巻二百二十二上 列伝第一百四十七上

唐書巻二百二十二上

列伝第一百四十七上

南蛮上

南詔上


  南詔は、あるいは鶴拓といい、または龍尾、または苴咩、または陽剣といった。もとは哀牢の夷の後裔で、烏蛮の別種である。夷の語で王を「詔」という。その先祖の頭目は六あり、自ら「六詔」といい、蒙巂詔・越析詔・浪穹詔・邆睒詔・施浪詔・蒙舎詔である。兵は隔てられ、君公と相対することはできなかった。蜀の諸葛亮がこれを討定した。蒙舎詔は諸部の南にあり、そのため南詔と称した。永昌・姚州の間、鉄橋(雲南省江県西北、故巨津州北百三十里)の南におり、東は爨(さん)を隔て、東南は交趾に属し、西は摩伽陀(マガタ)、西北は吐蕃と接し、南は女王国、西南は驃(ピョー)、北は益州にあたり、東北は黔・巫を境界とした。王都は羊苴咩城で、別都を善闡府といった。

  王は東に向かって座し、その臣は整列し、述べるところがあっても臣とは称さない。王は自らを「元」といい、「朕」というようなものである。その配下のことを「昶」といい、「卿」「爾(なんじ)」というようなものである。官を坦綽・布燮・久賛といい、これを清平官という。国事の軽重を決する所以であり、唐の宰相のようなものである。酋望・正酋望・員外酋望・大軍将・員外軍将というのは、試官(正式に任命されていない官吏)のようなものである。幕爽は兵を司り、琮爽は戸籍を司り、慈爽は礼を司り、罰爽は刑を司り、勧爽は官人を司り、厥爽は工作を司り、万爽は財務を司り、引爽は接客を司り、禾爽は商売を司り、みなは清平官・酋望・大軍将がこれを兼任した。爽は省のようなものである。督爽は三省を統べる。乞託は馬を司り、禄託は牛を司り、巨託は穀物貯蔵庫を司り、また清平官・酋望・大軍将がこれを兼任した。爽酋・弥勤・勤斉というのは賦税を司る。兵獳司というのは、機密を司る。大府の主将を演習といい、副官を演覧という。中府の主将を繕裔といい、副官を繕覧という。下府の主将を澹酋といい、副官を澹覧という。小府の主将を幕撝といい、副官を幕覧という。府には陀酋があり、文官のようなものである。陀西というのは判官のようなもので、大抵このようなものである。たいてい動員がかかれば、文書を下して村に集め、必ずその時期を占った。百家には総佐が一人、千家には治人官が一人、万家には都督が一人いた。たいてい田五畝を双といった。上官には田四十双を、上戸には田三十双を授け、これには差があった。壮者はみな兵隊となり、馬があれば騎兵となった。人は毎年皮の衫(はだぎ)・袴を給付された。村落の遠近によって四軍に分け、旗幟によって四方に分け、一将に面して千人が統率され、四軍に一将を置いた。おおむね敵が国境に侵入すれば、侵入に面した将がこれを防いだ。王の親兵を朱弩佉苴という。佉苴というのは皮帯のことである。郷兵から選んで四軍の羅苴子とし、朱色の鞮鍪(皮兜)を被り、犀革の銅盾を背負って跣(はだし)となり、険しい地を走っては飛ぶかのようであった。百人に羅苴子を置き、一人が統率した。

  望苴蛮というのは、蘭蒼江の西にあった。男女ともに勇ましく敏捷で、鞍をつけずに騎乗し、よく矛剣を用い、短甲で胴体を覆い、皮兜にみな猫や牛の尾を挿し、突撃すると神の如くであった。おおむね出兵すれば、望苴蛮の子弟が最前列となった。清平官の子弟を羽儀とした。王の左右には羽儀の長八人がいて、清平官は王にまみえては佩剣することができず、ただ羽儀の長が佩刀して親信とした。六人の曹長があり、曹長は軍功によって大軍将に補任された。大軍将は十二人、清平官と等列で、日々議して王の所に仕え、出ては軍を治めて節度と称し、ついで清平官を補佐した。内算官があり、王に代わって裁許した。外算官は、王の所を記して処理し、六曹に付した。外には六の節度があり、弄棟・永昌・銀生・剣川・柘東・麗水といった。二の都督があり、会川・通海といった。十の瞼があるが、夷語で瞼というのは州のようなもので、雲南瞼・白厓瞼(または勃弄瞼という)・品澹瞼・邆川瞼・蒙舎瞼・大釐瞼(または史瞼という)・苴咩瞼(または陽瞼という)・蒙秦瞼・矣和瞼・趙川瞼がある。

  祁鮮山の西は熱病が多く、地は平らかで、草は冬でも枯れない。曲靖州から滇池までは、人は水耕し、蚕は柘(やまぐわ)を食べ、蚕は生まれて二十日ほどで繭となる。錦縑を織れば精緻である。大和・祁鮮から西の人は養蚕せず、波羅樹の実を割く。形は綿のようであり、紐縷(ひも)で布をつくった。覧瞼の塩井より産する塩が最も鮮白であり、ただ王が食べることができ、取るに足ればすぐに滅窯してしまう。昆明城に複数の塩井があり、皆塩を算出するが、王は食さず、群蛮がこれを食す。永昌の西に桑が石の上に自生し、その林上にまげて両向きとして下に植え、採取して弓とし、漆を塗布しなくても強弓となり、名を瞑弓という。大河や山々には往々として金が採れ、または砂をさらってこれを得た。麗水には多くの砂金を含む。越睒の西には薦草が多く、良馬を産し、世上に「越睒駿」という。始め仔馬が生まれると、一歳までは莎(はますげ)を手綱として繋ぎ、米のとぎ汁を飲ませ、七年して御せるようになり、一日に数百里を馳せる。

  王が出御すると、八旗を建て、紫もしくは青で、白の斿(旒さお)がつき、雉翣(雉の羽飾り)が二あり、旄鉞(旗と斧)は紫の袋を被せ、翠蓋(緑色の傘)もある。王母は信麼といい、または九麼ともいう。妃を進武という。信麼が出ると、また八旗を建てる、白の斿(旒さお)がつく。曹長以降は金の佉苴(革帯)に繋ぐ。上位物は絳紫(青紫色)である。功績があれば錦を加え、さらに功績があれば金波羅を加えた。金波羅とは虎皮である。功が少ない者は、襟の背中に袖をつけず、次は衿のみとする。婦人は化粧をせず、紫蘇で髪を潤わせる。貴族は綾錦の肌着で、上より錦一幅を羽織る。両股辮(三つ編みツインテール)を髷とし、耳に珠貝(アコヤガイ)・瑟瑟(ラピスラズリ)・虎魄(琥珀)をつける。寡婦は人と関係を持つことは禁止されておらず、結婚は夕方に行い秘密裏に婚家に送った。すでに嫁している者が他者と姦淫に及べば、皆死罪となった。俗では寅正(一月を正月とする)とし、ほとんど大抵は中国と大同小異である。膾魚は一寸ほどで、胡瓜・山椒・蔱(グミ)をあえ、「鵞闕」と称した。瓢笙を吹き、笙は四管で、酒は客前で笙を吹いて盃をすすめて飲み干させた。繒(かとり)の布を市場で貝と為替した。貝の大きさは指ほどで、十六枚で一枚が得られた。軍隊が行軍すれば、人は糧を一斗五升もたらし、二千五百人を一営とした。その軍法は、前に傷がある者は治療し、後に傷がある者は斬刑とした。田を耕作するのに牛一匹に三人がつき、前は曳き、中は押し、後ろは走った。しかし農事を専らにし貴賎なく皆耕作した。繇役せず、人は一年に米二斗を租税で納めた。一芸ある者は田を給し、二芸の場合は収めて税とした。

  王は蒙氏で、父子は名を相続した。舎尨より以来、系譜の順序があるが考察すべきである。舎尨は独邏を生み、または細奴邏といい、高宗の時に遣使して入朝し、錦袍を賜った。細奴邏は邏盛炎を生み、邏盛炎は炎閤を生んだ。武后の時、盛炎は自ら入朝し、その時に妻はまさに妊娠しており、盛邏皮を生み、喜んで「私にはまた子がある。唐の地で死んだとしても満足だ」と言った。炎閤が即位し、開元年間(713-741)に死んだ。弟の盛邏皮が即位し、皮邏閣を生んだ。特進を授けられ、台登郡王に封ぜられた。炎閤にまだ子がなかった時、閤羅鳳を後嗣としていたが、子が生まれたため、宗家に血筋を戻すよう、名を承閤としたが、ついに改め戻されなかった。

  開元年間(713-741)末、皮邏閣は河蛮を駆逐し、大和城を奪取し、また大釐城を襲撃してこれを守り、因城の龍口によった。夷語で山の起伏を「和」といい、そのため「大和」といい、閤羅鳳の居所となった。天子は詔して皮邏閣に帰義の名を賜った。この時になって五詔は弱体化し、帰義ひとり強く、厚く剣南節度使の王昱に利益誘導し、六詔を合わせて一つとなることを求め、裁可された。帰義はすでに群蛮に並び、ついに吐蕃を破り、次第に驕慢となった。入朝し、天子はまた礼を加えた。また渳河(洱海)の蛮を破った功績によって、勅使を馳せ遣し冊封して雲南王とし、錦袍・黄金螺鈿の帯七事を賜った。ここにおいて大和城に遷り治めた。天宝年間(742-756)初頭、閤羅鳳の子の鳳迦異を遣わして宿衛に入れ、鴻臚卿を拝し、恩賜はまことに他の人と異っていた。

  天宝七載(748)、帰義が死ぬと、閤羅鳳が即位し、王を襲名した。その子の鳳迦異を陽瓜州刺史とした。それ以前、安寧城に五箇所の塩井があり、人は竈で煮て自給していた。玄宗は特進の何履光に詔し、出兵して南詔の境を定め、安寧城および塩井を奪取し、再度馬援の銅柱を立てて帰還した。

  鮮于仲通は剣南節度使を領したが、性格凶暴で知略に乏しかった。南詔はかつて妻子とともに都督に謁してから雲南を通過するのが慣習であったが、太守の張虔陀が私にし、多くを要求したが、閤羅鳳は応じなかった。張虔陀はしばしば罵って物惜しみし、陰でその罪を表したから、閤羅鳳は怒って反き、兵を発して張虔陀を攻めて殺し、姚州および小夷の州およそ三十二を奪取した。翌年、鮮于仲通は自ら率いて戎・巂州を出て、二道を分けて進み曲州・靖州に次いだ。閤羅鳳は使者を遣わして謝罪し、「願わくば捕虜を返還し、自ら刷新して姚州に築城したいです。もし聴されないのなら、吐蕃に臣属しますが、そうなると、おそれながら雲南は唐の地ではなくなるでしょう」と言ったから、鮮于仲通は怒り、使者を捕らえ、進軍して白厓城に迫ったが、大敗して撤退した。閤羅鳳は戦死者を埋葬して京観を築き、ついに北は吐蕃に臣従し、吐蕃は南詔を弟とした。夷(吐蕃)では弟を「鍾」というから、そのため「賛普鍾(ツェンポの弟)」と称し、金印を賜い、「東帝」と号した。碑を国門に掲げ、やむをえず叛いたことを明らかとした。かつて、「我は昔より代々中国を奉り、封賞をかさね、後嗣は容れて帰順した。もし唐の使者が至り、碑文を指すことができれば我が罪を洗い祓うだろう」と言った。たまたま楊国忠が剣南節度使となって国にあたり、すなわち天下の兵およそ十万を整えて、侍御史の李宓をしてこれを討伐させたが、補給するものがおらず、海(洱海)を渡って疫病で死んだ者は道に相次いだ。李宓は大和城で敗れ、死者は十人中の八人に及んだ。またちょうどその時安禄山が叛乱し、閤羅鳳はこれによって巂州会同軍を奪取し、清渓関によった。越析詔を破り、越析詔王の于贈を梟首した。西は尋伝蛮・驃の諸国が降った。

  尋伝蛮は、習俗は糸や綿がなく、裸足で棒や茨を踏んでも苦しまない。豪猪(ヤマアラシ)を射て、その肉を生食する。戦えば、竹籠を頭に兜のように被る。その西に裸蛮がいて、または野蛮ともいい、山中に散漫し、君長がおらず、檻のような家をつくって居住した。男は少なく女が多く、田を耕さず、木皮をもって体を覆う。婦人は十ないしは五人で一人の男子を養う。広徳年間(763-764)初頭、鳳迦異は柘東城を築くと、諸葛亮の石刻があった。文には「碑が即ち倒れれば、蛮は漢の奴隷となるだろう」とあり、夷は畏れて誓い、常に石を保護した。

  大暦十四年(779)、閤羅鳳が卒したが、鳳迦異がその前に死んでいたから、その孫の異牟尋が立って嗣いだ。異牟尋には知略があり、衆をよくし、ほぼ書を知っていた。母の李氏は、独錦蛮の娘である。独錦蛮はまた烏蛮の種で、秦蔵川の南にいた。天宝年間(742-756)、その長に命じて蹄州刺史とした。代々南詔と婚姻関係にあった。

  異牟尋が立つと、衆二十万をつくして入寇し、吐蕃と合力した。一隊は茂州を駆け抜け、文川を越え、灌口を騒がせた。一隊は扶州・文集を駆け抜け、方維・白垻を掠奪した。一隊は黎州・雅州に侵入し、邛郲関を攻撃した。その配下に命じて「我がために蜀を取り東府とすれば、職人や妓女はすべて邏娑城に送り、年に一縑(かとり)を与えよう」と言った。ここに進軍して城邑を陥落させ、人々は山に逃げた。徳宗は禁衛および幽州軍を発して東川への援軍とし、山南の兵と合わせ、大いに異牟尋の軍を破り、斬首すること六千級、敵の捕虜や負傷者ははなはだ多く、崖から転落する者十万におよんだ。異牟尋は恐れ、さらに苴咩城に遷り、築くこと南北十五里におよび、吐蕃は日東王に封じた。

  しかし吐蕃は重税を課して苛政であり、ことごとく要害を奪って駐屯して侍らせ、毎年出兵要請をして防衛を助けさせたから、異牟尋は次第に苦しんだ。そのため西瀘令の鄭回なる者がおり、唐の官吏であったが、巂州の敗戦で捕虜となっていた。閤羅鳳は儒学の才能を重んじて「蛮利」と号し、子弟を教育させ鞭打ちもさせたから、そのため国中に憚りがなかった。後に清平官となった。鄭回は異牟尋に説いて「中国は礼義があり、少し責めを求めたとしても、吐蕃のように貪欲酷薄なこと極まりないということはありません。今吐蕃との関係を破棄して再び唐に帰順すれば、遠征の労なく、利はこれより大きいものはありません」と言った。異牟尋はこれをよしとし、次第に内部で謀議したが、しかしながら未だにあえて公表しなかった。また節度使の韋皋が諸蛮を慰撫するに威光や恩恵があり、諸蛮はすこぶる異牟尋の語を得て韋皋に伝えた。その時貞元四年(788)であった。韋皋は間諜を派遣して書を遺したから、吐蕃はこれを疑い、責めて大臣の子を人質とし、異牟尋は次第に怨んだ。

  その後貞元五年(789)、策を決して使者三人を派遣し、それぞれ違う道を通って成都に赴き、韋皋に帛書を遣わしていう、「異牟尋は代々唐の臣下ですが、さきに張虔陀のせいで、志は後悔に吞まれてしまい、勅使が至り、澄み雪ぐことができず、部族をあげて恐れ苦しみ、不本意のはかりごととなってしまいました。鮮于仲通はこの頃挙兵し、そのため自ら新たに従うができませんでした。祖父はそむき、吐蕃の欺きのため一人盟約に背くことになりました。神川都督の論訥舌(ロンチツェン)は浪人の利羅式をして部族を惑わし、兵を起こすのにも定まった時がなく、今まで十二年となりました。これが一つめの忍です。天では蕃廷に禍いとし、降っては会見場で仲違いさせ、太子の弟は兄を流竄し、近臣は汚職専横をつくしています。みな尚結賛(シャンギェルツェン)の陰謀で、そのため殺害が横行し、かつての功臣は一、二人いるかいないかになってしまいました。論訥舌らは王を冊封し、小国の奏請は上達させません。これは二つめの忍です。また論訥舌を遣わし城を鄙へと追いやり、邑を潰えて耐えることができません。利羅式はひそかに重賞を取り、部落は皆驚いています。これは三つめの忍です。また利羅式は使者を「お前の将軍は滅んでいる。我でなければだれがいるのか?お前が富めるところはまさに我がためにあるべきなのだ」と罵りました。これが四つ目の忍です。

    今、吐蕃は利羅式に甲士六十侍衛をゆだねていますが、心が邪悪なのを知りながら罪ではないとしています。これが一つ目の忍び難きことです。吐蕃は奸詐で詭弁があり、たやすく懐に入り込んで勢力で侵します。生を楽しむかのように、実に先人を侮辱し、罪を部落に押し付けます。これが二つ目の忍び難きことです。撤退した渾王は吐蕃のために殺害され、遺児は騙されました。西山の女王はその位を奪われ、拓抜の首領は殺戮されました。僕固部の志は忠誠であったのに、その身はまた喪亡しました。一朝を思い起こすごとにまたこの禍いを受けているのです。これが三つ目の忍び難きことです。朝廷に行き降使を招き、心には二心がなく、詔して信節は箱に入れられ、みな吐蕃の朝廷に送られます。中華が仁であることを知っているとはいえ、業は吐蕃の臣となり、声を呑んで訴えることがありません。これが四つ目の忍び難きことです。

    かつて祖父は先帝の寵があり、後嗣は愚か者を率いて王位を襲名しました。人は礼楽を知り、もとより唐風に化していました。吐蕃は詐って百情を欺き、互いに接近するのを憎く思っています。異牟尋は願わくは誠をつくして心を日々新たにし、天子に帰順したいのです。願わくば加えて剣南・西山・涇原などの州を守り、安西を鎮め守り、兵をあげて四方にのぞみ、回鶻の諸国に委せて、侵掠されるところに、吐蕃の勢いを分散して力を散らせば、強いままでいることはできず、これ西南の隅は天子の兵を煩わせることはなく、功績を立てることができるのです。」

  そして韋皋に黄金・丹砂を贈った。韋皋は使者を京師に護送し、使者は異牟尋が天子に帰順することを請い、唐のために藩屏となることを奏上した。金は改めて帰順することを示し、丹は赤心(まごころ)である。徳宗は喜び、詔書を賜い、韋皋に命じて間諜を遣して窺わせた。

  韋皋はその部下の崔佐時をして羊苴咩城に至らしめた。その時吐蕃の使者が多数いて、ひそかに崔佐時に戒めて牂柯国の使者の服に着替えさせて入らせた。崔佐時は、「私は唐の使者である。どうして小夷の服装に従うことができようか」と言ったから、異牟尋は夜に迎えて、席次を設けて篝火を並べ、崔佐時は即ち天子の意を述べた。異牟尋は心の内で吐蕃を恐れ、左右の者を顧みて顔色を失い、流涕して再拝して命を受けた。その子の閤勧および清平官をして崔佐時とともに点蒼山で会盟させた。載書(会盟の誓約文)は四つで、一つは神祠の石室におさめ、一つは西洱水に沈め、一つは祖廟に置き、一つは天子に奉った。そこで兵を発して吐蕃の使者を殺し、誓約文を献じ、曹長の叚南羅・趙迦寬を遣わして崔佐時にしたがって入朝した。

  それ以前、吐蕃は回鶻と戦い、死傷者が甚だしく、そこで南詔の万人を徴兵した。異牟尋は吐蕃を攻撃したいと思い、表向きは寡兵弱小を装って、五千人が向かうと言ったから、吐蕃は許可した。そこで自ら数万を率いて後を追い、昼夜兼行し、大いに吐蕃を神川で破り、遂に鉄橋をたち、溺死するものは万人を数え、その五王を捕虜とした。そこで弟の湊羅棟・清平官の尹仇寬ら二十七人を遣わして入朝して地図・方物を献上し、南詔の復号を願い出た。帝は賜物を加え、尹仇寬を左散騎常侍に任命し、高渓郡王に封じた。

  翌年夏六月、異牟尋を冊して南詔王とした。祠部郎中の袁滋を持節領使とし、成都少尹の龐頎を副官とし、崔佐時を判官とした。倶文珍を宣慰使とし、劉幽巌を判官とした。黄金の印を賜い、その文には「貞元冊南詔印」とあった。袁滋は大和城に到り、異牟尋は兄の蒙細羅勿らを遣わし良馬六十で迎えた。金の馬頭飾りや玉の轡飾りがつけられ、兵は鐸を振るって道を挟んで並んだ。異牟尋は金の甲冑を着用し、虎の皮をかぶり、二振の鐸鞘(鋭利な刀)を持った。矛を持った千人衛がおり、大きな象十二頭が前に曳かれ、騎兵・歩兵は列を並べた。夜明けに冊を授け、異牟尋は官吏を率いて北面して立ち、宣慰使は東向となり、冊使は南向きとなり、そこで詔冊を読んだ。案内する者が異牟尋を引いて席につかせ、跪いて冊印を受け、稽首再拝した。また賜服・備物を受け、退いて「開元・天宝年間(713-756)、曾祖父および祖父はみな冊を受けて王位を襲名し、これより五十年。貞元皇帝(徳宗)は罪のあとを洗い流して功績を記録され、ふたたび爵命を賜りました。子々孫々までまた爵を賜わり永遠に唐の臣下となります」と言った。そこで大いにその下に会し、使者をもてなし、銀細工の馬頭盤(匙置き)二つを出してきて、袁滋に「これは天宝(742-756)の時に先君(閤羅鳳)が鴻臚少卿に宿衛したとき、皇帝(玄宗)から賜ったものです」と言った。笛工と歌女がいて、みな白髪の老人であった。袁滋に「これは先君が帰国の時に、皇帝が胡部・亀茲の二楽団を賜りました。今は死んで失われてしまいましたが、ただ二人だけがいるのです」と言った。酒が来ると、異牟尋は座り、盃を袁滋の前に奉り、袁滋は盃を受けて「南詔は深く先祖のなした業績を思い、忠誠心を抱き、永く西南の藩屏となり、後嗣をして絶やすようなことがあってはならない」といい、異牟尋は拝して「どうして使者の命ずることを受けないなんてことがありましょうや」と言った。

  袁滋が帰還すると、再び清平官の尹輔酋ら七人を遣わして天子に謝礼し、鐸鞘・浪剣・鬱刃・黄金・瑟瑟(ラピスラズリ)・牛黄・琥珀・綿布・紡ぎ糸・象・犀・越睒の統倫馬を献上した。鐸鞘というのは、形は刀のようで、孔があって近づけば綺麗な水が出て、金で飾られ、撃って貫けないものはなく、夷人は最も宝とし、毎月血で祀った。鬱刃というのは、鋳造するときに毒薬で冶(つく)り、完成して取り出すと刃紋が躍動すること星のようであり、十年にして完成し、馬血を塗り、黄金や犀で鐔・頭を飾り、人を傷つければ即死した。浪人が鋳造するから、そのためまたの名を浪剣といい、王が佩刀しており、七世に伝わった。

  異牟尋は吐蕃を攻撃し、再び昆明城を奪取して食塩池とした。また施蛮・順蛮を破り、その二王を捕虜とし、白厓城を置いた。よって磨些蛮を平定し、昆山、西爨の故地に隷属させた。茫蛮を破り、弄棟蛮・漢裳蛮を奪い、雲南の東北を実効支配した。

  施蛮は、鉄橋の西北にいて、大施睒・斂尋睒にいた。男子は繒布を着た。女は髮を分けて額にたらし、一髻をつくって後に垂らし、裸足で皮を着た。

  順蛮は、もとは施蛮と剣・共の諸川に雑居した。咩羅皮・鐸羅望はすでに邆川・浪穹を失い、剣・共の地を奪った。そのため鉄橋に移り、剣睒の西北四百里にいたから、剣羌と号した。

  磨蛮・些蛮は、施蛮・順蛮とともに、みな烏蛮の一種族であり、鉄橋・大婆・小婆・三探覧・昆池などの川にいた。風土は牛や羊が多く、習俗では沢で顔を洗わず、男女は皮を着て、習俗は飲酒・歌舞を好んだ。

  茫蛮は関南の一種で、茫というのは、その君主の号であり、または茫詔と呼んだ。永昌の南に茫天連・茫吐薅・大睒・茫昌・茫鮓・茫施があり、大抵みなその種族である。楼に住み、城郭はない。ある者は漆の歯、ある者は金歯であった。青布短袴を着て、脛は露出し、繒布で腰をまとい、その余りを後ろに垂らして飾りとした。婦人は五色の娑羅籠(木綿の円筒スカート)を着た。象はわずかで牛のようであり、養って耕作に用いた。

  弄棟蛮というのは、白蛮の一種族である。その部族は、もとは弄棟県の辺境の地におり、昔は褒州とし、首領を刺史としたが、誤ってその参軍に殺されたから、族を引き連れて北に逃げ、後に磨些江の側に散居し、そのため剣・共の諸川にもまた居住した。

  漢裳蛮は、もとは漢人の一部族で、鉄橋にいた。思うに早朝に頭に衣をまとっているが、他は漢服と同じようなものである。

  貞元十五年(799)、異牟尋は謀って吐蕃を攻撃し、邆川・寧北などの城をもって寇路にあたり、険しい山に深く塹壕を掘って戦いの準備に備え、帝は出兵助力を許した。また大臣の子弟を韋皋の人質とすることを願い出たが、韋皋は固辞したが、かたく願い出たから、ことごとくを成都に宿らせ、みな就学させた。かつ、「昆明・巂州は吐蕃と接っており、先んじて出兵しなければ、虜(吐蕃)のために脅かされるところで、かえって我らの患いとなります」と言い、韋皋に願い出てこのようにした。その時、唐兵はこの頃京西・朔方に駐屯し、大いに兵糧を積みたくわえ、南北を一緒に攻撃して故地を攻めとろうとした。しかし南方に軍事品を輸送する期間を考えると、兵はことごとく集まらなかった。この夏、虜(吐蕃)の麦が熟らず、疫癘が流行し、賛普も死に、新君主が即位した。韋皋は虜(吐蕃)があえて動かないから、異牟尋に勧めて、「緩やかに万全をあげ、いよいよ速くしても功績はあがらない。今、国境の上の兵士は十倍であったのは過去のことであり、かつ行営(駐屯軍)はすべて巂州にいて、西瀘の吐蕃路はおさえ、昆明・弄棟から虜(吐蕃)はいなくなるだろう」といった。異牟尋はその年を期して実行することを願い出た。

  吐蕃の大臣は歳(ほし)が辰に在(やど)っているから、出兵する時期であるとし、南詔を襲撃しようと謀った。軍を閲兵して道を整え、まさに十月に巂州を包囲しようとし、軍は昆明におよそ八万が駐屯しており、全員に一年間の兵糧を命じた。賛普は舅の攘鄀羅を都統とし、尚乞力(シャンチチ)・欺徐濫鑠を遣わして西貢川に駐屯した。異牟尋と韋皋は互いにこれを聞き、韋皋は部将の武免に命じて弩士三千を率いて赴任させ、亢栄朝を一万人で黎州に駐屯し、韋良金を二万五千人で巂州に駐屯し、南詔に急ありと約し、すべて進軍し、俄準添城を過ぎると、南詔が兵糧を供与した。吐蕃は軍五万を率いて曩貢川から軍を二分して雲南を攻め、一軍は諾済城より巂州を攻めた。異牟尋は東蛮・磨些の動きが予測しがたいのを恐れ、吐蕃を道案内することを恐れ、先んじて攻撃しようとした。韋皋に報して「巂州は実に往来の道であり、数州を防ぎ覆うから、虜は百計を案じてこれを窺っています。そのため兵を厳にして守り、障壁は望み、穀物はどこまでもあり、東蛮はおろかにも敢えて二心を抱くでしょうか?」と言った。異牟尋は東・磨些の諸蛮に檄(げき)して城中に兵糧を運び入れ、応じない者はことごとく焼き払った。吐蕃の顒城の将の楊万波は降伏を約束したが、事は事前に洩れ、吐蕃は兵五千で守り、韋皋はまさにこれを撃破せんとした。楊万波と籠官は顒城が陥落すると、その人二千人を宿川に移した。韋皋は扶忠義を将としてまた末恭城を取り、捕虜は牛や羊に繋いで千を数えた。賛普の大将の既煎譲律は兵をもって十貢川を隔てて一家屋にて駐屯し、国師の馬定徳は部族を率いて降伏した。西貢節度監軍の野多輸煎は、賛普乞立賛(チソンデツェン)の養子で、まさに先代の賛普に従って殉死すべきところを、また扶忠義に詣でて降伏した。ここにおいて虜(吐蕃)は気勢が衰え、軍は不振であった。欺徐濫鑠は鉄橋に至ったが、南詔はその水に毒をまき、人は多く死んだから、納川に移り、陣地を築いて待機した。この年、虜(吐蕃)は霜雪が早く、兵は功なくして帰還し、明年を以て期した。吐蕃は唐・南詔の挟撃に苦しみ、また敢えて南詔を計略できなかった。韋皋は巂州の徴兵を解除させ、次第に鎮守のみとし、南詔の境といえども国境軍を所在させた。吐蕃は野戦のしばしばの敗北に懲り、三度瀘水に駐屯し、論妄熱(ロンモンシェル)を遣わしてしきりに瀘の諸蛮を誘った。また悉摂を城とした。悉摂は、吐蕃の険要である。蛮酋は密かに南詔と韋皋の部将の杜毘羅を導いて狙い撃ちした。貞元十七年(785-805)春、夜に瀘を渡って虜(吐蕃)の駐屯地を破り、斬首五百級であった。虜(吐蕃)は鹿危山を確保し、杜毘羅は伏兵で待ち伏せし、また戦い、虜(吐蕃)は大いに敗走した。時に康(サマルカンド)・黒衣大食(アッバース朝)らの兵および吐蕃の大酋はみな降伏し、兜首級二万人を獲た。また鬼主と合同で虜(吐蕃)を瀘西で破った。

  吐蕃の君長は共にはかり、巂州を獲得できず、患いはいまだおさまらず、常に両頭蛮が唐をはさんで深刻さの尺度とした。南詔のことをいうのである。たまたま虜(吐蕃)は飢饉となり、まさに賛普を葬ろうとしたが、葬儀を整えるにも支障があった。ここにいたって大いに兵を率い、三戸ごとに一卒を徴兵し、虜(吐蕃)の法では大調集といった。また唐兵三万が南詔に入ったということを聞いて大変恐れ、兵は納川・故洪・諾済・臘・聿賷の五城を守り、ことごとく軍を西山・剣山に出し、巂州をおさめて南詔を絶たんとした。韋皋はそこで上言して「京右の諸屯をよろしく明斥候とし、はやく田を収穫し、邠・隴の荒れ地を焼き払えば、虜(吐蕃)は侵入するのに困るでしょう」といい、韋皋は将軍の邢毘を遣わし兵一万人で南・北路に駐屯し、趙昱に一万人で黎・雅州を守らせた。異牟尋は韋皋に対して「虜(吐蕃)は声高に巂州攻略と言ってますが、実際には雲南攻略を窺っています。武免の督軍をお願いして羊苴咩に進みます。もし虜(吐蕃)が出て来なかったら、来年二月に深く侵入することをお願いします」と言った。その時虜(吐蕃)の兵三万が塩州を攻めたが、帝は虜(吐蕃)が多く偽るから、何度も大軍を出してくるのに疑い、韋皋に詔して深く賊(吐蕃)の村をかすめてとり、虜(吐蕃)の勢いを分けようとした。韋皋は上表して「賊の精鋭の多くは南に駐屯しており、今、塩・夏に向かっているのは全軍ではありません。河曲を掠奪しようとするのは党項(タングート)を富ませるだけです」と言った。その時、虜(吐蕃)が麟州を破ったのを聞き、韋皋は諸将を督軍して道を分けて進出し、あるいは西山から、あるいは平夷を経て、あるいは隴陀和・石門を下って、あるいは神川・納川を経て、南詔と合流した。この時、回鶻・太原・邠寧・涇原の軍はその北を刈り取り、剣南東川・山南の兵はその東を震わし、鳳翔軍はその西に当たった。蜀・南詔は深く侵入し、城に勝つこと七、堡塁を焼くこと百五十所、斬首一万級、獲た甲冑は十五万であった。昆明・維州を包囲したが勝てず、軍は帰還した。振武・霊武の兵は虜(吐蕃)二万を破り、涇原・鳳翔軍は虜(吐蕃)を原州に破った。ここに南詔はその腹心を攻め、得た捕虜は最多であった。帝は中人の尹偕を遣わして異牟尋に激励し、吐蕃は盛んに昆明・神川・納川に駐屯して自ら守った。異牟尋はこの年から方物を献じ、天子に礼した。


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最終更新:2024年12月15日 22:46
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