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巻一百八十五 列伝第一百一十

巻一百八十五

列伝第一百十

鄭畋 王鐸 鐐 王徽 韋昭度 張濬



【鄭畋伝】
  鄭畋は、字は台文で、世系は滎陽の出身であった。父の鄭亜は、字は子佐である。卓越した才能と文才の持ち主で、進士科・賢良方正科・書判抜萃科に推挙され、三科とも及第した。李徳裕が翰林学士となると、その才能を高く評価し、浙西節度使となると、幕府に辟署した。監察御史に抜擢され、李回が御史中丞に任じられると、推薦によって刑部郎中知雑事となり、給事中を拝命した。李徳裕が宰相を罷免されると、京師から出されて桂管観察使となり、呉湘の獄において冤罪を糺すことができなかったことを罪とされ、循州刺史に貶され、在官中に死んだ。

  鄭畋は進士に及第したが、その時の年齢は非常に若く、役人が及第者の名簿を提出すると、武宗は疑い、試験答案を探して自分で確認してから及第とした。上奏によって宣武県の推官となり、書判抜萃科に及第して渭南県の尉に任じられた。父を喪ったことにより免官となった。宣宗の時、白敏中・令狐綯が相次いで宰相となると、二人とも李徳裕を怨み、李徳裕の賓客であった者は排斥され、そのため鄭畋は任命されないこと十年にもなろうとし、外地で改めて藩鎮の幕府で任用された。幕府での職を辞任すると、始めて虞部員外郎に任命された。右丞の鄭薫は鄭畋の罪を誣告し、郎官の職に相応しくないとし、京師から出された。しばらくして京師に入って刑部員外郎となった。劉瞻が宰相になると、推薦によって戸部郎中を授けられ、翰林に入って学士となり、にわかに知制誥となった。その当時、徐州の賊の龐勛を討伐しようと、多くの詔が発布され、鄭畋は休憩をとらず、要点を的確に捉えた優れた文書を作成した。当時の人々は高く評価した。龐勛が平定されると、戸部侍郎のまま翰林学士承旨に昇進した。劉瞻は諌言によって懿宗に逆らい、罷免され、鄭畋は制書の起草に劉瞻への褒め言葉が多かったから、韋保衡らは怨み、上役に媚びていると上奏し、梧州刺史に貶された。

  僖宗が即位すると、郴州・絳州の二州に遷され、右散騎常侍に任じられて召還された。故事では、両省の官僚が延英殿で相対する際に、ただ常侍のみは同席しなかった。鄭畋は顧問を任命すべきであると建言し、詔によって裁可され、遂に令制にあらわれた。兵部侍郎によって同中書門下平章事(宰相)に昇進した。当時、宰相の行列は数坊に連なって騒々しく進み、大声を出して歩行者を止めていた。鄭畋は勅導者を百歩で止め、百官・従僕・属官が勝手に宰相府に来るのをやめさせた。交州・広州・邕南の兵は、旧来は嶺北五道の米を運んで補給していたが、船の多くが沈没していた。鄭畋は嶺南の塩鉄を広州節度使の韋荷に委ね、毎年海水を煮て塩をつくり、貨幣価値にして四十万緡取り、虔州・吉州の米を買って安南に恵み、荊州・洪州等の漕役を廃止するよう願い出ると、軍の食糧は遂に豊富となった。後に王師甫を嶺南供軍副使とすると、王師甫は兵の全指揮権を兼任することを要請して、そのため毎年の献上銭に二十万緡を加えた。鄭畋は、「韋荷は功績を挙げたが、王師甫は利によって朝廷から得ようとしてその兵を奪おうと謀略している。容認できない」と言い、罷免した。再び門下侍郎に遷り、滎陽郡侯に封ぜられた。星の動きに変化があったから宰相の位を去ろうとしたが、許されなかった。

  乾符六年(879)、黄巣の勢力が次第に強大になり、安南を占拠すると、書簡を送って自身を天平節度使とするよう求めた。帝は群臣に協議させると、全員が節度使に任命して危機を避けるよう要請した。鄭畋はそこで黄巣に嶺南節度使を授けようとしたが、盧攜は高駢に頼り、功績を挙げさせようとし、そこで、「高駢の才略は並ぶ者がおらず、淮南は天下の強兵で、また諸道から軍が到着しようとしています。ちっぽけな賊を、どうして捨て置いて、全国を崩壊させるのですか」と言った。鄭畋は、「そうではない。黄巣の乱の根本は飢餓にあり、その群衆は利によって合流したのであり、だから江・淮でおこったのに、全国に蔓延したのだ。国家は長らく平和で、兵士は戦いを忘れ、現在いる砦に閉じこもって出ようとしない。恩によって罪を許すにこしたことがなく、豊作の年になって、その部下が帰りたいと思うようにさせ、群衆が一たび離れれば、黄巣は机の上の肉となるだけで、兵法でいうところの「戦わずして人の兵を屈する(『孫子』謀攻篇)ということになる。今、攻撃の戦略を用いず、軍で脅すのなら、天下の懸念は回避されないであろう」と言った。僕射の于琮が「南海の地は財貨によって天下を富ませています。もし賊に与えてしまうと、国庫は枯渇します」と言い、天子の心の中も同じく高駢を重んじ、そのため盧攜の建議は正しいと思った。鄭畋は「どうして危機は我らの対応にかかっているのに、君は淮南の兵隊を用いることに頼っている。私はどうしたらよいのかわからない」と言った。その時高駢が「南蛮は強大だ。西戎のように公主を降嫁させてください」と奏上してくると、盧攜も同じくこの意見に従った。鄭畋は国の威信を損なうと思って不可とし、そこで激しい議論となり、互いに罵り合った。盧攜は怒り、衣を払って去ったが、裾が硯で汚れ、そこで硯を投げつけた。帝は大臣が口論することが百官の示しにならないから、二人とも罷免し、鄭畋は太子賓客、分司東都となった。にわかに召還されて吏部尚書を拝命した。

  翌年、鳳翔隴西節度使となり、精兵五百を募り、「疾雷将」と号した。領域内に盗賊は出現しようとはせず、出現すればたちまち捕らえられた。黄巣が東都(洛陽)を陥落させると、兵を派遣して京師を守らせ、家財を用いて派遣する兵士を労い、妻は自ら衣を織って兵士に支給した。帝が梁州・洋州に出ると、鄭畋は斜谷にて奏状を呈し、泣いて「将相が国を誤りました。臣は死んでお詫びするほかはありません」と述べると、帝は労いの使者を派遣した。また「公は賊の攻撃を食い止めるよう努力し、西に向わせてはならん」と述べると、鄭畋は「このような国難の時、事は危急を要しており、途中で覆奏することができません。ですから思うように行動させてください。臣は死力を尽くして国家に報います」と言うと、帝は「社稷に利するのだから、してはならないことなどない」と答えた。鄭畋は帰還すると、兵士を探し、武器を修繕し、城の彫を浚渫し、梁への道を確保した。にわかに賊の使者が到着し、諸将は皆賊に降伏したいと思ったが、鄭畋は不可を教え諭し、そこですべての金帛を出した。この地から逃れたいと願い出た者がいたが、また許可しなかった。使者は偽の恩赦令を軍中に示して去った。翌日、勅使が到着すると、鄭畋は監軍の袁敬柔を呼び寄せて、道理に逆らうことや従うことについて諸将にあきらかにし、そこで勅命を聞き、刺した血で盟約を結んだ。鄭畋は子の鄭凝績を派遣して帝に従わせ、詔によって同中書門下平章事(宰相)に昇進した。賊将も同じく到着したが、鄭畋は軍中で斬り、余党数百人も全員捕えて誅殺した。検校尚書右僕射・西面行営都統に遷った。軍中で制書を承って任命を受けた。そこで前霊武節度使の唐弘夫を行軍司馬とした。

  中和元年(881)、賊将の王璠が軍三万を率いて来攻し、鄭畋は唐弘夫に伏兵を設けて待機させた。王璠は心の中では鄭畋が儒者のように柔弱であると軽んじており、歩兵・騎兵・太鼓の陣形を整えて前進し、鄭畋は精兵数千で賊にあたらせ、散兵して旗幟を多くし、高所の占有を利用して鼓を打ったから、賊は鄭畋の兵が多いのか少ないのか推測することができず、陣が整う前に、伏兵が現れ、軍は皆騒ぎ立てた。日が暮れると、軍は四度戦い、龍尾坡で殲滅させ、賊二万人を殺し、屍を積み上げること数十里となり、多くの甲冑や武器を入手し、王璠は遁走し、王璠の子を捕らえて斬り、威声は京師を揺るがした。当時、諸藩鎮の兵は全国にそれでも数万あったが帰属するところを失っており、鄭畋は招き寄せて、厚く褒賞を与えた。そこで涇原節度使の程宗楚・秦州の仇公遇・鄜延節度使の李孝恭・夏州節度使の拓抜思恭と盟約し、檄文を天下に伝えた。当時、王命は剣門から出ることはなく、全国は王室が衰えていると思い、復興することができなかったが、鄭畋の檄文が到着すると、遠近を問わず皆が衝撃を受け、それぞれ兵を準備して功績を立てようと思い、行在に馳せ参じた。黄巣は大いに恐れ、西方への謀を企てることはなかった。この当時、鄭畋がいなければ、天子は本当に危ういところであった。帝は勝利を聞いて、「朕は鄭畋のことをわかっていなかった。儒者の勇がこれほどとは」と言った。

  唐弘夫は咸陽を奪取し、兵を筏で渭水に渡らせた。賊は伏兵を設けて偽って逃げると、唐弘夫は程宗楚と共に勝利に乗じて都の門に入ったが、賊によって全滅させられた。鄭畋はしばしば軽々しく進撃してはならないと命じたが、二人は聞き入れず、結局敗北した。鄜州・夏州の兵で東渭橋に駐屯した。再び司空・兼門下侍郎・京城四面行営都統に昇進し、天子の御袍と犀角の帯を賜った。拝命を受けたが祝賀は述べなかった。

  行軍司馬の李昌言という者が興平に駐屯していたが、麾下を派遣して南面都統の地位を求め、たちまち兵を率いて幕府に急行した。鄭畋は不意を突かれ、城壁に登って「私は朝廷に参上しようと思う。君は兵を引いて民を愛し、国の為に賊を滅ぼしてほしい。できるのならこの地を守ってほしい」と丁寧に話しかけ、遂に軍を委ねて去った。李昌言は自ら留後となり、鄭畋を護送して国境まで送った。道中半ばに至って、心の中で失敗を恥じ入り、そこで病を理由に辞職した。詔によって太子少傅、分司東都を授けられ、興元にて医師の治療を受けた。

  翌年、召還されて行在に到着し、王鐸が兵を率い、また鄭畋を司空・門下侍郎・平章事(宰相)に任命し、軍務のすべてを決済した。興州の守将の孫鄴が受託収賄で死罪に相当したが、鄭畋は「関中が陥落した際に、孫鄴は褒斜道を守って功績がありましたので、死罪を免除していただけますように。陳秋児は嵯峨山を守って賊を防ぎ、農民は耕作を止めずにすんだので、検校散騎常侍として奉天軍に属されますように」と奏言し、制書によってすべて裁可された。旧来の制度では、使府・校書郎以上の官吏は、三年後に昇遷した。監察御史裏行は大夫・常侍となって、三十か月後に昇遷した。節度使兼宰相であっても、同じく越えることがなかった。戦争が勃発してから、一年間に何度も昇遷する者がおり、鄭畋は容認できないと考え、「遠征中の節度使は、裏行から大夫にいたるまで、二十か月後に昇遷を許し、校書郎以上は、二年後に奏上する。軍事に関わっていない者はこれまでの故事の通りとする」と要請し、これは承認された。

  当時、田令孜は権勢を恃んで私的な要求を通そうとしたが、鄭畋は応じなかった。陳敬瑄は自身の官位を宰相の上にしたいと思っていたが、鄭畋は「宰相を除外してどうして官位を論じることができるのか」と言い、ついに陳敬瑄の下につくことを拒否した。田令孜・陳敬瑄は心の中では常に鄭畋を怨んでいた。賊が平定されると、帝は京師に帰還しようとしたが、李昌言は自分が鄭畋を襲撃して藩鎮の地位を奪ったが、今鄭畋が宰相であったから、心の中では不満に思っており、そのため三人は互いに結託して、客人を派遣して鄭畋の過去の罪を上奏した。帝は事情を知っていたから、許さなかった。鄭畋はそこで病を装って宰相の位から去ろうと、帝に入見して、「乗輿が東にお帰りになられる際に、大散関から鳳翔を通られ、宿舎を整え、必要な調度品を準備するのを、すべて李昌言にお任せになるのなら、何も心配することはありません。臣がもし宰相として従うのなら、彼は疑って妨害行為を行い、そうなれば謀反を鎮めて、世の中を平穏にすることができなくなるでしょう。臣を散官として病気療養させてください。群臣でこの処置を疑う者がいれば、臣の上奏文を出して見せ、天子が臣に何も悪意を抱いていなかったことを知らしめていただきますように」と述べ、帝はその至誠を思い、そこで検校司徒・太子太保を授け、宰相を罷免した。鄭凝績を壁州刺史とし、鄭畋を留めて療養させた。龍州に遷り、卒した。年六十三歳。太尉を追贈された。後に帝は鄭畋が忠義に尽力したことを思い起こし、また太傅を追贈した。鄭凝績は数年して卒した。それより以前、李茂貞は博野の下級将校として奉天を防衛し、鄭畋は呼び寄せて自分の麾下に属させ、巡視任務を任せ、厚く礼遇した。李茂貞は自分に栄誉を与えて抜擢してくれたことに感謝し、鄭畋の亡骸が帰還して鄭県に葬られると、上表して諡を文昭とするよう要請した。天復年間(901-904)初頭、李思恭と共に僖宗の廟廷に配饗され、また程宗楚・唐弘夫に官を追贈した。

  鄭畋の人となりは思いやりの心があって度量が深く、佇まいには気品があった。だいたい布衣(庶民)と交わり、貴族であっても少しも変わることがなかった。鄭縠は、鄭薫の子である。鄭畋が宰相になると、抜擢して給事中とし、侍郎にまでなった。怨みをなくした類はこのようであった。黄巣の乱の国難で、最初に軍を率いて賊を破った人物であり、功績は完全なものとはならなかったが、復帰して天子に宰相として仕え、帷幄で戦略を練り、最終的に国を復興させた。


【王鐸伝】
  王鐸は、字は昭範である。宰相の王播の兄弟の子である。会昌年間(841-846)初頭、進士に選ばれて及第し、累進して右補闕・集賢殿直学士に遷った。白敏中に西川節度使の幕府に辟署された。咸通年間(860-874)後半、仕えて次第に著名となり、中書舎人・礼部侍郎を歴任した。採用した才能豊かで実践的な人材は、世間に抜きんでた人材ぶりを称賛された。御史中丞を拝命し、戸部侍郎、判度支となった。咸通十二年(871)、礼部尚書から同中書門下平章事(宰相)に昇進し、門下侍郎・尚書左僕射を加えられ、さらに異例の抜擢により司徒を拝命した。韋保衡は皇帝の寵愛を受けて宰相となっていたが、王鐸のおかげで進士となっていたから、慎んで仕えていた。韋保衡は政権を掌握していたとはいえ、従わない者を大排斥しようとしていたから、王鐸はその動きを嫌って、好き勝手にできないようにし、官人は王鐸を頼りとした。王鐸もまた上疏して辞任を求めたから、そこで検校左僕射によって京師から出されて宣武節度使となった。

  僖宗の即位当初、左僕射として召還された。それより以前、王鐸が宰相になると、制度を整備して、智謀・配慮が周到かつ緻密で、当時の人々の信望を集めていた。河南で反乱軍が蜂起し、天下は挙って王鐸が宰相になるよう望み、また鄭畋もしばしば王鐸の賢人ぶりを申し上げたから、再び門下侍郎・平章事(宰相)を拝命した。乾符六年(879)、反乱軍は江陵を突破したが、宋威は戦果を挙げられず、諸将は情勢をみるだけで進撃せず、天下は大いに震撼した。朝廷で統帥の設置を議論されると、王鐸はそこで自身に諸将を率いさせて反乱軍の鎮圧にあたることを要請した。帝はそこで王鐸を侍中・荊南節度使・諸道行営都統とし、晋国公に封じた。流民を収容し、兵士を募集し、武器・甲冑を整備し、軍備は拡張された。李係は、西平王李晟の孫の一人である。明敏で弁がたち軍事を雄弁に語っていたが、しかし実態がなかった。しかし王鐸は信用し、推挙して将軍とし、精兵を分けて湖南を守備させた。突如として反乱軍が広州を放棄し、軍楽を打ち鳴らしつつ北上すると、李係は敵軍を遠望しただけで戦わずして潰走し、王鐸は軍営を襄陽に退却させた。ここに都統は高駢が代任となり、太子賓客、分司東都に貶された。

  しばらくもしないうちに、召還されて太子少師を拝命し、天子に従って蜀に入り、司徒・門下侍郎・平章事(宰相)を拝命し、侍中を加えられた。再び太子太保によって平章事となった。この当時、討伐の作戦計画はすべて高駢に委ねられたが、高駢自身の地位上昇と外部の混乱により、次第に傲慢となり、軍と止まらせて進軍しなかった。王鐸は王室の危急を憂い、入内して謁見するたびに嗚咽して涙を流し、自ら出征を強く願い出た。その時、中和二年(882)のことであった。そこで検校司徒・中書令によって義成節度使、諸道行営都統となり、判延資庫使・戸部・租庸等使となった。ここに上表して崔安潜を自らの副官とし、鄭昌図・裴贄・裴枢・王摶らは幕府にあって、周岌・王重栄・諸葛爽・康実・安師儒・時溥の六人の節度使を補佐とし、中尉の西門思恭を監軍とし、衛兵および梁・蜀の軍三万を率いて盩厔に立て籠もり、全国に檄文を送った。これより以前、諸将は反乱軍を包囲していたものの、先陣を切ろうとする者がいなかった。王鐸の檄文が到着すると、号令は盛んとなり、士気は大いに高まり、急速に反乱軍を倒そうとしたから、そのため黄巣の戦いはしばしば劣勢となっていった。宦官の田令孜は反乱軍の敗北は必至とみて、功績を自分のものにしたいと思い、帝は王鐸を讒言し、王鐸は罷免されて検校司徒となり、義成軍節度使となって屯営に戻った。王鐸の危機に際してみせた功績は讒言によって奪われたが、それでも反乱軍を追い詰めたのは明らかであった。数か月後、京師が奪還されると、勲功は関東諸鎮の中で第一とされた。中和四年(884)、義昌軍節度使となった。

  王鐸は代々の貴族であり、美しい毛皮を着て馬に乗って出入りし、妾も多かった。魏を通過すると、楽彦禎の子の楽従訓の心の中でこれを自分の者にしようとした。李山甫なる者は、しばしば進士に挙されたが落とされ、魏の幕府に仕え、心の中では人の災難を喜び、また朝廷の大臣を怨んでいたから、楽従訓に対して詭計で教え導き、伏兵によって高鶏泊で掠奪させ、王鐸および家族・部下・吏員・幕僚三百人以上は全員殺害された。朝廷は弱体化しており、その無念を晴らすができず、天下の人々は深く嘆いた。


【附、王鐐伝】
  弟の王鐐は、官を累進して汝州刺史となった。乾符年間(874-879)、王仙芝が来攻すると、王鐐は防衛し、自ら勇士を督戦して別将の董漢勛と共に南門・北門を守備した。城が陥落すると、董漢勛は奮戦の後戦死し、王鐐は韶州司馬に貶された。太子賓客で終わった。


【王徽伝】
  王徽は、字は昭文で、京兆の人である。進士に及第し、校書郎を授けられた。沈詢が判度支となり、徐商が塩鉄使となると、二人とも使府に辟署した。はじめ宣宗が宰相に詔して公主に娶せるべき人物の人選をさせ、ある者が王徽が適任であると報告した。王徽はもとより名声・実利に関心が薄く、このことを聞いたが喜ばず、宰相の劉瑑に面会して、「徽は年四十を過ぎ、また病気がちで、選ばれるべきではありません」と言い、劉瑑もそのように申し上げたから、沙汰止みとなった。令狐綯に従って宣武軍・淮南節度使の掌書記に辟署され、京師に召還されて右拾遺を授けられた。上書すること二十回以上、文言には婉曲さや遠慮がなく、世間あまねく尊崇された。徐商が宰相を罷免され、江陵の長官となると、内心では上表して王徽を幕府に置きたいと思っていたが、王徽が外任を嫌がるのではないかと恐れ、言い出すことができなかった。王徽は自ら徐商のもとに行って、「公は徽のことを知っているでしょう。どうして従わないなんてできましょうか」と言ったから、徐商は大いに喜び、上表して王徽を殿中侍御史とし、節度府判官に辟署した。御史中丞の高湜の推薦によって知雑事となり、考功員外郎に昇進した。慣例では、考課の帳簿では朱註によって上下で殿(最低評価)と最(最高評価)としていたが、年月が経つにつれ朱色が褪せてしまい、役人が改竄して不正する事態となった。王徽は始めて墨を用いたから、遂に不正を根絶した。翰林学士に抜擢された。

  広明元年(880)、盧攜は宰相を罷免され、王徽を戸部侍郎・同中書門下平章事(宰相)とした。この日、黄巣が関中に入り、僖宗は西へと逃亡し、夜をおかして出発した。王徽は崔沆・豆盧彖・僕射の于琮と共に朝になってからそのことを知り、帝の後を追いかけたが及ばず、崖の木陰に堕ちて、賊に捕らえられ、連れ戻され、賊の汚官に就かされようとした。王徽は口がきけないふりをして答えず、むき出しの刃を持った兵士たちが周囲をぐるりと取り囲んで脅したが、ついに動じなかった。賊は邸宅に帰らせ、医者に護衛・監視させた。しばらくして、守衛する者が怠けるようになると、そこで河中に逃走し、縑(かとり)を裂いて文章を書き、人を派遣して間道から蜀へと走った。詔によって兵部尚書・京城四面宣慰催陣使を拝命した。

  昭義軍節度使の高潯は賊と石橋で戦ったが、敗北した。その将軍の劉広は勝手に帰還し、潞州に拠った。別将の孟方立は劉広を殺し、そこで邢州・洺州・磁州の三州を奪取して自分のものとした。昭義軍に隷属しているのは、ただ沢州一州だけであった。帝は兵部侍郎の鄭昌図を潞州の太守に仮任命したが、兵士の心の大半は孟方立に従っていたから、鄭昌図は制御することができなかった。朝議で大臣が鎮撫することとし、そこで王徽に検校尚書左僕射・同中書門下平章事を授け、昭義節度使を領させた。この当時、李克用もまた沢州・潞州、王徽は朝廷の力では軍事力で対抗することができないと見積り、上表して固辞し、詔によって裁可された。改めて諸道租庸供軍使となった。そこで行営都監の楊復光を説得し、沙陀の罪を赦し、国家の危難に赴かせるよう要請した。その夏、沙陀は諸軍と合流し、遂に京師を平定したのは、王徽の助力が大きいものがあった。右僕射に遷った。

  大乱の後、宮殿は焼き払われ、園陵はすべて盗掘され、ただの丘となってしまい、乗輿はまだ東へ帰還する意思はなかった。詔によって王徽を充大明宮留守・京畿安撫制置修奉使とした。王徽は京師の外では兵糧を調達し、京師の中では流民を安撫し、一年ほどで徐々に人々が集まって来て、宮殿を再建し、行なった方策は適切であり、そこで上表文を奉って帝に東への帰還を願い出た。また検校司空・御史大夫に昇進し、権京兆尹となった。権勢のある宦官が競って人を派遣して邸宅を造営し、民衆を侵犯して、訟訴が絶えなかったが、王徽は権勢や寵臣に屈せず、すべて公平に法で対処したから、これによって帝の側近に憎まれ、その郎党の薛𣏌を京兆少尹として、王徽の権力を掣肘しようとした。薛𣏌はちょうど服喪中であったから、王徽は奏上して京兆府への赴任を差し止めた。これに怒った者たちは、共謀して謗って王徽を罷免させ、行在へ出頭させた。まもなく太子少師に任命された。王徽は病気と称して河中に移り、百日たって罷免された。帝は京師に帰還すると、再び以前の職に任じたが、病気と称して朝廷へ拝謁しなかった。宰相はその不平不満ぶりを憎み、集州刺史に貶した。その時、帝は沙陀から避難し、京師から出て宝鶏に行った。帝は王徽に罪がないと思っていたから、吏部尚書に任じ、瑯邪郡侯に封じた。赴任しないうちに嗣襄王李熅が叛乱し、帝は進んで漢中に行った。李熅は無理やり王徽を呼び寄せようとしたが、王徽は体が不自由で役に立たないと言った。李熅が帝位を僭称すると、群臣に迫って誓約書を書かせようとしたが、王徽は手が不自由だとして、ついに署名することをよしとしなかった。李熅が平定されると、帝は鳳翔に到着し、王徽を召還して御史大夫としたが、足が痺れていると言って固辞したから、再度太子少師に任じられた。

  昭宗が即位し、便殿で対面すると、受け答えは完璧であり、帝は宰相に向かって、「王徽の精神気力はなおもしっかりしているから、任用できるぞ」と言い、そこで再び吏部尚書に任じた。この当時、銓選の配置の秩序は失われ、役人が勝手に不正を行い、任命の重復を検証できなかった。王徽は自ら記録を手に取り、すべての実態を確認したから、遂に不正や遅延が解消された。右僕射に昇進した。大順元年(890)卒し、司空を追贈され、諡を貞という。

  系譜によると、その先祖はもと魏の諸公子であるといい、秦が魏を滅ぼすと、漢代になって関中霸陵に移り、もと王家であったから、王氏となった。十世の祖の王羆は、周に仕えて同州刺史となり、死んで咸陽鳳政原に葬られ、子孫はそこで杜陵に住んだ。曾祖父の王択従には、兄弟が四人いて、王易従・王朋従・王言従は、いずれも進士に及第した。鳳閣舎人となった者は三人で、そのため「鳳閣王氏」と号した。これより訖大中年間(847-860)になるまで、進士となった者は十八人、官位が三省・太守となった者は三十人以上であった。王徽は常に名望があったが、宰相に任命されて一日で京師が戦乱となったから、施策に見るべきものがなかった。


【韋昭度伝】
  韋昭度は、字は正紀で、京兆の人である。進士に及第し、華やかな要職を歴任し、累進して中書舎人に遷った。僖宗が西に逃れると、兵部侍郎・翰林学士承旨となって従った。しばらくもしないうちに、同中書門下平章事(宰相)となった。京師に帰還すると、司空を授けられた。再び僖宗が山南に逃れることになり、帰還途中に鳳翔に立ち寄った。李昌符が突如として反乱をおこすと、韋昭度は家族を禁軍に人質とし、共に賊を討伐することを誓ったから、兵士は感動し、そこで李昌符を平定した。太保、兼侍中に遷った。昭宗が即位すると、守中書令となり、岐国公に封ぜられた。

  閬州刺史の王建が陳敬瑄を成都で攻撃すると、韋昭度を西川節度使とした。陳敬瑄は成都に入れなかったから、東川節度使の顧彦朗に詔して王建と共に兵を合流して討伐させ、韋昭度を兼行営招撫使に任じた。そこで軍旗や節を立てて城下に行き、軍を諭して、「いつまでも城に籠ってはならん」と言ったが、陳敬瑄は人を派遣して「鉄券は先帝がお命じになられたことだ。どうして違おうとするのか」と罵り、半年たち、ようやく漢州を陥落させた。王建は韋昭度に偽って、「公は突然の出征で遠くまで出られ、蛮夷の地で山東の兵を率いておられますが、その間、朝廷では有事が続いて制御することができずにいます。これは内臓の病気のようなものです。ただちに帰還して平定すべきです。陳敬瑄なぞ小鬼のようなものです。この建らが責めるので十分でしょう」と言い、韋昭度はこれを信じ、朝廷に帰還を要請した。道半ばで、王建は大軍で剣門を守り、成都を猛攻した。陳敬瑄を捕らえ、自ら留後と称した。韋昭度は罷免されて東都留守となった。

  杜譲能が殺害された後、司徒・門下侍郎となり、再び平章事(宰相)となり、太傅に昇進した。王行瑜が尚書令の地位を求めたが、韋昭度は「太宗はこの官を足掛かりに即位されましたが、後の人臣で再び任命された者はおりません。郭子儀に大功があっても、かつて授けられそうになった時に、固辞して任命を受けませんでした。ましてや王行瑜ごときがなんだというのでしょうか」と建言したから、改めて尚父と号することとなった。王行瑜は怨んだ。李磎が宰相に任用されると、崔昭緯は密かに王行瑜に向かって、「以前、公は尚書令に任命されましたが、韋昭度が取り上げたので不可となりました。今また李磎と強力して、あの悪人は徒党を組み、お上のお耳を惑わせ、また杜太尉の時のようなことになるのではないかと恐れています」と言い、王行瑜はそこで李茂貞と共に何度も上書して朝廷の政治を激しく非難した。韋昭度は恐れ、病気と称し、罷免されて太傅となり、致仕した。王行瑜・李茂貞・韓建は軍を連合して宮殿にやって来て、韋昭度が蜀の討伐に失敗したことを述べて、左遷するよう要請した。返答が到着する前に、王行瑜は韋昭度を都亭駅で捕らえて殺害した。天子はやむを得ず、詔を下して韋昭度の罪を暴いた。王行瑜が誅殺されると、そこで追って官爵を復活させ、その家に埋葬を許し、太尉を追贈された。


【張濬伝】
  張濬は、字は禹川で、もとは河間の人である。性格は奔放で拘泥するところがなく、経書に通暁し、高邁な議論を好み、士や友からは退けられて軽んじられていた。思い通りにならず、そこで粗末な服装で金鳳山に退居し、縦横家の学問を学び、手を広げて政務に参与する時を待った。枢密使の楊復恭が張濬を厚遇し、処士(平民)の身分から張濬を推薦して太常博士とし、昇進して度支員外郎となった。黄巣の乱が勃発すると、病気と称して、母を抱えて商山に逃れた。僖宗が西に逃れると、護衛の兵士への食糧の支給がなく、漢陰県令の李康が糗餌(穀物を炒って粉にし、蒸し固めた携行用乾燥食品)数百駄を献上したから、兵士は支給物に飽きるほどであった。帝は不思議に思い、「お前が準備したのか」と尋ねると、「臣にどうしてこのような知見がありましょうか。張濬が臣に教えたのです」と答えたから、そこで急ぎ張濬を召喚して行在に到着すると、諌議大夫に昇進した。宰相の王鐸が行営都統に任じられると、王鐸の上奏によって都統判官に任じられた。

  当時、王敬武は平盧にいて、軍は最強で、しばしば召喚したが応じなかった。張濬は行って説得したが、王敬武はすでに賊の臣下となっており、使者を出迎えなかった。張濬はそのことを責めて、「公は天子の守藩であり、今使者が詔を持ってやってきたのに、北面平服せずに傲慢な態度をとっている。公は君臣の大義をわきまえていない。どうして役人や民衆の上に立つことができようか」と言うと、王敬武は驚き目をみはって恥じ入って陳謝した。張濬は詔を宣った後、将兵は武器を収めて沈黙した。張濬は将軍・幕僚を召喚して鞠場にやって来て演説し、「忠義の士は利害を見極めるべきだ。黄巣は、塩を商売する者にすぎない。天子を捨てて黄巣の臣下となって、どうやって利益を得るのか。今諸侯の勤王の者は相継いでやってきているが、君らはただ一つの州に拠って動向を見ているが、後に賊が平定されたなら、安住できようか。この時にあたって共に大盗賊を誅殺して天子をお迎えするなら、功名・富貴は背中の後ろに置いていたとしても簡単に手に入れることができる。私は君らが安きを捨てて危うきに陥るのを惜しむのだ」と言うと、諸将は口々に「諌議の言う通りだ」と言い、王敬武はただちに軍を率いて張濬に従って西に向かった。張濬は抜擢されて会軍使となった。賊が平定されると、戸部侍郎、判度支となった。後に僖宗が再び山南に逃れると、同中書門下平章事(宰相)を拝命し、そこで判度支となった。

  張濬は始め楊復恭に従って昇進し、楊復恭が失脚すると、田令孜に鞍替えしたから、楊復恭は張濬を怨んだ。楊復恭が中尉になると、しばしば陥れられた。昭宗が即位すると、楊復恭は擁立の功績を恃んで、人事を専横し、帝も次第に不満に思うようになった。当時、多くの人々が張濬のことを才略があり、よく大計を練ったから、そこで昭宗もまた信任した。かつて国家を治めて安定させる方法を尋ねられると、「兵を強化することにあります。兵を強化すれば、天下が服属します」と答えたから、天子はこれによって軍事的功績をあげることに意欲を燃やした。後に古今の事を論じると、張濬はたちまち、「漢・晋の遠い時代のことを論じるべきではありません。陛下のご年齢は相当で、天からいただいた才能は優れておりますが、宮中では宦官が仙翁し、外では強臣が迫っているので、安んじることができないのです。これは臣が心を痛めて血の涙を流す理由なのです」と答えた。

  この当時、朱全忠は威を関東に振るい、安居受が李克恭を殺害し、潞州と共に朱全忠に帰順した。朱全忠はそこで幽州の李匡威・雲州の赫連鐸と共に上言し、「先帝が梁に行幸する事態に陥ったのは、李克用が朱玫と結託したからです。兵をあげて李克用を誅殺してください。兵を率いて挟撃しましょう」と述べると、帝は文武四品以上に詔して協議した。皆が「王室はまだ安寧ではなく、太原を領有しようとしても、実際には領有できないでしょう」と言うと、張濬は、「先帝の時、さまよって戦乱から逃れたのは、思うに李克用と朱全忠がどちらも勝利を収めなかったからです。そこで弱い方を討伐すれば、両雄の勢力は断たれるでしょう」と強く主張した。帝は、「黄巣を平定した時、李克用の功績は第一であった。今危機に乗じて討伐すれば、天下は我々のことを何というだろうか」と言い、長い間決定しなかった。孔緯は、「張濬は万世にわたる利益について述べています。陛下が考えておられるのは一時の事にすぎません。臣が見たところ、軍が河を渡れば、賊は必ず破れるでしょう。今、軍事費は数年の支出であっても持ちます。お聞き入れいただき、疑いをもたれませんように」と言い、張濬・孔緯は互いの主張を支持したから、帝は出兵を決断し、詔して張濬を河東行営兵馬招討制置使に、京兆尹の孫揆を昭義節度使として副官とし、韓建を供軍使に、朱全忠・李匡威・王鐸を招討使とし、枢密使の駱全諲を行営都監とし、汴の武装兵三千を直属とし、五十二軍を編成し、邠州・寧州・鄜州・夏州の雑虜で合わせて五万であった。帝は酒を安喜楼に設けて餞の宴に臨御し、張濬は酒宴が盛り上がると、涙を流して、「陛下は賊に迫られている。臣は死を賭して排除することを願うのみです」と言うと、楊復恭は不快に思い、中尉らを率いて長楽阪で餞をし、酒を張濬に勧めたが、張濬は盃をあげるのをよしとしなかった。この戦役では張濬は表向き功をなしとげようとしていたが、心の中では楊復恭に妨害されたから含むものがあった。

  これより以前、汴州・華州・邠州・岐州の兵が黄河を渡河して平陽で合流した。汴の将軍の朱崇節はすでに潞州を守備し、張濬は汴の軍勢がそのまま同地を占領することを懸念して、そこで孫揆に兵を分けて潞州への進路を進ませ、宦官の韓帰範に節を持たせて護送して軍に向かわせた。その時、太原の将軍李存孝が潞州を攻略しようとしており、孫揆が長子県に到着すると、李存孝に捕らえられ、汴人もまた城を放棄して撤退した。張濬は陰地関に行き、諸軍は平陽に立て籠もった。李存孝はこれを攻撃し、全軍が大敗し、武器を捨てて逃走した。張濬は軍を収容して夜に逃れたが、明け方になると、軍の大半が失われていた。李存孝は進軍して晋州・絳州・慈州・隰州を攻略し、その勢いは非常に激しかった。張濬は間道から王屋に出て、河清に逃走し、桴で渡河し、麾下はほぼ全滅した。駱全諲は毒薬を飲んで死に、韓建は遁走した。李克用は上書して謝罪したが、その文章は傲慢で、韓帰範に託して上聞してきた。朝廷は震撼し、即日詔を下して張濬を罷免して武昌軍節度使とし、三度貶して繍州司戸参軍とした。朱全忠は張濬のために取り成しを願い出ると、詔によって聴された。張濬はそこで藍田に行って韓建を頼った。韋昭度が死ぬと、再び孔緯を用いて宰相とし、そのため張濬もまた兵部尚書を拝命し、天下租庸使となった。再任用されようとしている時、李克用が上言して、「もし朝に張濬が宰相になれば、夕暮れには軍を率いて参上させていただこう」と述べたから、沙汰止みとなった。

  乾寧年間(894-898)、天下租庸使を罷免され、尚書右僕射を拝命した。上疏して骸骨を乞い(辞職を願い)、尚書左僕射で致仕し、洛陽の長水の別荘に住んだ。自ら世間から隔絶していたとはいえ、朝廷の得失については時々意見を申し述べた。劉季述の乱の際、張濬は徒歩で洛陽に入り、泣いて張全義を諭し、同時に書簡を諸藩鎮に送り、王室の危難を救うための策を求めた。王師範が青州で挙兵すると、張濬を参謀として採用しようとしたが、失敗した。朱全忠が帝を脅して東に遷都しようとすると、張濬はこのことを聞いて、「乗輿が洛陽に遷れば、国家の命運は尽きてしまうだろう」と言った。思うに朱全忠が簒奪しようとしていることを知っていたのだろう。朱全忠は張濬が他の藩鎮の兵と糾合するのではないかと恐れ、張全義に牙将を派遣して盗賊のようにさせて、夜に別荘を包囲して殺害した。その家族百人以上を皆殺しにした。天復二年(902)十二月のことであった。

  それより以前、張濬は普段より永寧県史の葉彦を厚遇しており、葉彦は朱全忠による張濬の殺害計画を知り、張濬の子の張格に告げた。張濬は免れ得ないことを知り、父子で互いに抱き合って泣き、「留まれば二人とも死ぬのなら、お前はここから去って私の子孫を残すにこしたことがない」と言い、張格は拝礼して辞去した。葉彦は兵士三十人を率いて送り、漢水を遡って蜀に入り、後に王建に仕えた。幼子の張播は、間道から淮南に逃れ、楊行密を頼った。当時、楊行密は朝廷からの制書により任命権限を与えられていたが、張播は官吏を任命するたびに、必ず紫極宮の玄宗像の前の机に制誥を置くよう求め、つまりここから辞令が出ることによって、朝廷を忘れない姿勢を示したのである。また家の冤罪を雪ごうと願ったが出来なかった。広陵で終焉を迎えた。


【贊】
  賛にいわく、唐の末期、後継の君主は暗愚かつ凡庸で、天はその徳を長い間汚されていた。小人が朝廷の権力を握り、計画性もなく、主君の命令に背いていた。鄭畋・王鐸のような者はいずれも社稷を支える才能があり、大乱の時代にあっては、天下の先頭に立った。王室を助け支え、ほとんど中興をもたらすところであった。やがて逆臣や宦官につけ込まれ、功業は成就しなかった。張濬は乱を以て乱を止めようとしたが、誤ったその心は道理に背くものであった。ああ、悲しいことだ。


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最終更新:2026年10月01日 01:34
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