楊復恭 ようふくきょう
?-894
唐末の宦官・権臣。字は子恪。旧姓は林氏。楊玄翼の養子。
楊復光の義従兄。
龐勛の乱で戦功があり、宣徽使・枢密使となる。
田令孜と対立して罷免されたが、田令孜が
僖宗とともに興元府に逃亡すると、再度枢密使となり、僖宗が長安に帰還すると田令孜に代わって左神策中尉・六軍十二衛観軍容使となり、魏国公に封ぜられた。昭宗を擁立して金吾上将軍となったが、権勢を疎まれた。楊復恭は子を州刺史や節度使とし、また養子六百人を諸道軍の監軍とした。外戚の
王瓌が節度使を求めると暗殺した。養子の一人の
李順節が昭宗に取り込まれて対立し、大順二年(891)兵権を奪われて致仕を願い、裁可されたが、その使者を殺害したため、討伐を受け、敗れて
楊守信らと共に興元の
楊守亮の元に逃亡。
李克用・
王行瑜に討伐され、景福元年(892)陥落して逃走したが、
韓建に捕らえられて処刑された。天子のことを試験管と門下生に例えた「定策国老、門生天子」の言いで有名である。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年09月09日 01:51