22-723「アンダー・グラス・ラブソング」-5

13「雨雲を抜けて」


 雨は激しさを増していった。傘を持っていなかった俺は、雨に濡れるがままだった。
「ほらっ」
 俺の少し後を歩いていたハルヒが、小走りに俺に追いつき、小さな折り畳み傘を差し出してきた。
「風邪、引くわよ」
「ん……」
 返事とも呼べないような声で答えた俺に、ハルヒは強引に傘を被せてきた。
 小さな折り畳み傘は、二人の人間をその中に包み込めるほどの大きさもなく、俺とハルヒは二人ともずぶ濡れになるだけだった。お互い、もっと肩を寄せ合って近づけば、雨に打たれずに済んだのかもしれない。けど、俺もハルヒもお互いの距離を縮めることなく、小さな傘からはみ出しながら、帰り道を歩いた。俺にはどうしてもその距離を縮めることが出来なかった。

 駅のプラットホーム。帰り道お互いほとんど口を利かないまま、ここまで帰ってきた。夕方のラッシュアワーの駅には人が溢れ返っていた。突然、降り出した雨に打たれて、濡れ雑巾みたいになった人々の姿も何人か見えた。同じように、ずぶ濡れのハルヒと俺も、その中では大して目立たないただの高校生だった。
「特急が来たぞ」
「キョン」
 目の前に停まった特急電車。ハルヒはこれに乗るはずだ。
「どうした? 電車が閉まるぞ」
 ハルヒはなぜか不安そうな目で俺を見ていた。
「俺は次の普通で帰るから」
「でも、キョン」
「大丈夫だ。俺は次の普通で帰る」
 あのときのハルヒの目を俺は一生忘れることはないだろう。
 ハルヒは小さな声で、わかった、とだけ言い、静かに人の波に紛れて、扉の中へと消えていった。
 目の前の電車の扉が閉まっていく。俺は辺りを見回した。そこに佐々木の姿はなかった。

 それから、どれくらいの時間俺はそこに立ち尽くしていたのだろうか。人々で溢れかえるホームからはとても電車に乗る気分にはならず、目の前を通り過ぎていく車両の流れを見送っていた。
 俺はなぜここにいるんだろう。何を待っているんだろう。
 答えはわからなかった。
 雨が止んだとき、もう陽は沈んでいて、辺りは真っ暗だった。そして、俺はようやく目の前に止まった電車に乗り込んだ。

 ――ガタン、電車が揺れた。電車の中にアナウンスが響き渡る。俺はドアから車内へと目線を移す。今までの出来事を思い出しているうちに、いつの間にか目的の駅まで着いていたらしい。俺はもう一度、窓の外に映る自分自身に目をやる。せめて、鏡の中で映る俺だけは堂々としているように、精一杯の虚勢を張ってみた。笑えるくらい情けない男の顔が見える。

 駅のホーム。この小さな地方私鉄の駅では、降りる人影もまばらだ。
 駅前の小さなターミナル。否応なしに、また佐々木を思い出してしまう。
 ――もういい、今は何も考えずに眠ろう。何も思い出せなくなるほどに。
 そう思い直して、歩き始めた俺の視界に、バス停に張られた小さな広告が入ってきた。
「花火大会」
 俺はそう小さく呟く。あの佐々木とデートもどきをしたときに、俺が佐々木を誘ったのがこの花火大会だった。
 『夏だ! 祭だ! 花火を見に行こう!』
 安っぽい剥がれかけの広告。いくらなんでも情けなさ過ぎるだろう。そう自嘲気味に笑う俺はあの時の言葉を思い出す。
 ――あぁ。僕が好きな花火は、ああいった花火大会の花火じゃない。それは、線香花火だよ
 ――うん。でも、キミが覚えていてくれて嬉しいよ
 線香花火? 覚えていてくれて嬉しい?
 あの時の佐々木の笑顔が頭の中に浮かんでくる。覚えていてくれて嬉しい、俺は一体何を覚えていたんだ?
 あの時、俺は佐々木の言葉の意味がわからず、ただ適当にあわせていただけだった。けど、今やっとわかった、あのときの佐々木の言葉の意味を。やっと、思い出した。

 放課後の校舎裏。昨日の大雨が嘘だったみたいに天気は快晴だ。
 周りに人の気配がないことを確認して、俺は作業を続ける。
「こんなところで一体何をやっているのですか?」
 振り返ると半ば呆れ顔の古泉がそこにいた。
「何って言われても」
 俺は作業の手を休めることなく、そう返した。
「はっきり言って、全くもってしてそのあなたの行動は予想外です。昨日の出来事は我々の耳にも入っています。僕はてっきりあなたが部室にいないのは、それを気に病んでいたからだと思いました。しかし――」
「何だよ。なんか文句があるならもっとはっきり言えよ」
「意気消沈して家で寝込んでいるとか、どこかでふさぎこんでいるというのなら、予想の範囲内だったのですが、さすがにペットボトルに何か粉を詰めてそれを振るという行動は全くもってして予想外中の予想外です」
「そうか? まぁ、そうだな。実は俺も今日が初体験だ」
 そういいながらも、俺はペットボトルに入った粉を注意深くかき混ぜる。
「校舎裏での今のあなたの行動に一体どういう意味があるのです?」
 古泉は腰を落として、俺の手が握っているペットボトルを胡散臭そうな目で見つめている。俺がなにか新しい霊感商法にはまったと言ったら信じそうだ。
「それに、聞いていたほどあなたは落ち込んでいないみたいですし」
 古泉は狐につままれたような顔で俺とペットボトルを交互に見ている。いつも、なんでも知ってる風に振舞うこいつが困惑している表情を見るのはなかなかに面白い。
「その中に入っている粉みたいなのはなんですか?」
 痺れを切らしたように古泉はペットボトルの中身を指差した。
「あぁ、これか」
 俺は得意そうにそのペットボトルを持ち上げ、中身をしたから見上げる。
「これはな、火薬」
「はぁ?」
 古泉が口と目を開けて俺を見ている。これはまためったに見れない面白い表情だ、写真撮ってやろうかな。
「作り方を長門に教わったんだ。さすがに部室で火薬作るわけには行かないからな。こうして人のいない校舎裏にいるんだ。あぁ、別に復讐とかそんなんに使うわけじゃないから安心しろ」
 古泉はそれでも納得できない表情だ。まぁ、確かにある日突然知り合いが火薬を作っていたら、そりゃそういう風になるわな。
「あ、キョンくーん」
 俺と古泉の摩訶不思議な沈黙を破るように、朝比奈さんの甘い声が響いてきた。校舎の角からこちらに小走りでやってくる朝比奈さんの姿が見える。
「あ、どうもすみません」
「あ、別にお礼なんていってもらわなくても大丈夫です。でも、こんなの一体何に使うんですか? 確かに綺麗ですけど」
 そう言いながら、朝比奈さんは手に持った小さな紙袋を俺のほうにそっと差し出した。
「ありがとうございます。助かりました」
「何ですか、それは?」
 古泉が不思議そうに俺の受け取った袋を覗き込んでくる。
「あぁ、これか? ほれ」
 そう言って、古泉に袋の中身を見せてやる。その中には、色とりどりの紙が入っていた。
「和紙、ですか?」
「そうです。あの、普段私がお茶を買っているお店の人に分けてもらったんです」
 朝比奈さんが代わりに答える。そして、俺に微笑みを向けてくれた朝比奈さんに、軽く親指を立てて応える。
「てっきり塞ぎこんでいるとばかり思っていたのに。一体、あなたはなんでそんなに元気で、そして何をするつもりなんです?」
 もはや、その表情に諦めの色を浮かべて古泉が尋ねてきた。
「やらなきゃならないことがあるからな。へこんでいる訳にはいかねえよ」
「あなたのやるべきこと?」
「そう」
「それは一体何なのですか?」
「作ってみせるんだよ。俺の手で、線香花火を」
 得意げに右腕でガッツポーズを作って見せた俺を、古泉と朝比奈さんは不思議そうな顔で見ている。そして、梅雨が明ければもう夏がやってくる。また、夏がやってくる。



14「おじいちゃん」


 9月の半ば、夏休み明けの倦怠感からようやく抜け出せるような頃だった。その日が9月の割に涼しくて、過ごしやすかったことを覚えている。そんな中学3年の2学期のある日だった。
「うぃーす」
 鞄を肩に担いで、いつも通りに教室へと入ってきた俺は、すぐにその異変に気が付いた。
 隣の席にいるべき人物がいない。
「あれ、佐々木は?」
 この時間ならもういるべきはずの人物が見当たらない。佐々木は真面目な生徒で、遅刻ギリギリで学校にやってくる俺を教室で待ち構えているのが常だった。風邪でも引いたのかな、そんなことを考えながら席へ付こうとすると、俺の斜め前の席に座った岡本がその質問に答えた。
「あ、キョンくん。佐々木さんなら今日は忌引きでお休みらしいわよ」
「忌引き?」
「うん。おじいさんが癌で亡くなられたんだって」
「――そうか。わかった。ありがとう」
 そう言って俺は岡本に軽く右手を挙げた。
 席に着いて、窓の外を見上げた。空は今は晴れている。でも、天気予報だとこれから天気は崩れて雨が降るらしい。
 佐々木のおじいさん――
「線香花火、か」
 頬杖を付いて遠くの雲を眺めながら、俺はちょうど1ヶ月ほど前の出来事を思い出していた。

 8月の暑い日。予備校や塾の類はこの夏休みを天王山などと位置付け、まさに連中にとっては掻き入れ時のシーズン真っ盛りなのである。俺も例に漏れず、その夏は来るべき高校受験に備えて夏期講習などというものに参加していた。そして、その日も半分睡魔と闘いながら授業を聞き終え、俺は鞄に教科書を詰めて帰り支度をしていた。
「やぁ、キョン」
 同じ教室で授業を受けていた佐々木が、一足先に帰り支度を終え、軽く右手を挙げながら、俺の席の傍までやって来た。
「ん、どうしたんだ、佐々木?」
 学校のある日は、俺が佐々木を自転車の後に乗せて予備校へ来るようにしていたが、今は夏休みだ。お互い、自分の家から別々に通っているため、休みの間は俺と佐々木が会話することは少なかった。
「これから、キミのスケジュール帳には何か予定が書き込まれているかい?」
「いや、何も」
 佐々木は、そうか、と言って柔らかい光をたたえた目で俺を見つめてきた。
「じゃあ、これから花火をするだけの時間は取れるかな?」
「ん。別に大丈夫だけれども」
 そう言って、俺は佐々木の大きな瞳を見つめ返した。佐々木がそうやって予備校帰りに寄り道をしようと、誘ってくるのは俺にとっては非常に予想外の事態だった。目を凝らして佐々木の真意を探る、でも俺にはよくわからなかった。
「そうと決まれば、早速行こう」
「え、今すぐにやるのか?」
「うん」
 俺を急かすように、背中を向けた佐々木は振り返りながら短くそう答えた。柔らかく唇の端を伸ばして、俺と目を合わせると、また背中を向けて先を歩き始めた。佐々木にしては珍しく行動的だった。時計を見ると、時刻は午後6時。まだ蝉の鳴き声がうるさい。しかし、もうそろそろ陽が落ちる頃合だった。

「ここがいいかな」
 自転車を押しながら、佐々木の後をついて歩くこと10分。俺たちは駅の近所の小さな公園にいた。
「あまり人がいなくていいね」
「当たり前だ。こんな時間じゃ、公園で遊んでいたガキ共も家に帰っている」
 佐々木は深呼吸するように辺りを見回した。そんな佐々木の姿を俺は後から見ていた。まるで佐々木がこの公園を貸切にしたみたいに見えた。
 人気のない小さな公園。錆び付いた滑り台が、静かに佇んでいる。
「ちょうどあそこのベンチが空いているみたいだ。あそこでやろう」
 佐々木は公園の隅の小さな塗装のはげたベンチを見つけると、そこに向かって静かに歩き出した。もう、陽はほとんど沈んで、少しばかり涼しい風が吹いていた。
 なんだって突然花火をやろうなんて言い出したんだか――
 俺は軽く頭を掻きながら、佐々木の後に付き従った。

「なぁ、佐々木。花火っていってもどんなのをやるんだ?」
「花火、かい?」
「あぁ」
 俺の頭の中に打ち上げ花火や、派手に炎を吹き上げる花火の姿を浮かべていた。
 そんな俺を見て、佐々木は少し得意そうに笑うと
「これだよ」
 鞄の中から何かを取り出した。佐々木はその手に小さな紙で出来た箱を載せて、俺に見せた。
「何だ、それ?」
 スーパーとかコンビニとかで売っているビニール袋に入った花火を想像していた俺は、少し面食らった。その箱は、中に花火ではなく和菓子でも入っていそうな感じだった。
「ほら」
 佐々木がその箱のふたを開けた。その開ける様は音もなく滑らかで、静かだった。ふたが外れる瞬間に柔らかい空気の音がした。箱の中には、紐みたいなものが5本並んで入っていた。
 俺は訝しげにその箱の中身を覗き込んだ。
「これが花火?」
「うん」
 いまだに納得できない表情でいる俺が可笑しいのか、佐々木は少し目を細めて
「線香花火だよ」
 そう言って、その中の一本を、親指と人差し指でつまみあげてみせた。

「ふーん」
 俺も佐々木に倣って一本手に取ってみた。紙をねじって出来たらしいそれは、柔らかい肌触りがした。
「線香花火が珍しいのかい?」
「いや」
 俺だって線香花火を知らないほど世間知らずなわけじゃない。ただ――
「なんつーか、こう、俺のイメージじゃ線香花火って、ああいうパックの花火の脇役みたいなイメージでな。なんか、こうもっと地味というかなんというか」
 俺のつまみ上げた線香花火は、まるで虹みたいな色をした綺麗な紙で出来ていた。
「これこそがれっきとした線香花火さ。しかし、キミになじみがないのも無理はない。今では伝統的な形の線香花火は絶滅危惧種だからね」
 佐々木は大切そうに目の前の線香花火を見つめていた。
「けど、なんでお前がそんなに貴重な花火を持っているんだ?」
「ああ、それはね、僕のおじいちゃんが昔ながらの花火職人で、毎年夏になると線香花火を作ってそれを送ってくれるんだ」
 色とりどりの線香花火を軽く指で遊びながら、佐々木はそう言った。その仕草があまりにも子供っぽくて、佐々木の顔が普段とは違うように見えた。
 そんな佐々木の姿もそうだったが、俺は佐々木がおじいちゃんと言った事が少し引っかかっていた。なんか、普段のこいつのイメージだと「僕の祖父が」とか言い出しそうだったからな。
「ん、どうかしたのかい?」
 佐々木は俺の目線に気がついたようで、不思議そうに尋ねてきた。
「いや、なんでもない。早くやろうぜ」
「そうだね」
 そして、佐々木は鞄の中から小さなマッチとろうそくを取り出した。

 地面にろうをたらして、そこにろうそくを立てた。火をつけたろうそくに線香花火の先をくっつけた。炎が静かに先端に燃え移った。ゆっくりとその火が上っていくと、やがて小さな光が生まれ、火花が瞬いた。線香花火を手にしゃがみこむ佐々木を俺は見下ろす形で、その光を見ていた。
「綺麗だな」
 なんともなしに俺はそう呟いた。その暖かみのある光の中で、まるで時間が止まっているような錯覚がした。
「うん。そうだね」
 火薬が静かに燃える音が、まるで生きている鼓動みたいに聞こえた。目の前の光の玉が少しずつ大きくなっていった。
「すげえ。なんか夜空の星をそのまんま取ってきたみたいだ」
 俺のセリフを聞いた佐々木がくすっと笑った。
「何だよ」
「いや、キミがそんな詩的なセリフを口にするのが面白くてね」
「悪いか」
 俺は口を尖らした。佐々木はそんな俺の姿を愉快そうに上目遣いに見上げると
「いや、すばらしいメタファサイズだよ」
 そして、目線をまた花火の先に落とすと
「そうだね。今僕たちは星を見ているんだね」
 そう、夏虫たちの鳴き声の中に消え入りそうな声で呟いた。

「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「なんで、花火は5本しかないんだ?」
 俺たちは一本一本花火を楽しみ、4本目の花火を見ている最中に佐々木にそう問いかけた。花火は、それぞれ作り方が違うらしく、異なった色合いを発して俺たちを飽きさせなかった。
「どうして、そう思うんだい?」
「いや、5本って数としては少ないだろ。すぐに終わっちまう。おじいさんが花火職人なら、もっといろんな花火をくれてもいいはずなのに」
「あぁ、そういう意味かい」
 佐々木はそう呟くように答えた。それとほぼ同時に4本目の花火の玉が地面に落ちた。
「あ、落ちちまった」
 俺はその花火の玉が地面に落ちて、光を失っていく様をどこか寂しい気持ちで見ていた。
「おじいちゃんの口癖なんだ」
「え?」
「線香花火っていうのは作り方は簡単だけれども、作るのは難しいんだよ。そして、そうやって作った花火はほんの数十秒しか持たない――」
 そういいながら佐々木は最後の1本をその手に取った。
「でもね。それで十分なんだ。ほんの数十秒しか輝けないなら、僕たちはその数十秒の間全神経を目の前の輝きに注げばいい。その瞬間を忘れないように、胸に刻み付けるように、ね」
 そして、佐々木はゆっくりとした手つきで最後の一本に火をつけた。夏の湿気を帯びた柔らかい風が俺たちを包んでいた。
「僕たちが生きていく中で、本当に大切な瞬間っていうのはきっとそう多くはない。だから、5本っていうのはむしろ多すぎるくらいさ」
 そう言って、佐々木は俺に笑いかけた。その表情は線香花火の光に照らされて、俺はそこになんとも表現しがたい懐かしさみたいなものを感じた。
「そうか」
「うん。数少ないものだからこそ、きっとその限られた瞬間が、貴重な一瞬として僕の心に刻まれていくんだよ。大切な記憶として、ね」
 俺はなんと答えていいかわからなかった。ただ、この瞬間、この夏が俺にとってもう二度とない、たった一度の貴重な時間であることだけは、その線香花火の光の中で十二分に伝わった。
「なぁ、佐々木」
「なんだい?」
「もしよかったら来年もやろう。おじいさんは毎年花火を送ってきてくれるんだろ?だったら、来年も誘ってくれよ」
 俺は特に何も考えずに、その場の思いつきで来年の約束を提案してみた。
「……そうだね。そうなれるといいね。こうしてまた、キミと花火が見れるといいね」
 そして、佐々木はただ静かに輝く線香花火を見つめているだけだった。

 それから、約一ヶ月後、俺はその佐々木のおじいさんが亡くなったことを俺は知った。おじいさんが病気で辛い身体をおして、どんな気持ちで佐々木にこの最後の花火を送ったかはわからない。そして、佐々木がどんな気持ちでその貴重な最後の花火を俺と見たのかも。
 唯一つその時はっきりとしていたのは、あの時交わした何気ない約束は、きっともう果たされることはないだろうということだけだった。



15「星を創る」


「なぁ、長門」
 部室に入るやいなや開口一番、部室の奥に鎮座した長門に声を掛けた。
「なに」
「線香花火の作り方を教えてくれ」
 俺の突然の頼みに、長門はゆっくりと読んでいた本から視線を俺へとずらし、ほんの少しだけ首を傾げてみせた。

 俺はペットボトルの火薬をかき混ぜる手を少し休めて、空を仰いだ。
「ふぅー」
 古泉や朝比奈さんは部室に帰ったし、今ここには俺しかいない。かんかん照りの太陽の下での作業はかなり苦しいが、贅沢は言っていられない。これからますます暑くなる。本格的に夏が来るまでに仕上げないと。
 ちょっと休憩して、そう思い直した俺は長門からもらったレシピに再び目を通す。硝酸カリウム、硫黄、木炭、鉄。化学の苦手な俺には見るだけで頭が痛くなりそうな文字が並んでいる。まぁ、どこからともなく長門が用意してくれた薬品を、計って混ぜるだけなのでそんなに苦労はしなかったけど。
 火薬を混ぜる作業は、大体これでいいだろうと見切りをつけて、次に朝比奈さんからもらった和紙に火薬を包む作業に移る。注意深くペットボトル中の粉を薬包紙に移して、それを小さじですくって和紙の中央に乗せる。これをねじって紙縒りを作れば、完成だ。
「よし、出来た」
 出来上がった花火を指でつまみあげて、改めて眺めてみる。紙縒りが捻じ曲がっていて不細工だが、最初はこんなもんでいいだろう。
 さすがに校舎裏で花火をしているところを見つかったらやばいだろうが、一本だけなら大丈夫だろう。そう思って、座っている脇に置いておいたライターを拾って、恐る恐る花火に火を点ける。
 ゆっくりとライターの日に近づけた紙縒りの先に静かに火が移ったと思った瞬間、ぽんっと小気味のいい音を立てて、一瞬で火花が燃え尽きた。辺りに焦げ臭い火薬の匂いが漂う。
「あちゃー」
 火薬の量が多すぎたのか、それとも俺の紙のより方がまずかったのか。とにかく大失敗だった。これじゃ、花火じゃなくてただの火薬を包んだ紙だ。
「へったくそ」
 その時、後から声がした。声を聞いただけで、相手が誰かわかった俺は、ゆっくりと振り返る。そこではハルヒが両手を腰に当てて俺を見下ろしていた。
「しゃあねえだろ。初めてならこんなもんさ」
 後に立つハルヒを見上げながら、両手を軽く挙げて俺はそう答える。思い返せば、これはあの駅で別れて以来のハルヒとの会話だった。
「神聖な部活をさぼって何をやっているのかと思えば……」
 そうやってハルヒは腰に手を当てて首を軽く振りながら、大げさなため息を付いてみせた。ハルヒの後の太陽が眩しい。
「ほんっとどんくさいわね」
 すっ、と俺の隣にやって来たハルヒはそこにしゃがみこんだ。風に吹かれたハルヒの前髪が俺の唇に当たる。ハルヒの視線の先には、無残に焼け焦げただけの紙が転がっていた。
「うるせえな。わざわざ俺をバカにしに来たのかよ」
 俺はわざとらしく悪態をつく。
「あら、あたしだってたまにはあんたのこと褒めたいのに、あんたがろくなことしないんじゃない」
 お前にだけは言われたくない。
 と、俺の隣にしゃがみこんでいたハルヒは、そのままそこに座り込んだ。
「てっきりあんた落ち込んでいると思っていたのに、思っていたより元気そうね」
 ハルヒは両手を背中の後ろに置いて、軽く足を伸ばしながらそう呟くように言った。
「そうでもねえよ」
「え」
 ぶっきらぼうにそう答えた俺を、ハルヒは不思議そうに俺の顔を眺めている。
「落ち込んでいないって言ったら嘘になる。でも、俺が塞ぎこんでも何も解決しないだろ」
 ハルヒは軽く鼻を鳴らすと
「やっぱ、突然不器用極まりないあんたが花火なんか作り出したのは佐々木さんのため?」
 一言が余計だが、その通りだ。
「あぁ、約束したからな」
「そっ」
 自分から聞いてきたくせに、ハルヒは俺の答えを聞くとそう一言だけ言って、視線をどこへともなく向けた。そんなにどうでもいいなら、訊かなければいいのに。
「古泉くんやみくるちゃんから、あんたが部活さぼって校舎裏で花火を作っているって聞いたときは驚いたわよ。ショックで高校中退して花火職人になるとか言い出すんじゃないかと思って」
「何だよ、そりゃ。意味不明だな」
「意味不明なのは、あんたの行動でしょ」
 校舎裏で、無残に焼け焦げた花火の残骸を前にして、俺とハルヒは隣り合って座っている。ビルの隙間を縫うように吹く風が心地いい。
「部室に戻ってきなさいよ」
 何の前置きもなくハルヒはそう言った。
「いきなりなんだよ」
「あんたが部室にいないと、その古泉くんのゲームの相手もいないし、みくるちゃんも心配しているし」
「あんな木造校舎で火薬を取り扱うわけにはいかないじゃないか」
「あんたみたいなどんくさいのが、校舎裏で一人火薬混ぜてるほうがよっぽど危険よ。それに部室には物知りの有希もいるし」
 ハルヒは矢継ぎ早に言葉をつむぎだすと、言うべきことは言ったとばかりに俺の顔をじっと見ている。
「わかったよ。みんなの顔が見れないのも寂しいし、こんなとこで毎日お前と二人っきりでいると今度はどんな噂を立てられるかわかったもんじゃないからな」
 ハルヒは慌てて立ち上がり、口をパクパクさせて何かを言おうとしているみたいだが、うまく言葉が出てこないようだ。俺はそんなハルヒを放っておいて、さっさと散らかした花火セット一式を手に持つと、先に部室へと歩き出した。
「あ! ちょっと、待ちなさいよ」
 ハルヒは立ち上がって、大声を上げながら俺を人差し指で指した。そして、俺の背中を追いかけてきたハルヒは追いつくと同時に、俺の太ももに蹴りを入れてきた。
「いてっ。お前何しやがる」
「団長を無視した罰よ」
 そう言い放つと、ハルヒは気持ちよさそうに髪の毛を風になびかせながら、俺の前を歩いていく。
「やれやれ」
 俺はなんともなしにハルヒの後について歩く。そこに何も特別な理由はない。ただ、そうすることに慣れて、そうすることが当たり前になってしまっているだけだ。
 中学3年の頃と、俺は変わった、か。確かにそうかもしれない。前を歩くハルヒの背中を見つめながらそう思う。高校生になって、俺もハルヒも少しずつ変わって来ている。そして、きっともちろん佐々木も。

 勇気を出してコールボタンを押す。携帯電話の間抜けな呼び出し音が遠くに聞こえる。あいつは電話に出てくれるだろうか。あれから何のコミュニケーションも取っていない。その空白がどうしようもなく遠く感じられる。
 そして、短い電子音ともに呼び出し音が消えた。静かなホワイトノイズが聞こえる。
「……もしもし」
 しばらくの間を置いて、電話の向こうから声が聞こえてきた。
「よう、佐々木」
 俺は精一杯明るく取り繕った声を出してみせる。いつも通り、普段通りに話しかけるように。
「うん」
 しかし、返ってきたのは煮え切らない返事だった。俺は自分のベッドのシーツを少し強く握り締める。やはり緊張している。あの時の光景がまた頭の中に蘇る。あのときの佐々木の声が響く。
「元気か?」
 緊張に耐え切れなくなった俺は、間を持たせるために間抜け極まりない質問をしてしまった。
「……ほどほどにね」
 電話の向こうの声に活気は感じられない。
 時刻は午後9時。声が小さいのは、周りに人がいるような場所だからだろうか。おそらく予備校に通っているであろう佐々木の、授業が終わる時間を見計らったつもりだったのだが。
「今話しても大丈夫か」
「うん」
 いつぞやかに佐々木を遊びに誘ったときよりも、話しづらい。沈黙の一つ一つが俺の胸にたまって、その重みで今にも倒れこまんばかりだ。
「佐々木、俺約束したよな」
「え?」
 電話の向こうから驚いた声が聞こえた。
「花火しようって約束したよな、前に」
「……あぁ、ちょうど1ヶ月くらい前の話だね」
「違う。約束は2年前だ」
 沈黙。佐々木は覚えているのだろうか、あのときの他愛もない約束を。2年前のあの夏の日を。
「でも、キョン。悪いけど、あの約束は果たせないんだ」
 よかった、覚えていてくれた。伝わった。
 俺は小さな安堵に胸をなでおろした。
「大丈夫だ。あの約束は必ず果たしてみせる。だから、7月の一日だけスケジュールを空けといてくれ。いつになるか明言できないのが、申し訳ないけどな」
「いや、けど」
「お前の親友を信じてくれ。一度した約束はきっちり守る」
「……キョン?」
「大丈夫だ。一年すっぽかしちまった埋め合わせは必ずしてみせるから」
 少しの沈黙。俺は伝えたい言葉は伝えた。
「……悪いけどもうすぐ電車に乗るんだ」
「あぁ、伝えたいことは伝えたから大丈夫だ。こんな夜にすまなかったな。身体壊すなよ。じゃあ」
「……じゃあね」
 電話は今までの緊張が嘘みたいにあっさりと切れた。 何も明確な返答をせずに、電話を切った佐々木の意思は俺にはわからない。俺は折りたたんだ携帯をベッドサイドに置くと、ベッドの上に仰向けになって、部屋のカレンダーを見る。7月まであと1ヶ月。
 もう一度会うとき、あの頃に置いてきたものをもう一度拾い上げる。時間に埋もれて見失ってしまう前に。あの頃からお前の心がまだ眠っているというのなら、俺がその目を覚ますのを手伝ってやる。
 俺がお前を待っている。
 俺は待っている。
 俺はお前が目を覚ますのを待っている。
 星を創る。もう一度、あの夏の日にお前と一緒に見た星を創ってみせる。
 俺は一人ベッドの上にカエルみたいに座り込んで、そう誓っていた。


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最終更新:2008年01月29日 09:18
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