7「俺らしくもない」
その日は午後の授業にも全く身が入らなかった。もともと、真面目に授業を聞く性質の人間ではないが、その日は余計にそうだった。国木田の言葉が頭の中でいつまでも繰り返されていた。心の中にウィルスをまかれたように、何か黒いものが自分の胸を埋め尽くしていくような気がしていた。
「ねえ、キョン」
授業中だというのに、ハルヒが俺の背中を突いてきた。
思えば、こいつが最初にSOS団なんてものを思いついたときも授業中で、その時も授業中だろうとお構いなしだったな。
「なんだ、ハルヒ」
一応前を向いたまま、ハルヒに応えた。
「なんかあったの?」
「なんか、ってなんだ?」
窓の外では体育でサッカーをやっているらしく、時折高校生らしい歓声が聞こえた。ボスッ、と鈍いボールをける音。遠い世界の出来事のように聞こえた。
「あんたちょっと様子が変よ。ただでさえ普段ボーっとしてるのに、今日はまさに心ここに在らずって感じ」
誰が普段からボーっとしてるって言うんだ、普段ならそんな突込みを返していたところだが、今日はそんな気分にはならなかった。
ハルヒの声は阪中のところの犬が病気にかかったときみたいな声色だった。
「なんでもない、ただの……五月病だ」
今度は俺の頭の中で谷口の言葉がこだましていた。
――涼宮と同じじゃねえか
ハルヒと佐々木は同じ、か。
後を振り返ってハルヒの顔を見た。あいつは怪訝そうな顔でこちらを見返してきた。そこに表面上の不機嫌なメッキは見えても、その下の本質的な表情はまた違うはず。
今のハルヒは間違いなく、孤独じゃない。それなら断言してやれる。今はこいつにはクラスの中に俺以外にも会話する奴がいる。なにより俺たちSOS団がいる。そして、少なくとも俺がこいつと一緒にいる間は、ハルヒは一人ぼっちなんかじゃない。
じゃあ、佐々木は?
放課後、学校からの帰り道を一人で歩いていた。午後3時過ぎ、まだ太陽は高い。そんな時間に帰るのは久しぶりだった。
ハルヒには「ちょっと気分が悪いから、先に帰る」と言っておいた。珍しく、あいつは文句をたれることもなく、ただ「さっさとシャキっとしなさいよ」と言うだけだった。
あいつらと関わってから、帰りはいつもSOS団のメンバーと一緒だったから、一人での下校は本当に久しぶりだった。この時間だと、帰宅部の連中がこぞって帰り道を歩いているため、人通りは普段より賑やかだ。もっとも、人が多いだけで俺には話し相手すらいなかったが。
家の玄関を開けると、ちょうど友達の家に遊びに行こうとしている妹と鉢合わせした。
「あれ、キョンくん、もう帰ってきたの?」
不思議そうな顔で俺を見つめる妹に、ただ短く「あぁ」とだけ返事すると、俺は自分の部屋へ向かった。妹の奴はしばらく俺の背中を見ていたが、階段を上りきると同時に玄関のドアの開く音がした。
とりあえずベッドに倒れこんだ。他に何もやる気がしなかった。右手を額に当てて、大の字で天井を眺めていた。
佐々木がいじめに遭っている。だからといって、俺に何が出来る? 俺の前ではあいつは普通に振舞っていた。中学時代と何も変わらずに。
「くそっ」
そう呟いて、俺はポケットから財布と携帯電話を取り出し、それをベッドの上に投げ捨てた。そして壁の方へ寝返りをうったまま、ため息をついた。
何をどうしていいのかがわからない。国木田の言ったことは本当なのか。それとも、何が起こっても飄々としているあいつに取り付いたただのデマなのか。頭の中でそれは気にしすぎじゃないのか、と必死に自分の説得を試みても、到底それは俺を納得させることは出来なかった。
わざとらしく派手に寝返りをうってやると右手に硬いものが当たる感触がした。
……携帯電話?
俺は投げ捨てた携帯電話の方へ身体を向けると、それを手に取った。その中には、あの日交換した佐々木の携帯番号があった。
携帯を開いて、佐々木の番号をディスプレイに表示した。しかし、通話ボタンを押すことは出来なかった。
電話を掛けて俺はなんて言うんだ? なんて言葉を掛けるんだ? 何を言うつもり、何を聞くつもり?
頭の中で、谷口のデートでもすればいい発言を思い出した時点で携帯を手放した。
そういえば、あれから佐々木から電話が掛かってくることはなかったな。まぁ、あいつは携帯には慣れていないみたいだったし。
……携帯に慣れていなかった?
佐々木の携帯に関する記憶を慌てて頭の奥から引き戻した。あいつが携帯の番号を教えてくれたのは2回目にあった時、それであいつは番号交換に全く慣れていなかった。普段のあいつの器用さや頭の回転の速さを考えると、それはなかなかにありえない話だ。もっと可能性の高い説明としては、あいつはほとんど番号交換なんてやったことがなかった。もしくは、あの日俺と会う寸前に、最初に電車で再会したときからその1週間の間に、新規契約した――
俺は携帯電話の通話ボタンを押した。ディスプレイには佐々木のアドレス。思い過ごしかもしれない。けれども、もしも俺が佐々木とこうして繋がっている数少ない人間の一人だとしたら――
数回のコールの後、電話は繋がった。
8「サウンド・ライク・サンデー」
「やぁ、キョン」
日曜日、駅前、午前10時。俺は佐々木との待ち合わせ場所に来ていた。
白のワンピースを着た佐々木が両手にバスケットを持って、俺に微笑みかけていた。
俺は駅前のありがちな噴水の脇に立っているこらまたありがちな時計で時間を確認した。
「お前、約束は10時半だろ? 早すぎだ」
「それはキミも同じことだよ」
5月の終わり、日曜日。俺と佐々木の初めてのデートだった。
あの日、数回のコール音の後、俺はまさにどうかしていたと言えるだろう。
今まで散々語り合ってきた親友に対しての隠しきれないぎこちなさ。携帯を持つ手は震えていた。
「もしもし、キョンかい? どうしたんだい?」
電話口で柔らかい佐々木の声が聞こえた。少しだけ呼吸が苦しかった。そして強引に腹を押し込むようにして、俺が吐き出した言葉は
「なぁ、佐々木。今度の日曜、どっか遊びに行かないか?」
もう少しなんとかならなかったものかと、今になって思う。誘うにしても、もっと気の利いた話の展開とかはなかったのだろうか、と。
そんなストレート極まりない俺の誘いに対する佐々木の返事は
「うん」
また、シンプル極まりないものだった。
それからとんとん拍子で予定は決まっていき、そして日曜日、俺はこうして佐々木の目の前に立っていた。
なんでこんなことになったんだろう? 俺自身国木田の言葉にかなり動揺していたとはいえ、谷口のしょうもないアドバイスを真に受けてしまうとは。
本当なら、俺はそうしてそのまま頭を抱えてうずくまってしまいそうな状況だったのだが、実際はそうはいかなかった。
「どうしたんだい? キョン?」
目の前にいる中学生時代の旧友。今までこいつの顔を見る機会は何度もあったはずだ。何度もあったはずなのだが――
「いや、その」
「なんだい? はっきりと言いたまえ、キミらしくもない」
佐々木は人差し指を口に当てて笑った。
「お前も、そうやっていると、その、ちゃんと見られる、な」
俺のガチガチに固まった言葉に、佐々木はほっぺたを膨らませて吹きだすと
「くっくっ、それはけなしているのかい? それとも、褒めてくれているのかい?」
「別に、思ったことをそのまま言っただけだ」
「そうかい? ならば、僕はそれを賛辞として受け取っておこう。何、TPOって奴さ。僕が恥をかかないよう、そして最低限キミに恥をかかせないためのね」
太陽の光が楽しそうに笑う佐々木を照らしていた。その日の雲ひとつない空のように無邪気な表情。そして、その佐々木らしい控えめで、どこかほんの少し不器用な化粧。
確かに俺は佐々木に見とれていた。しかし、それと同時に、大人と子供の間の曖昧な空白、その不器用な壊れやすさに俺は胸を締め付けられていた。
俺たちのデートはデートと呼ぶにはあまりにも心もとないものだった。佐々木はどこか静かな場所がいい、と言い、結局俺たちは海の見える公園のベンチでたたずむだけだった。俺たちに出来たのはお互いに会話するか、それとも海を眺めるかだけだった。洒落たショッピングも、話題の映画も、流行のアミューズメントもない。ただ、そこに俺たちがいるだけ。
実際、俺自身もこれをデートという言葉で表現するには大きな抵抗があった。谷口のセリフについつい引っ張られて、そんな錯覚に陥る瞬間もあったが、これはデートではない。
じゃあ、なんなのだろう? 俺は何を目的として佐々木を誘ったのか。事の真相を確かめるため? あいつを励ますため? ただ、単に話がしたかっただけ?
「何を難しい顔をして考え込んでいるんだい?」
ベンチで俺の隣に座った佐々木は、太陽の光を浴びて、両手両足を伸ばしてリラックスしていた。
「ちょっとな。学校でいろいろあって」
「なんだい、僕はキミの悩みカウンセラーをやるためにわざわざ呼び出されたわけかい」
「いや、それは違うって」
確かに悩みがあるにはある。でも、それはお前についてのことだ。
などと言える訳もなく、潮風の匂いを感じながら
「お前は学校関連で悩みはないのか?」
しまった、と思ったのはその言葉を吐いた直後だった。佐々木は勘のいい奴だ。俺の言外のニュアンスなんてすぐに見抜いてしまう。
「なんでキミの話をしているのに、それを僕に振ってくるのかね?」
佐々木の表情には疑うような色は見られなかったが、それでも的確に突っ込んでくる。どうしたものか――
「いや、俺自身涼宮に振り回される高校生活を送っていてだな。んで、こないだお前涼宮見ただろう? どう思ったのかなって」
話を逸らそうと思って、ハルヒの話題を出した。しかし、これはよりいっそう事態を間違った方向へ導くだけだったのかもしれない。
「僕の涼宮さんの印象、かい?」
「……そう」
「ひょっとしてキミは怒っているのかい?」
「え、何に?」
「いや、僕の杞憂ならそれでいい」
佐々木は目線を近くのブロック塀の下に生えている雑草へと向けた。
いったい何に対して俺は怒るというのだ?
「彼女は、そうだね。快活で愛らしい容姿をした女性といった印象だったね」
見たまんまやないか。
と、心の中で突っ込みを入れたが、それを口に出してそれ以上突っ込むことはしなかった。
「そういうキミは彼女に対してどんな不満があるのかな?」
そう言えば、そんな話題を出していましたね、俺は。
「あいつに? 大変だぜ、そりゃもう。毎週毎週休日は不思議探索だなんだのと振り回されるわ、事あるごとに人の手をひっぱって連れまわすわ。あいつの思いつきで振り回されて苦労するのはいつも俺だ。勘弁してもらいたいね。しかも、何かと俺に突っかかってくるからな。言い出したらきかねーし」
俺は頭の中で、今までハルヒが俺に突っかかってきたシーンを思い浮かべていた。例の長門のラブレター騒動、朝比奈さんとのデート(もどき)に、雪山での出来事、あと最近では文集原稿争奪戦か。
「……悩んでいるというよりは随分楽しそうに見えるのだが」
え。
佐々木の目になにやら俺にとってはあまり好ましくないような力がこもっているのを感じる。
「ま、まぁ退屈はしていないかな」
「そうかい、それはよかったね」
顔は笑っているが、その声色は冷たい。
「そういや、お前にもそういう知り合いいないのか? こう、ファンキーでエキセントリックな奴」
「僕の知り合い?」
「そう、高校の友達でネタになりそうな、面白い奴」
話の筋が自分でも冷や汗をかくくらいに二転三転している。自分でもちゃんとわかってはいるさ。
佐々木はそれを眺めて一呼吸置くと
「僕には友達と呼べるような人物はいないね。少なくとも今の高校には」
そう、足を投げ出して、空を見上げながら呟くように言った。その目線の先の空には綺麗な雲が尾を引くように流れていた。
少なくとも、かなり不細工な形ではあるが、本題には近づけたはずだ。ここで、もう少し畳み掛ければ――
俺は意を決して、佐々木に話を切り出そうとした。そう、切り出そうとしたのだが……
「ねぇ、キョン」
「えっ、なんだ?」
「お腹が空いたからお昼にしようか」
「……そうだな」
佐々木は手に持っていたバスケットを右手で持ち上げて、俺に見せた。
佐々木の柔らかい笑顔の前に俺の決意はあっさりとかき消されることとなってしまった。
日曜日の正午、公園にいるのはほとんど子供ばかりだ。緑の芝生の上で、子犬がじゃれまわるようにボールを投げたり蹴ったりしている。そんな日曜日の公園で、男子高校生と女子高校生がベンチに座ってバスケットを広げている光景はある意味奇妙な光景に映っていたのかもしれない。
「はい」
用意周到な佐々木は1.5リットルのペットボトルと紙コップを持参し、一杯のオレンジジュースを俺に差し出してきた。
「さんきゅ」
俺の言葉に返答する代わりに、佐々木は小さく首を左にかしげると、今度は自分のコップにジュースを注ぎ始めた。
「用意周到だな」
オレンジジュースを一口飲んでから、隣で飄々とバスケットの中身を広げる佐々木にそう言った。
「備えあれば憂いなし、だよ」
「お前らしいな」
「それはそうと是非召し上がってくれたまえ。簡単で申し訳ないが、それでもそれなりに手間はかかっているのでね」
佐々木の広げたバスケットの中身はサンドイッチだった。簡単と言っていたが、その種類は豊富で、トマトとレタスとベーコン、ハムとチーズ、ハムとたまご、シーチキンサンド、カツサンド、フルーツサンドと主要な所は抑えるラインナップを誇っていた。
バスケットの中のサンドイッチディスプレイを前にどれを最初に取ろうか、俺が悩んでいると
「キミの好きなものがわからなかったので、思いつく限り作ってみたんだよ」
「それなりに手間、どころかかなりこれは手が込んでいるんじゃないのか?」
サンドイッチが簡単な料理とはいえ、これだけのラインナップを揃えるのはなかなかに骨の折れる作業のはずだ。
「くっくっ、どれか一つでもお気に召すものがあればうれしいね」
結論から言おう。佐々木のサンドイッチはどれもうまかった。
それも当然で、どれもこれもただ単に具をパンで挟んだなんてシンプルなものではなく、ちゃんと下味の付いたものだった。佐々木の奴は謙遜していたが、これは下手に弁当を作るよりもはるかに手間がかかっているとしか思えなかった。
「どうだい、お味は?」
佐々木は自分ではまだサンドイッチ手を付けずに俺の反応を見ていた。その表情は、俺の評価が気にしたおどおどしたものではなく、むしろトリックを仕掛けてその反応を楽しみにしている手品師のようだった。
「うまい。すまん、俺の貧困なボキャブラリーではそれくらいしか言えん」
「なに、そう言ってくれるだけで十分だよ。作った甲斐があったというものだ」
佐々木は自分の予期した反応に納得の表情を浮かべた。こいつの性格だから、きっと何回も味見とかしたのだろうな。佐々木の得意そうな笑顔を見ながらそんなことを考えていると、佐々木はバスケットの中からウエットティッシュのボトルを引っ張り出して、そこから1枚ティッシュを取り
「ほら、キョン。口にマヨネーズが付いているよ」
「あ、すまん」
「全く。キミのそういうところは中学時代から全く成長していないようだね」
形容しがたい独特の笑い声を上げながら、俺たちの間にあるバスケットの上に覆いかぶさるようにその上半身を俺に寄せてきた。そして、手早く俺の口を拭いた。
「これでよし、と」
「お前なぁ。言ってくれれば自分で拭くよ。幼稚園児じゃあるまいし」
「おや、そうかい?それは失礼」
佐々木は悪戯っぽく笑った。
間違いない、こいつ確信犯だ。
「お前は俺の母親か、それとも世話女房かっつうの」
何が面白かったのか、佐々木は愉快そうな笑い声を上げると、バスケットの中からツナサンドを手に取って口に運んだ。
肝心なことは何も聞けず、ただ座って会話して昼飯を一緒に食っただけ。俺はいったい何をしたかったのだろうか。何をすべきだったのだろうか。
結局のところ俺なんかにできることなんてなにもなかったのに、何を勘違いしているんだろう。俺はヒロインの危機を救うスーパーマンでもなんでもないのに。
それでも、俺に出来ること。俺がやるべきこと。
「キョン」
佐々木が俺のTシャツの袖を引っ張った。
「あ、なんだ?」
「なんだ、とはこっちのセリフだよ。今日のキミはなにかおかしい。何かに取り付かれたように、キミの意識が思考の世界にとらわれている気がする。いったい何がキミをそうさせているのだい?」
昼飯を食った俺たちはまだベンチに座り続けたまま時を過ごしていた。そうしながら、俺は自分がどうするべきか、何を言うべきか、バカみたいにただひたすら悩んでいた。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「お前は今俺なんかと一緒にいて楽しいか?」
最低のセリフだった。
「それはどういう意味だい?」
「いや、俺みたいに、俺みたいな奴と一緒にいて楽しいかっていう意味」
「楽しいよ。キミがどう感じているかは僕には知ることは出来ないけれども、少なくとも僕自身の認識できる僕の意識は間違いなくそう感じている」
楽しいって一言を言うのになんでそんなに言葉がいるのかね――
中学時代から何も変わらない佐々木を見つけたような気がして、俺は少し安心した。
「そうか。それはよかった」
「キョン」
そう言ったきり、佐々木はしばらく黙り込んだ。それがどれだけの時間――秒で表現すべき時間か、分で表現するべき時間かはわからなかったが、俺にとっては少し長い時間の沈黙だった。
「キミが僕のことで悩んでいるのはなんとなくわかる。けど、僕は大丈夫だ。まだ、キミに心配してもらうほど落ちぶれてはいないさ。安心してくれ。ただ、僕がキミにとって同情や憐憫の対象であるという事実の方がつらい。変わらないものと思ってくれたらいい。僕は中学時代から変わらないものだと」
「佐々木」
「僕は自分ではそのつもりだ。何も変わっていない、中学3年のあの頃と。キミの僕に対する気持ちは変わってしまったかもしれないが、僕のキミに対する気持ちは変わっていないよ」
どう答えればいいのかわからない。俺の佐々木に対する気持ち、それはなんだ? 中学時代から変わっていないと言えるものか? でも、俺だって少しは成長したんだ。あの頃のように無知で無邪気なままじゃない。佐々木と顔を合わせなかった1年間の間に――
そこまで考えたところで、なぜか俺の頭の中にハルヒの顔が浮かんできた。瞼の裏にハルヒの奴が俺を見てアカンベーをしている光景が広がった。俺はそれを黒板消しで消去するように頭を振ると
「なぁ、佐々木。今度の花火大会に行かないか?」
また、とんでもないことを考えなしに口走っていた。話の流れなんてめちゃくちゃだった。ただ、俺は思ったことをしゃべっているだけ。
「花火大会? 来月に催されるやつかい?」
「あぁ。お前中学時代に花火が好きって言っていたじゃないか。見に行こう」
佐々木と花火。そんな記憶が当然のように俺の中で思い出されていた。いつだったかの予備校へ向かう自転車の上での会話だったと思う。きっとあのときにそんな話をした。
「なるほど、あの時の会話をまだ覚えていてくれているのか。でもね、キョン一つだけ間違いがある」
「間違い?」
「あぁ。僕が好きな花火は、ああいった花火大会の花火じゃない。それは、線香花火だよ」
線香花火?
「あ、そうだ……ったけか?」
「うん。でも、キミが覚えていてくれて嬉しいよ」
そして、佐々木は少し首を傾げると、生まれたての子猫がはじめて太陽の光を見たように笑った。
その時、気付くべきだった。時間が全てを癒してくれるわけじゃない。その息吹は確実に俺の記憶を少しずつ曖昧な形に変えていっていた。季節が移り変わるように、少しずつ泥に埋もれていってしまうように。
9「ある午後に」
国木田からあの話を聞いてから、佐々木との一件はずっと俺の中から消えることはなかった。そして、ただでさえ考えがまとまらなくてウニみたいになっている俺の頭に、例によってまたマッチポンプ的に難題が乗っかってくることとなっていた。
月曜日、睡眠時間は十分なのに、まだどこか眠り足りないような疲れた頭を引きずって、今日も今日とて坂道を登って行った。天気はいま一つ雨なのか曇りなのか、はっきりしない曇天模様。もうすぐ梅雨に入る、季節はそんな時期だった。
「うぃす」
外に立っているだけで気が滅入りそうな天気の中、教室に入ってきた俺が感じ取った気配もまたはっきりとはしない不快感だった。
どことなく、教室のあちこちから好奇の視線を投げつけられている気がした。しかし、誰も直接俺に何も言ってこない、なにやら異様な雰囲気だった。まるで足元に油がまとわりついているような気持ちの悪さだった。
なんだよ、なんか文句があるならはっきり言えよな。
席について、俺は曇天模様の空にため息をついた。
……なにか背中に突き刺さるような視線を感じる。
俺は背後に全危機管理能力が警報を発するような、俺のみを貫かんばかりの強い気配に気が付いた。俺の後ろにいるのはもちろん言わずと知れたあのお方、涼宮ハルヒ。
こいつの機嫌が悪いことなんて、しょっちゅうなのでそんなものを気にしていてはキリないのだが、この日だけは何かが違った。ただ単に不機嫌というよりも、もっと卑屈な怒り。一歩間違えば泣き出すんじゃないだろうか、と思わせるような脆さ。
――勘弁してくれよ。
俺はそのまま振り向くことなく、頭を抱えるようにこめかみを押さえながら始業のベルを待った。
ただでさえ、頭の痛いことばかりなのにこれ以上厄介事を持ち込んで来ないでくれ。
昼休み。まるで大金の入った財布を拾ってしまったかのような口調の谷口の言葉により、俺は今日の異常の意味を理解した。
「お前、二股かけているのか?」
「何のことだ?」
谷口の目には好奇心というよりも何か罪悪感に近いものが浮かんでいた。お前だけは信じていたのに、そんなセリフが似合いそうな表情だった。
「お前、先週の日曜にどっかの女子とデートしていたらしいじゃないか」
俺は敢えて平静を装って、何食わぬ顔で箸を動かし続けた。
「誰から聞いたんだよ、そんなこと」
「クラス中の噂だよ」
共に弁当をつつきあう右隣の国木田が代わりに答えた。
「噂?」
「うん。発信源はうちのクラスじゃないらしいんだけど、いつの間にかうちのクラスに広まってた」
国木田もまた無表情というか感情の読めない普段通りの笑顔だった。
「で、いったいどうなんだよ、キョン。さすがに涼宮のいる前じゃ聞けねえから昼飯まで待っていたんだ」
谷口が身を乗り出して来た。その目ははっきりと見て取れるほどに好奇の色の染まっていた。
「……どうもこうもない。お前の言い出したアドバイスを実行したまでだ」
「俺の言い出した、って。あっ」
谷口が口を空けて間抜けな声を出した。どうやら自分で言い出したことを見事に忘れていたらしい。
「相手は佐々木さんかい?」
国木田は冷静な表情で俺の目を見ている。
「あぁ」
「まぁ、ショートカットのかわいい女の子って聞いていた時点で大方予想はしていたんだけどね」
すべてわかっていた、という風に国木田は納得の表情を浮かべた。
「で、どうだった?」
「どうもこうもない。普通に会って話をしただけだ」
「そうかい。相変わらずだね」
そう言って国木田はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「それ以前になんで俺が佐々木と会っていたというのが、あっという間に噂になって広まっているんだ?」
「お前なぁ……」
谷口があきれ返るように大げさに上体を反らせてみせた。
「そりゃ、お前ら二人が知らぬもののいないうちの高校一有名なカップルだからだろ」
お前ら、ってそりゃ、
「俺とハルヒのことを言っているのか?」
「当たり前だろうが」
「馬鹿馬鹿しい。どいつもこいつもどうかしてるぜ。くだらない噂話で好き勝手に妄想してくれやがって」
両手を挙げて大げさに否定してみせる俺に、国木田から聞き逃せない一言が入った。
「そうでもないよ。みんなが誤解するだけの状況証拠は揃っていた」
「どういう意味だ?」
「佐々木さんが、うちの高校の人にキョンについて色々聞いていたらしいから」
「なっ……」
予想外の国木田の言葉に、今度は俺が驚愕する番だった。
国木田の目は静かに、だが力強く俺を見据えていた。
「よう」
「おや?」
放課後、授業終了と共に帰る生徒、部活へと向かう生徒、その波を掻き分けて俺はある教室の前に立っていた。
「わざわざ僕をお出迎えとはいったいどういう風の吹き回しですか?」
「どうせ、お前のことだ。俺に言いたいことがあるんだろ? だから、わざわざこっちから出向いてやったんだ」
「それはどうも。助かります」
教室のドアの前に立つ俺の姿を見つけた古泉は、慇懃に礼をしてみせた。
「それじゃあ、場所を変えましょうか」
中庭。いつだったか、古泉の奴が俺に超能力者云々の話をした場所だ。あの時とちょうど同じようにテーブルに座っていた。
「さてと、それではいきなりで悪いですが、まず一言。非常に厄介な事態になりました」
古泉は微笑みを絶やさないまま、事務的な口調でそう告げた。
「非常に、と言う割にはえらく緊迫感がないな」
「そうですか? まぁ、そうなんでしょうね」
「どうせまた世界の破滅とか言い出すんだろ?」
「ええ。確かに、涼宮さんの耳には例の噂話は入っていますからね」
「今日一日、あいつの視線が背中に刺すように痛かったよ」
古泉はおかしそうに笑い声を上げると
「そうでしょうね」
「なんでお前は楽観的なんだ?」
「そうでもないつもりですが。今回の一件はかなり性質が悪い。形はどうあれ、涼宮さんは裏切られたと思っているんじゃないですか? 佐々木さんとの関係は一度あなたは友達、あぁ、佐々木さんにとっては親友ですか、と言い切ってしまったわけですからね」
「それがなんで裏切りになるんだ?」
「まさか、おわかりでない?」
古泉は愉快そうに俺の顔を覗き込んだ。お前は俺をおちょくっているのか。
「まぁ、いい。それで、だ。例の閉鎖空間とやらは発生しているのか?」
「それは今のところは大丈夫です。もっとも悪い兆候ですが」
「悪い兆候?」
「ちょうど去年の今頃を思い出してください」
去年の今頃、閉鎖空間。これだけキーワードを出されればどんな間抜けだって思い出す。
「で、あれとこれとどういう関係があるんだ?」
「お忘れになっておられなくてなにより。で、悪い兆候という意味ですが、あの閉鎖空間が涼宮さんのストレスを発散させる場だと説明したのは覚えておられますよね?」
「あぁ」
あの日タクシーに乗って連れて行かれた例の空間の姿を頭に浮かべた。無数の赤い玉が飛んでいたあの光景を。
「基本的に閉鎖空間というのは涼宮さんがストレスを感じた場合に即発生するものです。しかしながら、去年のアレは事情が違いました。ちょうど涼宮さんが眠りについて時に発生してしまったのです」
「そうだったな」
忘れもしない、あの夜だけは。
「一年前のアレがなぜあそこまで規模の大きい強力な物になってしまったのか。その答えは至極簡単なものです」
「簡単なもの?」
「えぇ。単純に言えば、心の奥に溜め込んだストレスが無意識によってタガが外れて暴発した。そんな感じですね。無意識の中で解き放たれるがゆえに歯止めが利かないのです」
「それと、今回が似ているというのか?」
「えぇ。涼宮さんの感じているストレスというか苛立ちのようなものは間違いなく、ここ数年で最大級のものの一つですよ」
「その割にはえらく冷静だな」
古泉はやっと期待した言葉が出たとばかりに会心の笑みを浮かべた。
「解決法は簡単ですよ。あなた自身で涼宮さんの誤解を解いてください。そうすれば彼女の精神的なストレスは一気に解消されるはずです。時間は十分にあります」
「最後の最後は随分と人任せなもんだな」
「前回もそうですが、事が起こってしまえばもう僕にはどうすることも出来ませんからね。開き直るしかないのですよ。それに、前にも言ったはずです。僕自身はあなたに全ての下駄を預けてもいいと思っていると、ね。大丈夫ですよ、あなた方の信頼関係はちょっとやそっとのことでは壊れることはありません」
古泉はわざとらしいまでの満面の笑みで両手を広げた。
やれやれ。
精一杯の皮肉を返された俺は部室棟の方を見上げた。
誤解を解く? あのハルヒ相手にか?
骨の折れる作業だ。でも、仕方がないか。
立ち上がった俺は、重い足取りを部室の方へと向けた。曇天模様の空が俺に重くのしかかっていた。
最終更新:2008年01月29日 09:17