鹿晏弘

鹿晏弘

?-886
唐末の武将・藩鎮・群雄。忠武軍監軍の楊復光の配下。楊復光が死ぬとその軍は八都に分割され、鹿晏弘・晋暉・李師泰・王建韓建張造龐従らに分けられた。中和三年(883)、興元節度使の牛勗を追放して自らは留後を称した。しかし田令孜の謀略により麾下の王建韓建が離間した。秦誥とともに合同で襄州を攻撃し、山南節度使の劉巨容を成都に逃亡させた。そのため禁軍の追討を受けたが、中和四年(884)に許州を攻撃して節度使周岌を殺害、自ら留後を称した。光啓二年(886)七月、秦宗権に許州を攻撃されて許州は陥落し、鹿晏弘も戦死した。

本紀・列伝

『新唐書』巻九 本紀第九 僖宗 中和三年十二月条、中和四年十月・十一月条、光啓二年七月条
『新唐書』巻二百八 列伝第一百三十三 宦者下 田令孜
『新唐書』巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 秦宗権

外部リンク

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最終更新:2023年06月04日 22:02
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