趙徳諲 ちょうとくいん
?-892
唐末の藩鎮。蔡州の人。奉国軍節度使
秦宗権に従って右将となり、
黄巣を討伐した功績によって申州刺史を授けられた。
中和四年(884)六月、
秦誥・
鹿晏弘と共に襄州に侵攻して山南東道節度使
劉巨容を成都に逃走させた。秦宗権より山南東道節度留後に任じられた。
光啓三年(887)十二月、江陵を陥落させて荊南節度留後
張瓌を戦死させたが、秦宗権が荊南の領有に失敗すると、秦宗権に後がないと考え、
文徳元年(888)五月、
朱全忠に従い、忠義軍節度使、充蔡州四面行営副都統に任じられた。さらに中書令となり、淮安郡王に封ぜられた。景福元年(892)二月卒。子の
趙匡凝が嗣いだ。子は他に
趙匡明がいる他、実子ないしは従子・義子と思われる者に唐州刺史の趙匡璠、隋州刺史の
趙匡璘がいる。『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2026年08月30日 23:23