張濬 ちょうしゅん
?-904
唐末の宰相(在任887-891)。字は禹川で、河間張氏の出身。張鐐の子。
張仲素の孫。経書に通暁したが、奔放な性格であり、金鳳山に退居して縦横家の学問を学んだ。枢密使の
楊復恭に見いだされて、太常博士、度支員外郎に任じられた。漢陰県令の李康に行った食糧支給の進言の効果が
僖宗の眼にとまり、諌議大夫となり、宰相
王鐸が行営都統に任じられると、都統判官となる。
僖宗が興元府に逃れると、光啓三年(887)九月、同中書門下平章事(宰相)、判度支に任じられた。大順元年(890)、
安居受が
李克用の将軍
李克恭を殺害し、潞州と共に
朱全忠に帰順すると、朱全忠は朝廷に李克用の挟撃を提案。張濬は同じく宰相であった
孔緯と共に強硬論を主張し、結果李克用の討伐となり、河東行営兵馬招討制置使に任じられ、他に京兆尹
孫揆を昭義節度使として副官とし、朱全忠らを招討使とした五万の軍が編成された。しかし李克用の将軍
李存孝の猛攻により大敗。軍は潰滅して自身は逃げ帰る失態をおかし、宰相を罷免された。その後、天下租庸使、尚書右僕射に復帰したが、やがて致仕して洛陽の長水の別荘に住んだ。しかし藩鎮への影響力を朱全忠に恐れられ、その部下の
張全義に盗賊に偽装させて家族百人以上と共に別荘で皆殺しにされた。子に
張格、
李儼がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年10月01日 01:26