唐書巻二百二十一下
列伝第一百四十六下
西域下
康 寧遠 大勃律 吐火羅 謝䫻 識匿 箇失密 骨咄 蘇毘 師子 波斯 拂菻 大食
康国(サマルカンド)は薩末鞬とも颯秣建ともいう。北魏の時の悉万斤である。その南百五十里のところに史国(キッシュ)、西北百余里のところに西曹、東南百里のところは米国(マイムルグ)に属し、北五十里のところに中曹がある。康国は、那密水(ザラフシャン川)の南にあり、大きな城を三十、小さな砦を三百それぞれ有していた。君主の姓は温で、もともとは月氏人であった。初めは祁連山脈の北にある昭武城に住んでいたが、突厥に敗れ、次第に南に移住してパミールにより、その地に住むようになった。庶子が枝分かれし分家して、安国(ブハラ)、曹国(カブーダーン)、石国(タシュケント)、米国(マイムルグ)、何国(クシャーニーヤ)、火尋(フワーリズム)、戊地(ベティク)、史国(キッシュ)に分かれ、世の人はこれを九姓と呼ぶが、この九つの国はみな、氏は同じ昭武であった。康国の土壌は肥沃で穀物を産し、良馬を有し、兵卒は周辺諸国よりも強かった。人々は酒をたしなみ、街道で歌舞することを好んだ。王は帽氈(フェルト帽子)をかぶり、黄金や諸々の宝石で飾った。女性は低いまげをゆい、その上に黒い頭巾をかぶり、金の花をいくつもつないでいた。子供が生まれると石蜜(氷砂糖)を食べさせ、手のひらに膠を握らせる。大人になったら蜜のごとく甘言を弄し、宝を手に入れたら手放さないよう願ったと言われている。子供は旁行書(横書きの胡書)を習う。商業にたけ、利を好み、男は二十歳になると他国に出かけてゆき、利益のあるところならば、どこへでも行かぬところはなかった。十二月が年の初めで、仏教を尊び、祅神(ゾロアスター教の神々)を祀る。機織りが非常に巧みであった。十一月、鼓をうち、舞をまって乞寒をし、お互いに水をかけあって楽しんだ。
隋の時、王の屈木支は西突厥可汗の娘を娶り、突厥の臣下になった。屈木支は武徳十年(627)、初めて唐に遺して方物を献上した。貞観五年(631)、ついに臣を称したいと請願したが、
太宗は「朕は虚名を取って人民を苦しめる事を憎む。もし康国が唐の臣下になれば、危急をともにせねばならぬ。康国を救うために唐の軍隊を万里も離れた遠い地に赴かせることが、朕の意志であろうか」と返答し、康国からの申し出を拒絶した。その後また康国は遺使して獅子を献上した。太宗は遠方から獅子が来たことを珍しがり、秘書監の
虞世南に命じて賦をよませた。これより康国は毎年朝貢し、金の桃、銀の桃を献上した。太宗は詔して苑内に金桃と銀桃を植林させた。
高宗の永徽年間(650-656)、康国の地を康居都督府となし、王の払呼縵(ワルフマン)を都督となした。万歳通天年間(696)、武后は国の大首領の篤娑鉢提(トゥカスパタグ)を主とした。王が亡くなると、息子の泥涅師師(ナルサス)が即位した。泥涅師師が亡くなると、国人は突昏(タルフン)を立てて王とした。開元六年(718)、鎖子の鎧、水晶の杯、瑪瑙の瓶、駝鳥の卵、越諾市、小人、胡舞を舞う舞姫を献上してきた。王の烏勒伽(グーラク)は大食(アラブ)と数戦して勝てなかったので、開元七年(719)、
玄宗に援軍を要請したが、玄宗は許さなかった。これより久しくして、開元十九年(731)、烏勒伽は息子の咄曷(トゥルガル)を曹国の王に、息子の黙啜を米国の王にしたいと請願したので、玄宗は詔を下して許可した。烏勒伽が死んだ。玄宗は康国に遺使して息子の咄曷を次期王として立て、欽化王に封じ、母親の可敦を郡夫人に封じた。
安国(ブハラ)は、布豁とも捕喝ともいい、元魏(北魏)の忸蜜である。東北は東安、西南は畢(バイカンド)があり、みな百里の距離のところにある。西は烏滸河(アム・ダリヤ)の河岸に沿い、阿濫謐城において統治した。つまり、康居の小首長だった罽王の故地である。大きな城は四十、小さな砦は千あまりあった。勇敢で壮健なものを募って、柘羯(チャカル)にした。柘羯というのは、中国の戦士と同じようなものである。武徳年間(618-626)、遣使して朝貢してきた。初め方物を献上したので、太宗は安国の使節をあつく安んじ、「西突厥はすでに降伏したから行商を行なうがよい」と言ったので、胡人たちはたいそう喜んだ。安国の王もまた名馬を献上してきた。王は、安国の王位は代々一姓で継承し、自分は二十二代目になると自称していた。この年、東安国もまた入朝し、こちらは分家して姓を継承して十代目になると言った。
東安国(カルガン)は小安国とも喝汗ともいい、那密水(ザラフシャン川)の北にある。東二百里あまりのところに何国、西南四百里のところに大安国がある。治所は喝汗城であった。また、鷿斤ともいった。大きな城が二十、小さな砦が百あった。顕慶年間(656-661)、阿濫を安息州とし、王の昭武殺を刺史とした。鷿斤を木鹿(メルブ)州とし、王の昭武殺を刺史となした。顕慶十四年(726)五月、安国の王の篤薩波提(タグシャーダ)は、弟の阿悉爛(アルスラン)・達払耽発黎を派遣して来朝させ、馬と豹を献上した。これより八年前の開元七年(719)二月、王は波斯(ペルシア)産のラバを二頭、払菻(ビザンツ)産の刺繍の蹴鞠を一つ、鬱金香(サフラン)、石蜜などを献上し、妻の可敦は柘辟の大きな蹴鞠を二つ、刺繍の蹴鞠を一つ献上した。篤薩波提は自身に帯(ベルト)と鎧杖、妻の可敦に袿(うちき)と䙱(ワンピース)を賜らんことを願った。
東曹国(ストゥルーシャナ)は、率都沙那とも蘇対沙那とも劫布呾那(カプーダーン)とも蘇都識匿ともいい、およそ四つの名を持っていた。山の北にある。漢の時の弐師城の地にあった。東北二百里のところには倶戦提(ホジェンド)がある。北の石国、西の国、東北の寧遠はみな、およそ四百里のところにある。五百里のところには吐火羅がある。野叉城と言う城があるが、この城には巨大な窟があり、かんぬきと錠で厳しく守られており、年ごとにここでお祭をした。人は窟に向かって立ち、中から煙が出てくるが、この煙に先にふれたものは死ぬ。武徳七年(624)七月、東曹国は康国とともに遺使して入朝した。東曹国の使者は、「わたしは力持ちです。聞くところによりますと秦王は武勇にすぐれていらっしゃるとか。どうか、わたしを秦王の部下にして下さい」と言ったので、高祖はたいそう喜んだ。
西曹国(イスティーカーン)は、隋の時の曹国である。南は、史国(キッシュ)および波覧に接している。治所は瑟底痕城(イスティーカーン)であった。東北にある越于底城には、得悉神の祠があり、国人はこれに仕えていた。黄金の具器があり、その左側に「漢の時、天子に賜わった」と刻まれていた。武徳年間(618-626)に入朝した。天宝元年(742)、王の哥邏僕羅は他者を派遣して方物を献上した。
玄宗は詔を下して曹国の懐徳王に封じた。哥邏僕羅は上言し、「亡くなった祖父以来、わが国は天可汗を奉じ、唐の人々と同じように徴発されて、天子をお助けして征伐したいと願っていました」といった。天宝十一載(752)、東曹国の王の設阿忽と安国の王が黒衣大食を征伐したいと請願したが、玄宗は彼らを慰めたものの出兵は許可しなかった。
中曹国(カブーダーン)は西曹国の東にあり、康国の北にあった。治所は迦底真城であった。その国のものは身長が高く、大きく、戦に長じていた。
石国(タシュケント)は、柘支・柘折とも赭時ともいう。漢の時の大宛の北辺にあった。長安を去ること九千里であった。東北に西突厥、西北には波臘(フワーリズム)があり、南二百里のところは倶戦提(ホジェンド)と接し、西南五百里のところに康国があった。この国は千余里で、西の果てには素葉川(チュー河)があった。王の姓は石で、治所は柘折城であった。この城は、かつての康居の小王の窳匿城の地である。南に薬殺水(ヤクサルテス川)が流れているが、中国ではこの川を真珠川と呼んでいる。また質河ともいう。東南に大山があり、瑟瑟(ラピスラズリ)を産出する。この国の民は戦いが上手であり、この地は良馬を産した。隋の大業年間(605-618)初頭、西突厥がこの国の王を殺し、特勒の匐職に石国を支配させた。武徳(618-626)・貞観年間(627-649)に、しばしば方物を献上した。顕慶三年(658)、瞰羯城を大宛都督府とし、石国の王瞰土屯摂舎提於屈昭穆に都督を授けた。開元年間(713-741)初頭、この国の君主を莫賀咄を吐屯に封じた。その後、功績を立てたので石国王となした。開元二十八年(740)、石国王を順義王に冊立した。翌年(741)、王の伊捺吐屯屈勒が奏上し、「いま突厥はすでに天可汗に従属し、ただ大食(アラブ)だけが諸国の災いになっています。どうか大食を征伐させて下さい」と言って請したが、
玄宗は許可しなかった。天宝年間(742-756)初頭、王子の那倶車鼻施を懐化王に封じ、鉄券を賜わった。これより久しくして、安西節度使の
高仙芝が、石国が蕃臣の礼を欠いているといって石国を弾劾し、石国を征伐したいと玄宗に請願した。それで石国の王は降伏することを約束した。高仙芝は使者を遣わして石国王を護送させたが、
開遠門まで来たところで、これは石国から献じられた捕虜だという事で門の下で斬り殺した。西域の人々はこれを見てみな恨んだ。石国の王子は怒って大食のもとに逃げて援軍を要請し、タラス城を攻撃して高仙芝の軍勢を打ち破った。これ以後、石国は大食の臣下になった。宝応年間(762-763)、石国は遺使して朝貢してきた。
砕葉(スイアーブ)は、安西(クチャ)から西北千里のところにあり、勃達嶺(ベダル峠)によって南は中国と接し、北は突騎施設の南辺と接していた。西南を二千里すすめばパミールに達する。南に流れる川は、中国を経て海(ロプノール)に入り、北に流れる川はソグドの地を経て海(アラル海)に達する。北に三日の行程を進んだ所で雪海を越える。ここは春や夏でも常に雪が降る。勃達(ベダル)嶺を越えて北に千余里行くと細葉川に達する。東の湖を熱海(イシククル)という。地は寒いが凍らない。西には碎葉城(アク・ベシム)がある。天宝七載(748)、北庭節度使の王正見が安西(のちの碎葉城)を討って碎葉城を壊した。細葉川の長さは千里で、異姓である突厥の兵士数万が住んでいる。耕作するものたちはみな甲冑を身につけ、碎葉を略奪しては住民を奴婢にした。西はタラス城に属している。石国は常に兵士を分散してこの城を安んじた。ここから西海(インド洋・地中海)に至るまでの地域は、三月から九月まで、いまだかつて雨が降ったことはなく、人々は雪解け水を使って田を灌漑した。
石国の東南千餘里には、怖捍(フェルガナ)がある。四方には山がめぐっており、土地は肥沃で馬と羊を多く産している。西千里の地に堵利瑟那があり、東には葉葉水(シルダリヤ)が隣接し、川の源流はパミールの北原にある。水は濁っており、西北より大砂漠(キジルクム)に流れていく。水・草はなく、高い山を見て、残された白骨をたどって方角を知る。五百余里のところに国がある。
米国(マイムルグ)は、弥末とも弭秣賀ともいう。北へ百里進んだところに康国がある。治所は鉢息徳城(ペンジケント)であった。永徽年間(650-656)、米国の王は大食に打ち破られてしまった。顕慶三年(658)、その地を南謐州とし、米国の王、昭武開拙を刺史とした。これ以後、朝貢は絶えなかった。開元年間(713-741)、璧・舞筵・獅子・胡旋舞の舞姫を献上した。開元十八年(730)、大首領の末野門が来朝した。天宝年間(742-756)初頭、米国の王を恭順王に封じ、母親の可敦を郡夫人となした。
何国(クシャーニーヤ)は、屈霜你迦とも貴霜匿ともいう。康居の小王、附墨城の故地である。城の左には二重の楼閣があり、その北側には歴代の中国皇帝、東側には突厥・婆羅門(バラモン)、西側には波斯(ペルシャ)・払菻(ビザンツ)などの諸王が描かれており、何国の君主は毎朝、望楼に参詣して拝み、退出した。貞観十五年(641)、遣使して入朝した。永徽年間(650-656)、上言し、「唐が出撃して西方を征伐すると聞きました。どうか唐軍に兵糧を輸送させて下さい」といった。その後、何国の地を貴霜州となし、何国の王、昭武婆達地に刺史を授けたので、何国王は使者の鉢底失を遣わして感謝した。
火尋(フワーリズム)は、貨利習弥とも過利ともいい、烏滸水(オクサス河)の北にある。東南六百里に戊地(ベティク)があり、西南は波斯(ペルシャ)と境を接し、西北は突厥の曷薩(ハザール)と境を接している。康居の小王、奥鞬城の故地である。治所は急多颶遮城であった。もろもろの胡人は車と牛しか有さず、商人はこの牛車に乗って諸国に商売に行く。天宝十載(751)、王の使者を派遣しを献上した。天宝年間(742-756)、また入朝した。
史国(キッシュ)は、佉沙とも羯霜那ともいう。独莫水の南にある康居の小王、蘇薤城の故地にあった。西百五十里のところに那色波(ナサフ)があり、北二百里のところは米国に属し、南四百里には吐火羅があった。鉄門山という山があり、その左右は高く切り立って険しく、石の色は鉄のような色をしており、関所をもうけて二つの国の境界線を限定し、鉄製の門扉で厳重に閉ざしていた。城には神祠があり、祭るたびに羊を千匹必ず犠牲として献じた。戦争等の際には、まず神祠で祈ってから戦闘を始める。その国には城が五百あった。隋の大業年間(605-616)、王の狄遮が初めて中国に通好し、このころ最も強盛を誇っていた。乞史(キシュ)城を築いたが、この城の大きさは四方数十里であった。貞観十六年(642)、王の沙瑟畢は方物を献じてきた。顕慶年間(656-661)、この地を佉沙州とし王の昭武失阿喝を刺史にした。開元十五年(727)、王の忽必多は、舞女と模様のあるヒョウを献上した。後ほどなくして史国の君主は亡くなったが、また新しい王が即位するということを、しばしば繰り返し、時たま入朝してきた。天宝三載(744)、史国の名を改めて来威国となした。
那色波(ナサフ)は、小史国ともいった。おそらく史国に従属する国であろう。吐火羅の故地に位置し、東はパミールを扼し、西は波刺斯(ペルシャ)に接し、南には雪山があった。
縛芻水(アム・ダリヤ)の北をめぐれば咀蜜(テルメズ)という国があり、自ら独立国であって、その国の周囲は東西六百里であった。また東に四種の国を通過すると鑊沙(ワクシュ)という国があり、その広さは三百里、長さは五百里で、東は骨咄(クッタル)と境界を接した。パミールと接して十八の国がある。南には掲職があり、やや大きく、その面積はおよそ千里で山岳が連なっている。菽(まめ)・麦を多く産し、気候は寒烈であった。東南に進めば雪山(ヒンドゥークシュ)の北斜面にさしかかる。六百里行くと、吐火羅(トカラ)に至る。また五種の国をこえて婆羅覩邏(シャーラトラ)に至る。北は山を越えて六百里行くと烏萇国(ウディヤーナ)という国に達する。東北に二百里行くと、河波羅水に達する。河は西南に流れ、春夏でも凍結していた。北に十二種の国を経ると婆羅吸摩補羅があった。これは最大の国であり、長く連なった地は四千里で、山がその外側をめぐっていて、土地は肥沃で、真鍮・水晶を産出した。北の大雪山(ヒマラヤ)を越えれば、東女国である。さらに十九種族を経て、摩掲陀(マガダ)に到達する。また東に四種の国を過ぎると、大河(ガンジス)を越えて、迦摩縷波(カーマルーパ)がある。みな険しい坂で、その地は西南夷に接し、その地の人々は蛮獠に似ていた。二ヶ月行くと蜀の南辺に入る。その東南の野には、野生の象が群れ暴れている。それ故、いくさに戦象を用いるのである。また南に三十二種の国を経ると、狼掲羅という国がある。その地の大きさは数千里で、その国の君主は、窣黎湿伐羅城で支配していた。西北は波刺斯(ペルシア)で、伝え聞くところによれば広さは万里で、王は蘇刺薩儻那(スラスターナ)城で統治していた。土地は蒸し暑く、水を引いて田を営んでいた。人々は豊であり、金・銀・水晶を産出した。工芸に巧みで、錦・褐・毛氈を織った。良馬と駱駝を産した。この国の人々は錦や織目の細かい毛織物を着用した。賦税は人ごとに四銀銭を徴収した。この国はまた交易を生業にしていた。西北は払菻(ビザンツ)をへだて、西南は海島と境を接して西女の種族が住んでいた。ここの住民はみな女子で、多くの珍しい宝を産し、払菻に属しているので払菻の君主は年ごとに男子を遣わして西女国の女に娶わせている。西女国では慣わしとして男を産んでも育てない。また、臂・多・勢・羅の四種の国があり、西北に大山広川を越え、小さな城をたくさん経て二千里行けば、謝颱(ザーブリスターン)に到達する。北へ五百里行ったところに弗栗恃薩儻那(ヴリジスターナ)がある。その地の大きさは横二千里、縦千里である。その君主は突厥の種で、護苾那(フビナ)城で統治した。東北の大雪山(ヒンドゥークシュ)は盛夏でも常に凍っており、氷を穿って渡る。山を降ると安咀羅縛(アンダラーバ)という国があり、その地は三千里であった。西北に進んで嶺を越えて四百里行くと闊悉多(コシュト)がある。西北三百里のところには活(クンドゥズ)という種族がいる。この地の大きさは二千里である。この三種族はみな吐火羅(トカラ)の故地に住んでおり、突厥に臣従していた。この国の君主も突厥族であった。鉄門の南の諸族の上に君臨していた。この国の生活様式は、移動して一ヶ所にすることがなかった。東にはまた七種の国があり、東南の狭い道は甚だ険しかった。およそ三百里で倶蘭(クラーン)に到達できる。東北の山を行くこと五百里で護蜜(ワハン)に達する。北は識匿(シグナーン)であった。南には商弥(チトラル)があり、その地の大きさは二千里余であった。葡萄を多く産し、雌黄(顔料)は石を穿って採取される。東北に山を越えて七百里行くと波謎羅川(パミール川)に到達する。この地は東西千里、南北百里で、春夏でも雪雨であった。南には鉢露(バルチスタン)という国があり、紫金(赤銅)を多く産した。五百里行くと朅盤陀(タシュクルガン)がある。東に八百里行くとパミールに至り、八百里で烏鍛(ヤルカンド)に達する。烏鍛の四方は千里で、白・黒・青の三種類の玉を産出した。この国の君主は代々朅盤陀に臣従していた。北に砂漠を経て進み、荒野を五百里を越えると疏勒(カシュガル)に達する。東南に五百里進んで徙多水(ヤルカンド川)を渡り、大沙嶺を越えると句迦種(カルガリク)という国がある。句迦種は沮渠ともいう。その地の大きさは千里であった。東に八百里こえると于闐(ホータン)に着く。東には摩川(ウズン・タティ)がある。砂漠を越えて二百里進むと、尼壌城(ニヤ)に達する。大きな沢の中にあり、その地は沢で温度も湿度も高く、蘆草が地に生い茂っている。その地を進むものは道をうがち、尼壌を目指し、ついで于闐に到達する。于闐は東の関門とした。また東に進んで大流砂に入ると足跡もないので、その地を往復するものは迷ってしまう。そこで、遺骸を集めて、それで道を知るのである。水や草はなく熱風は凄まじく、人も六畜も迷い斃れる。進むこと四百里で、かつての都貸邏に到達する。また六百里で、かつての折摩駄那(チャルマダナ)に着く。そこは、いにしえの且末(チェルチェン)である。また千里行くと、かつて納縛波(ミーラン)に着く。そこは昔の楼蘭(ローラン)である。
咀蜜(テルメズ)より以下の国は、中国人はみな、国の名をもって、その種族の名とした。いまだかつて唐と通好がないので伝記は雑で正しくないが、やむを得ず、考えて、その地と諸国を連続し大雑把にその名前を序列して記した。
寧遠(フェルガナ)は、もともと抜汗那で、あるいは鏺汗ともいう。北魏時代には破洛那といった。長安を去ること八千里で、治所は西鞬城(アクシカント)にあり、真珠河(シルダリヤ)の北にあった。大きな城が六つ、小さな城は百ある。住民の多くが長命である。寧遠の王は、魏晋以来、継承されて絶えなかった。元旦ごとに王と首領たちは二つのグループに別れると、各々から一人ずつ出させて甲冑を着せて戦わせた。人々が瓦石でもって戦闘に加わる。死者が出たら止め、これによって、この年の吉凶を占った。貞観年間(627-649)に王の契苾が西突厥の瞰莫賀咄によって殺され、阿瑟那鼠匿がその城を奪った。阿瑟那鼠匿が死ぬと、息子の遏波之が契苾の兄の息子・阿了参を王となし、呼悶城(ホジェンド)において統治させた。遏波之自身は、渇塞城(カーサーン)で統治した。顕慶年間(656-661)初頭、遏波之が使いを遣わして朝貢してきたので高宗はあつく慰諭した。顕慶三年(658)、高宗は渇塞城を休循州都督府となし、阿了参に刺史の位を授けたので、阿了参も毎年、朝貢するようになった。玄宗の開元二十七年(739)、王の阿悉爛達干が唐軍を助けて突騎施の吐火仙を平定したので、玄宗は褒美として阿悉爛達干を奉化王に冊立した。天宝三載(744)、国号を寧遠と改めた。
玄宗が母の実家の姓(竇氏)を下賜したので、寧遠王は竇といった。また玄宗は宗室の女を封じて和義公主として寧遠王に降嫁させた。天宝十三載(754)、寧遠王の忠節は息子の薛裕を派遣して朝させ、宿衛となって朝廷に留まり中華の礼節を学びたいと請願したので、玄宗はこれを許可し、薛裕に左武衛将軍を授けた。寧遠が唐に仕える事は、諸国の中で最も慎み深かった。
大勃津(バルチスタンボロール)は、布露ともいった。吐蕃のすぐ西にあり、小勃律と接している。西には北天竺、烏萇(ウディヤーナ)がある。その地は鬱金香をよく産出した。吐蕃に服属している。万歳通天(697)から開元年間(713-741)まで三度使者が来朝した。そこで君主の蘇弗舎利支離泥を冊立して王となした。亡くなったので、蘇麟陀逸之を冊立して王位を継承させた。王はふたたび大首領を遣わして方物を献上させた。
小勃律(ギルギット)は、長安を去ること九千里あまり、東少南三千里に吐蕃の賛普の牙城(ラサ)があり、その東八百里は烏萇に属している。東南三百里には大勃律があり、南五百里には箇失蜜(カシミール)、北五百里には護蜜(ワハン)の娑勒城がある。王は孽多城(ギルギット)に住まい、娑夷水に臨む。その西の山の頂には大城があり迦布羅という。開元年間(713-741)初頭に王の没謹忙が来朝し、玄宗は没謹忙を息子として待遇し、小勃律の地を綏遠軍とした。小勃律国は吐蕃に近接しているために、しばしば困苦した。吐蕃は「我々は、なんじの国を謀るのではない。道を借りて安西四鎮を攻撃したいだけだ」と言った。これより久しくして、吐蕃が九城を奪い取ったので、没謹忙は北庭節度使に救援を要請した。北庭節度使の
張孝嵩は、そこで疏勒副使の
張思礼に精兵四千を統率させて昼夜兼行で小勃律に向かわせた。没謹忙は出兵して吐蕃を大いに破り、吐蕃兵数万を殺して九城を奪還した。玄宗は詔し、没謹忙を冊立して小勃律王となした。没謹忙は、大首領の察卓那斯摩没勝を遣わして玄宗に謝した。
没謹忙が亡くなると息子の難泥が王になった。難泥が死ぬと兄の麻來兮が即位した。麻來兮が死ぬと、蘇失利之が即位したが、吐蕃が密かに誘い蘇失利之に吐蕃王の娘を娶らせた。そのため西北の二十余国がみな吐蕃に臣従してしまい、唐への貢献が入らなくなってしまった。安西都護が三度討伐を行なったが、戦功を上げる事はできなかった天宝六載(747)、
玄宗は安西副都護の
高仙芝に詔して小勃律を討たせた。高仙芝は先に将軍の
席元慶に千騎を率いさせ、蘇失利之に会って「道を借りて大勃律に向かいたい」と言わせた。城内の大首領五・六人は、みな吐蕃の腹心であった。高仙芝は席元慶に約束して「わが軍が至れば、吐蕃と通している首領達はきっと山に逃げ込もう。おまえは彼らに勅書を見せて慰撫し、縮綵を下賜するようにせよ。首領達が戻ってきたら捕縛して私を待て」と言った。席元慶は約束どおりにした。蘇失利之は妻(吐蕃王の娘)を連れて逃げたが、行方は知れなかった。高仙芝が小勃律に乗り込むと、吐蕃に通じていたものたちを斬り、娑夷橋を断ち切った。この日の暮れ吐蕃軍が到来したが、小勃律を救えなかった。高芝芝は、王に降伏を約束させてから小勃律を平定した。これにより、払菻・大食などの諸国七十二国はみな震撼し、唐に帰順した。高仙芝は、小勃律の王とその妻を捕えて長安に帰還した。玄宗は詔を下して、国名を帰仁に改め、帰仁軍を置いて千人を募兵してここに駐屯させた。玄宗は蘇失利之を赧して誅殺せず、右威衛将軍を授け、紫の袍と黄金の帯を下賜して宿衛となした。
吐火羅(トカラ)は、土豁羅、覩貨邏ともいった。北魏の時には吐呼羅といった。パミールの西、烏滸河の南にあり、いにしえの大夏の地であった。吐火羅人と抱怛(エフタル人)が雑居していた。勝兵は十万、国土は土着であった。女は少なく男が多い。北には顔黎山があり、その南の穴の中には神馬がいて、国人はこの神馬のそばで牝馬を遊牧させて仔馬を生ませる。血のような汗を流して走る。吐火羅の王は葉護(ヤブク)と号していた。武徳年間(618-626)と貞観年間(627-649)にふたたび入朝した。
永徽元年(650)、大鳥を献じたが、その大きさは高さが七尺、色が黒く、足は駱駝に似ていた。広げて走り、一日に三百里を行き、鉄をくらい、俗に駝鳥(ダチョウ)といった。顕慶年間(656-661)の間に、阿緩城(クンドゥズ)を月氏都督府となし、小さい城を二十四の州となし、王の阿史那に都督を授けた。その後二年、子を派遣して来朝させた。また、碼磁鐙樹(瑪瑙製の燭台)を献上してきた。高さは三尺であった。神龍元年(705)、王の那都泥利仁は弟の僕羅を入朝させて宿衛として唐に留まらせた。開元・天宝年間(713-756)の間にしばしば馬・ラバ・珍しい薬、乾陀婆羅(香木)など二百の品、紅碧色の玻璩(ガラス)を献上してきた。そこで
玄宗は、吐火羅の君主の骨咄禄頓達度を吐火羅葉護、挹怛王に冊立した。その後、近隣の胡人羯師(チトラル)が策謀し吐蕃を引いて吐火羅を攻めたので、葉護の失里忙伽羅は安西節度使に支援を求めてきた。玄宗は、吐火羅のために出兵して討伐した。乾元年間(758-760)初頭、西域の九国と軍隊を派遣し、安史の乱平定のため皇帝に味方して賊を討伐した。
粛宗は詔を下し、吐火羅軍を朔方節度使の陣地に所属させた。
挹怛(エフタル)国は、漢の時の大月氏と同じ種族である。大月氏は烏孫によって国を奪われ、西に逃走して大宛を通過してさらに西に逃げ、大夏を撃って征服し、大夏を臣下にした。治所は藍氏城であった。大夏とは即ち吐火羅のことである。嚈噠は、王の姓である。その後裔が、その姓をもって国の名にしたのである。訛って挹怛、または挹闐という。風俗は突厥と同じである。天宝年間(742-756)に遣使し朝貢してきた。
倶蘭(クラーン)は倶羅弩とも屈浪拏ともいう。吐火羅と国境を接し、国の周囲は三千里、南に大雪山(ヒンドゥークシュ)、北に倶魯河(クラーン河)がある。この国は金精(ラピスラズリ)を産出した。石を打ち割って取り出した。貞観二十年(646)、王の忽提婆(フタイバ)が使者を遣わして献上した。文字・言語は浮屠(梵字)と似ている。
劫国(ジャムガン)はパミールの中にあり、西と南は賒弥(マストゥジ)をへだて、西北には挹怛国(エフタル)がある。長安を去ること一万二千里で、気温は常に熱く、稲・麦・粟・豆を産し、羊と馬を牧畜する。彼らの風俗によれば死者は山中に棄てる。武徳二年(619)遺使して、宝石で象嵌した帯、玻璩(ガラス)、水晶のさかずきを献上した。
越底延(ウディヤーナ)は、三千里南に行くと天竺(インド)がある。西北に千里進むと賒弥(マストゥジ)、東北に五千里行った所に瓜州がある。越底延は、辛頭水(インダス川)の北にある。この国の司法によると、死刑は行なわず、罪の重いものは流刑に処され、罪の軽いものは放逐される。租税もない。この国の風俗では翦髪し、国人は錦袍を着用したが、貧しいものは白い木綿を着用した。自ら体を洗い清潔である。気候は温暖で、稲・米・石蜜を多く産出した。
謝䫻(ザーブリスターン)は、吐火羅の西南にあり、もともとは漕矩吒といった。あるいは漕矩ともいった。顕慶年間(656-661)、訶達羅支(カダラシ)といったので、則天武后がいまの国号に改めた。東は罽賓(カーブル)、東北は帆延(バーミアーン)をへだてること、みな四百里であった。南に婆羅門(インド)、西に波斯(ペルシア)、北に護時健(グーズガーン)があった。その王は鶴悉那(ガズナ)城に住んでいる。国の周囲は七千里で、王はまた阿娑你城でも統治した。鬱金・瞿草を多く産出した。田を灌漑した。国内には突厥人、罽賓人、吐火羅人など諸民族が雑居していた。罽賓は、謝䫻の子弟を動員して兵士となし、大食からの侵攻を防衛させた。景雲年間(710-711)初頭、謝は唐に朝貢し、のちには遂に罽賓に臣従した。開元八年(720)、
玄宗は葛達羅支頡利発(カダラシ・イルテベル)誓屈爾を冊立して王となした。天宝年間(742-756)になって、しばしば唐に朝貢し、物を献上した。
帆庭(バーミアーン)は、あるいは望衍とも梵衍那ともいった。斯卑莫運山(ヒンドゥークシュ)のそばにあり、西北は護時健(グーズガーン)と接し、東南は罽賓(カーブル)をへだて、西南には訶達羅支(カダラシ・謝䫻)、吐火羅と国境を連ねていた。その地は寒く、住民は穴の中に住んでいた。王は羅爛城で統治し、大きな城を四、五有していた。川は北に流れて烏滸河(アム・ダリヤ)に流れ込んでいた。貞観年間(627-649)初頭、使者を派遣して入朝した。顕慶三年(658)、羅爛城を写鳳都督府とし、縛時城を悉万州となし、帆延王に蔔写鳳州都督を授けて国内の五つの州の諸軍を管轄させたので、これ以後、朝貢は絶えなかった。
石汗那(チャガニアン)は斫汗那ともいった。縛底野(バクトリア)から南に進めば雪山に入る。四百里進むと帆延(パーミアーン)に達し、東は烏滸河(アム・ダリヤ)に臨んでいた。赤い豹を多く産す。開元・天宝年間(713-756)の間に何度も朝貢してきた。
識匿(シグナーン)は、尸棄尼とも瑟匿ともいう。東南は京師長安を隔てること九千里、東は葱嶺守捉(タシュクルガン)を隔てること五百里、南三百里の地は護蜜(ワハン)に属していた。西北に五百里行けば倶蜜(クマード)に至る。初め、識匿の王は苦汗城(クルガン)を治めていた。後に住民達は山谷に散居した。識匿は大きな谷を五つ有し、酋長がそれぞれ自治を行なっていた。これを五識匿といった。その地の周囲は二千里で、五穀が稔らない。住民は略奪を喜んで行い、商人を劫略した。播蜜川(パミール河)の四つの谷は、識匿の王の命令に従わなくなった。住民は、洞穴に住んでいる。貞観二十年(646)、似没・役槃の二国の使者と共に識匿の使者も来朝した。開元十二年(724)、王の布遮波資に金吾衛大将軍を授けた。天宝六載(747)、王の跌失伽延が唐軍に従って勃律を討伐中に戦死した。
玄宗は、息子を都督、左武衛将軍に抜擢し、禄を与えて藩王の地位を与えた。似没は、石国(タシュケント)の北にあり、その風俗は康国(サマルカンド)と同じである。役槃はまた康国の隣にあり、良馬を有していた。
倶蜜(クマード)は山中に治所を持つ。吐火羅の東北にあり、南に黒河(アム河上流のアビー・パンジ)を臨んでいる。その王は、突厥の薛延陀族に属していた。貞観十六年(642)、使者を遣わして入朝させた。開元年間(713-741)、胡旋舞を得意とする舞姫を献上した。その王那羅延(ナラヤーナ)は大食(アラブ)が苛酷な年貢を取り立てる事を唐に申し立てたが、
玄宗皇帝はただ慰めただけであった。天宝年間(742-756)、王の伊悉爛俟斤はまた馬を献上した。
護蜜(ワハン)は、達摩悉鉄帝ともいい鑊侃ともいう。北魏時代の鉢和であり、また吐火羅の故地である。この国の東南は長安から九千里あまり、東西は千六百里、南北は狭く、わずか四、五里であった。王は塞迦審城(イシュカシム)に住んでいたが、城の北側は烏滸河(アム・ダリヤ)に臨んでいた。その地は非常に寒く小高い丘は曲がりくねっていて、しかも沙石が流れ込んで一面に蔓延していた。えんどう豆、麦があり、木果をよく産し、良馬を有していた。住民は緑色の瞳をしていた。顕慶年間(656-661)、
高宗はこの地に鳥飛州を置き、王の沙鉢羅頡利発を刺史に任じた。その地は、安西四鎮が吐火羅に至る道に当たり、それゆえに吐蕃に従属した。開元八年(720)、
玄宗は、その王の羅旅伊陀骨咄禄多毘勒莫賀達摩薩爾を王に冊立した。開元十六年(728)、米国(マイムルグ)の首領米忽汗とともに方物を献上した。翌年、大酋長の烏鶻達干がまた朝貢した。王が亡くなったので、玄宗はいとこの護真檀に王位を継承させた。開元二十九年(741)、王が自ら来朝したので、玄宗は内殿で宴をして歓迎し、左金吾衛将軍に拝命し、紫袍と金の帯を賜わった。天宝年間(742-756)初頭、王の息子の頡吉匐が吐蕃と絶交したいと請願したので、玄宗は鉄券を賜わった。天宝八載(749)、護真檀が来朝して宿衛になりたいと請願したので、玄宗はこれを許可した。玄宗は護真檀に右武衛将軍を授け、しばらく宿衛をさせてから帰国させた。護蜜がまた首領を遣わして朝貢した。乾元元年(758)、王の紇設伊倶鼻施が来朝したので、
粛宗は護蜜王に李姓を賜わった。
箇失蜜(カシミール)は、あるいは迦湿弥邏ともいう。北は勃律(ボロール)を隔てること五百里、地をめぐること四千里、山が四方を取り囲んでいたので他国が攻め入る事は不可能であった。治所は、撥邏勿暹布邏城(プラバラプーラ)であった。西は弥悉多大河(ジェラム河)に沿っている。その地は農作物がよく稔り、雪は多いが風は吹かなかった。火珠(ルビー)・鬱金・龍種馬を産出した。土着の人々は毛褐(毛織物)を着用した。伝説によれば、この地はもともと龍池であったという。龍が他所に移り住んだので水が尽き、人々がそこに住みつくようになった。
開元年間(713-741)初頭、箇失蜜は使者を派遣して朝貢した。開元八年(720)、
玄宗は王の真陀羅秘利(チャンドラピーダ)を冊立して王となした。時折、胡薬を献上した。天木(タラピーダ)が亡くなって、弟の木多筆(ムクタピーダ)が立ち、使者の物理多を派遣して来朝させた。そして言った。「国を有して以来、天可汗に臣従し、唐の微発を受けてまいりました。わが国は、戦象・騎馬・歩兵の三種類の軍隊を有しております。わたくしが自ら中天竺王とともに吐蕃の五大道を扼して、吐蕃の出入りを禁じ、戦えば勝てましょう。天可汗の兵がもしも勃律に来れば、その兵力が二十万であろうとも、わたしは兵糧を運んでお助けいたす事ができます。また、わが国には摩訶波多磨(マハーパドマ)という龍池があります。願わくば、ここに天可汗のために祠堂を建てたいと存じます」と言って、王を冊立して欲しいと請願した。鴻臚官が箇失蜜王の言葉を翻訳して奏開したので、玄宗は詔を下し、物理多を中殿に招き入れて宴を催し、十分な贈物を授け、木多筆(ムクタピーダ)を冊立して王となした。これ以来、箇失蜜は常に朝貢してきた。
箇失蜜に役属している国は五種族の国があった。いわゆる咀叉始羅(タキシラ)という国は、国土の大きさは二千里で都城を有していた。この国の東南七百里あまりのところに僧訶補羅がある。僧訶補羅の国土の周囲は三千余里で、また都城で治めていた。東南の山を五百里進むと烏刺尸という国に到達する。国土の周囲は二千里で都城を持っていた。農業をよくした。東南に山を千里へだてれば箇失蜜(カシミール)である。西南の険しい地を七百里行くと半笯蹉に至る。その国土の周囲は二千里である。また曷邏闍補羅という国がある。その大きさは四千里で都城を有し、山や畑が多く人は勇敢であった。この五種族の国はみな君長がいなかった。
骨咄(クッタル)は呵咄羅ともいう。広さと長さはみな千里であった。王は思助建城で統治した。良馬と赤豹を多く産した。四つの大きな塩山があり、山では烏塩が取れた。開元十七年(729)、王の俟斤(イルキン)が息子の骨都施を派遣して来朝させた。
開元二十一年(733)、王の頡利発が女楽を献上した。また大首領の多博勒達干を派遣して朝貢させた。天宝十載(752)、王の羅全節を冊立して葉護(ヤブク)とした。
蘇毘(スピ)はもともと西羌族であったが、吐蕃に併呑されて孫波(スンパ)と号し、諸族のうちで最大であった。東は多弥と接し、西は鶻莽硤とへだて、戸数は三万であった。天宝年間(742-756)、王の没陵賛は国をあげて唐に内附したいと願ったために、吐蕃によって殺害された。そこで息子の悉諾は首領達を率いて隴右節度使に亡命した。隴右節度使の
哥舒翰が悉諾を長安城下に護送したので、
玄宗は彼らをあつく礼遇した。
多弥(タミ)は西羌族で吐蕃に役属し、難磨と号していた。国土は犂牛河に沿い、その地は黄金を多く産した。貞観六年(632)、使者を派遣して朝貢してきたので、太宗は下賜品を賜わって帰国させた。
伊吾(ハミ)城は、漢代の宜都尉の治所であった。胡(ソグド商人)が雑居し、勝兵は千人おり、鉄勒に従属していた。人は勇敢で、土地は肥沃であった。隋末に内属し、隋は伊吾郡を設置した。隋末の大乱の折にはまた突厥に臣従した。貞観四年(630)、伊吾城の首領らが来朝した。東突厥の頡利可汗が滅びたので、伊吾の七城がこぞって唐に降伏した。そこで、その地を連ねて西伊州となした。
師子国(セイロン島)は西南の海中にあり、面積は二千余里で、稜伽山があり、多くの奇宝を産した。宝を波打ち際に置いておくと、商船が代金を払って宝を持っていく。後に隣国の者達が少しずつこの国に居住してきた。ライオンをよく馴らして飼育するので、師子という国名がついた。総章三年(670)、使者を派遣して来朝した。天宝年間(742-756)初頭、王の尸羅迷伽(シラーメーガ)が再び遣使して大粒の真珠、金のかんざし、宝の首飾り、象牙、白木綿を献上してきた。
波斯(ペルシア)は、達遏水(ティグリス河)の西にある。長安をへだてることおよそ五千里余りで、東は吐火羅(トカラ)、康国(サマルカンド)に接し、北は突厥の可薩部(ハザール)と隣り合い、西と南は海(インド洋)に面していた。西北はおよそ四千里余りの所に払菻(ビザンツ)があった。人口は数十万で、先祖の波斯匿王は、大月氏の後裔であった。この先祖の名・波斯匿にちなんで姓をなし、また国号となしていた。二城で国を統治していた。また、この国には大城が十あまりあった。この国では右が尊ばれ左が卑しまれており、天地日月水火が祭られていた。夕陽を祀る時には、麝香と蘇芳で顎鬚・顔・耳・鼻を湿らせた。西域の諸胡も、この法を受けて教の神々を祭っていた。礼拝する際には、必ず足を交差させた。この国の風俗では素足で歩いた。成人男子は髪を切り、衣服の襟を開かなかった。青白色の頭巾をかぶっているが、頭巾の縁は錦で縁取られていた。婦人は弁髪し、後ろに垂らしていた。国人は戦う時には象に乗り、象一頭に兵士百人が従い、負ければみな殺された。断罪する際には文書をしるさず、法廷で決裁した。反逆者はその舌を熱した鉄で焼かれ、傷が白ければ無罪、傷が黒ければ有罪という判決が下された。刑罰には、髪切り、首かせ、足きり、鼻削ぎがあった。小さな罪を犯したものは、頬鬚を剃り落とされるか、首に木牌(罪を記した首枷)をかけたまま数ヶ月間放置された。強盗は老いるまで獄に繋がれ、泥棒は銀貨を罰金として納めた。人が亡くなると遺体は山に棄てられ、喪に服する期間はひと月あまりであった。大気は常に熱気が上出し、土地は磨滅していて平らであった。人々は農業と畜業を知っていた。鷲鳥がおり、よく羊を食らった。駿犬、ラバ、大きなロバを多く産した。珊瑚を産出したが、その高さは三尺には及ばなかった。
隋末、西突厥の葉護可汗(統葉護可汗)は波斯を討滅し、波斯王の庫薩和(ホスロー二世)を殺して、その息子の施利(シェーローエー=カワード二世)を立てた。葉護可汗は部下の将軍を派遣して波斯を監督し統治させた。施利が亡くなると、波斯は西突厥への臣従を拒否した。波斯人は庫薩和の娘(ボラーン)を立てて王となしたが、西突厥がまたこの女王を殺害した。施利の息子の単羯方が払菻(ビザンツ)に逃亡していたので、国人は単羯方を迎えて王として立てた。これが伊怛支(アルダシール三世)である。伊但支が亡くなると、兄の子の伊嗣俟(ヤズダギルド三世)を立てた。
貞観十二年(638)、使者の没似半(マルズバーン)を遣わして朝貢させた。また、活褥蛇(フェレット)を献上してきた。姿は鼠に似ており、色は真っ青で体長は九寸あった。活褥蛇はよく鼠の穴に入って鼠を捕える。伊嗣俟は君主としての人望を失ったので首領達から追われた。吐火羅に亡命しようとしたが、途中まで逃げてきたところで大食に攻撃されて殺された。息子の卑路斯(ペーローズ)は吐火羅に逃げたので死を免れた。卑路斯は使者を派遣して国難を告げてきたけれども、高宗は遠いことを理由に援軍が派遣できないと断って、使者を帰国させた。たまたま大食が包囲を解いて退却したので、吐火羅は軍隊を率いて保護した。
龍朔年間(661-663)初頭、また卑路斯は、大食に侵略されていると訴えてきた。このとき
高宗はまさに使者を派遣して西域に至らしめ、州県を分置しようとしていたので、疾陵城(ザランジ)を波斯都督府となし、卑路斯を都督となした。にわかに大食に滅ぼされ、国を失ってしまったけれども、咸亨年間(670-674)に入朝した。高宗は卑路斯に右武衛将軍を授けたが、卑路斯は亡くなってしまった。はじめ、卑路斯の息子の泥涅師(ナルサス)は、唐に人質として滞在していた。そこで調露元年(679)、高宗は裴行倹に詔し、兵を率いて泥涅師をしてに帰国し、泥涅師を複位させようとした。しかし、波斯までの道のりが遠いので、安西四鎮の碎葉(スイアーブ)まで来たところで裴行倹は軍を還して都に帰還した。そこで泥涅師は、客人として二十年間、吐火羅に留まったが、波斯人の部落はますます離散する一方であった。景龍年間(707-710)初頭、泥涅師がまた来朝したので左威衛将軍を授けた。泥涅師が病死したので、西部のみが存続する事になった。開元・天宝年間(713-756)に、使節を十回派遣して、瑪瑙のベッド、火毛繍舞筵を献上してきた。乾元年間(758-760)初頭、大食に従って広州を襲撃し、倉庫や廬舎を焼き、海上を船で逃げていった。大暦年間(766-779)、また来朝した。
また、陀抜斯単(タバリスタン)という国があった。あるいは陀抜薩憚ともいった。この国の三方向は山に阻まれ、北は小海(カスピ海)に面していた。この国の王は婆里(娑里)城(サーリ)に住み、代々波斯の東大将をつとめていた。波斯の滅亡後、大食にする事を拒絶した。天宝五年(746)、王の忽魯汗が遣使して入朝したので、帰信王に封じた。その八年後、息子の白会羅を派遣して来朝したので、
玄宗は白会羅に右武衛員外中郎将を拝して、紫袍・金魚を下賜し、宿衛として唐に留まらせた。しかし、この国は黒衣大食(アッバース朝)によって滅ぼされてしまった。
貞観年間(627-649)ののち、遠方の小さな国々の君主が使者を派遣して朝貢してきた。役人達が所属不明とした国々を以下にまとめて記す。火辞弥という国は、波斯と接している。貞観十八年(644)、摩羅游の使者とともに朝貢した。貞観二十一年(647)、健達(ガンダーラ)王が仏土菜を献上してきた。仏土菜は、茎に五つの葉を生やし、花は赤色、花弁は紫色であった。龍朔元年(661)、多福王の難婆修彊宜説が使者を派遣してさせた。章元年(668)、末陀提王という王が使してきた。また、開元五年(717)には習阿薩般王の安殺が使者を派遣して朝貢してきた。開元七年(719)、訶毘施(カピーシー)王の捺塞が、吐火羅の大首領羅摩を代理人にして獅子と五色の鸚鵡を献上してきた。
天宝年間(742-756)に来朝したものは、倶爛那・舎摩・威遠・蘇吉利発屋蘭・蘇利悉単・建城・新城・倶位のおよそ八カ国である。
倶位は、あるいは商弥(マストゥジ)ともいった。阿賒䫻師多城で治めていた。大雪山(ヒンドゥークシュ)と勃律河の北にあった。その地は寒く、五穀・葡萄・柘榴を産し、冬は穴居した。国人は常に小勃律を助けて中国の斥候となった。
新城の国は、石国(タシュケント)の東北およそ百里のところにあった。弩室羯城があり、またの名を新城、あるいは小石国城ともいう。後に葛邏禄(カルルク)によって併呑された。
払菻(ビザンツ)は、いにしえの大秦(ローマ)である。西海(地中海)上にある。一つには、海西国ともいう。京師を去ること四万里で、苫(シリア)の西にあり、その北には突厥の可薩部(ハザール)がおり、西は海に面していた。遅運城があった。東南は波斯に接していた。その周囲は四方が一万里、勝兵が百万もいた。十里ごとに一亭とし、三亭ごとに一置(駅)を置いた。臣属する小国は数あり、有名なものは沢散(アレクサンドリア)といい、驢分(プロポントス)といった。沢散の東北は何里あるか分らなかった。払菻の東を二千里渡っていくと驢分に至る。
払菻は石を積み重ねて首都の城壁を造っていた。城壁の広さは八十里、東の門の高さは二十丈で、黄金で飾られていた。王宮には三重の門があり、すべてが珍しい宝石で飾られていた。中門の中には黄金の巨大な秤が一つあり、金人が傍に立っており、はかりの末端には十二個の珠が付いていて、一時間たつごとに球が一つずつ落ち、時を知らせた。宮殿の柱は瑟瑟(ラピスラズリ)、枕(うだつ)は水晶と琉璃、梁(はり)は香木でできていた。床面は黄金は象牙でできていた。貴臣十二人が共同で国を統治していた。王が外出する時、一人が袋を提げて王に従い、訴書があれば袋の中に投じさせ、王宮に帰ってから、王はその内容が事実か否かを設定した。国に大災害が生じた時には、すぐに王を廃し、代わりに賢者を立てた。王冠は鳥の翼に似ていて、沢山の珠が数珠繋ぎに飾られていた。王の衣装で、前には襟がなかった。王は、黄金の花で飾られた玉座に腰かけた。この王座の傍らには、緑色の毛をした鵞鳥のような鳥が待っており、王が食事をする際、食事に毒が混入していると、たちまち、この鳥が鳴いた。この国では建物の屋根にレンガはなく、代わりに白い石を砕いて屋根に塗った。白い石の屋根は堅固で、玉のように光沢があった。酷暑の折には水を屋根の上まで引き、屋根から水流を滝のように落として冷風をおこした。この国の男子は髪を切り、刺繍をした袖のない衣を着て右肩を肌ぬぎ、四面に帳のある白い屋根のついた小さい車に乗って、建物等から出入りする時には旗を建て鼓を打った。婦人は錦の頭巾をかぶった。億万の資産を有するものは上官となった。
この国の人々は酒を好み、乾餅を好んで食べた。この国には幻人(奇術師)が多く、顔から火を出し、手から大水を出し、口から小旗のふさを出し、足を上げると珠玉が落ちた。名医がおり、病人の頭を切開して虫を出し、目のかすみを癒した。この国は、黄金・銀・夜光璧・明月珠・大貝・車渠(玉石)・瑪瑙・木難珠、孔翠、虎魄(琥珀)を多く産した。水羊毛を織って布となした。これを海西布といった。海中に珊瑚の島があるので、漁師は大きな船に乗って珊瑚取りに出かけ、鉄の網を海中に投じて海底に降ろす。珊瑚は初め堅い岩の上にはえ、その白さはまるで菌のようであるが、一年たつと黄色、三年たつと赤色になり、枝が各々交差して高さは三、四尺にもなる。漁師達は鉄網で珊瑚の根をはずし、網を船上に固定して、綱を引き絞って珊瑚を海中から引き上げる。時機を逸すると美しい珊瑚は得られず、珊瑚はたちまち腐ってしまう。西海(地中海)には市があるが、貿易のさいに互いに顔を見せず、値を商品の傍らに置いた。これを鬼市といった。獣がおり、名を賛といった。大きさは犬ぐらいで、気が荒くて力持ちであった。北の町には羊がおり、土の中で生まれるので、へそが大地に繋がっていた。土の中にいる間に羊のへその緒を切断してしまうと羊は死んでしまうので、この町の人々は、馬を走らせ、太鼓を打ち鳴らす。子羊は驚いて土の中から跳び出て、臍の緒が断ち切れる。すると、羊は水と草を求めて移動できるようになる。しかし群れる事はできなかった。
貞観十七年(643)、王の波多力が遣使して、赤いガラス、緑の金精(ラピスラズリ)を献上してきたので、波多力に、お返しの賜わり物を与えるようにと、太宗は詔を下した。大食(アラブ)が次第に強くなってきて、大将軍の摩拽を派遣してを払菻を討たせた。払菻は大食と和睦する事を約束し、ついに大食に臣従した。乾封・大足年間(666-701)に払菻はまた朝貢してきた。開元七年(719)、吐火羅の大首領を経由して師子と羚羊(カモシカ)を献上してきた。
払菻の西南から砂漠をわたること二千里のところに磨鄰という国がある。老勃薩(イェルサレム)ともいった。その国の人間は黒人で精悍だった。この地には瘴癘(熱病)があるので、草木も五穀も育たず、馬を飼育するのに魚の干物を与え、人は鶻莽(ナツメヤシ)を食べた。鶻莽というのは、波斯棗である。淫乱を恥じないことは夷狄の中でも最も甚だしい。彼らは「尋」と号していた。その君臣達は七日に一日、休みをとり、休みの日には出納と交易を行なわず、夜通し酒を飲んだ。
大食(アラブ)は、もともと波斯の地であった。男性の鼻は高く、色黒で髯が多かった。女性は色白で、外出する時には顔を覆った。一日に五回、天神(アラーの神)を拝した。銀の帯をしめ、銀の刀を佩び、酒も飲まず音楽もたしなまなかった。礼拝堂(モスク)があり、数百人を収容できた。七日(金曜日)ごとに、王は高座に座って説法して言った。「敵を殺したものは天上に生まれ変われる。敵を殺せば祝福される」と。それ故、この国のものたちは戦闘で勇敢に戦うのである。この国の土壌は石ころばかりで耕作に適さないので、人々は狩をして獲物を捕え、その肉を食べる。石蜜を刻んで庵を造ったが、そのかたちは輿のようであった。この国の人々は、年ごとに貴人に瑠璃の椀や鍮石の瓶鉢等を献上した。葡萄の大きなものは鶏の卵ぐらいの大きさだった。千里を走る馬がおり、龍の種であると伝えられている。
隋の大業年間(605-618)に波斯国の人(ムハンマド)が倶紛摩地那山(クバマディナ山)で放牧していると、獣(ライオン)が現れて彼に言った。「山の西に三つの穴があり、穴の中には鋭利な武器が収まっている。穴には黒い石があり、そこに白い文字が記されている。この石を手に入れれば王になれる」と。波斯国の男が山の西に走って行って見ると、果たして獣の言葉通りであった。石の上には「まさに叛くべし」という言葉が記されていたので、男は恒曷水(ティグリス河)において大勢の亡命者を騙して集め、隊商を劫略し、西方にある里を根拠地として自ら王を称し、黒い石を山からこの地に移してこれを宝とした。波斯の国人達は男の討伐に赴いたが、みな大敗して帰還した。ここに至り、男はついに強大となり、波斯(ササン朝ペルシア)を滅ぼし、払菻(ビザンツ)を破り、初めて粟麦をたくわえることができた。南に婆羅門(インド)を侵略し、諸国を併呑して勝兵の数は四十万に至った。康国(サマルカンド)・石国(タシュケント)もみな大食に臣従した。その地の広さは万里に広がり、東は突騎施を隔て、西南は海(ペルシア湾)にまで及んだ。
海の中に撥抜力(ソマリランド)という種族があり、どこにも従属していなかった。この地では五穀が育たないので、人々は肉を食べ、牛を刺して、その血と乳を混ぜ合わせて飲んだ。この国の人々は衣服を着ず、羊の皮で体を蔽っていた。女性は明晰で美しかった。その国は象牙と阿末香(龍涎香)をたくさん産した。波斯商人は交易したい時には、必ず数千人で毛織物を納め、剣で斬って血を流し、誓いを立ててから交易を行なった。兵士は防具を多く有し、弓、矢・鎧・矛を持ち、士卒が二十万に至ったが、しばしば大食によって撃破された。
高宗の永徽二年(651)、大食の王の豃密莫末賦(アミール・アルムウミニーン。第三代カリフ・ウスマーン)が初めて使者を派遣して朝貢した。王の姓は大食氏であり、国を統治すること三十四年、王位を継承して三代目であると言った。開元年間(713-741)初頭、また遣使して、馬・鈿帯(黄金の飾り付のベルト)を献上し、謁見したけれども、
玄宗に拝礼をしなかった。役人がこれを咎め、まさに弾劾しようとした時に、中書令の
張説が「大食は俗を殊にしながら義を慕って来ている。罪にする事はできない」と言ったので、玄宗は使者を赦した。大食の使者はまた来朝して言上した。「国人はただ天だけを拝するので、王に謁見しても拝礼しないのです」と。役人がこれを責めると大食の使者は拝礼した。開元十四年(726)、蘇黎満(スレイマン)を派遣して方物を上させたので、蘇黎満に果毅を拝し、緋袍と帯を下賜した。
この部族の中には孤列(クライシュ)という種族がおり、代々酋長をつとめ、白衣大食(ウマイヤ朝)と号していた。この部族には二つの姓があり、一つ目の部族を盆尼末換(ブニ・マルワーン)、二つ目の部族を奚深(ハーシム)といった。摩訶末(ムハンマド)というものがおり、勇気と知恵があったので、人々はこれを立てて王とした。地三千里を開拓して、夏臘城(ヒラー)に勝利した。十四世の末換(マルワーン二世)に至って、兄の伊疾(ヤズド)を殺して自ら王になったが、臣下達は末換の残忍さを憎んだ。呼羅珊(ホラサーン)の木鹿(メルブ)人の並波悉林(アブームスリム)というものがあり、まさに末換を討伐しようという時、人々にあまねく告げて言った。「わたしを助けようと思うものは、みな黒衣を身にまとえ」と。たちまち数万の群集が集まり、末換を殺して、奚深(ハーシム)の孫の阿蒲羅抜(アブー・アルアッパース)を捜し出して王となし、さらに黒衣大食(アッバース朝)と号した。阿蒲羅抜が亡くなると、弟の阿蒲恭払(アブー・ジャアファル。アッバース朝二代目カリフのマンスール)が立った。至徳年間(756-758)初頭、大食は使者を派遣して朝貢した。代宗は、大食の軍勢を率いて
安慶緒の軍勢を打ち破り、長安と洛陽を奪還した。阿蒲恭払(マンスール)が亡くなると、息子の迷地(マフディー)が立った。迷地が死ぬと、(息子の牟栖(ハーディー)が立ち、死ぬと)その弟の訶論(ハールーン・アッラシード)が立った。貞元年間(785-805)、大食と吐蕃が互いに攻め合ったので、吐蕃は毎年大食と戦うために西方に軍勢を派遣した。このため、吐蕃の辺境を略奪する事が少なくなった。貞元十四年(789)、使者の含嵯・烏鶏・沙北の三人を派遣して来朝させたので、みなに中郎将を拝し、帰国させた。伝え聞くところによると、その国の西南二千里の山谷の間に木があり、人の頭のような形をした花を咲かせるという。この花と共に語ればたちまち笑い、そして落ちるという。
大食の東には、末禄(メルブ)という小国があった。城郭を統治し、木という姓が多かった。この国は五月を年の初めとなし、絵の描かれた素焼きの甕を互いに献じあっていた。尋支瓜(メロン)というものがあり、大きいものは十人がかりで食べて、ようやく食べ尽くすことができた。この国に出する野菜には、顆葱(小粒の葱)・葛藍(くずとあい)・軍達・茇薤(うぜんかずらとニラ)があった。
大食の西には、苫(シリア)という国があり、この国は独立して国をなしていた。北は突厥の可薩部(ハザール)をへだてること数千里であった。五つの節度があり、勝兵が一万人いた。土壌は穀物を多く産した。大河(ユーフラテス河)があり、東に流れて亜倶羅(アル・クーファ)に入った。大勢の人が往来し、双方の列の切れる事がなかったという。
大食から西に十五日間進むと、都盤(ダマーヴァンド)という国に達する。都盤は、西は羅利支(ラーリス)をへだてること十五日行程で、南は大食で二十五日の行程、北の勃達(バダッシュ)にはヶ月の行程で到達できた。
勃達(バダッシュ)の東は、大食をへだてること二ヶ月の行程であった。西は、岐蘭(ギーラーン)をへだてること二十日の行程であり、南の都盤(ダマーヴァンド)、北の大食には、みな一ヶ月の行程であった。
岐蘭(ギーラーン)の東南に二十日間進むと阿没(アモル)、あるいは阿味に達する。東南は、陀抜斯(タバリスタン)をへだてること十五日の行程であった。南の沙蘭(シャラムバ)には一ヶ月で到達できる。北は、海をへだてること二日の行程であった。你訶温多城に住み、馬・羊をよく産した。この国の風俗は柔軟で寛大であった。それ故、大食は常にここで遊牧した。沙蘭(シャラムバ)の東は羅利支(ラーリス)をへだて、北は恒満(ダイラマーン)をへだてていた。みな二十日の行程でたどりつけた。西は大食で、二十五日の行程で到達できた。
羅利支(ラーリス)の東は都盤(ダマーヴァンド)、北は陀抜斯(タバリスタン)をへだてること、みな十五日の行程の距離であった。西の沙蘭(シャラムバ)には二十日の行程で達し、南の大食(アラブ)には二十五日で到達できた。
怛満(ダイラマーン)は、あるいは但没ともいい、東の陀抜斯(タバリスタン)、北の大食(アラブ)には、みな一ヵ月の行程で赴けた。北の岐蘭には二十日で到達し、西は大食で一ヵ月の行程で達する。烏滸河(オクサス河)の北の平原にある河の中に住んでいた。獣は獅子が多かった。西は史国(キッシュ)と接し、鉄門をもって国境線となしていた。
天宝六載(747)、都盤(ダマーヴァンド)などの六国が、みな使者を派遣して入してきた。そこで都盤の王の謀思健摩訶延を順化王に封じ、勃達(バダッシュ)王の摩倶澀斯を守義王に封じ、阿没(アモル)王の倶那胡設を恭信王に封じ、沙蘭(シャラムバ)王の卑路斯威を順礼王に封じ、羅利支(ラーリス)王の伊思倶習を義寧王に封じ、怛満(ダイラマーン)王の謝没を奉順王に封じた。
賛じていわく。西方の夷狄は、いにしえには、いまだかつて中国に通好していなかった。漢代になって初めて烏孫諸国について記載するようになり、後には名字をもって見るものが次第に多くなってきた。唐が興ってから、次々と朝貢する国は、おそらく百あまりとなり、みな万里の道のりと危険を冒してやって来た。また、なんと勤勉なことであろうか。しかし中国には朝貢国に対して報贈の義務があり、冊立、弔問旅行日程分の食糧や駅伝の費用も、まかなう義務があった。東は高句麗、南は真臘、西は波斯、吐蕃、堅昆(キルギス)、北は突厥、契丹、靺鞨に至るまでを八蕃と呼び、それよりも外側にある諸国を絶域と呼んで、土地の遠近を見て給費を決めた。開元(713-741)の盛時には、西域の商胡(ソグド商人)に課税して安西四鎮に納めさせた。北道を経由して来るものには、輪台(亀茲付近)で税を納めさせた。国土が広ければ、それに応じて要する費用も増していくものだが、これもまた盛んな時の王の手本というものであろう。
最終更新:2024年08月11日 18:22