趙匡凝 ちょうきょうぎょう
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唐末の藩鎮。字は光儀。忠義軍節度使
趙徳諲の子。
趙匡明の兄。唐州刺史となり、景福元年(892)二月、父が没すると留後となり、
昭宗より節度使を授けられ、検校太尉兼中書令に任じられた。
朱全忠が清口の戦いで淮南節度使
楊行密に敗れると、趙匡凝は奉国節度使
崔洪・河東節度使
李克用・楊行密と共に兵を合わせて朱全忠を攻撃する盟約をしたが、事前に発覚し、朱全忠の部将
氏叔琮の猛攻を受け、同盟を結ばざるを得なかった。その間
崔洪は滅んだ。天祐元年(904)、楚王に封ぜれた。当時、諸節度使が朝廷に歳貢を納めなかった中、趙匡凝のみは毎年貢納した。朱全忠の再侵攻を趙匡明が撃退すると、
王建との同盟を模索。荊南節度使
成汭が滅ぶと、江陵を奪取し、趙匡明を荊南節度留後とした。天祐二年(905)朱全忠の再々侵攻に敗れ、一艘の舟で楊行密の元に亡命した。楊行密には厚遇されたが、
楊渥の時代に冷遇され、
徐温に殺害された。『新唐書』『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年08月30日 23:06