張孝忠

張孝忠 ちょうこうちゅう

730-791
中唐の武将・藩鎮。本名は張阿労。字は孝忠。奚の出身で、勇敢さは燕・趙の一帯では王没諾干(後の王武俊)と並び称された。弓射をよくして供奉仗内となり、安禄山の部将となり、九姓突厥を破った。安禄山が叛くとこれに従って先鋒となった。史朝義が敗れると、唐に帰順し、左領軍将軍に任じられ、部下とともに成徳軍節度使李宝臣の配下となり、左金吾衛将軍に任じられ、張孝忠の名を下賜された。李宝臣に易州を任せられ、田承嗣が冀州に侵攻すると撃退し、朱滔の戦いでは、騎兵七千を指揮して幽州を攻撃した。李宝臣が死ぬと李惟岳が軍に推戴されたが、朝廷はこれを拒否して討伐に当たった。朱滔の説得により唐に易州とともに帰順し、李惟岳を攻撃して束鹿で破り、功によって義武軍節度使・易定滄等州観察使に任じられた。朱滔が叛くと、攻撃を受けたが、李晟らの救援により撃退した。子に張茂昭張茂宗張茂昭がいるが、唐に帰順した際に家族は虐殺されていた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻一百四十八 列伝第七十三 張孝忠
『旧唐書』巻一百四十一 列伝第九十一 張孝忠

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最終更新:2024年05月29日 21:04
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