唐書巻二百二十一上
列伝第一百四十六上
西域上
泥婆羅 党項 東女 高昌 吐谷渾 焉耆 亀茲 跋禄迦 疏勒 于闐 天竺 摩掲陀 罽賓
泥婆羅(ネパール)は、吐蕃の西にある楽陵川からすぐのところにある。国土は赤銅とヤクを多く産出した。国人の風俗は翦髪で、前髪が眉にまで達している。耳には穴を穿っていた。アーチ状になった竹筒で楕円形の枠をつくり、ゆるやかに肩に至るのがよいとされた。さじと箸がないので、国人は手づかみで食べた。その国の器はみな銅製である。その家屋の板囲いに模様を描いた。牛を使用した耕作方法を知らないため、田畑が少ない。それゆえ、国人は生業として商業に習熟している。一枚の布で体を覆い、一日に数回、沐浴する。博戯を重んじ、天文学と暦術に通じていた。天神を祀るのに石を刻んで像をつくり、この像に毎日、水を浴びせ、煮た羊肉をそなえて天神を祀る。銅を鋳造して貨幣をつくる。貨幣のおもてに人のかたちを描き、裏側に牛や馬のかたちを描いた。この国の君主は、真珠、瑠璃、車渠(貝殻)、珊瑚、琥珀を身につけ、纓絡(ネックレス)をたらし、耳には金鉤・玉の耳飾りをつけ、宝剣を腰に帯びて、獅子の足の格好をした四脚寝台に座り、香を焚いて花を堂にしいた。大臣は地べたに座って敷物をしかない。左右に武器を持った兵士数百が待っている。宮中には七重の楼閣があり、その屋根は銅製の瓦で覆われていた。柱と梁はみな様々な宝石で飾られており、宮殿の四隅には銅製の水槽が置かれていた。その下には黄金の龍がおり、龍の口からは激しく水が流れ出て槽の中に注ぎ込んでいた。
初め王の那陵提婆(ナーレンドラ・デーヴァ)の父親が、叔父によって殺されたため、提婆は吐蕃に亡命した。吐蕃が提婆を受け入れたので、提婆は吐蕃に臣従した。貞観中、
太宗は
李義表を天竺に派遣した。李義表が泥婆羅を通過したので、提婆はたいそう喜び、使者を案内して阿耆婆池(アジーヴァ)を一緒に見学した。池の広さは数十丈、その水はいつも沸騰していた。その水は、日照りの時も大雨の時も、涸れることも溢れることもなかったと伝えられている。池の中に物を投げ込むと、たちまち煙が生じ、その上に釜をかけると、すぐに煮あがってくる。
貞観二十一年(647)、泥婆羅の使者が入朝し、波稜(ホウレン草)、酢菜、渾提葱を献上した。永徽の時(650-656)、王の尸利那連陀羅がまた使いを派遣して入貢した。
党項(タングート)は漢代の西羌の別種で、魏晋の後、次第に甚だしく衰微した。北周が宕昌、鄧至を滅ぼしたので、党項は初めて強くなりはじめた。その地は昔の析支であり、東は松州、西は葉護(西突厥)、南は春桑・迷桑などの羌、北は吐谷渾に隣接していた。険しい山谷に居住し、その長さは三千里にわたる。姓のちがいによって部落をなし、その一つの姓がまたさらに分かれて小部落をなし、大きいものでは万騎、小さいものでは数千の兵力を持っており、互いに相手を服属させることができないでいる。そのため、細封氏、費聴氏、往利氏、頗超氏、野辞氏、房当氏、米禽氏、拓拔氏があり、拓拔氏が最強で、定住し、家屋があり、ヤクの尾、羊毛を織って家を覆い、一年に一度、その毛織物を交換した。党項は武を尊び、法令も賦役もない。人々の寿命は長く、多くのものが百歳を越えた。盗みを好み、互いに略奪しあった。彼らは、復讐することを最も重んじた。復讐をいまだに果たせていないものは、蓬のように髪をふり乱し垢まみれの顔で、裸足のまま過ごし、草を食べる。復讐を遂げた後に、ようやく普通の生活に戻る。男女は、皮衣と粗い繊維の衣服を着用し、毛織物をまとった。ヤク、ウシ、ウマ、ロバ、ヒツジを牧畜して食べ、耕作はしなかった。その地は寒く、五月に草が生え八月に霜がおりた。文字はなく、草木の様子をうかがって歳時を識別した。三年に一度、互いに集まり、牛と羊を殺して天を祀った。他国から麦を得て酒を醸造した。父親の妾、伯母・叔母、兄嫁、息子や弟の妻を妻としたが、ただ同姓の女性は娶らなかった。年老いて亡くなった場合、子孫達は泣かなかった。しかし、幼くして亡くなると、天柱と称して、家族は悲しんだ。
貞観三年(629)、南会州都督の
鄭元璹は使者を派遣して降服するように説得したので、党項の酋長・細封歩頼が部落を挙げて降服した。
太宗が璽を押した詔を下して彼らを慰撫したので、細封歩頼はこれより入朝し、太宗から与えられる宴や賜わりものは、他とは違って別格であった。太宗は細封歩頼の領地を軌州となし、細封歩頼に刺史を授与した。細封歩頼は、兵を率いて吐谷渾を討伐したいと請願した。その後、酋長達がことごとく内属したので、その地を州、奉州、厳州、遠州の四つの州となし、首領たちを刺史に任じた。拓赤辞というものがおり、初めは吐谷渾に臣従していた。谷津の慕容伏允が、赤辞を厚遇して通婚したので、諸々の羌族はすでに唐に帰順していたにもかかわらず、赤辞だけがひとり唐に帰順してこなかった。
李靖が吐谷渾を討伐した時、赤辞は狼道峡に駐屯して唐軍に抵抗した。廓州刺史の久且洛生が、赤辞を説得して降伏させようとしたが、赤辞は「吐谷渾王は私のことを腹心として遇してくれている。他のものなど知らぬ。もし速やかにこの場から立ち去らないのなら、おまえを斬り殺して私の刀を穢すことになるぞ。」と言い返してきたので、久且洛生は怒り、軽騎兵を率いて粛遠山で赤辞を撃破し、数百級を斬首して雑畜六千を捕獲した。太宗は、この勝利によって、降服すれば生命の保障をしたので、赤辞の従子・思頭は、ひそかに唐に帰順し、その部下の拓拔細豆もまた降伏した。赤辞は宗族が離反してしまったので次第に自らも帰順することを望み、岷州都督の
劉師立も帰順を勧誘したので、赤辞は思頭とともに唐に内属した。そこで、太宗はこの地を懿州・嵯州・麟州・可州など三十二の州となし、松州を都督府となして、赤辞を西戎州都督に抜擢し、李姓を賜わった。それ以後、党項からの朝貢が絶えることはなかった。これによって、黄河の源流にある積石山から東の地はすべて中国の領地となった。この後、吐蕃が次第に隆盛したので、拓抜は恐れて内地への移住を請願した。そこで初めて慶州に静辺などの州を設置して党項をここに住まわせた。この地が吐蕃の領土と化すと、この地に住んでいるものはみな吐蕃に従属する事となり、さらに弭薬(ミーニャク)と号するようになった。
また黒党項という部族もいた。黒党項は、赤水の西に住んでいた。その部族長は、敦善王と号し、吐谷渾の王・慕容伏が
李靖の軍に敗北してこの地に逃走してきた時には、伏允は敦善王を頼ってきた。吐谷渾が唐に服従するようになると、敦善王もまた朝貢してきた。雪山に住んでいるものたちを破氏といった。
白蘭羌という部族がいた。吐蕃はこれを丁零と呼んでいた。白蘭羌は、その左の部族が党項に属し、右の部族は多弥と隣接していた。勝兵を一万人擁し、戦闘において勇敢に戦い、用兵を善くするところは、民族的に党項と同じであった。武徳六年(623)、使者が入朝した。翌年、
高祖はこの地を維州と恭州の二州となした。貞観六年(632)、数十万とともに内属した。永徽年間(650-656)には、特浪の生羌の楼と大首領・凍就が部衆を率いて到来し、内属したので、その地を剣州となした。
龍朔年間(661-663)以後、白蘭、春桑、白狗羌が吐蕃の臣下となり、吐蕃に兵士を提供してその先鋒になった。白狗と東会州は隣接し、勝兵はわずかに千人であった。西北にいるもので天授年間(690-692)の間に内附したものは、戸数にして約二十万だった。唐は、その地を朝州・呉州・浮州・帰州などの十州となし、霊州と夏州の間に散居させた。至徳年間の末(757)、党項は吐蕃に誘われ、吐蕃の間諜となって辺境地帯を略奪した。しかし、彼らは急に後悔して来朝し、霊州の軍糧運送を援助したいと請願した。乾元年間(758-760)、安史の乱が原因で中国がしばしば乱れたので、党項は邠州と寧州に入寇した。
粛宗は、
郭子儀に詔して朔方・邠寧・鄜坊の三節度使の任務を統括させて、鄜州刺史の
杜冕と邠州刺史の桑如珪に二部隊に分けて出撃させた。
郭子儀が邠州・寧州に到着すると、党項は潰走した。
上元元年(760)、涇州・隴州の部落十万人が、鳳翔節度使の
崔光遠のもとに来て降伏した。上元二年(761)、党項は渾・奴刺と連合して、宝鶏を襲撃し、吏民を殺害して財物を掠め取った。大散関(宝鶏の南)を焼き、鳳州に入寇して、刺史の
蕭𢘽を殺し、節度使の
李鼎がこれを追撃した。翌年、党項がまた梁州を攻撃したので、刺史の
李勉は逃走した。このため党項は奉天まで進撃し、華原・同官を大いに略奪して去った。詔して、
臧希譲を李勉に代えて刺史とした。これによって、帰順・乾封・帰義・順化・和寧・和義・保善・寧定・羅雲・朝鳳のおよそ十州の部落が臧希譲を訪れ、よしみを通じて節と印を乞うたので、詔してこれを認めた。
僕固懐恩が叛いた時(764)、懐恩は党項・渾・奴刺を誘って入寇した。僕固懐恩は数万の兵を率いて鳳翔と盩厔を略奪した。党項の大酋長の
鄭廷と
郝徳は同州に入寇したので、同州刺史の
韋勝は逃走した。節度使の
周智光は、鄭廷らを澄城で撃破した。一ヵ月後、鄭廷らがまた同州に入寇し、官庁および民間の家屋を焼き、馬蘭山に塞を築いた。
郭子儀は軍勢を派遣してこれを襲撃し、退却して三堡を保った。それから、
郭子儀は慕容休明を派遣して、鄭廷と郝徳を諭させて降伏させた。
郭子儀は、党項と吐谷渾の部落を塩州・慶州などの州に分散させて住まわせた。それらの地と吐蕃が非常に近く、互いに連合して脅威になりやすかったので、上表して、静辺州都督、夏州・楽容などの六つの府の党項を銀州の北、夏州の東に移動させ、寧朔州の吐谷渾を夏州の西に住まわせて、引き離して唐の脅威にならないよう防いだ。静辺州の大首領、左羽林大将軍の拓拔朝光ら五人の刺史を召して入朝させ、厚く賜わりものを与えて帰還させ、各々の部族を安んじさせた。これより以前、慶州には、破丑氏族が三部族、野利氏族が五部族、把利氏族が一部族おり、おのおの吐蕃と婚姻して互いに援助しあっていたので、吐蕃の賛普は、これらを王とした。このため辺境地帯が乱れること十年餘に及んだ。郭子儀は上表し、工部尚書の
路嗣恭を朔方留後、将作少監の梁進用を押党項部落使とし、行慶州を設置させた。さらに
郭子儀は「党項は、ひそかに吐蕃と結んで事変を起こそうとしております。ですから党項に使者を派遣し、これを招慰して謀叛の機会を取り除くべきです。また梁進用を慶州刺史に任命し、厳しく警邏させて、党項と吐蕃との交通路を遮断すべきです」と進言した。代宗は、
郭子儀の意見をもっともであるとした。また、
郭子儀は上表して、静辺、芳池、相興の三州に都督と長史を置き、永平、旭定、清寧、寧保、忠順、静塞、万吉などの七つの州に都督府をそれぞれ置くよう進言した。ここに至り、破丑、野利、把利の三部族と、思楽州の刺史・拓拔乞梅らは、みな入朝し、宜定州刺史の折磨布落、芳池州の野利部は、並びに綏州、延州に移された。
大暦年間(766-779)の末、野利禿羅都と吐蕃が結んで叛き、他の部族にも謀叛をけしかけたが、他部族はこれに呼応しなかった。
郭子儀が、野利禿羅都を撃って、禿羅都を斬ったので、野利景庭、野利剛は、部族数千人を率いて雞子川において帰順した。六州の部落というのは、野利越詩、野利龍児、野利厥律、児黄、野海、野塞などで、慶州に住んでいるものを東山部と号し、夏州のものを平夏部と号した。永泰年間(765-766)の後、党項は次第に石州に移動したが、その後、永安の将・阿史那思昧による税の取立てが際限なかったので、ついに耐え切れず、党項は河西に逃走した。
元和年間(806-820)の時、宥州を復置して党項を護ったが、大和年間(827-835)の中頃になると党項は次第に強盛になり、しばしば国境地帯を略奪した。党項は、武器や防具が鈍くて粗末なので、唐兵の武器の精強さを恐れ、良馬を売っては鎧を買い、良い羊を売っては弓矢を購入した。そこで、党項を危険視した鄜坊道軍糧使の
李石が上表し、商人が、軍旗、甲冑、種々の武器を持って党項の部落に入ることを禁止した。もし密告したものがいたら、その密告者に罪人の財産を没収し、褒美として与えた。開成年間(836-840)の末になると、党項部族はいよいよ盛んになり、富裕な商人が絹織物を持ち込み、党項からヒツジ・ウマを買い入れた。藩鎮の役人はそれに便乗して、ヒツジ・ウマを無理やり売らせて代価を与えない事があった。このため党項の部族民は怒り、互いに誘いあって反乱を起こし、霊州、塩州に攻め込んだので道が不通になった。
武宗は侍御史を使招定に任じ、三印に分け、邠州、寧州、延州を
崔彦曽に属させ、塩州、夏州、長澤を
李鄂に属させ、霊武、麟州、勝州を鄭賀に属させて、みなに緋衣と銀魚の印を賜わったが、功を奏さなかった。
宣宗の大中四年(850)、党項が邠州と寧州を略奪したので、鳳翔節度使の
李業、河東節度使の
李拭に詔して節度している軍勢を併せて、これを討伐するよう命令し、宰相の
白敏中を都統となした。宣宗が近苑に出向いたところ、あるものが一本の竹を屋外に植えていた。見ると、その竹は、わずか一尺の高さで、宣宗から百歩ばかり遠ざかっていた。宣宗は矢の命中の成否にことよせて言った。「党羌は、いまや追いつめられた敵だが、窮地に陥りながらも、なお年ごとに唐の辺境を荒らしている。いま私は約束しよう。もし竹まん中に命中することができれば、党項はまさに、おのずから滅びるであろう。命中しなければ、私は天下の兵を求めて党項を殲滅しよう。この賊に子孫を残させないぞ」と。近臣たちが注目するなか、宣宗がひとたび矢を放つと、竹が割れ、矢が貫通したので、近臣らは万歳と叫んだ。一ヶ月もたたないうちに羌は果たして破れ滅び、残党は南山に逃亡した。
初め天宝年間(742-756)の末に、平夏部の族長、
拓跋思恭が戦功を上げたので、容州刺史、天柱軍使に抜擢した。拓跋思寂の子孫の拓跋思恭が、咸通年間(860-874)の末に、ひそかに宥州を占領して刺史を自称した。
黄巣が長安に侵入したので、拓跋思恭は鄜州刺史の
李孝昌とともに壇を築いて犠牲を供え、賊を討伐する事を誓った。僖宗はこれを賢明な行為とし、拓跋思恭を左武衛将軍、権知夏綏銀節度事に任命した。拓跋思恭が、王橋に留まった時に黄巣に打ち破られたが、
鄭畋ら四人の節度使とともに盟約して渭橋に駐屯した。中和二年(882)詔して拓跋思恭を京城西面都統、検校司空、同中書門下平章事に任命した。にわかに拓跋思恭を昇進させて、四面都統、権知京兆尹となした。黄巣が平定されると、拓跋思恭に太子太傅を兼ねさせ、夏国公に封じて、李姓を賜わった。嗣襄王
李熅の乱が勃発すると、拓跋思恭に詔を下して賊を討伐させたが、軍勢が出撃する前に、拓跋思恭は亡くなった。そこで、思恭の弟の
李思諌を代わりに定難節度使に任じ、もう一人の弟の
李思孝を保大節度使鄜・坊・丹・翟などの州の観察使、ならびに検校司徒、同中書門下平章事に任命した。
王行瑜が抜くと、李思孝を北面招討使に任命し、
李思諌を東北面招討使に任じた。
李思孝もまた、この反乱によって鄜州を取り、ついに節度使となり、累進して侍中も兼ねたが、年老いたために弟の李思敬を推薦して保大軍兵馬留後となし、にわかに節度使となした。
東女国は、蘇伐刺拏瞿咀羅(スヴァルナゴトラ)ともいい、羌族の別種である。西海(インド洋)にも、女の王を戴く国があるので、区別するために「東」をつける。東は吐蕃、党項、茂州(四川省)に接し、西は三波訶国に属し、北には于闐、東南は雅州の羅女蛮、白狼夷に属していた。この国の面積は、東西に九日、南北に二十日行程の広さであった。八十の城を有し、女を君主に戴いている。延川に住み、険しい土地が四方を取り囲んでいた。弱水が南に流れている。人々は革を縫いあわせて船を造った。戸数は四万戸で、勝兵は一万人であった。王のことを「賓就」といい、官のことを「高霸黎」といったが、これは宰相に相当した。外にいる役人は、男子をこれにあてた。およそ号令は女官が内廷から伝え、男の役人がこれを受け取って実行に移した。王の侍女は数百人おり、王は五日に一度、政務をとり行った。王が亡くなると、国人は金銭数万を王族に納め、王族の中から淑女二人を求めて、そのうちの年長者を大王とし、年少者を小王となした。大王が死ぬと、小王を後継ぎに立てた。あるいは、姑が死ぬと嫁がその後を継いだ。王位の簒奪はなかった。住まいはみな重屋で、王は九層、国人は六層であった。王は、青毛の綾のスカート、青色の袍を着用したが、服の袖は地面に引きずった。冬は子羊の皮衣を着用し、文錦で飾った。小さな髪をつくり、耳にはイヤリングをたらした。足には皮靴を履いた。皮靴とは履き物のことである。この国の習俗では、男子を軽んじた。身分の高い女性はみな男を従者として有していた。侍男は、被髪で、顔面を青く塗り、ただ戦争と耕作にのみ努めた。子供は母親の姓に従った。その地は寒く、麦をよく産し、羊馬を牧畜し、黄金を産出した。風俗はだいたい天竺と同じであった。十一月を年始とした。巫者は十月に山中に詣で、酒かすと麦を敷き、まじないを言って鳥の群れを呼ぶ。にわかにやって来る鳥があって、その姿は鶏のようである。その腹を割いて腹の中を見、腹の中に穀物があれば、その年は豊作であるが、そうでなければ災厄が訪れる。それで、この占いの名を鳥といった。三年間喪に服し、衣服を変えず、くしけずる事も沐浴もしなかった。貴人が亡くなると、その皮膚を剥ぎ取り、骨を甕の中に収め、金粉を塗って、墓に埋める。王を葬る際には、殉死するものは数十人に及んだ。
武徳年間(618-626)に、王の湯滂氏が初めて遺使して入貢した。
高祖はこれに対して厚く報いたが、西突厥が略奪するので通じることができなくなった。貞観年間(623-649)中、使者がまたやって来たので、
太宗は璽制して使者を慰撫した。顕慶年間(656-661)の初め、遣使して、高覇黎の文と王子の三盧を来朝させたので、
高宗は彼らに右監門中郎将を授与した。王の歛臂が、大臣を遣わして官号が欲しいと請願したので、
武后は歛臂を冊立して左玉鈐衛員外将軍を授与し、瑞錦の服を下賜した。天授・開元年間(690-743)、王と王子が再び来朝したので、玄宗は詔して宰相とともに長安の
曲江池で宴をし、王の曳夫を封じて、帰昌王、左金吾衛大将軍となした。後には男子を王となした。
貞元九年(793)、王の湯立悉は、白狗君、及び、哥隣君の董臥庭、浦租君の鄧吉知、南水君の薛尚悉曩、弱水君の董避和、悉董君の湯息賛、清遠君の蘇唐磨、咄覇君の董藐蓬とともに、みなで剣南節度使の
韋皋のもとに赴き、唐への内附を希望した。その種族は、西山、弱水に散居し、自ら王を称していたけれども、けだし小さな部落ばかりであった。吐蕃に河西隴右を奪われた後、これらの部落は尽く吐蕃の下に従属した。その部落は数千戸であったが、県令を置き、年ごとに絲(絹と綿)を吐蕃に輸出した。しかし、ここに至り、天宝の時に天子から賜わった詔勅を取り出して、韋皋に献上した。韋皋は、東女の民人を維州、覇州などに住まわせ、牛や糧食を与え、なりわいを治めさせた。湯立悉らが入朝すると、官禄を賜わったが、それには差があった。ここにおいて松州の二万口も踵を接して内附してきた。湯立悉らは刺史を与えられ、みな代々官職を世襲したが、しかし、ひそかに吐蕃に内附したので、これを両面羌と称した。
高昌(トルファン)は長安の西四千余里の所にあり、国土の面積は東西八百里、南北五百里で、およそ二十一の城を有していた。首都の交河城は、漢の車師前王国の王庭があったところである。田地城は戊己校尉の治所である。勝兵は一万いた。土壌は肥沃で、麦、稲は、二毛作であった。高昌には白畳(綿花)という名前の草があった。人々は白畳の花を摘んで織り、布を作った。この国の風俗では、弁髪にし、髪の毛をうしろに垂らした。
高昌の王麴伯雅は、隋の時、皇帝の親族字文氏の娘を妻にした。宇文氏は華容公主と号した。唐の武徳年間(618-623)の初め、麴伯雅が亡くなり、息子の文泰が即位し、遣使して伯雅の死を告げたので、
高祖は使者に命じて弔問させた。五年後の武徳七年(623)、高昌は、身長が六寸、体長が一尺余の犬を献上した。この犬は、馬の手綱を口にくわえて先導することができ、また燭台を口にくわえることもできた。犬は払菻が原産であると言われ、中国はこれによって初めて払菻狗を有する事になった。
太宗が即位すると、黒狐の皮衣を献上したので、太宗もそのお返しに、妻の宇文氏にかんざしを一つ下賜した。これに対し、宇文氏も太宗に玉盤を献上した。およそ西域諸国の動静は、高昌が、すぐにこれを唐に奏上した。貞観四年(630)、麹文泰が来朝したので、太宗は礼賜を甚だ篤く与えた。また文泰の妻の宇文氏が李王室の皇族になりたいと申し出たので、太宗は詔して宇文氏に姓を賜わり、
常楽公主に封じた。
これよりしばらくして麴文泰と西突厥が通好した。西域諸国は朝貢する際に高昌を通過したが、これ以後、使者達はみな麴文泰によって朝貢路を遮られ、唐への献上品を奪い取られた。伊吾(ハミ)は、以前西突厥に臣従していたが、唐に内属したため麴文泰と西突厥の葉護は共謀して伊吾を攻撃した。太宗は詔を下して麴文泰の背信行為を訪問し、高昌の大臣冠軍・阿史那矩を召し寄せて相談しようとしたが、麴文泰は太宗の命令にそむき、阿史那矩を唐には派遣せず、代わりに長史の麴雍を派遣して謝罪した。初め、隋の大業年間(605-618)の末、中国の多くの民が東突厥に亡命したが、東突厥の頡利可汗が敗北すると、高昌に亡命するものがあった。太宗は詔を下して、中国から高昌に逃亡したものを中国に護送するように命じたが、麴文泰は彼らを高昌に拘留して中国に帰さなかった。また麴文泰は西突厥の乙毘設とともに焉耆(カラシャール)の三つの城を撃破し、焉耆の民を捕虜にしたので、焉耆王は太宗に高昌の所業を訴えた。
太宗は、虞部郎中の
李道裕を派遣して麴文泰の行状を詰問させた。麴文泰がまた遣使して太宗に謝罪したので、太宗はその使者を引見し叱責して言った。「おまえのあるじ麴文泰は、数年来、朝貢をしてこない。麴文泰には臣下としての礼がない。勝手に官職を設け、中国の百僚を僭称し、まねている。正月には万国の使者達がことごとく来朝したが、麴文泰は来なかった。かつて唐の使節が高昌を訪れたが、麴文泰は唐使に向かって横柄に言った。〝鷹が天に舞えば雉は草むらに隠れる。猫が堂で遊べば鼠は穴の中に逃げて安んじる。おのおの、その適所を得て、どうして心を楽しませないことがあろうか?〟西域の使者達が入貢しようとすると、高昌は、ことごとくこれを拘束する。また麴文泰は薛延陀に遣使して、こう言ったそうだな。〝あなたはすでに自ら可汗になった。唐の天子と同等である。なんで唐の使節に拝謁する必要があろうか〟朕は来年、軍隊をおこして、なんじの国を虜にする。帰って、なんじのあるじに言うがよい。よく自ら図れ、とな」と。この時、薛延陀の可汗が、唐軍のために教導をしたいと請願してきた。そこで民部尚書の
唐倹が薛延陀に行き、可汗とかたく約した。
太宗はまた璽書を下して麴文泰に禍福を示し、入朝を促させたが、麴文泰はついに病気を理由に入朝しなかった。そこで太宗は、
侯君集を拝して交河道大総管となし、左屯衛大将軍の
薛万均、薩孤の
呉仁をその副官に任命し、
契苾何力を葱山道副大総管となし、武術将軍の
牛進達を行軍総管に任じて、突厥と契の騎兵数万騎を率いさせて、高昌を討伐させた。群臣は太宗を諫めた。「万里も行軍しては、兵士の志気を得るのは難しい。それに、天界の絶域を得たとしても、これを守りきることはできない」と言って群臣は太宗に諫言したが、太宗は聞き入れなかった。一方、麴文泰は近臣に言った。「昔、私が隋に入朝した時、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。隋の時代の比ではない。唐は、いま高昌を討とうとしているが、兵が多ければ兵糧は及ばない。もし唐軍の兵力が三万以下ならば、私はよくこれを制圧する事ができよう。砂漠を渡れば唐軍は疲労し、動きも鈍くなる。気楽に唐軍の疲弊を待ち、横になって敵の疲弊を収めればよいだけだ」と。しかし貞観十四年(640)、麴文泰は唐軍が磧口に達したという事を聞いたとたん、動悸がし、驚きふるえあがって、はかりごとも思い浮かばなくなった。麴文泰は病を発して死んでしまった。息子の麴智盛が即位した。
侯君集は田地城を襲撃し、
契苾何力が先鋒部隊となって死に物狂いで戦った。その夜、流れ星が城中に墜ちた。翌日、田地城は陥落し、唐軍は七千余人を捕虜にした。中郎将の
辛獠児が軽騎兵を率いて夜間に高昌の都に迫ったので、麴智盛は侯君集に手紙を送って言った。「天子に対して罪を犯したのは先王の文泰です。先王の咎は深く、罪は堆積しています。智盛は位を継いでまだ日が浅い。公よ、どうか私を赦してください」と。しかし、侯君集は答えていった。「よく過ちを悔いるものは、後ろ手に縛って軍門に下るべきだ」と。智盛は答えなかった。唐軍は出撃し、濠を埋め衝車を引き、投石器から飛ばされた石が飛ぶさまは雨のようであった。城内の人々は大いに震撼した。麴智盛は、大将の麴士義に都に留まって町を守護するよう命令した上で、自身は綰曹の麴徳俊とともに唐の軍門を訪れ、改めて天子に仕えたいと懇願した。君集は、麴智盛を降伏させようと考え説得したが、麴智盛の言葉遣いが傲慢だったので、
薛万均が急に顔色を変えて立ち上がり、「先に城を奪い取るべきである。小僧と話しても話しにならん」と言って、指揮旗をふるって唐兵に進撃を命令したので、麴智盛は汗を流し地に伏し、「ただ、公の命令に従います」と言い、すぐに降伏した。侯君集は軍を分け、高昌をほぼ平定した。およそ、州の数は三、県の数は五、城は二十二、戸は八千、人口は三万、馬は四千であった。これより前、高昌の人々は童謡をうたっていた。「高昌の兵は霜や雪のようなもの。唐軍は日月のようだ。日月が照れば、霜と雪はほどなく自ら溶けて消滅する」と。麴文泰は戯れ歌を歌い始めたものを捕らえようとしたが、結局、捕まえる事はできなかった。
戦勝報告が長安に届けられると、太宗はたいそう喜び群臣を宴に招いて論功行賞を行った。高昌国の支配下にあった諸都市をゆるし、高昌の地に州県制を設置して、西昌州と号した。しかし、特進の
魏徴は太宗を諌めて言った。「陛下が即位なされたとき、高昌は真っ先に朝謁しました。しかしその後、高昌は商胡を劫略し、貢献を遮ったために高昌王は誅殺を加えられました。麴文泰が亡くなり、罪も止まりました。高昌の民を慰撫し、その子を高昌の王に立て、罪を討伐して民を慰める。これが道であります。いま、高昌の地を利して、常時その地に千人の兵を駐屯させ、数年に一度、駐屯兵を変えるならば、辺境に派遣される兵士は、装備や旅費を自弁で用意せねばならず、親戚と離別しなければなりません。十年もたたぬうちに隴西(甘粛省)が空虚になりましょう。陛下は結局、高昌の一粒の穀物、一尺の絹も得ることなく、中国の軍事費の助けとすることもできないでしょう。これこそまさに、有用を捨て無用に力を費やすということです」と。しかし、太宗は魏徴の意見を採用しなかった。西昌州を西州と改め、さらに安西都護府を設置した。一年に千人の兵を徴発し、罪人を送って守備兵にあてたので、黄門侍郎の
褚遂良は太宗を諌めていった。「昔は中華を優先して夷狄を後回しにし、徳化を広めるように務めて、遠方のことは争いませんでした。いま高昌は誅滅され、中国の威光は四方の夷狄を動かしました。皇帝の軍隊が初めて征伐してから、河西は労役に駆り出されて、急いで米を運び、まぐさを転送して出撃の準備を整えるので、十軒のうち九軒がそうした仕事に駆り出されて貧困になり、五年たってもいまだに回復しません。いままた年に駐屯兵を送るなら、荷物は万里を行き、辺防のために去るものは、そのための費用と衣装を自分で調達するために、自分の食べ物を売り、はたを売ってまで費用を調達しなければならず、旅の途上で死亡するものも多く、その数は計り知れません。罪人は、法を犯すことに始まり、なりわいを捨てることに終わり、行いに益がありません。派遣した兵士も逃亡し、役人が逮捕して、逮捕者は芋づる式に相次いで牽かれていきます。張掖や酒泉のように、敵襲を知らせる土煙があがり、烽火があがった時に、どうして、それより更に遠い高昌の一車両一兵卒を得て救援を得られましょうか。隴右、河西から微発するだけです。たとえば、中国内地の河西を自分の腹心であるとするならば、外地の高昌は他人の手足のようなものです。どうして中華を消耗させて役に立たない事につかえるのですか。むかし陛下は東突厥の頡利可汗や吐谷渾を平定なされましたが、みな、その故地に君主を推戴しました。罪を犯せばこれを誅し、降伏すればこれを存続させる。これが、多くの蛮族が陛下の御威光を畏れ、陛下の徳を慕う理由です。いま、高昌を治めるべきものを選んで推戴し、首領達を召し出して、ことごとく故国に帰還させ、長く中国の垣根と柱になすべきです。そうすれば中国に乱れはありません」と。
褚遂良はこのように言って太宗を諦めたが、この書聞は太宗によって省みられることはなかった。
初め麴文泰は黄金をもって西突厥の欲谷設に篤く贈物をし、危急の際にはお互いに表裏をなして助け合おうと約束していた。そこで、欲谷設は葉護を可汗浮図城に駐屯させた。しかし、
侯君集の軍勢が襲来すると欲谷設は恐れて援軍を出撃させず、ついに降伏した。そこで、
太宗は可汗浮図城を庭州とした。焉耆(カラシャール)は太宗に高昌に奪われた五つの城を返し、駐屯軍を留まらせて守ってほしいと要請した。
侯君集は石に刻んで功を記させ、長安に凱旋した。麴智盛ら高昌の君臣たちは捕虜として観徳殿に献上された。皇帝による礼をつくした酒宴がとり行われ、三日間宴が開かれた。高昌の豪傑たちを中国に移し、麴智盛に左武衛将軍、金城郡公、弟の麴智湛に右武衛中郎将、天山郡公を拝した。麴氏は、国を伝えること九世代、百三十四年にして滅亡した。
麴智湛は、麟徳年間(644-645)中に左驍衛大将軍から西州刺史に任じられ、亡くなった。死後、涼州都督を贈られた。麴智湛には、麴昭という息子がいた。麴昭が勉強好きなので、珍しい書物があると、母親は息子のために箱の中からお金を持ち出し、「珍しい本があれば、どうして息子のためにお金を惜しもうか」と言って、書物をことごとく買い求めてやった。麴昭は司膳卿を歴任したが、文章が非常にうまかった。その弟の
麴崇裕は武芸にすぐれていたので、永徽年間(650-655)中に右武衛翊府中郎将に任じられ、交河郡王に封じられた。邑は三千戸に至り鎮軍大将軍で亡くなった。
武后は麴崇裕の死を悼んで美しい錦で織った衣服を贈り、弔いのための賜わりものは甚だ篤かった。麴氏の封爵は、麴崇裕の死によって断絶した。
吐谷渾は甘松山の南、洮水の西にあり、南は白蘭を隔てること数千里である。城郭はあるが、国人はその中には住まず、水と草に従って移動する。テントに住み、肉食をする。その国の官職には、長史・司馬・将軍・王・公・僕射・尚書・郎中がある。おそらく中国王朝の官職の制度をまねて、このような行政組織をつくったのであろう。この国の人々は、文字を知っている。王は、椎髷(髪を後ろにたれ、ひとたばねにしたまげ)にして黒い帽子をかぶり、王の妻は錦の袍を着、織り上げたスカートをはき、黄金の花を首に飾った。この国の男性は、裾の長い服を着用し、絹の帽子か、羃羅(べきら)を頭にかぶった。女性は弁髪にし、うしろにたらして珠や貝殻を綴って髪を飾った。この国の婚礼では、裕福な家は盛大な結婚式を行って嫁を娶るが、貧者は婚礼を挙げられないので妻を盗んだ。父親が亡くなると母親以外の父の妻を娶り、兄が死ぬと兄嫁を妻とした。喪服には規定があり、葬礼が終わるとすぐに解除した。民に対して恒常的に課される税金はなく、不足があれば、富裕商人から税を集めとり、不足分が足りれば微税をやめた。およそ、殺人と馬泥棒は死罪になった。その他の罪は、商品を献上させて贖罪させた。その地は非常に寒く、麦、菽(マメ)、栗、蕪菁(カブラ)を産し、仔馬、ヤク、銅、鉄、丹砂を産出した。青海という湖がある。青海湖の周囲は、八、九百里であった。湖の中に山があり、湖が凍結するのを待って、その上に雌馬を放牧する。翌年、仔馬を産む。この仔馬は龍種であった。吐谷渾は、むかし波斯馬を得たが、これを青海のほとりで放牧しておいたところ、驄(青白色の馬)の仔馬を産んだ。この馬は、一日に千里を歩いた。それで、人々は「青海驄」と称した。西北には、流砂が数百里も続いており、夏には熱風が吹き、旅人を傷つけた。熱風が押し寄せてくると、老いた駱駝が首をひいていななき、鼻を砂中にうずめる。人はそれによって砂嵐の到来を察知し、絨毯で鼻と口をおおって、熱風の害から免れた。
隋の時、王の慕容伏允は歩薩鉢をしていた。かつて慕容伏允が中国の辺境地帯に入寇した時、
煬帝は鉄を派遣して慕容伏允を撃破した。煬帝は西平に城壁を築き、また観王雄に命じて吐谷渾を破らせた。吐谷渾の王慕容伏允は数十騎を率いて泥嶺に逃亡したが、仙頭王は男女十余万を率いて隋の軍隊に降伏した。煬帝は、吐谷渾の地に郡県と鎮戍を設置した。それから、慕容伏允の長男で、人質として長安に滞在させておいた慕容順を、逃亡した慕容伏允の代わりに王として推戴した。そして吐谷渾の余衆を治めさせるために、にわかに慕容順を故国に帰還させた。一方、慕容伏允は党項に亡命し、客人として滞在していたが、隋末の乱の折、隋の混乱に乗じて故地を回復した。
唐の
高祖が受命したとき、慕容順は江都から長安に帰還した。このとき
李軌が涼州に拠っていたが、高祖は慕容伏允と和睦を約し、慕容伏允が李軌を撃って唐のために戦ったならば、息子の慕容順を慕容伏允のもとに護送しようと約束した。慕容伏允は喜び、兵を率いて李軌と庫門で戦い、その後、両軍は退却した。それから遣使して慕容順を帰国させてくれるよう請願した。高祖は約束どおり慕容順を吐谷渾に使わした。慕容順が帰国すると、慕容伏允はこれを大寧王となした。
太宗の時、慕容伏允は使者を遣わして入朝させたが、その使者が帰還しないうちに吐谷渾は州に入寇した。太宗は使者を派遣して慕容伏允の非を責め、慕容伏允を召し出そうとしたが、慕容伏允は病を理由に行けないと言い訳した。その上、息子の尊王のために公主の降嫁を請願し、太宗の心を試した。太宗は慕容伏允の子尊王を召して自ら歓迎したが、尊王もまた病気を口実に入朝しなかったので、太宗は詔を下して、尊王への公主の降嫁を中止にした。太宗は、中郎将の康処真を派遣して慕容伏允の説得に向かわせた。また、慕容伏允が岷州を略奪したので、太宗は都督の
李道彦を派遣して吐谷渾軍を撃破し、敗走させた。唐軍は名王二人を捕虜とし、首級七百を斬った。慕容伏允は、この後、毎年名王を派遣して入貢した。しかし、にわかに吐谷渾が涼州に入寇してきたので、鄯州刺史の
李玄運は「吐谷渾は青海で放牧しています。軽装の兵で、これを襲って取り囲めば、すべてを捕獲できます」と上表した。そこで、太宗は、左驍衛大将軍の
段志玄、左驍衛将軍の
梁洛仁に命じて、契苾・党項の兵を率いて吐谷渾を征伐させた。しかし、三十里も行かないうちに、戦いたくなかった段志玄らは陣営を築いて駐屯したので、軍の到来に気づいた吐谷渾は、放牧していた馬を駆って逃走してしまった。副将の
李君羡は、騎兵の精鋭部隊を率いてこれを追撃し、懸水のほとりで後方から襲撃して、吐谷渾の牛羊二万を捕獲して帰還した。
この時、慕容伏允は年老いて政務を取る事ができなかったので、大臣の天柱王が政治を掌握し、
太宗の使者、鴻臚丞の
趙徳楷を拘束した。太宗は使者を派遣して勅命を与えること十回に及んだが、吐谷渾からは改悛の言葉は返ってこなかった。貞観九年(635)、太宗は詔し、
李靖を西海道行軍大総管に、
侯君集を積石道、任城王の
李道宗を鄯善道、
李道彦を赤水道、
李大亮を且末道、
高甑生を塩澤道の各々行軍総管に任命し、突厥、契芯の兵を率いて吐谷渾を討伐させた。党項に内属する羌族と、洮州羌は、みな刺史を殺害して慕容伏允に帰順した。夏四月、李道宗が慕容伏允を庫山で撃破し、捕虜・斬首は四百に及んだ。慕容伏允は、砂漠に唐軍を誘き寄せようと謀り、野草を焼いたので、李靖の軍馬は食糧がなくなって多くが飢餓に苦しんだ。そのため対策を講じて李道宗は言った。「柏海は河源に近いので、昔からここに至ったものはいまだいない。慕容伏允は西に逃走したというが、その所在は今もって不明である。我が軍の馬は痩せ衰え、食糧も欠乏している。遠方に軍を進めることは難しい。鄯州に駐屯して、馬が元気になってから、再度、吐谷渾征伐を図った方がよい」と。しかし侯君集は、「それはいけない。かつて段志玄が鄯州に至った時、吐谷渾の兵は即座に城に拠った。吐谷渾の力はまだ健在であり、むしろ民衆は命令に従った。しかしいま吐谷渾は大敗し、斥候もいない。君臣も失われた。我らは吐谷渾の難に乗じ、吐谷渾討滅という志を全うすべきである。柏海は遠いが、将兵を鼓舞して到達すべきである」と。李靖は「よし」と言うと、唐軍を二分し、李靖が李大亮、
薛万均とともに一軍を率いて北に赴き、その右から出、侯君集と李道宗が一軍を率いて南に赴いて、左から出ることになった。李靖の将、薩孤
呉仁は、軽騎兵を率いて曼都山で戦い、名王を斬り殺して、斬首五百級を得た。諸将は、牛心堆、赤水源で戦い、敵将の南昌王の慕容孝を捕縛して、雑畜数万を捕獲した。侯君集と李道宗は、漢哭山に登り、烏海で戦って名王の梁屈葱を捕縛した。李靖は、天柱部落を赤海で破り、雑畜二十万を捕獲した。李大亮は、名王二十人を捕虜とし、雑畜五万を捕獲して、且末の西に軍を宿営した。慕容伏允は図倫磧に逃走し、于闐に逃亡しようと図ったが、薛万均は騎兵の精鋭を率いて逃げる慕容伏允を数百里にわたって追跡し、慕容伏允を打ち破った。唐軍の将兵は水が乏しくなったので、馬を刺して、その血を水の代わりに飲んだ。侯君集と李道宗は、空しく荒野二千里を進軍した。盛夏にもかかわらず霜が降り、水草は乏しく、兵士は氷をかゆ(食糧)として食べ、馬は雪をまぐさにして食べた。一ヶ月を経て星宿川に達し、柏梅の上に到達し、積石山を展望し、河源を観望できた。
執失思力は、馬を馳せて、吐谷渾の輜重部隊を打ち破った。両軍は、大非川、破邏真谷で遭遇した。
慕容伏允の息子慕容順は隋に人質に出され、金紫光禄大夫に任命されていた。長男の順が人質として中国にいたので、慕容伏允は、慕容順の弟を太子にした。慕容順は帰国したが、弟に太子の位を奪われたために常に快々として楽しまなかった。慕容順は位を失ったので、功績を上げて皇帝と結びたいと希望していた。そこで、天柱王を斬り、国を挙げて唐に降伏した。慕容伏允は恐れ、千余騎を率いて磧(ゴビ砂漠)中を遁走した。しかし従う兵士達が慕容伏允を見限って次第に逃亡していったので、付き従う従者はわずか百騎だけとなり、慕容伏允の無聊は極まり、遂に自ら縊れて死んだ。国人達は慕容順を立てて吐谷渾王となし、臣を称して唐に帰順した。太宗は詔して、慕容順を西平郡王に封じ、趙胡呂烏甘豆可汗と号した。太宗は、吐谷渾がまだ十分に安定していない事を恐れ、
李大亮に精鋭部隊を率いさせて、かの国に駐屯して守らせた。
慕容順が長い間、人質として中国に滞在していたために、国人達は慕容順になつかず、慕容順は臣下によって殺されてしまった。国人は、慕容順の息子、燕王の慕容諾曷鉢を擁立した。慕容諾曷鉢はまだ幼く、大臣達は権力闘争をした。太宗は侯君集に詔し、吐谷渾王のそばに付いて国を統治させたので、慕容諾曷鉢は、初めて太宗に向かって、唐の暦を分けて欲しいこと、子弟を唐に入侍させたいことを請願した。また、詔して慕容諾曷鉢を河源郡王に封じ、烏地也抜勒豆可汗とさせた。また、淮陽郡王の
李道明を派遣し、節を持たせ詔書を下して、慕容諾曷鉢に鼓纛(太鼓と旗)を賜わった。慕容諾曷鉢は自ら入朝して感謝し、公主の降嫁を懇願して、馬牛羊を万匹献上した。慕容諾曷鉢が毎年入朝したので、太宗は宗室の女を
弘化公主となして慕容諾曷鉢の妻とし、李道明と右武衛将軍の
慕容宝に詔して、節を持って公主を吐谷渾まで送らせた。しかし吐谷渾では大臣の宣王が跋扈しており、反乱を謀って、公主を襲撃し、慕容諾曷鉢を掠め取って吐蕃に出奔しようと画策した。慕容諾曷鉢はこれを察知し、軽騎兵を率いて城に逃走した。威信王は兵を率いて慕容諾曷鉢を迎え、果毅都尉の席君買が兵を率いて威信王とともに、宣王を討伐し、兄弟三人を斬ったので、吐谷渾は大いに乱れた。太宗はまた、民部尚書の
唐倹と中書舎人の
馬周に詔し、節を持して吐谷渾人を慰撫した。
高宗が即位すると、公主が嫁いでいる縁故で慕容諾曷鉢は駙馬都尉を拝した。吐谷渾が名馬を献上したので、高宗が馬の種性をたずねたところ、使者はこたえて「吐谷渾で最良の馬です」と言った。高宗は「良馬は人々の惜しむものである」と言い、その馬を吐谷渾に返すよう詔を下した。
弘化公主が表して入朝したいと請願したので、高宗は左驍衛将軍の鮮于匡済を派遣して公主を迎えに行かせた。十一月、慕容諾曷鉢が長安に到着したので、高宗は宗室の女、金城公主を、慕容諾曷鉢の長男の慕容蘇度摸末の妻とし、慕容蘇度摸末に左領軍衛大将軍を拝した。しかし、しばらくして慕容蘇度摸末が亡くなった。そこで弘化公主は、次男の右武衛大将軍・梁漢王・慕容闥盧摸末とともに来朝して、婚姻を請願した。高宗は、宗室の女
金明公主を慕容闥盧摸末の妻とした。すでに吐谷渾と吐蕃は互いに攻めあい、高宗に上書して、お互いの善悪を訴えて唐に援軍を要請したが、高宗は双方に対して援軍派遣を許さなかった。吐谷渾の大臣・素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の内情を告げたので、吐蕃は出兵し、不意を衝いて吐谷渾の軍勢を黄河のほとりで打ち破った。慕容諾曷鉢は国を保ちきれず、弘化公主とともに数千帳を率いて涼州に逃走した。高宗は、左武衛大将軍の
蘇定方を安集大使に任命して派遣し、両国の怨みを静めさせようとした。しかし吐蕃はついに吐谷渾の地を領有した。
慕容諾曷鉢は、唐の国内に移住したいと請願した。乾封初め(666年頃)、
高宗は改めて慕容諾曷鉢を青海国王に封じた。高宗は、慕容諾曷鉢の率いる吐谷暉の部衆を涼州の南山に移住させたいと考えたが、群臣の議論は意見が一致せず、高宗も南山への移住は難しいと考えた。咸亨元年(670)、高宗は右威衛大将軍の
薛仁貴を邏娑道行軍大総管、左衛員外大将軍の
阿史那道真と、左衛将軍の
郭待封を副将となし、五万の兵を統率して吐蕃を征伐させ、あわせて慕容諾曷鉢を吐谷渾の故地に帰らせようとした。しかし唐軍は大非川で敗北し、吐谷暉の地はすべて吐蕃に掌握される事となった。慕容諾曷鉢は、親近のもの数千帳とともに辛うじて逃れた。咸亨三年(672)、慕容諾曷鉢は浩亹水の南に移動した。慕容諾曷鉢は、吐蕃が強盛である事、自力では吐蕃に抵抗できない事、鄯州の土地が狭い事などが理由で、また霊州に移動した。高宗は慕容諾曷鉢のために安楽州を設置し、慕容諾曷鉢に刺史を拝して、安らかに、かつ楽しく暮らせるようにと願った。
慕容諾曷鉢が亡くなると息子の慕容忠が立ち、慕容忠が亡くなると子供の慕容宣超が立った。聖暦三年(663)、慕容宣超に左豹韜員外大将軍を拝し、かつての可汗号を襲名させた。吐谷渾の、慕容諾曷鉢が統率する以外の部族は、涼州、甘州、粛州、瓜州、沙州などの州に行って投降した。宰相の
張錫と、右武衛大将軍の
唐休璟が議論して、これらの吐谷渾人を秦州、隴州、豊州、霊州の間に移住させるようにと言った。この地から吐谷渾を離れさせることはできなかった。涼州都督の
郭元振は、次のように言った。「吐谷渾が、秦州、隴州に近づけば、監牧と雑居してしまい問題である。彼らを豊州や霊州に置いても、また突厥の勢力に近くなり、それに取り込まれやすい。仮に、彼らを中華の地に住まわせても、その習性を変えることはできないだろう。かつて
王孝傑は、河源軍から耽爾乙句貴を霊州に移住させたが、耽爾乙句貴は抜いて牧坊に侵入し、群馬を略奪して州県を痛めつけた。これすなわち、異民族を中国の地に移して利益のなかったことの証拠である。また、かつて吐谷渾の大臣・素和貴が謀反して去ったが、これは唐にとって損害ではなかった。ただ吐谷暉の数十の部落が失われただけであった。どうして、耽爾乙句貴の場合と比較しないのか。いま降伏している異民族は、無理やり服従させたのではない。みな吐蕃の弓矢や刃をかいくぐり、吐蕃を捨てて来朝した。その事情に従って、これを制するべきである。甘州、粛州、瓜州、沙州に降伏したものは、その場所に置き、投降したところに住まわせれば、彼らの気持ちも安心しやすい。数州を割けば、力はおのずから分散する。彼らの気持ちに順じて、その勢力を分散すれば、人民を乱すことはない。よく夷狄の心を掌握するものと言うべきである。毎年しずめとどめるための使者を派遣して、慕容宣超の兄弟と撫護すれば、互いに侵攻略奪する事もなく、なりわいがしっかり安定する。もし叛き去るものが仮にあったとしても、中国に損害はない」と。高宗は郭元振の意見を採用した。慕容宣超が亡くなると、息子の慕容曦皓が後を継いで立った。慕容曦皓が死ぬと、息子の慕容兆が立った。吐蕃がまた安楽州を奪い取ったので、吐谷渾の残りの部族は朔方と河東に移住した。吐谷渾の名称を訛って「退渾」とした。
貞元十四年(798)、朔方節度副使、左金吾衛大将軍の慕容復を長楽都督、青海国王となし、可汗号を襲名させた。慕容復が亡くなると、後を継承するものが途絶えた。吐谷渾は、西晋の永嘉年間(307-313)から国があったが、龍朔三年(663)に吐蕃によってその地を奪われるに至って、およそ三五〇年、ここに及んで、封じる後継者が断絶した。
焉耆(カラシャール)国は、長安の西七千餘里の所にあり、東西六百里、南北四百里であった。東は高昌、西は亀茲、南は尉犂、北は烏孫であった。水路を造って田に水を注いで灌漑した。その土地は、黍、葡萄をよく産し、魚と塩の利もあった。この国の風俗は、髪を切り落とし、毛織物を着た。戸数は四千、勝兵の数は二千で、常に西突厥に役属していた。この国の風俗は娯楽を好んだ。二月には三日間、野に出て祀った。四月十五日、林で遊んだ。七月七日には祖先を祀った。十月十五日には焉耆王が初めて出遊した。一年が終わると祀りも全て終わった。
太宗の貞観六年(632)、焉耆の王、龍突騎支が初めて遺使来朝した。隋末の乱以来、磧路が塞がったので、西域諸国の朝貢はみな高昌を経由した。龍突騎支は、大磧道(大砂漠の道)を開通して旅人のために交通の便をよくしたいと請願したので、太宗はこれを許した。高昌は怒り、焉耆の周辺を大々的に略奪した。西突厥の莫賀設は、咄陸・弩失畢と仲が悪く、焉耆に逃亡してきたので、咄陸と弩失畢もまた焉耆を攻めた。そこで、龍突騎支は遺使して太宗に状況を告げ、あわせて名馬を献上した。莫賀設の次男が咥利失可汗として即位すると、焉耆とはもともと仲が良かったので、頼りとなって支援した。貞観十二年(638)、処月・処密が高昌とともに焉耆の五つの城を攻め落とし、千五百人を略奪して家を焼いた。
侯君集が高昌を討伐しようとし、焉耆に使者を派遣して、焉耆と連合して高昌討伐を行ないたいと言ったので、龍突騎支は喜び、兵を率いて唐軍を支援した。高昌が唐軍に敗北すると、高昌に捕えていた焉耆の捕虜と城を焉耆に返した。焉耆は改めて唐に使者を派遣して謝恩した。
西突厥の重臣屈利啜は、弟のために龍突騎支の娘を娶った。そのため、屈利啜と龍突騎支は互いに約束して持ちつ持たれつの関係となり、龍突騎支は朝貢しなくなった。そこで安西都護の
郭孝恪は
太宗に焉耆討伐を請願した。たまたま焉耆王の弟の頡鼻・栗婆準・葉護ら三人が来降したので、太宗は、郭孝恪を西州道総管に任命し、軍勢を率いて銀山道から出撃して栗婆準らを道案内として焉耆を攻めるよう命令した。もともと焉耆は都にした場所の周囲三十里が四面すべて大きな山に囲まれ、海水もその外をめぐっていたので、焉耆はこの自然の要害を頼んで恐れることがなかった。郭孝格は、焉耆に向かって倍速で進軍すると、海水を船で渡り、夜のうちに、城壁の物見垣に近づき、夜明け方、大騒音とともに城壁を登った。唐軍の太鼓と角笛が轟き渡り、兵士が攻撃をしかけたので焉耆の人々は混乱して敗北し、千余人の首級が斬られて、龍突騎支は捕らえられた。唐は、栗婆準に政務を取らせた。初め、太宗は近臣に語っていった。「郭孝恪は八月十一日に焉耆に行った。二旬(二十日)で焉耆に到着し、二十二日目に焉耆を落城させるであろう。まもなく焉耆からの使者がやって来よう」と太宗が近臣に推測を語っていたところ、にわかに焉耆からの飛脚が駆け込んできて、戦勝報告を届けた。龍突騎支と、その妻子は捕らえられて洛陽に護送された。太宗の詔があって、彼らの罪は赦された。
屈利啜は軍勢を派遣して焉耆を救おうとしたが、屈利啜が焉耆に着いた時には、
郭孝恪が帰還してすでに三日たっていた。屈利啜は栗婆準を捕らえ、さらに吐屯を派遣して王の代行をさせた。焉耆は唐に遺使して、この状況を告げた。
太宗が「焉耆は我々が降伏させた。なんじがどうして王になったのか」と言ったので、吐屯は恐れ、焉耆の王になることができなかった。焉耆は、唐の立てた栗婆準を再び推戴したが、従兄の薛婆阿那支は自ら王となって瞎干と号し、栗婆準を捕らえて亀茲(クチャ)に献上した。亀茲は栗婆準を殺害した。
阿史那社尓が亀茲を攻撃すると薛婆阿那支は亀茲に逃走し、東の国境地帯に城壁を築いて唐軍に抵抗した。しかし、阿史那社尓に捕らえられた。阿史那社尓は薛婆阿那支の罪を数え上げると、斬り殺して示しをつけた。龍突騎支の弟婆伽利を王となし、焉耆の地を焉耆都督府となした。
婆伽利が亡くなると、国人は前王の龍突騎支を返して欲しいと請願したので、高宗はこれを許し、龍突騎支に左衛大将軍を拝して帰国させた。龍突騎支が死ぬと、龍嬾突が即位した。
武后の長安年間(701-705)、焉耆の国が小さく人口も少ないので、焉耆は、この国を通過する使者や客人をもてなす労力に耐えられなかった。そこで武后は四鎮経略使に詔し、私馬を無料で微発すること、無品官のものが焉耆で肉食することを禁止した。開元七年(719)、龍嬾突が亡くなり、焉吐払延が即位した。ここにおいて、十姓可汗は砕葉に住むことを請願した。安西節度使の湯嘉恵は上表し、焉耆に四鎮を備えさせようとした。そこで玄宗は、焉耆、亀茲、疏勒、于闐に詔して、西域の商人に課税させた。諸国はそれぞれ通行税を徴収した北道を経由していた商人に対しては輪台で税をとった。焉耆は天宝年間(742-756)まで常に朝貢した。
亀茲(クチャ)は、丘茲とも、屈茲ともいう。東に長安をへだてること七千余里であった。焉耆(カラシャール)より西南に徒歩で二百里の距離であり、小山を越え大河二つを経て、さらに徒歩七百余里行って亀茲に到着する。東西の幅は千里、南北は六百里であった。その土地は、麻、麦、秔稲、葡萄をよく産し、黄金も産出した。その国の風俗は、歌と音楽、横書きの書をよくし、仏教を尊んだ。子供が生まれると、木で首をしめつけた。その国の風俗は断髪で、首のところでそろえた。ただ君主だけは髪を切らなかった。王の姓は白氏で、伊邏盧城に住んでいた。北は阿羯田山に守られていた。この山はまた白山ともいった。常に火を有していた。王は錦の帽子を頭にかぶり、錦の袍と宝石をちりばめた帯を着用した。新年の初めに羊と馬と駱駝を七日間戦わせる儀式があった。その勝負を観戦して家畜の繁殖を占った。パミール高原以東の風俗は淫行を喜んだので、亀茲と于闐は娼館を置き、売り上げ金を税として政府に納めていた。
高祖が隋から禅譲された時、亀茲王の蘇伐勃駃(スワルナプスパ)は使者を派遣して入させた。蘇伐勃駃が死ぬと、息子の蘇伐畳(スワルナデーヴァ)が即位し、時健莫賀俟利発と号した。貞観四年(630)、蘇伐畳が馬を献上したので、太宗は璽書を賜い、慰撫して等級を加えた。この後、亀茲は西突厥に臣従した。
郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲は軍勢を派遣して焉耆を支援したので、これ以後、亀茲は朝貢しなくなった。
蘇伐畳が死ぬと、弟の訶黎布失畢(ハリプスパ)が即位した。貞観二十一年(647)、亀茲は二度、遣使朝貢したが、
太宗は亀茲が焉耆(カラシャール)の反乱を支援した事に怒り、亀茲討伐を議した。この夜、月が昴を食したので、太宗は詔していった。「月は陰の気であるから、これは刑罰を用いる兆しである。星は胡の運命を決める。胡(亀茲)の命運は、いままさに終わろうとしている」と。そこで太宗は
阿史那社尓を崑丘道行軍大総管に任命し、
契苾何力を副官となして、安西都護の
郭孝恪、司農卿の
楊弘礼、左武衛将軍の
李海岸らを統率させて、鉄勒十三部族の兵十万を出動させて亀茲を討たせた。阿史那社尓は軍勢を五つに分け、亀茲の北方を略奪して、焉耆王の龍阿那支を捕らえたので、亀茲は非常に恐れ、酋長達はみな城を捨てて逃走した。阿史那社尓は磧石に至った。ここは亀茲の王城から三百里の場所であった。先に伊州刺史の
韓威を派遣して、騎兵一千先鋒とした。右驍衛将軍の
曹継叔がこれに次いだ。多褐に至り、亀茲王と遭遇し、亀茲の将軍の羯獵顛の兵五万と合戦した。韓威が偽って敗走した。亀茲王は、韓威の兵力が少ないのを見ると、指図旗で合図して軍を進め、韓威を追跡した。韓威は退却すると
曹継叔と合流し、戻ってきて亀茲の軍勢と戦った。唐軍は亀茲軍を大破すると、逃げる亀茲兵を八十里も追撃した。亀茲王は城壁をめぐらして守ったが、阿史那社尓が城を取り囲もうとしたため、突騎を率いて西へ逃走した。亀茲城はついに陥落した。その後、郭孝恪が亀茲城に守備隊として残った。
沙州刺史の
蘇海政、行軍長史の
薛万備は、騎兵の精鋭を率いて亀茲王を追いつめること六百里に及んだ。亀茲王の計画は窮まり、撥換城を保とうとした。そこで
阿史那社尓は撥換城を包囲した。一ヶ月が経過して亀茲王と将軍の羯獵顛は唐軍に捕らえられた。大臣の那利は夜間に逃亡すると、西突厥と亀茲の国人万余を率いて唐軍と戦った。この戦いで郭孝恪とその息子が戦死した。唐軍は混乱した。倉部郎中の崔義起は募兵して城中で戦い、
曹継叔と韓威もこれを支援し、西突厥と亀茲の軍勢を撃破して、三千もの首級を斬った。那利は敗北したが、逃亡したり離散していた者たちを集めて次第に勢力を盛り返し、亀茲に戻って唐軍を襲撃した。しかし
曹継叔はこれに乗じて八千もの首級を斬った。那利は逃走したが、その後、亀茲人によって捕らえられ、唐軍に献上された。阿史那社尓は、亀茲の五つの大城を破り、男女数万人を捕虜にした。そして、使者を派遣して小城七百余を諭して降伏させた。西域諸国は震撼し、西突厥と安国の両国は、降伏のしるしに唐軍に兵糧を献上した。阿史那社尓は、亀茲王の弟の葉護を推戴して亀茲の王となし、石に刻んで功績を記した。
戦勝報告が届けられると、太宗は喜び、群臣に向かって、ゆったりとして言った。「そもそも楽しみというものは幾つかの種類がある。朕はむかし、こう言った事がある。土の城や竹馬を得る事は童子の楽しみである。金翠羅を身に飾る事は婦人の楽しみである。その土地にあるものないものを交易することが商人の楽しみである。高官が高い秩を得る事は士大夫の楽しみである。戦って前に敵がいない事は将帥にとっての楽しみである。四海が安寧で統一されている事は、帝王にとっての楽しみである。だから朕はいま楽しいかな」と。そう言うと太宗は群臣にあまねく酒をすすめた。初め郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲にいた仏教徒で、よく未来を予言できる人が嘆息して言った。「唐はついに西域を領有した。数年もたたないうちに、わが国もまた滅ぼされるであろう」と。阿史那社尓は、訶黎布失畢・那利・羯獵顛を捕らえて、太廟に献上した。太宗は捕虜達を紫微殿で受け取った。太宗が彼らを責めて言うと、亀茲の君臣はみな頭を地面に打ち付けて身を伏せた。太宗は詔して彼らの罪を赦し、捕虜の身から客人に扱いを改めて鴻臚寺に宿らせ、訶黎布失畢に左武衛中郎将を拝した。初めて亀茲の首都に安西都護を移動し、于闐、砕葉、疏勒を統させて四鎮と号した。
高宗はまた訶黎布失畢を封じて亀茲王となし、那利・羯獵顛とともに帰国させた。これからしばらくして亀茲王が来朝した。那利は、王の妻阿史那と密通したが、王はこれを禁じることができなかった。左右の近臣が王に向かって那利を殺すよう請願したので、これ以後、王は猜疑心を抱くようになった。王と那利の使者がそれぞれ遣使して高宗に状況を報告した。高宗は那利を召してこれを投獄し、王を護衛して亀茲に帰国させた。しかし羯獵顛は王の入国を拒み、使者を西突厥に派遣して阿史那賀魯に降伏した。王はあえて進まず怏々として死去した。高宗は左屯衛大将軍の
楊冑に詔して兵を出動させ、羯獵顛を捕らえ、その部党を誅した。そして亀茲の地をもって亀茲都督府となした。さらに訶黎布失畢の息子素稽を王となして、右驍衛大将軍を授け、都督に任じた。この年、安西都護府を亀茲に移動させ、かつて安西都護府があった高昌を西州都督府となした。そして左驍衛大将軍・安西都護の麴智盛を都督に任じた。こうして西域諸国は平定した。高宗は使者を諸国に分散して派遣し、各国の風俗や物産を調査させ、
許敬宗と史官に詔して『西域図誌』を撰文させた。
上元年間(674-676)、素稽が銀・頗羅(ガラス)・名馬を献上した。天授三年(692)、亀茲王の延田跌が来朝した。初め、儀風年間(676-679)、吐蕃が焉耆以西を攻撃したので四鎮はみな陥落した。長寿元年(692)、武威道総管の
王孝傑が吐蕃を破って四鎮を回復したので、唐は安西都護府を亀茲に置き、三万の駐屯兵を置いて守備を固めた。ここに至り沙磧は荒廃し、民が資金と食糧を供給する事が甚だ苦しくなった。議者は安西の地を放棄するよう請願したが、
武后はこれを認めなかった。安西都護には、政務の実績が中国と夷狄の双方において称賛されているものを選んで任命した。武后の時には
田揚名、中宗の時には
郭元振、開元年間(713-741)には
張孝嵩と
杜暹が、各々安西都護を務めた。開元七年(719)、王の白莫苾が死去し、息子の多市が即位して孝節と改名した。開元十八年(730)、孝節は弟の孝義を派遣して来朝させた。
亀茲から六百余里、小さな沙漠を越えると、跋禄迦(バールカー)という小さな国があった。またの名を亟墨といった。漢代の姑墨(アクス)国である。国土は東西六百里、南北三百里であった。風俗と文字は亀茲と同じであったが、言語は少し異なった。目の細かい毛織物を産出した。西に三百里進んで石磧を越えると、凌山(ハン・テングリ)に至る。これはパミールの北の高原である。水は東に流れ、春・夏も山谷には雪が積もっていた。西北に五百里行くと素葉水(スーヤーブ)城に至る。近隣諸国の比国(ソグド)商人が商売のために来て雑居していた。素葉水以西の数十城は、みな君長を立て、西突厥に従属していた。素葉水城より羯霜那国(キシュ)に至る国は、毛織物、皮ごろも、皮や厚地の毛布を着用し、絹布で額を縛っていた。素葉水城の西に四百里進むと千泉に至る。その地はおよそ二百里四方で、南は雪山に面し、三方向には平地が広がっていた。泉や池が多いので千泉と命名した。西突厥の可汗が毎年千泉に避暑にやって来た。そこには鹿の群れが鈴や金属の環を付けられており、人によくなついていた。西におよそ百里進むと呾邏私(タラス)城があり、ここにも近隣諸国の比国(ソグド)商人が雑居していた。小さな城があり、三百余戸あった。この地の人々は、もともとは中国に住んでいたが、突厥に略奪されてきて、この地に住んでいた。彼らはいまでも中国語を話した。西南に二百余里行くと、白水(アクス)城に至る。平原湿潤で、地味は肥えていた。南に五十里進むと笯赤建(ヌージカンド)国があった。国土の広さは千里で肥沃だったので、作物がよく稔り、葡萄をたくさん産した。また二百里行くと石国であった。
疏勒(カシュガル)は佉沙とも言った。国の周囲は五千里で、長安から九千里余離れていた。砂漠が多く土壌は少なかった。疏勒の風俗は詭詐を尊び、子供が生まれると頭を両側から固定して扁平にした。この国の人々は刺青をし、瞳は青色であった。王の姓は裴氏で「阿摩」と自称し、迦師城に住んでいた。西突厥可汗は、娘を疏勒王の妻にしていた。疏勒の勝兵は二千人であった。この国は祆神(ゾロアスター教)を祀っていた。
貞観九年(635)、疏勒王は使者を派遣して名馬を献上し、四年後(639)にもまた朱倶波・甘棠とともに方物を貢いだ。太宗は房玄齡らに言った。「むかし天下を統一して四方の夷狄にも打ち勝ったのは、ただ秦の始皇帝と漢の武帝だけである。朕は三尺の剣を手に四海を定めたので、遠方の狄はおおむね服属した。二君(始皇帝と武帝)に劣らない功績である。しかし二君の末路は自らを保つことができなかった。公らは、よろしく互いに補弼しあって、へつらいの言葉を進めて危機存亡の状態に置かないでくれ」と。儀鳳年間(676-678)に吐蕃が疏勒を打ち破った。開元十六年(728)、初めて大理正の喬夢松に鴻臚少卿を兼務させて疏勒に派遣し、疏勒の君主安定を冊立して疏勒王となした。天宝十二載(753)、首領の裴国良が来朝したので折衝都尉を授け、紫袍と金魚を下賜した。
朱倶波(カルガリク)は、またの名を朱倶槃といい、漢の時の子合国であった。西夜・蒲犂・依耐・得若の四つの種族を併合していた。于闐の西千里、パミールの北三百里、西は喝盤陀、北に九百里行くと疏勒、南に三千里進むと女国であった。勝兵の数は二千人であった。浮層の法(仏教)を尊び、文字は婆羅門と同じであった。
甘棠は、海の南にあり、崑崙人であった。
喝盤陀(タシュクルガン)は、漢陀とも渇館檀とも言い、また渇羅陀とも言った。疏勒の西南より剣末谷に入り、不忍領を六百里進めばその国に至る。瓜州を隔てること四千五百里であり、朱倶波の西に隣接し、南は懸度山で隔てられ、北は疏勒、西は護密(ワハン)、西北は判汗国(フェルガナ)と境を接していた。王の治所はパミール高原の山中に存在した。都城の背後には徒多河(ヤルカンド川)が流れていた。勝兵の数は千人であった。その国の王はもともと疏勒人であり、代々王位を継承して王となった。西南には頭痛山があった。パミールはこの国の人々によって極嶷山と呼ばれ、喝盤陀の周囲を取り囲んでいた。この国の人々は強くて荒々しく、容貌と言語は于闐と同じであった。喝盤陀の法律においては、殺人と盗みを犯した者は死刑であり、それ以外の犯罪者は罪を金銭で贖った。租税として必ず服飾を納めた。王は金の長椅子に座った。北魏の太武帝の太延年間(435-439)に初めて中国に通好した。貞観九年(635)、使者を派遣して来朝させた。開元年間(713-741)に唐は喝盤陀を打ち破り、その地に葱嶺守捉を設置した。これが安西都護府の最果ての辺境守備隊であった。
于闐(ホータン)は、瞿薩旦那とも言い、また渙那とも屈丹とも言った。于闐の事を北狄は于遁と呼び、諸胡(ソグド人)は豁旦と呼んだ。長安を隔てること九千七百里、瓜州から四千余里離れていた。漢の戎盧・杆彌・渠勒・皮山の五国の故地を併合していた。王の居城を西山城と言い、勝兵四千人であった。この国には玉河があり、国人は夜、月の光がひときわ明るく反射するところを見て、必ず美玉を探し当てることができた。王は絵の描かれた部屋に住んでいた。人々は習性として、策略に長け、大言壮語を好んだ。また祅神(ゾロアスター教)や仏法に喜んでつかえた。しかし態度は恭しく謹直で、面会する時はみな跪いた。この国では木で筆を作り、玉で印鑑を作った。国人は書簡を得るとまず首に戴き、それから書を開封した。漢の武帝の時以来の中国の詔書や符節は、于闐の王が代々伝授して受け継いでいた。人々は歌舞を喜び、紡績に巧みであった。西には砂漠があり、その砂漠に住む鼠の大きさは蝟(ハリネズミ)と同じで、色は黄金であった。鼠の群れの長が穴から出入りする時、鼠の群れが従った。初め于闐には桑や蚕がなかったので、隣国にこれを乞うたが、隣国は桑蚕を于闐に輸出してくれなかった。そこで于闐王は隣国に求婚した。隣国が結婚を許したので、于闐王は花嫁を迎える際、花嫁に告げて言った。「わが国には絹がないので、自国から蚕を持ってきて自ら衣服を作るように」と。花嫁はこれを聞くと、綿の帽子の中に蚕を入れて関所を越えたので、関所役人もあえてこれを調べなかった。これ以後、于闐は初めて蚕を有することになった。花嫁は石の上に「蚕を殺してはならない。蚕が蛾となり、飛び去って初めてを処理してよい」という約定を刻ませた。
于闐王の姓は尉遅氏で、名は屋密と言った。もともとは西突厥の臣下であったが、貞観六年(622)、使者を派遣して入献させた。その後三年たって(635)、王は息子を派遣して入侍させた。
阿史那社尓が亀茲を平定したので、于闐王の伏闍信は唐を非常に恐れ、息子を派遣して駱駝三百頭を献上した。長史の
薛万備は阿史那社尓に向かって「公が亀茲を破ったので西域諸国はみな震え恐れています。願わくば軽装騎兵をお借りして于闐王を拘束し、京師に献上いたしましょう」と言ったので、阿史那社尓はこれを許した。唐の軽騎兵が于闐に到来し、唐の威霊を連ねて天子のもとに入見するよう勧めると、王の伏闍信は使者に従って長安にやって来た。たまたま
高宗が即位したので、伏闍信に右衛大将軍を授け、息子の葉護玷に右驍衛将軍を授けて、袍帯と布帛六千段を下賜し、邸宅一区もあわせて授けた。高宗は于闐王をこの邸宅に数ヶ月留まらせてから于聞に帰らせてやった。王は、子弟を留めて宿衛にしてくれるよう高宗に請願した。上元年間(674-676)の初め、于闐王は自ら子弟の酋長や領主七十人を率いて来朝した。伏闍信に吐蕃討伐の功績があったので、高宗は于闐の地に毘沙都督府を設置して十州に分割し、伏闍雄に都督を授けた。伏闍雄が死去すると、
武后は、その息子の璥を王に立てた。開元年間(713-741)、于闐は馬・駱駝・豹を献上した。璥が死ぬと、また尉遅伏師を立てて王となした。尉伏師が死ぬと伏闇達が後を継いだので、唐はその妻の執失を冊立して妃となした。伏闍達が亡くなると尉遅珪が王位を継承したので、妻の馬を妃とした。尉遅珪が死ぬと息子の
尉遅勝が即位した。至徳年間(756-758)初めは軍を率いて国を救うために赴こうと考え、宿衛として留まりたいと請願した。乾元三年(760)、尉遅勝は弟の左監門衛率葉護の
尉遅曜を大僕員外卿、同四鎮節度副使、権知本国事となした。詳細は、
尉遅勝の伝に記されている。
于闐の東三百里の所に建徳力河があり、七百里の所に精絶国があった。建徳力河の東には汗弥があった。汗弥の王は、達徳力城(ダンダン・ウィリク)に住んでいた。達徳力城はまた拘弥城と言った。達徳力城というのは即ち寧弥の故城である。みな小国であった。
初め
徳宗が即位した時、内給事の朱如玉を安西に派遣して于闐の玉を求めさせた。朱如玉は、圭一つ、珂佩五つ、枕一つ、帯胯三百、簪四十、奩三十、釧十、杵三、瑟瑟百斤、その他の珍宝などを得た。しかし朱如玉は帰国するに当たり、回紇人の領地を通過した時に回紇人に玉を奪われたと嘘を言った。久しくして事は露見し、市場で売られていた玉が得られたので、朱如玉は恩州に流刑となり、死んだ。
天竺(インド)国は漢の身毒国のことである。あるいは摩伽陀(マガダ)とも婆羅門ともいった。長安を去ること九千六百里で西域都護の治所からは二千八百里離れていた。パミールの南に位置し、その周囲は三万里であった。東・西・南・北・中の五つの天竺に分かれていた。各国は数百の城邑を有していた。南天竺は海(インド洋)にせまり、師子(ライオン)・豹(ヒョウ)・駱駝・犀・象・火斉・琅玕・氷砂糖・黒塩を産した。北天竺は雪山(ヒマラヤ山脈)によって隔てられており、山が壁のように取り巻いており、ただ南には出口があり、その谷あいを国の門戸となした。東天竺は海のほとりにあり、扶南・林邑に隣接していた。西天竺は罽賓(カピーシー)・波斯(ペルシア)と隣接していた。中天竺は四つの天竺国が会するところに位置した。都城は茶鎛和羅城(パータリプトラ)といい、迦毘黎(ガンジス)河の河岸にあった。都城以外の城が数百もあり、みな長を置いていた。また別の独立国が数十あり、そこには王を置いていた。舎衛(シュラーヴァスティー)といい、迦没路(カーマルーパ)といい、その国の戸口はみな東に向いていた。迦尸国(カーシー)というのはまた波羅奈ともいい、波羅那斯(ヴァーラーナシー)ともいった。中天竺の家畜に、稍割牛という動物がいた。黒色で角は細く、角の長は四尺あまりであった。十日に一度、角を切ってやらないと稍割牛は苦しんで死んでしまう。ある人は、この牛の血を飲むと五百歳まで寿命が延びると言っている。この牛の年も、これくらいであった。
中天竺王の姓は乞利咥(クシャトリヤ)氏で、または刹利ともいった。王は代々中天竺を支配し、簒奪や弑殺はなかった。中天竺の土地は湿気が多くて熱い。稲は一年に四度熟し、長いものは駱駝の体が没するくらいの高さであった。貝歯(子安貝)を貨幣とした。金剛石(ダイヤモンド)・栴檀・鬱金(サフラン)を産し、大秦(ローマ)・扶南・交趾と貿易した。人は裕福に暮らし、戸籍簿と地籍簿がなく、王の領地を耕作するものは税金を納めた。最高の礼としては足をねぶり踵をさすった。家ごとに奇楽を催す伎がいた。王や大臣はみな錦や毛織物を着用した。螺髻(もとどり)を頭のてっぺんで作り、あまった髪の毛は切って巻き髪にした。男性は耳を穿ってイヤリングをたらした。耳に黄金をかけるものもいた。耳たぶの垂れているものを上類とした。素足で過ごし、衣装は白を尊んだ。婦人は首に金・銀・真珠の首飾を飾った。死者は、その亡骸を焼き遺灰をとって卒塔婆を建てた。あるいは遺体は野原や河に遺棄し、鳥獣や魚・亀の餌にした。服喪の期間は定まっていない。謀反を起こしたものは幽閉して殺された。小さな犯罪を犯したものは金銭で罪を贖った。親不孝者は手足を斬り落とし、耳鼻を削ぎ、辺境地帯に移された。文字があり、歩暦(天文測算術)を善くし、「悉曇十二章」を学んだ。貝多羅に筆記して出来事をしるした。これをみだりに梵天法と言った。仏法を尊び、殺生や飲酒をしなかった。国中の所々を指し示して仏の古跡であると言っている。盟誓を信じ、禁呪を伝え、祈って龍を呼び起こすと雲がわき雨が降ると言っている。
隋の
煬帝の時、
裴矩を派遣して西域諸国と通好させたが、ただ天竺と払菻(ビザンツ)だけが来朝しなかったので煬帝はこれを恨みに思っていた。武徳年間(618-626)に天竺に大乱が起こった。王の尸羅逸多(シーラーディトヤ=ハルシャ・ヴァルダナ)が軍隊を統率して戦うと向かうところ敵なしの状態であった。戦象は鞍をはずさず兵士も甲冑を脱がず、四天竺を討ったので王達はみな北面して臣従した。たまたま唐の仏教僧の
玄奘がその国を訪問した時、尸羅逸多はこれを召し謁見して言った。「なんじの国には聖人が出現し、秦王破陣楽という音楽を作ったというが、試みに私のために秦王(
太宗)の人となりを話してくれ」と。そこで玄奘は太宗の神の如き武勇について大まかに説明し、太宗が世の乱れを平定し、四方の諸民族がして物を献上している状況を話して聞かせた。尸羅逸多は喜び、「私は東面して唐に朝貢しよう」と言った。貞観十五年(641)、尸羅逸多は自ら摩伽陀王を称して使節を派遣し、太宗に上書した。太宗は雲騎尉の梁懐璥に命じ節を持たせて派遣し、天竺を慰撫せしめた。尸羅逸多は驚き、国人に問うて言った。「いにしえより摩訶震旦(=中国)からの使いが、わが国に来た事があったか」と。みな、こたえて言った。「摩訶震旦からの使者が来た事はありません」と。夷狄は中国の事を摩訶震旦と呼んだのである。尸羅逸多は拝して太宗の詔書を受け、頭の上に勅書を戴いた。そこでまた尸羅逸多は中国使節の帰国に随行させて使者を答礼使として派遣し、唐に朝貢した。これに対し、太宗は衛尉丞の
李義表を報使として天竺に遣わした。尸羅逸多は大臣を派遣して李義表を迎えさせ、都から隅まで李義表一行に自由に見学させて、道中で香を焚いて歓迎した。尸羅逸多は群臣を引き連れ、東に顔を向けて太宗からの勅書を受けた。尸羅逸多はまた使者を唐に遣わして、火珠・鬱金・菩提樹を献上した。
貞観二十二年(648)、
太宗は右衛率府長史の
王玄策を天竺に派遣し、蒋師仁を副使となした。しかし王玄策が天竺に到着する前に尸羅逸多は死去し、天竺国内は乱れて、大臣の帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が自ら即位し、軍隊を発動して王玄策の入国を拒んだ。このとき王玄策に従う騎兵は僅かに数十だったため、唐軍は阿羅那順に勝つことができず、兵士はみな死没し、諸国からの貢物は阿羅那順に略奪されてしまった。王玄策は遁走し、吐蕃の西の辺境地帯に奔走した。王玄策は周辺諸国に檄を飛ばして兵を徴発した。吐蕃は一千の兵を率いて王玄策のもとに至り、泥婆羅(ネパール)は七千騎を率いてやってきた。王玄策は部隊を分けて進軍し、茶鎛和羅城で阿羅那順の軍勢と戦い、三日間の戦いの後に阿羅那順の軍を打ち破って三千の首級を斬った。この戦いでの溺死者は一万人であった。阿羅那順は国を棄てて逃走し、散兵を合わせて再び陣地を築こうとしたが、蒋師仁がこれを生け捕りにした。捕虜にしたもの斬首したものは一千を数えた。阿羅那順の余衆が、王の妻と息子を奉じて乾陀衛江(ガンダキ)で抵抗したが、蒋師仁がこれを撃ち大破した。蒋師仁は王妃・王子を捕らえ、男女一万二千人を捕虜とし、雑畜三万を獲得し、五百八十の城を降した。東天竺の王の尸鳩摩は牛馬三万、兵糧として唐軍に送り、弓・刀・宝の纓絡もともに贈った。また迦没路国は珍奇なものを献上し、地図も献上して、それから太宗に向かって老子の像と道徳経を賜りたいと願した。王は、阿羅那順を捕らえて長安城に連行し太宗に献上した。役人達は王玄策の宗廟に報告した。太宗は「いったい人というものは、耳と目が(音楽と女色)を愛で、口と鼻が匂いと味を愛でる事にばかり耽るようになるのは、敗徳の源である。もしバラモン(=阿羅那順)が、わが使節を略しなければ、捕虜になることがあろうか」と。と言った。太宗は王玄策を抜擢して朝散大夫にした。
王玄策は天竺において道士の那邏邇娑婆寐(ナーラーヤナスヴァーミン)を得た。那邏邇娑婆寐は自ら年齢が二百歳であると言い、不死の術を持っていると称していた。そこで太宗は改めて住まわせ錬金術を治めさせ、兵部尚書の
崔敦礼に命じてあつく保護監視させた。
太宗はまた中国全土に使者を派遣して、もろもろの奇薬や異石を集めさせ、使節を婆羅門の諸国にも派遣して異を収集させた。いわゆる畔茶法水という薬は、石臼の中から生じる。石人の像があり、これを守っている。水には七種類の色があり、熱くなったり冷たくなったりして、金をよく溶かすことができる。人がそれを手にのせると、たちまち爛れてしまう。そこで駱駝の髑髏を使って瓢の中に注ぐ。咀賴羅という名樹があった。その葉に似ており、奥深い山の中に崖にはえていた。その樹の前には巨大な穴を蝮が守っているため、樹のそばに近づくことができない。しかし咀賴羅の業を採取したいものが四角い鏃の矢を放つと、枝はすぐに落ち、鳥の群れがこの枝を運び去ってくれる。枝を銜えたこの鳥を射落とすと、咀賴羅の枝を入手することができた。奇怪なさまは、このようであった。この後、那邏邇娑婆寐の術に効力がなかったため、太宗は詔を出して天竺への帰国を許したが、帰ることができずに長安で亡くなった。
高宗の時代、盧伽逸多というものがいた。東天竺の烏茶(ウドラ)の人で、また方術をもって昇進し、懐化大将軍を拝した。
乾封三年(668)、五天竺の使節がすべて来朝した。開元年間(713-741)、中天竺は使者を三度派遣した。南天竺は一度使節を派遣し、人の言葉をよく語る五色のオウムを献上した。南天竺の王はそれから玄宗に対し、軍隊の応援を求めて大食と吐蕃を討伐したいといい、その軍隊に名をつけて欲しいと請願した。そこで玄宗は詔して懐徳軍の名を賜った。南天竺の使者が「蕃夷はただと帯をもって寵愛のしるしとなします」と言ったので、玄宗は、錦の袍、金で装飾された革帯、魚袋、七事(佩刀・刀子・火石など軍に必須の七つのもの)を賜った。北天竺の使者は一度だけ来朝した。
摩掲它(マガダ)は摩伽陀ともいう。もともと中天竺に属する国であった。周囲は五千里で、その土地は肥沃で農業をよくし、異稲巨粒(異常なイネと巨大な米つぶ)を有した。これを供大人米(大臣にのみ供給する米)といった。王は拘闍掲羅布羅城に住んだ。あるいは倶蘇摩補羅(クスマプラ)といい、波吒釐子城(パタリプトラ)ともいった。その北には伽河(ガンジス)がせまっていた。貞観二十一年(647)、初めて唐に使節を派遣して自ら
太宗に通好し、波羅樹(菩提樹)を献上した。この樹は白楊と似ていた。太宗は摩伽陀に使者を派遣し、その国の熬糖法を学ばせた。それから揚州に詔して諸蔗(もろもろのサトウキビ)を献上させ、汁を圧搾して剤のようにさせた。色と味は西域産の砂糖よりも数段まさった。
高宗はまた
王玄策を派遣して摩訶菩提祠(マハーボディ)に行かせ碑を立てさせた。その後、
徳宗は自らの銘をしるして那爛陀祠(ナーランダ寺院)に賜った。
また、那掲(ナガラハーラ)という国があった。これは摩掲它の属国であった。貞観二十年(646)、那揭は使者を派遣して万物を献上した。
烏茶(ウディヤーナ)という国は、烏伏那とも烏萇ともいい、天竺のすぐ南(正しくは西北)にあった。土地の広さは五千里で、東は勃律を隔てること六百里、西は罽賓の四百里のところにあった。山谷が互いに連なり、金・鉄・葡萄・鬱金を産した。稲は毎年熟した。人は物腰が柔らかで媚びへつらい、禁架術(方士の呪術)を善くした。この国には死刑はなく、死罪に相当するものは奥深い山に放置した。疑いのあるものには薬を飲ませ、尿の清濁を見て罪の軽重を決定した。五つの城があり、王は術曹蘖利城に住んだ。この城は瞢掲釐城(ミンゴーラ)ともいい、その東北に達麗羅(ダレル)川があった。この川はかつて烏萇の土地であった。貞観十六年(642)、王の達摩因陀訶斯が使者を派遣して龍涎香を献上したので、太宗は璽書を下して優答した。大食がこの国の東の辺境地帯に接していた。開元年間(713-741)、大食がしばしば誘ったが、烏萇王と骨咄・倶位の二王は大食の臣下になることを承知しなかった。
玄宗は使者を派遣し、王を冊立した。
章求抜国は章掲抜ともいい、もともとは西羌の種族であった。悉立の西南の四山の山中に住み、後に山の西に移住して東天竺と隣接するようになった。その国の衣服は東天竺と似ており、東天竺に属するようになった。そのは八、九百里あまりで兵は二千人、城郭がなく、掠奪を好んだので商旅はこれに悩まされた。貞観二十年(646)、王の羅利多菩伽が悉立国によって使者を派遣して入朝した。王玄策が中天竺を討伐した時、章求抜国の王は援軍を派遣して
王玄策を支援し、功績を立てた。それ以来、朝貢は絶えなかった。
悉立国は、ちょうど吐の西南に位置した。戸数は五万戸で、城邑の多くが渓流のそばにあった。男子は絹帯で頭髪を結び、氈褐(毛織物)を着用した。婦人は短いスカートを着た。婚姻に結納がなかった。穀物・豆をよく産した。死者に葬られ、盛り土をし、木を植えて墓をつくることがなかった。この国では人々は黒衣を着用し、丸一年が過ぎると服喪の期間が終わり、黒衣を脱いだ。刑罰には刖(あしきり)と劓(はなそぎ)があった。常に吐蕃に従属した。
罽賓(カピーシー)は、隋の漕国である。罽賓はパミールの南にあり、長安をへだてること一万二千里余であった。罽賓の南三千里のところに舎衛(シュラーヴァスティー)があった。王は修鮮城で統治し、常に大月氏に属していた。その地は暑くて湿気が多く、人々は象に乗り、仏法に従って支配していた。
武徳二年(619)、使者を派遣して朝貢し、宝石で象嵌された玉帯、金の鎖、水晶製の小さな杯、小さな棗のような形をしたガラスを献上した。貞観年間(623-649)には名馬を献上したので、太宗は大臣に詔して言った。「朕が初めて即位した時、あるものが天子というものは兵を輝かして四方の夷狄を屈服させるものであると申したが、ただ
魏徴だけは朕に向かって、文徳を修めて中華を安んじるようにと勧めたものである。中華が安んじれば、遠方の異民族も威服するであろう、と。いま天下は大いに安んじ、四方の君主達はみな来献した。これは魏徴の力によるものだ」と。そこで太宗は、果毅の何処羅抜らを派遣して篤く罽賓国に賜わりものを下し、あわせて天竺も慰撫させた。何処羅抜が罽賓に到着すると、罽賓王は東に向き、頭を地につけて再拝した。また部下を遣わして唐の使節一行を天竺まで護衛して道案内させた。貞観十六年(642)、褥特鼠(マングース)を献上してきた。この鼠は鼻がとがっていて尻尾が赤く、ヘビを取って食べた。毒に刺されたものがいると、褥特鼠はこれを嗅いで尿をかけた。すると傷がたちまち治った。
国人はみな罽賓王の始祖は馨孽(ヒンギラ)といい、曷擷支に至るまで十二代にわたって王位が継承されてきたと伝えている。顕慶三年(658)、罽賓の地を修鮮都督府となした。龍朔の初め、罽賓王を修鮮城等十一州諸軍事および脩鮮都督に任命した。開元七年(719)、罽賓は使者を派遣して天文学の書と秘法の奇薬を献上したので、玄宗は罽賓王を葛邏達支特勒に冊立した。のち烏散特勒灑が年老いて息子の払菻婆に後を継がせたいと請願してきたので玄宗はこれを許可した。天宝四載(745)、玄宗は罽賓王の息子の勃匐準を冊立し、罽賓王と烏萇王を継承させた。乾元の初め(758)、罽賓の使者が朝貢してきた。
最終更新:2025年01月23日 13:30