもこいつも好き放題言いやがって」
 誰にともなく俺は独り言を呟いた。ため息をつきながら、前かがみにゆっくりと階段を上っていった。コバルト色の空を映す窓ガラス。階段を上りきって、廊下の先を見渡すと、そこに見慣れた影があった。

 廊下の先、そこには文芸部室と書かれた表札の上にSOS団と乱暴な字で書かれた張り紙。その張り紙の下にある扉の前で、鞄を肩に掛けた女子生徒がドアのノブを握ろうとしては、また思い直したように手を離すという行為を繰り返していた。うつむき加減で真剣な表情で何かをぶつぶつ言いながら、手を伸ばそうとしてはそれを落ち着きなく引っ込めていた。
「……何をやってるんだ、ハルヒ」
「うおわ!」
 驚かすつもりは毛頭なかったのだが、ハルヒの奴はなんとも形容しがたい驚愕の声を上げて俺のほうを振り向くと、口を開けて両手を小さく万歳した。ハルヒは俺が背後に接近したことにも気付かずにいたみたいだった。
 普段なら中で何が起こっていようが全くお構いなしに、なんの気兼ねもなくドアを開くくせに、今日はいったい何をやっているんだか。
「あ、あっ、えーっと」
 ハルヒの奴は必死に何かをしゃべろうとしていたが、全く言葉にならないみたいだった。
「何やってんだ。自分の部室の前で」
「な、何やってんだじゃないわよ!」
 ハルヒは腰に手を当てて、ふてくされるように叫んだ。ようやくいつもの調子に戻ってきたらしい。
「あんた、先に教室出て行ったくせに、なんであたしより来るのが遅いのよ! てっきり中にもういるものだと思っていたのに!」
「いや、ちょっと野暮用があってな。それ以前に俺が中にいると入り辛いことでもあるのか?」
「べ、別に、そんなじゃないわよ。そ、あの、静電気。そう、静電気がビリってくるから、ドアノブをね」
 わかったわかった。
 このままハルヒをからかってやるのも面白そうだったが、古泉からの言葉もある。さっさと解くべき誤解は解こう。さて、問題はどういう風にして話を切り出すか、だ。
「そうだ、ちょうどよかったハルヒ。少し相談したいことがあるんだ」
「はぁ? いきなり何よ?」
 ハルヒは器用に口の片方を吊り上げていた。そんなにわざと憎憎しげに悪態をつくなよ。
「いや、言葉どおりなんだが?」
 アヒルみたいに口を尖らせて、俺の目をうさんくさそうに睨み付けてくる。うまくどさくさハプニングに紛れて、話すきっかけをつかめたのはいいが、これはこれで苦労させられそうだ。まぁ、午前中のあの不機嫌さを思えばまだマシか。
「何の相談よ」
 しばらくのにらみ合いのあと、根負けするようにハルヒが発した言葉はそれだった。
 ここでどう答えるか。一番重要なとこだ。
「俺の中学時代の友達――佐々木について、なんだが」
 俺がそう答えるやいなや、ハルヒはすぐに首を90度回頭させ
「……そんなのあたしには関係ない」
 そう来たか。
「関係ない、って相談を持ちかけようとしてるのは俺だ」
 ハルヒは何も答えない。黙ったまま、視線を少し下に落とした。
 俺はかまわずに話を続けた。
「佐々木が高校でいじめに遭っているらしいんだ」
 ハルヒの目が驚きの色に染まって俺を見つめてきた。
 俺の選んだ答え。それはハルヒに対して、今の俺自身の考えをそのまま打ち明けることだった。嘘やごまかしなんかよりもそうするのが一番いい、そう思った。

「で、一体どういうことなのよ」
「簡単に説明するとだな――」
 俺はハルヒと二人で公園に来ていた。
 佐々木についての相談、を切り出したとき、ハルヒはそういうプライベートな話題は人がいない場所のほうがいいと言い出し、俺たちは学校の帰り道にハルヒと近くの公園に寄って話をすることにした。
「ふーん、いじめって言うよりはただのいやがらせね」
 そう言いながらハルヒは手に持った果汁100%ジュースを一口飲んだ。もちろん、そのジュースは俺が奢らせられたものだ。まぁ、この場合は俺が言い出したことだから仕方がないか。
 いつだったか、長門から例の電波話を聞いたベンチに俺とハルヒは二人並んで座っていた。
「まぁ、そういうことだな」
「大体事情は把握したわ」
 そりゃ、よかった。
 今にも雨が降りそうな空だが、まだなんとか天気は崩れずにすんでいた。夕方の公園からは公園で遊んでいた子供も家に帰り、不思議な静けさが漂っていた。そしてカチカチと音を立てて公園の街頭に電気が付いた。
 もう6時か。
「それであんたは日曜日に佐々木さんと会っていたわけ?」
「あぁ」
「で、なんか進展はあったわけ?」
「なんも。結局うまくはぐらかされた気がする」
「はっきり言えばいいじゃない。意気地なし」
「言えるわけないだろ。お前いじめに遭っているらしいな、なんて。そもそも誰から聞いたんだよ、って話だしな」
 誰から聞いたんだよ、なんて言い出すとなぜハルヒが佐々木と日曜日に会っていたことを知っているのか、というところに突っ込みたい気もしたがやめておいた。
「がつんと言ってやればいいじゃないのよ」
「あのなぁ」
 そう返答しつつも、俺はハルヒがこの一件の相談役としてふさわしい存在なのではないかと思い始めていた。谷口が言うにはハルヒも中学時代は同じように孤立していたらしい。ならば、そこから何かいいアイデアやアドバイスを聞きだせるはずだ。
「お前、なんかいいアイデアないか?」
「何よ。お姫様の騎士を気取って意気揚々と出て行ったくせに最後は人任せ?」
「誰もそんなものは気取っていない。ただ、中学時代の友達が心配だっただけだ」
 ふーん、とハルヒは軽く鼻を鳴らすと
「そうね。あたしが佐々木さんの立場だったら、そういうしょーもないいやがらせをしてくる連中は片っ端からぶっとばしてやるわ」
 前言撤回、俺は相談する人間を間違えた。
「それのどこが解決法だ」
「だって許せないんだもん。そういうのは」
 俺は大きくため息をついた。ハルヒは俺の反応を不満げな表情で口を尖らせながら見ていた。
「なによ。アドバイスしてあげたじゃないのよ」
「とりあえずこういう問題の解決が非常に難しいということがわかった、という点で感謝する」
「人に相談しといてあんたそんなこと言うわけ?」
「ありがとうございます」
「気持ちがこもってないわよ」
 ハルヒのご機嫌取りは大変だ。トップギアとローギアしかないような奴だからな。
 俺はベンチに深く腰掛けると何気なく空を見上げた。鉛色の雲が今にも落ちてきそうに重苦しくのしかかっていた。
「でも、佐々木さんもかわいそうよね」
「そうだな」
「そういう意味じゃなくて」
 あきれ返るようなハルヒの口調。じゃあどういう意味なんだ。
「あんたみたいなのと恋人同士なんて噂を流されちゃうこと」
「だったら、俺もかわいそうじゃないのか?」
「あんたは別にどうでもいいのよ」
 言ってくれるな。まぁ、ハルヒの誤解は解けたみたいだし、それはそれでよかったが。
「公園で話していただけなのに付き合っているって勘違いするなんて、うちのクラスの連中はまったくどうかしてるわ」
「それについては同感だ。こんな風にベンチに座って話をしていただけなのに、それが端からは恋人同士に見えるなんてな」
 そう俺が言ったとたん、隣に座っていたハルヒは寝坊した学生がベッドから飛び起きるように立ち上がった。
「な、どうしたんだよ?」
「帰るわよ、キョン!」
 一体突然どうしたんだよ、お前は?
「ちょ、待てよ。何をいきなり」
 そう言いながら俺は慌てて立ち上がり軽く走ってハルヒに追いついた。
「ちょっと、そんなにベタベタ近づかないでよ。もう少し距離をとりなさいよ」
「なんだよ、そりゃ」
 反論する俺を無視してハルヒは大股でずんずん進んでいった。
 やれやれ、俺はため息をついて少し前を歩くハルヒの後を付いていった。
 うまくいっていたと思うのに、俺は何かハルヒを怒らせるようなことを言ったか? そう自問自答しても思い当たる答えはなかった。
 ただ、なんとなく表面上だけ怒って見せているような気がしたが。



11「エマージェンシー!エマージェンシー!」


「感謝しますよ」
「そりゃどうも」
 5月下旬の昼休み。俺は古泉と中庭にいた。
「あのときのような大規模閉鎖空間の発生はなかったようですから、一安心です。もっとも、我々にはこの世界がつい1秒前に始まっていたとしても、それを証明する術を持たないのでなんとも言えないというのが現実ですけど」
 相変わらず古泉の顔に貼り付けたような微笑はその奥の感情を読ませない。
 俺の胡散臭そうな視線に気がついたのか、古泉は軽く苦笑いすると
「これで無事全て解決、と行くといいですね」
「まったくだ」
 もっともらしく俺は頷いてみせた。
「本音を言うと、僕としてはこんな曲芸的な綱渡りは勘弁して欲しいのですけれどもね」
「曲芸的な綱渡り?」
「ヤジロベーですよ。涼宮さんと佐々木さんを両端にぶら下げた」
「バカなことを言ってる暇があるんだったら、バイトに精でも出せよ」
 俺は右手を払って、古泉を軽くいなしてやると、空を見上げた。相変わらずの曇り空だった。

 まだ昼休みは終わっていなかったが、古泉との会話を軽く切り上げて教室に戻った。人の噂もなんとやらと言うが、俺とハルヒが普段どおりに会話しているのを見て、例の変な噂はたちまち消え、今ではもうほとんど聞かれることはなくなっていた。
「お前どこ行っていたんだ?」
 谷口が弁当をほおばりながら、右手に持った箸を軽く振って、席に着いた俺にそう尋ねてきた。
「ちょっと野暮用だ」
「涼宮さんと仲直りできたみたいでよかったね」
 国木田がにこやかに微笑みながらそう話しかけてきた。
「仲直りもなにもケンカした覚えがない」
「でも、涼宮さんキョンのことを随分不機嫌な目でみていたじゃないか」
「あいつが不機嫌なのはいつものことだ。いちいち取り合っていたらきりがない」
「まぁ、ケンカするほど仲がいいって言うしな」
 なぁ谷口、お前俺の話を聞いていたか。
「なにはともあれよかったよ、キョン」
「……そうだな」
 よかった、か。確かに状況は悪くはなっていないだろう。なんだかんだ言っても、周りのくだらない誤解は解けたみたいだしな。
 もっとも、肝心の問題はまだ何も解決していないけれども。
 そうしてほんの少しだけ、俺は安心していた。
 そして、その安心が喧騒と共に派手に打ち破られることになろうとは、そのときは想像すらしていなかった。

 放課後になると同時に俺は席を立って部室へと向かおうとした。もはや、この習慣はパブロフの犬並みに俺に染み付いてしまっているものだった。
「うぉっ」
 さっさと部室へ向かおうとした矢先、持ち上げた鞄が何かに引っかかったみたいに動かなくなった。俺は間抜けな悲鳴を上げて、上半身を後に引かれるような格好になった。
 何に引っかかってるんだよ。
 そう心の中で愚痴りながら、後を振り返った。
 そこではハルヒが不敵な笑みを浮かべて俺の鞄をつまんでいた。
「何やってんだ?」
「行くわよ、キョン」
 どこへ? というか人と話すときは主語述語目的語をちゃんとして、美しい日本語をだな――
 しかし、ハルヒは突っ込みを入れようとする俺を無視して、俺の手をつかむと、俺を引きずるように教室の外へ向かった。
「ちょっと待て、ハルヒ。一体どこへ、何しに、何のために行くんだ?」
 ふふん、とハルヒは鼻で得意そうに笑った。
 なんとなく悪い予感がする。
「殴り込みよ!」
 振り返ったハルヒの目は、まるで蒸気機関車にくべられた石炭のような力強い光を放ち、その圧倒的な駆動力をもってして、一切の抵抗が徒労に終わることを瞬時に俺に理解させた。
「殴り込み、ってお前一体どこへ行くつもりなんだ?」
 ハルヒに手を引っ張られて、校門まで俺は引きずられていた。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと部室の扉に今日はお休みって書いておいたし」
 いや、そういうことを聞いているんじゃなくてだな。
「一体どこへ行くんだ?」
 俺を引っ張りまわしていたハルヒの足がぴたりと止まった。一瞬の間の後、
「佐々木さんの高校」
 とりあえず俺はめまいがした。

「佐々木の高校って、お前一体何を考えて。おい、ちょっと待てって」
 俺の前をずんずん進んでいくハルヒの後を追いながら、必死に状況を確認しようとしていた。
 一体何をどうとち狂えば、ハルヒが佐々木の高校へ殴り込みなんて事態になるんだ?
「大体の状況は把握できてるわ。向こうへ乗り込んで、首謀者をちょちょいと締め上げてやったら事は終わりよ」
 ハルヒは俺の制止なんか全くお構いなしだ。他の生徒たちが不審な目で俺たちを見ている。端からはどう見えているのか、考えたくもない。また、明日も変な噂が流れていそうだ。
「だから、なんの話だ?」
「佐々木さんの話よ」
「へ?」
「佐々木さんにしょうもない嫌がらせをしている連中がわかったから、それを叩きのめしに行くのよ」
 ……神様、俺はいったいどうしたらいいのでしょうか?

 その後、ハルヒを追いかけながら確認した状況は以下のようだった。
 まず、俺がハルヒに佐々木の話をした後、こいつは自分でその状況を調査したらしい。なんでも阪中の兄貴がその高校の出身で、そのツテを使って調べたらしいのだ。阪中大活躍だな。まぁ、そんなことはどうでもよくって、とにかくそれで佐々木に嫌がらせをしている女子グループのリーダーの名前を教えてもらったから、そいつを叩きのめすそうだ。
「ハルヒ、それって余計に事態を悪化させる可能性がないか?」
「別に。あたし自身が気に食わないからやるの。そういう汚いことをする連中ってほんっと大嫌いなんだから」
 だめだ。聞く耳持たないってやつだ。
 俺はため息をつくとつり革にだらしなくぶら下がった。結局、俺はハルヒを止めることもできず、一緒に電車に乗ってしまっていた。
 佐々木の高校のある駅までもう少しか――
「あんただって許せないんじゃないの?」
「そりゃそうだが――」
 確かにハルヒの言うとおりだ。連中に対して怒りの感情がないなんてことはない。面と向かって文句の一つでも言ってやりたい。しかし、それが佐々木にとっていい方向へ向かうかどうかなんてわからない。
「国木田の話だとそもそもの発端がくだらないことだしな。逆恨みもいいとこだ。けど、なんであいつはそこまで告白を断りまくっていたんだろ」
「……誰か他に好きな人でもいたからじゃない」
 ハルヒに何かを言い返してやろうとしたのだが、なぜかうまく言葉が出なかった。
「何よ?」
「いや、別に」
 ハルヒは喉に魚の骨でも引っかかったような表情で俺を見ていた。
「なぁ、ハルヒ。お前に佐々木の気持ちがわかるのか?」
 ふと俺の口を付いて出た言葉。
「何よ、唐突に」
 谷口の行っていた「涼宮と同じ」という言葉が俺の頭の中で思い出されていた。ハルヒはそれからしばらく無言で窓の外を見ていた。
 仕方がない、腹をくくるか。こいつはほっときゃ一人で行って、何をやらかすかわからんしな。お目付け役が必要だ。
 けれど、意を決して窓から見た空も、相変わらず雲に覆われたままだった。


12「さよならを言えばよかった」


 駅を降りて歩くこと、徒歩5分。そこに県内最高、そして全国でも有数の進学校の姿があった。ちょうど、放課後になったところのようで校門から帰っていく生徒たちの姿が多く見られた。
「こんな時間なのに、えらく学校から帰る生徒が多いな」
 隣で大きくハルヒのため息が聞こえた。
「何だよ?」
「あんたねえ。ここは全国有数の進学校なのよ。うちらみたいな公立とは違って、平気で7時間目まで授業があるのよ」
 うげっ。想像もしたくない学校生活だ。
「そんなことより、とっとと中に入る方法を探すわよ」
「中に入る方法? 校門から行ったらいいじゃないか」
「バカッ」
 ハルヒは俺の意見など無視して、校舎の裏手のほうへ回り始めた。
「何でだよ」
「正面から堂々と行ったら目立つでしょ。どっか入りやすそうな場所を見つけてこっそり侵入するのよ」
 思えば、こいつは中学時代に不法侵入前科一犯を犯しているのであった。もともとそういうのが好きなんだろうな。
「そんなことをするより校門で張っていたほうが効率いいんじゃないか?」
「目標は部活動をやっているらしいから、そんなとこで待っていても数時間待ちぼうけを食うだけよ。こっちから乗り込むほうが手っ取り早いわ」
 と言うやいなや、校舎の塀の足場になりそうな部分をうまく発見し、ハルヒはそこに飛び乗った。下調べは十分なようだ。
「とりゃ」
 身軽な身のこなしで校舎に侵入したハルヒ。こいつは将来アルセーヌ・ルパンにでもなる気なのだろうか。
「キョン、あんたも早く来なさい」
「わかったよ」
 俺もハルヒの後に続いた。
 降り立った場所は校舎裏の木が生えている場所だった。ここなら人目に付くことも少ないだろう。
 俺は意を決してこれから起こるべき事に対して腹をくくり直した。
 緊張からか、喉の奥が少し気持ち悪い。落ち着きなく、両手を開いたり閉じたりしている。落ち着こう、俺がこんなところで緊張していても仕方がない。
「あっ――」
 俺の隣で辺りを見渡していたハルヒが小さく声を上げた。
「どうし――」
 その視線の先を追いかけた俺はある風景を見て、息を呑んだ。
 そこには数人の女子生徒がいた。

「ハルヒ」
「あいつ、あの真ん中の子。あれがそうよ。あたし顔写真を確認したから覚えている」
 俺とハルヒは木の陰に身を隠していた。
 いきなり目標と遭遇とはえらくまたタイミングのいいことで。
 こんな俺たちが言うのもなんだが、この人気のない校舎裏に人が来る用事なんてほとんど思い当たらない。目の前の女子生徒たちは少し挙動不審気味に辺りをキョロキョロと見回している。なにかろくでもないことをしでかすつもりじゃないのか。少なくとも、俺たちが言えた義理ではないことはわかっているが。
「手になんか持っているわ」
「手に?」
 俺は目の前の女子生徒の手を注意深く観察した。確かに両手に何かを持っている。
「靴、ね。誰かの靴だわ」
「ハルヒ、あれは――」
 そこから次の言葉を吐き出すのに、しばらくの間と呼吸が必要だった。
「あれは、佐々木の靴だ」
 やっとの思いで腹の底から息を吐くように言葉を紡いだ。
 両手が緊張からか、それとも怒りからか、震えていた。

「おいっ!」
 思わず飛び出した俺は連中に対して威嚇するように、そう声を出していた。
 木の陰から突然現れた人物に連中は一瞬体を震わせ、強張った表情で俺を見ていた。
「な、なんなのよ、あんた!」
 リーダー格と見られる女子生徒が悲鳴のような怒声のような声を上げた。
「ちょっと、制服が違うよ。あれウチの生徒じゃないよ」
 もうひとりの女子生徒がリーダー格の女子生徒に耳打ちした。
 すこし落ち着いてきたのか、リーダー格の女子生徒の顔に少しずつ余裕のようなものが見え始めてきた。
「ちょっと、あんた一体何なの? 変態? それ以上近づくと、大声で人を呼ぶわよ」
 リーダー格の女子生徒が精一杯の虚勢を張った。悪態をついてはいるが、声が少し震えていた。
 しかし、この状況下で追い詰められているのは間違いなく俺のほうだろう。あまりにも後先のことを考えずに勢いで飛び出してしまった。これじゃ、不審者扱いされてここの教師にしょっ引かれるのがオチだ。この状況下では俺に勝ち目はない。
「やれるもんなら、やってみなさいよ。でも、困るのはあんたたちの方でしょうけどね」
 不意に俺の後ろから声がした。振り返ると、ハルヒが仁王立ちで相手の女子生徒を睨み付けていた。
「ど、どういう意味よ」
 目に見えて相手の女子生徒はうろたえていた。言い負かされたというよりも、無意味に自信過剰なハルヒの態度に気圧されているようだった。
「その手に持ってる靴。あんたたちのじゃないんでしょ? なんで、そんなものを持ってこんな校舎裏なんかにいるの?」
「別に、なんだっていいじゃない……」
 さっきまでの勢いはどこへいったのか、相手の声に力はなかった。
「言っとくけど、あたしたちが何も知らないなんて思わないでね。あんたらがここで何をしようとしていたか大体想像は付いてるわ」
「……あんたたち一体何なのよ」
「正義の味方」
 ハルヒは仁王立ちのまま、全く動じることなく相手を威圧していた。
「ふざけないでよ」
 相手の女子生徒は恨みがましい目でハルヒを睨み付けていた。
「俺は、その靴の持ち主の……友達だ」
 ハルヒに代わって俺が答えた。相手の女子生徒は俺を一瞥して軽く鼻で笑うと
「なに? あの変人、あんたみたいな男がいるんだ。むかつくのよね、そうやって自分がモテルからってお高くしちゃってさぁ。なに、あんたもあの子に騙されたくち?」
 相手はこの期に及んでさらに悪態をついた。反射的に何かを言い返そうとしたハルヒを右手で制した。
「別にあんたらがあいつのことをどう思おうと勝手だが、そういうしょうもないいやがらせはやめてもらおうか」
 俺は精一杯低い声で迫力を出してみたつもりだったが、
「わざわざそんなことを言いにわざわざこの学校に不法侵入してきたわけ?」
 俺なんかが精一杯すごんでもあっさりと切り返されるだけだった。
 ただ、そんな相手のふてぶてしさよりも、まったく反省や罪悪感の見られない態度のほうに腹が立った。強く握った右手に指が食い込んだ。
 俺の足りない頭をフル回転させて、なにか言い返してやる。そう思って、俺は相手の顔を睨み付けていた。その時、その視線の先に見知った人影が入り込んでくるのが見えた。
「――キョン?」
 佐々木が呆然とした表情で俺の顔を見ていた。佐々木の足には泥で汚れた上履きが見えた。

「どうしてこんなところに?」
 一瞬の沈黙の後、佐々木は震える声でそう言った。女子生徒連中は佐々木の姿を見て、ばつの悪そうな顔をしたが、当の佐々木はそんなことはどうでもいいみたいだった。
「いや、それは……」
 なんて言えばいいのだろうか。なぜ俺はここにいるのか、何のために俺はここに来たのか。そこに誰をも納得させられるような明確な答えを俺は持っていなかった。俺自身、自分をここまで駆り立てたものがなんなのかわかっていなかったから。
「お前は、どうしてここに?」
 答えを出すこともなく、俺は佐々木に質問を返していた。よその学校に不法侵入している俺にはあまりにも自分を棚に上げすぎた質問だった。
「……キミの声が聞こえたから」
 佐々木は小さい声でそう答えた。そして、静かにその視線を俺の後ろにいるハルヒの方へと向けた。
「涼宮さんも一緒?」
「……あぁ」
 佐々木の声は相変わらず小さかった。けど、その言葉の奥には何か激しいものが感じ取られた。
「ひょっとして知っていたのかい、僕がこういう目に遭っている事?」
「あぁ」
 気まずい。なんだ、この居心地の悪さは。俺は佐々木を助けに来た、はずなのに。
「言ったじゃないか。僕はキミに同情や憐憫の対象として見られたくない、って。僕はキミにかわいそうだなんて思われたくなかった。こんな姿見られたくなかった」
「……佐々木」
 泥で汚れた上履きが俺の目に突き刺さった。そして思わず目を逸らしてしまった。
「僕は中学3年のときとは全然変わってしまったんだ。あの頃の僕とは違う。あの頃の僕はもういないんだ」
「いや、でも」
 俺を見つめる佐々木の目。生まれてきてからこれまで、これほど人の目が痛いと感じたことはなかった。怒り、悲しみ、憤り、佐々木の言葉が胸に突き刺さった。
 それでも、俺はうまく言葉を返すことができなかった。
「僕はあの頃と変わってしまったんだ。毎日、誰とも会話しない学校へ来て、ずっと一人で。そして、いつも誰かを恨んだり憎んだりして、自分を護るようなそんな人間になってしまったんだ。キミといたあの頃とは全然違う人間に。自分で自分を軽蔑するよ。そして、こんな姿をキミに見られたくなかった」
「違う、お前は変わってなんかいない……」
「キミの前では精一杯そう振舞った。あの頃と同じように。でも、もうあの頃の僕は死んだ。みんなにもそう伝えてくれ。今、キミの目の前にいるのはあの頃の僕の死体だ」
「何をバカなことをいっていやがる。何も変わっていないじゃないか。なにも」
「……変わったよ」
「違う、俺もお前も変わってなんか――」
「変わった!」
 佐々木が今まで聞いたことがないほど大きな声を上げた。力強く、そして痛々しい声を。
「だって、今はキミの傍にいつだって涼宮さんがいる! いつも、いつだって! どうして何も変わっていないなんて平気で言えるの? 今すぐにあの頃に戻れるというの?」
 その迫力に俺は何も言えなくなってしまった。ただ、呆然と佐々木を見つめるだけだった。何か声を掛けるべきだったんだろう。でも、情けないことに何も思いつけなかった。何も思いつけなかった。
 佐々木はしばらく肩で呼吸をしていた。その間の時間はほんの数十秒程度だったのだろう。でも、俺にはどうしようもなく永く、そして遠く感じられた。
「……安っぽい同情なんか、しないで」
 佐々木は目線を下に落とし、その表情を前髪で隠した。そして、
「ちゃんと、さよならを言えばよかった」
 そう消え入りそうな声で呟くと、不意に体を反転させもと来た方向へ駆け出した。その瞬間、俺も後を追おうとしたが、体が動かなかった。いや、全くどうしていいかわからなかった。ただ、その場で凍りついたように立ち尽くすだけだった。佐々木の後姿が見えなくなっても、俺はそのままだった。

「何よ、あいつの元彼が今カノを連れて来てたわけ? 何それサイテー。偉そうなこと言っていた割に結局見せ付けに来ただけじゃないの。マジ終わってるわ、こいつ」
 まるで壊れたAMラジオのようにあの女子生徒たちの声が遠く聞こえた。
 ――なんとでも罵れよ。
 連中がなにやら好き放題言っているのが聞こえたが、俺にとってはどうでもいいことだった。もう、どうにでもなればいい。もうどうでも――
 そのとき、何か鋭く乾いた音が聞こえた。俺はその音の方向をゆっくり振り返った。そこではハルヒがその女子生徒の頬を平手で打っていた。

 帰り道、俺とハルヒは並んで歩いていた。あれからお互い何も話すことなく、ただ無言で歩いていた。
 俺は佐々木の言葉が自分に突き刺さっていることを強く感じていた。それは、透明で純粋無垢で、壊れて尖っていた。まるでガラスみたいに。その尖った先が俺に深々と突き刺さっていた。
 俺がやったことは結局なんだったんだ? 何がやりたかったんだ? 俺は佐々木に何をしてしまったんだ?
 頭の中を無責任な疑問符が埋め尽くしていた。やらなきゃよかった。こんなこと起きなきゃよかった。そんなことばかり頭の中を巡っていた。
「キョン」
「えっ?」
「その、悪かったわ。ごめんなさい」
 ハルヒが小さく不安げな声でそう言った。
「馬鹿野郎、お前が謝るなんて珍しいことをするから、雨が降ってきたじゃないか」
「……キョン」
 空から落ちてきた水滴が俺の足元に小さな斑点を作っていった。
「雨が――降ってきたじゃないか」
 俺の頬に冷たくて熱いものが降り注いでいた。

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最終更新:2008年01月29日 09:16
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