16「机」
相も変わらず俺は、和紙に火薬を入れてはそれをねじる作業を続けている。長門に教えてもらう以外にも、自分で勉強してある程度の知識はつけてきたし、なんとか花火と言っても差し支えないものも作れるようになって来た。
「あーもう、こう毎日毎日雨が降るとうっとおしいわねー」
部屋中に雨が窓を叩く音が響き渡っている。部室の奥に座ったハルヒがわざとらしく、窓を叩く雨を横目に見ながら文句を言っている。俺はその間も一人部室の机の上で、花火作りに精を出す。金属製の果物缶の中で着火テスト。火花を散らしながら、火の玉が先のほうで丸く大きく成長していく。
「うわー、いい感じになってきましたね」
朝比奈さんが俺の前にお茶を置きながら、そう話しかけてきてくださった。
「ありがとうございます」
「もう、これで十分に線香花火としては、十分及第点だと思うのですが」
俺の前で一人で詰め将棋を指していた古泉も会話に加わる。
「確かに形にはなったが、まだまだ全然だ。俺が見た花火はもっとこう、綺麗な色で輝いていた。今の俺の花火はただの火だな」
実際、俺だって線香花火を作る上で火薬の量とか紙縒りの作り方を大まかに把握できた進歩を喜んでいないわけではない。けど、それだけじゃ全然足りない。
「それに、あいつの花火は5つとも色が少しずつ違っていたしな」
頭の中で漠然とあの日の光景を思い浮かべる。そう、今俺が作っている奴とは色合いが全く違う。5本ともそれぞれに独特の色合いがあって、はっきりとは思い出せないけれども、青っぽい光や緑の光や赤い光があったはずだ。
「色が違うって、どうやって炎に色を着けるんですか?」
朝比奈さんが不思議そうな顔で尋ねてこられた。
「それは」
「添加金属元素が系に加わった燃焼反応による発光。主として炎色反応」
俺の言葉を遮るようにして、部屋の片隅で本を読んでいた長門が答えた。
「え、えんしょく反応?」
朝比奈さんは驚いた表情で長門の言った言葉を繰り返す。明らかに炎色反応というものを知らないみたいだ。
「金属原子の原子発光スペクトルのことです。要は、ある金属原子を燃やすと、その金属原子固有の色の光が出てくる反応のことですよ」
理系クラス所属らしく古泉が答える。
「打ち上げ花火の色もそういった金属元素を使って行われています。例えば有名なものでは銅の青緑色。ナトリウムの黄色。」
「後はバリウムの緑。ストロンチウムの赤、ぐらいが有名かな。あと、化合物の種類によっても微妙に色が違って、水酸化ストロンチウムはピンク色で塩化ストロンチウムは深紅色をしている」
古泉の話の後を受けた俺を、そこに介した一同が不思議そうな目で見ている。
「す、すごいですぅー」
朝比奈さんは感嘆の言葉を漏らしておられるし、
「さすがですね。よく勉強しておられる」
古泉は褒めてんだか嫌味だかわからない。
長門は静かに俺を見つめている。
「俺だって一応その程度のことは勉強したんだ。とりあえず、どんなものを混ぜたらどんな色が出るかくらいは知っておかないとな」
俺の返答はなぜか言い訳じみていた。まぁ、仕方がないだろう。普段の俺の理系の壊滅っぷりをみれば、誰だってまずは信じられないという表情をするだろうからな。
「じゃあ、今回の期末テストで化学はばっちりですね」
顔中に満面の笑みを浮かべて、朝比奈さんがそう言ってくださった。
「いやー、でも俺が詳しくなったのって炎色反応のところだけですし。正直化学が得意になったっていう感じはあまり……」
と、言いつつも化学に対する苦手意識が薄くなったことは自覚している。でも、そう言えばもう期末テストの時期なんだな。思い返すと、谷口のアホですらちょっと勉強を始めていた気がする。
「なーに、調子に乗ってんのよ。炎色反応がテスト範囲だったのはこないだの中間テストよ」
部室の奥から、わざとらしく不機嫌な声が飛んできた。声を出した人物はもちろん、我らが団長涼宮ハルヒその人である。
「何だよ」
俺もまたわざとらしく不機嫌に返した。
「あんた花火作りにかまけて、試験勉強なんてまともにしてないじゃない。そんなんであんたの頭で大丈夫なわけ? 言っとくけど、あたしは栄光ある我が団から赤点を取るようなバカが出ることを許すつもりはないわよ」
残念ながら、返す言葉がない。図星だった。確かに、俺はここ最近ずっと花火ばっか作っていてろくに勉強なんてしていない。期末テストの存在すら忘れているぐらいだったからな。
でも、だからといって、花火を作る手を休めるわけにはいかない。時間がないんだ。もう、6月も終わりだ。早く、満足の行くものを作らないと、間に合わない。1年遅れた佐々木との約束をもう1年遅らすわけにはいかない。
とは言っても、やっぱりこの時期テストでろくでもない点を取ると、きっと後々しんどい思いをすることになるんだろうな……
そんなことを思案している俺の隣に気が付けばハルヒがやって来ていた。
「何だ?」
ハルヒはしばらく俺と、机の上に転がっている花火製作現場を交互に眺めたあと、こう言った。
「仕方がないわね。今回だけは特別に、このあたし自らが家庭教師をしてあげるわ」
一瞬俺はわが耳を疑った。ハルヒの奴は言うだけ言うと、ぷいっと横を向いてまた自分の席に着いた。そして、なにやらせわしなく忙しい忙しいといいながらパソコンのキーボードを叩いている。
俺はしばらく目の前の花火製作セットを眺めた後、気を取り直して作業を再開する。目の前で、にやにや笑う古泉が気になったが無視してやった。
「おはよう、キョン」
「おう」
その次の日、珍しく国木田と登校中に会った。
「珍しいな、お前がこんな時間に登校してくるなんて」
「夜遅くまで試験勉強をしていたらね、ちょっと寝坊してしまって」
「そうか」
改めて俺の周りはもう試験モードに入っているということを感じた。
それから、俺と国木田はそのまま汗ばむ夏の坂道を登っている。太陽の日差しがじりじりと暑い。これから7月になれば、よりいっそう日差しは強く増すだろうな。
「ところで、キョン」
「なんだ?」
坂道を登りながら空を見上げている俺に、静かに国木田が話しかけてくる。
「佐々木さんと何かあったのかい」
国木田の口から佐々木の名前が出た。
「何か聞いたのか?」
「うん。例の予備校の友達からね」
「そうか。あいつは、佐々木はどうしてる?」
「あれ以来嫌がらせの類はなくなったみたい。けど」
「けど?」
「彼女は以前にもまして暗くなったらしい。キミと再会してから少し明るくなったらしんだけどね。今では学校の授業中でもぼーっとしていて、見ている方が痛々しい位だって」
「……そうか」
大方わかりきっていたことだった。あの事件が佐々木にとっていい方向へ向くものではなかったと。あのときの、佐々木の表情と声は今でも鮮明に頭の中に焼きついている。
「どうするんだい?」
沈黙を続ける俺に国木田が尋ねてきた。
「このままっていうわけにはいかないよね。キョン、キミはどうするつもりなんだい?」
国木田の口調は穏やかだ。そして、穏やかであるがゆえに逃げられない迫力みたいなものを感じる。
「謝って許して欲しいなんて都合のいいことは思っていない。でも俺は、ただ――」
「ただ?」
「ただ、あいつに知って欲しい。それだけだ」
俺の一言に国木田はゆっくりと目を丸くした。
「ちょっと、そこ計算ミスってるわよ。マイナスが抜けているじゃない」
「あ、ほんとだ」
「何が、ほんとだ、よ。問題うんぬん以前のケアレスミスばかりじゃないのよ。ほんと、あんたみたいに出来の悪いのに教えるのは苦労するわ」
日曜日、ハルヒは俺に宣言したとおり、家庭教師をしに俺に部屋にやって来ていた。俺の隣に座ったハルヒは、上半身を前に乗り出し、次から次へとハルヒ特製ドリルをやっている俺のミスを指摘してくる。ちなみに、俺の普段使っている椅子にはハルヒが座っていて、俺は適当な丸椅子に座っている。まぁ、教えてもらっている立場だから仕方がないか。
ろくすっぽ試験勉強なんかせずに花火作りにばかりに精を出していた俺は、ハルヒの厚意をありがたく受けることにした。その結果、試験前のこの週末にハルヒにみっちりと家庭教師をしていただくことになったわけである。
「苦労するとは思っていたけど、ほんっとあんたってどうしようもないわね」
さすがに言い返す言葉がない。
「あー、疲れたわね。ちょっと休憩よ、休憩」
ハルヒは大きな声でわざとらしくそう言うと、部屋の真ん中の座敷テーブルに座ってジュースを飲み始めた。このジュースはなにやら気を回した母親が持って来たものだ。
家庭教師が休憩し始めたため、俺も勉強の手を止めてハルヒの向かいに座る。
「何よ、もう勉強やめたわけ?」
「休憩だ、休憩。人間の集中力っていうのは90分しか持たないらしいぞ」
「あら、あんた一人前に集中していたっけ?」
また痛いことを言う。
「うるさい」
なんで、休日にまでハルヒに俺はぼろくそに言われなくちゃならないんだろうね。天井を見上げて軽く神様を恨んでやる。
「そういえばさあ、あんた」
「何だよ」
「花火は完成したの?」
ハルヒにしては珍しく遠慮がちな口調だった。
「あぁ、完成した」
その遠慮勝ちな質問に俺は素っ気無く答える。
「ほんとに?」
「お前に嘘ついてどうする。ほかの事そっちのけで1ヶ月粉を混ぜては燃やしを繰り返してきたんだ。それなりのものは出来た」
「そう」
それっきりハルヒは少し黙り込んだ。少し居心地の悪い沈黙が部屋を支配する。
「あっ」
突然、ハルヒはそう声を上げると立ち上がり、俺の部屋の本棚のほうへ歩いていった。
「何だよ」
「この本棚あんたのアルバムが入っているじゃない」
「なっ」
ハルヒが向かった本棚には確かにアルバムが入っている。普通の人にならアルバムくらい見られてもかまわないだろう。しかし、相手はあのハルヒだ。過去の俺のアルバムを見て一体何をしでかしてくるか皆目見当が付かない。得体の知れない危険は早めに回避するに限る。
「やめろって」
「何よ。あんたのアルバムなんて面白そうじゃない。どんな間抜け面をした子供だったか見てやるわ。って、あ!」
ハルヒの目が獲物を見つけた肉食獣のように輝き始めた。俺は恐る恐るその視線の先を探る。その先にあったのは――
「あんたの中学の卒業アルバムね。面白そう。あんたがどんな卒業文集を書いたか見てやろっと」
最悪のものがハルヒの視界に入ってしまった。
「お前、それはちょっと待ってくれ。プライバシーの侵害だ」
「何よ。卒業アルバムと見せかけて実はエッチな本とかそういう古典的な隠し方をしているわけ?」
「いや、そんなことはないが……」
「何かウケ狙いで恥ずかしいことでも文集に書いたの?」
「そういうこともないけど……」
「じゃあ、別にいいじゃない」
そう言うとハルヒは本棚からアルバムをひょいっと取り出した。
「あ、返せって」
ハルヒからアルバムを取ろうと飛び掛った俺を、ハルヒは闘牛士のようにひらりとかわし、俺のベッドの上に座ってアルバムを開き始めた。
「えー、あんたって中1のころこんな顔してたのー!」
あぁ、もうだめだ。完全に手遅れ。
「何この髪型。全然似合ってないわよー」
もう好き放題言われている。あぁ、もう天災に遭ったとでも思ってあきらめよう。
「あ」
散々俺を面白おかしく罵倒しながらページをめくっていた、ハルヒの手が止まる。ハルヒの突然の様子の変化に俺もアルバムの開かれたページを覗き込む。
そこには俺と佐々木の写真があった。昼休み、昼飯を食う俺の机に隣の机に座った佐々木が身を乗り出して、二人で話をしているところを撮られた写真だ。両肘を俺の机の上に置いて、手で頬を支えながら俺に何かを語りかけている。そして、俺はそんな佐々木を横目に見ながら飯を食っている。これはクラスの日常の姿を残す、という名目でほとんど盗撮まがいに撮られた一枚だった。
「クラスの連中が昼休みに話しているところを勝手に撮ったんだ。偶然だ。他意はない」
それは半分本当で半分嘘だ。実際には、おもしろがったクラスのアルバム委員の連中がその写真を採用した。
写真の中では、佐々木は笑っている。そういえば、あの頃はこの笑顔を俺は毎日見ていたんだ。よく輝く二つの瞳が俺に向けられている。確かにこの写真だけをみたら勘違いする奴らもいるだろうね。そして、今ではそれがあまりにも遠い過去のように思えてしまう。そんなこともあったのか、いつの間にか俺はそれを記憶から失くしそうになっていた。
ハルヒは何も言わずに写真を見つめている。その目から、俺はハルヒの感情を読み取ることは出来なかった。
「なぁ、ハル――」
「15分、はい休憩終了!」
沈黙に耐え切れず語りかけた俺の言葉を遮るようにハルヒは立ち上がった。
「えっ」
「ほら、何ぼさっとしてるのよ。まだまだやることは山ほどあるんだから。いつまでもさぼってるんじゃないわよ!」
ハルヒは俺の手をつかむと、机に向かって引きずり始めた。そして、俺をどさっと椅子に座らせると、自分は社長のように偉そうに椅子でふんぞり返っている。
「あー、あんたまたおんなじ間違いしてるじゃない!」
ハルヒが俺の傍に身を乗り出して、俺の解いた特製問題集を指差してくる。両肘を机の上に乗せて、あの写真と同じ距離感で。
17「伝わる時間」
笹の葉が短冊の重みで少しだけ揺れる。去年と同じように今年も、俺は短冊に願い事を吊るしていた。
そう、今日は七夕だ。
「今年も、ですね」
隣でゆっくりとした手つきで短冊を吊るしている古泉が話しかけてくる。
「まさか、高校生にもなって短冊を吊るしているなんて、小学生の頃には思わなかったな」
古泉に返答しつつ、俺は短冊の紐を静かに結び終えた。
「ところで、願い事はなんて書かれました?」
「馬鹿野郎。それを言っちゃいけないっていうのがルールだろ」
短冊に二つの願いを書いて、それを笹の木に吊るす。そこまでは去年と同じだったが、この年の七夕は少し違っていた。
ハルヒの奴が突然、「願い事っていうのは人に教えると叶わないっていうじゃない。だから、今回の七夕は願い事は秘密にしましょう」、と言い出したからだ。初詣じゃあるまいし。というわけで、俺たちは短冊に願い事を書いた後、それを二つに折って吊るしている。
「まぁ、それはそうですけどね」
爽やかスマイルで軽く受け流す古泉。わかっているなら訊くなっちゅうの。
「けど、逆に気になりませんか?」
「何がだ」
「人に見せないからです。普段は表に出ていないような、その人の潜在的な願望が書かれているのかもしれませんよ」
確かに、人に見せない分、恥ずかしさもなく思っていることを書ける。ゆえに他の人が書いた願い事も気にならない、ということはない。だが。
「それはルール違反だろ」
「そうですけれどもね。逆に、あの人はこんな願い事を書いているかもしれないと想像するのは楽しいですよ」
古泉の何かを企んでいそうな目を軽く流す。古泉は俺が何も言い返してこないということを理解すると
「そうですね。例えば涼宮さんが『素敵な恋人ができますように』と書いているとか」
「なっ」
予想外の方向から飛んできた古泉の一言に俺は思わずこけそうになった。
「何を馬鹿なことを言っていやがる。あのハルヒがそんなことを書くわけないだろう」
「何よ、あたしがどうかしたの、キョン」
この地獄耳め。
めざとく俺の発言を聞き取ったハルヒがいつもの団長席から俺をにらみつける。ハルヒの奴はさっさと自分の分は吊るし終わって席に座っていた。
「なんでもない」
古泉の裏になんでもありそうな笑顔を尻目に、軽くハルヒの視線を流しつつ俺は椅子に座った。
「あれはいやがらせか、この野郎」
帰り道、いつもどおり女子部員たちのあとを俺と古泉は歩いている。
「いえいえ、可能性の話ですよ。可能性の」
ふざけやがって。
俺は冷たい視線を古泉に浴びせかける。その視線に気が付いたのか、古泉はまるでドッキリを告げるテレビレポーターのように両手を広げると
「そんな怖い顔をしないでください。ちょっと、からかってみたくなっただけですよ」
「お前にからかわれる筋合いはない」
「そうですか? あなたのおかげで結構僕は忙しかったんですけどね。少しくらいからかってもバチは当たらないと思いますが」
「どういう意味だ」
「わかっておられるくせに」
ハルヒのストレスで発生するというあの馬鹿げた閉鎖空間とかいう奴。結局、俺は佐々木との一件に関するこの閉鎖空間問題については、古泉に丸投げしていたのであった。
俺は意識的に歩く速度を落とす。
「例の閉鎖空間とやらは一体どうなっているんだ?」
「最近、発生は収まっています。特にあの一件以降」
古泉も歩く速さを俺に合わせそう答えた。
「あの一件?」
「お二人が佐々木さんの高校へ行った時ですよ」
古泉はその時の俺の表情を見て一瞬躊躇した。しかし、すぐに気を取り直すと
「あの事件は涼宮さんの精神にも大きな影響を与えました。本人はそんなことを周囲に気付かせないように努力していますけれどもね」
「影響?」
朝比奈さんとじゃれあうハルヒの後姿を眺めながら古泉に問い返す。
「誰かのため、を思ってしたことが結果的にその人を傷つけてしまった。そのショックは多かれ少なかれ、彼女の精神に影響を与えています」
俺にとっても耳の痛い話だ。
「彼女が純粋に佐々木さんを助けたかったのか、それとも佐々木さんの問題を片付けてあなたに自分を見て欲しかったのかはわかりません。けど、あの一件以降涼宮さんの佐々木さんに対する見方が変わったのは間違いありません」
「どう変わったって言うんだ?」
「彼女にとって佐々木さんは単純な嫉妬の対象ではなく、なんというかもっと別のシンパシーみたいなものを感じたみたいです。憎みたくても、どこか憎みきれないようなね」
目の前を歩くハルヒは普段のままだ。いつも通り朝比奈さんにハルヒがじゃれ付いて、その横を長門が黙々と歩いている。何もかもが当たり前のように今までどおりだ。
「あなたが佐々木さんのために花火を作っている間、彼女がどんな気持ちでそれを見ていたか考えてあげたほうがいいじゃないですか」
「んなもん、俺にわかるか」
「結局、涼宮さんに線香花火は見せてあげていないんですよね?」
「あれは佐々木のために作ったもんだ。だから、佐々木に一番最初に見てもらいたいんだよ」
「それでも、かまいませんから、涼宮さんのこともほったらかしにしてあげないでください」
「やれやれ。いろいろと気を使わなきゃならないってか」
「でも、きっとそれが大人になるということですよ」
夕日を浴びて輝く古泉の笑顔からわざとらしくうっとおしそうに目を逸らす。まだ夕暮れの風は涼しかった。
線香花火は完成した。よって、後俺のやるべきことはもう限られている。
晩飯を食った後、自分の部屋のベッドに座り携帯を開く。ディスプレイにあいつの電話番号を表示する。時刻はこの間電話をかけたときと同じ時刻だ。
数回のコール音の後で、電話が繋がった。
「もしもし」
「こんばんは、キョン」
心なしか、この前電話をかけたときよりも声に元気がある気がする。
「こんばんは。今話しても大丈夫か?」
「あぁ」
「用件は一つだけだ。例の花火だけどな、来週の日曜日にやろう。お前の都合は大丈夫か?」
沈黙。電話の先ではホワイトノイズが鳴っている。俺は佐々木の反応に冷や汗をかいていた。また、俺は何かやらかしてしまったのだろうか――
「ねぇ、キョン。今日は七夕だね」
「え、あぁ。うん」
佐々木から返ってきた予想外の返答に俺は間の抜けた声を出す。突然、一体何を言い出したんだ?
「織姫と牽牛。織姫は優秀な機織り、牽牛もまた働き者の牛飼いだった。でも、二人が結婚すると、夫婦生活の楽しさにかまけて織姫は機を織らなくなり、牽牛は牛を追わなくなった。こうして二人は引き裂かれ、1年のうちのたった1日だけ会うことを許された。これが僕たちのよく知っている七夕伝説だね。子供の頃はなんとも思わなかったけれども、今は少し違う。お互いが強く求め合っているのに、二人が一緒いてはいけないというのはどうしようもなく残酷で悲しい話だね」
佐々木は唐突に返事の代わりに、七夕の話をし始めた。その声色にはどことなく冷めたような色合いがある。
「なぁ、佐々木。知ってるか?」
「……何を?」
何の脈絡もなく話を切り出した俺に答える佐々木の声には戸惑いが感じられる。
「織姫のベガは地球から25光年、牽牛のアルタイルは地球から17光年離れているらしいぜ。アインシュタインの相対論によると、この世に存在する全てのものは光速を超える速さでは移動できないらしい。だから、俺たちが短冊に書いた願い事が織姫と牽牛に届くのは25年後と17年後だ。気が遠くなるよな、そんな想像もできない未来に願い事が叶うなんてな。だから、願い事はその時の自分の願いを想像して書かないといけないらしい」
「それが……どうしたと言うんだい?」
「考えても見ろよ。織姫と牽牛の間ってのは25引く17の8光年も離れているんだぜ。そんな巨大なスケールで生きている連中だ。1年に1回なんて連中にとっちゃ大した障害じゃない。星の年齢は億年単位だから、俺たちの感覚でいうと1年間なんてほんの数秒程度だ。数秒に一回会っているんだったら、それはもうアツアツのバカップル以外の何者でもないな」
佐々木は俺の言葉に何も返さない。俺の胸の中に重い沈黙が広がる。だめだったのか、そう思い始めた瞬間に、電話口の向こうから聞きなれたあの笑い声が聞こえてきた。
「キョン、キミはベクトルの勉強をちゃんとしたほうがいい。単純に地球からの距離を引き算して、ベガとアルタイルの間の距離を求めるなんて大間違いだよ」
電話口の向こうで佐々木の笑い声が休みなく聞こえてくる。よっぽど俺の間違いを指摘したのが嬉しかったのだろうか。思えば、俺たちの会話はいつもそうだった。中学時代から、ずっと。教室での他愛もない会話で佐々木は俺の間違いを見つけると、何が可笑しいのか嬉しそうに笑った。そのときの佐々木の輝くような瞳を俺はまだ覚えている。
「悪かったな。今回の期末テストも数学は赤点ギリギリだ」
「くっくっ。気を悪くしたなら失礼。でも、僕はキミの洞察力の鋭さに大いに感服しているのだよ。確かに、キミの言うとおりだ。星の話をするなら、ものさしを天文学的なスケールにしないといけないね。確かに、その通りだ」
佐々木の笑い声はしばらく続いた。しかし、それが止むと再び沈黙が俺たちの間を支配知る。
「ねえ、キョン」
「何だ?」
短い沈黙を破ったのは佐々木だった。声に先ほどまでの快活さは感じられない。
「キミは、僕のことを怒っていないのかい?」
予想外の言葉に俺は面食らう。怒る? 俺が?
「いや、そんなことは」
「だって、僕はあの時キミに随分とひどいことを言ってしまったから。きっと嫌われてしまったと思った」
俺が佐々木を嫌う? そんなことは考えたこともなかった。ということは、もしかしたら今まで佐々木はそんなことで悩んで――?
「いや、むしろ俺のほうこそお前を傷つけたって」
「怒ってないのかい?」
「あぁ」
「――よかった」
佐々木の漏らした小さな声が携帯電話の電波を通して聞こえた。そしてまた、沈黙。でも、この沈黙は少し心地よかった。
沈黙を破ったのはまたしても佐々木の声だった。
「17年と25年か。長いね」
「えっ?」
「短冊に書いた願い事が届くまでの時間さ」
「あぁ。そうだな。しかも返ってくるまで往復だしな」
「それは違うよ、キョン。伝えたい思いが伝わればそれでいいのだから。片道だけで十分さ。でも、そのことを考えれば、想いを伝えるのに1年以上かかったとしても仕方がないと思えるかな」
「佐々木?」
「キョン、花火を楽しみにしているよ」
「――あぁ、わかった」
俺は窓から夜空を見上げた。天の川は見えないけれども、光り輝く織姫と牽牛ははっきりと見える。きっと、佐々木にも同じように星が見えるだろう。同じ星が見える場所にいるんだ。俺たちは全く離れてなんかいない。
俺が織姫と牽牛宛に送った未来の願い事は『この今を忘れていませんように』『今を大切にしていますように』だった。
忘れたくない、みんなと過ごしている今を。そして、大切にしていたい、そこから繋がる未来を。叶えて欲しい願い事じゃない。俺の未来の俺への約束だ。
最終更新:2008年01月29日 09:18