周宝 しゅうほう
814-888
晩唐の藩鎮。字は上珪で、平州盧龍県の人。
周懐義の子。代々武人の家系で、蔭位によって千牛備身となる。天平節度使
殷侑の部将となり、会昌年間(841-846)宿衛に選ばれて
高駢と共に右神策軍に属し、良原鎮使に任命された。撃球(ポロ)の腕前によって
武宗に認められ、金吾将軍に抜擢され、検校工部尚書・涇原節度使に昇進した。
黄巣の乱がおこると鎮海軍節度兼南面招討使となる。杭州の兵を再編成して八都に分け、
董昌・
陳晟・
杜稜はその長が出身であったが、次第に自立の傾向をみせ、董昌は杭州に、陳晟が睦州に拠り、さらに光啓二年(886)
張郁が叛乱をおこすと
丁従実に討伐させたが、今度は丁従実が常州に拠った。董昌が義勝軍節度使に遷ると、朝廷の制勅を承けて杭州都将の
銭鏐を杭州の政務をとらせた。
光啓三年(887)三月、
劉浩・
薛朗の叛乱で鎮海軍を追われて、常州の丁従実のもとに身を寄せたが、
銭鏐の部将
杜建徽の攻撃を受けて常州は陥落。銭鏐に丁重に迎えられたものの、しばらくして殺害された。『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年08月16日 12:16