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匿名ユーザー

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Beyond the school gate




 ※


 夜。
 お日さまがお出掛けしてから、また帰ってくるまでの時間。
 暗くて、静かで、ちょっと冷たい。それが恐ろしいと震えるひともいるけれど。
 あったかいお布団の中で眠るなら、きっとお昼の疲れを癒すことだってできる。空からはお月さまとお星さま
の優しい光が降り注いで。その下でかえるとか虫とかが熱烈に愛を歌うのだ。
 すてきな時間。そうなのだろうと思う。
 けれど。
 わたしにとって、夜という時間は、ひどく痛みを伴うものだった。
 なぜなら夜は、

 ――罪の時間だからだ
 ――わたしがわたしでなくなる時間だからだ

 ああ、また、
 夜が来る。




 ※


 空をジグソーパズルのように切り分けた謎の光と、唐突な視聴覚のノイズ。
 先刻の異状は一体何だったのだろう?
 足を動かしながら、俺は鞄の底から滅多に使わない携帯電話を引っ張り出す。開閉時の具合とシンプルな外装
が気に入ったという理由で選んだ二つ折り式の携帯電話は、とうに旧型の機種ではあるが過不足ない機能を備え
ている。
 何を差し置いても、家族の安否が気になった。あれが俺だけの幻覚ならばそれに越したことはないが、そうで
ないなら。
 携帯電話は、圏外表示になっていなかった。【メニュー】から【電話帳検索】に飛ぶ。【自宅】で登録してあ
ったはずだから、サ行か。
 見つけた。
 ……こんな事態ではあるが、そのすぐ上に、【先崎閑花(サキザキシズカ)】という記憶にない名前が見えた
ので、俺は速やかに抹消しておく。

(……あのストーカー、また勝手に俺の携帯電話いじりやがったな)

 後輩の後鬼閑花(ごき しずか)とは、昔いろいろあって今もそこそこ親しい間柄であるが、男女としての交
際はきっぱりお断りし続けている。
 俺と同じ名字を名乗っているのは、悪ふざけではなく「私としてはこうなるのが理想なのですが、どうでしょ
うか?」という一種のアピールだろう。
 いじらしいことはいじらしいが、こんなことはさすがに容認しかねた。

(あとで説教だな)

 気を取り直して、今度こそ自宅の番号に掛けることにする。

 ボタンを押しこもうとしたところで、視界の端に構造物が出現。
 ぎょっとして注視すれば、何のことはない、つい先日に錆を落とされた南門の門扉だった。
 携帯電話の操作で手元に集中していたせいで、仁科学園正門に到達したことに気づくのが遅れたのだった。俺
としたことが何たる不覚。
 さておき。

(やはり、学園前にも。別に、おかしなところは)

 ない。ないと思う。
 あんなことがあった直後だけに、俺は気になってしまう。
 普段通りの風景。見ていたって別段面白くもない住宅街を念入りに見渡していき、

「……?」

 何かが、ある?
 街路灯の光をスポットライトとして浮かび上がる影を目撃した俺は、まず漠然とそれを“異様なもの”として
認識した。通学路の異物。たとえばいつの間にか不法投棄されていた堆(うずたか)い粗大ゴミの山であるとか、
そういうものではないかと思ったのだ。
 遠目に見るだけでは形状のディテールは分からないが、全体の印象としては扁平といってよかった。逆光の翳
のためだろう、黒がむやみに濃い。ただしその色は黒ではない。
 その正体を確かめようと俺は目を眇(すが)め、

 ――ぞっとした。

 俺の中に最大の恐怖が呼び覚まされたのは、“それがどうやらひとりでに動いているらしい”ことに気がつい
た瞬間だった。
 これは、何だ? 機械の類い。――違う。
 お前は、誰だ? 猛獣の類い。――違う。
 もっと巨大で得体の知れない、生物だった。
 体長は目測でおよそ三メートル、もちろんこれは先端の尖った八本の歩脚の長さを含めない。貌にずらりと並
んだ四つの単眼の高さが、恐らく俺の腹とほぼ同じ。
 全身燻んだ黄金の肌は、甲虫たちのように鈍い金属光沢を発していた。
 その姿はまるで、

(蜘蛛、なのか……?)

 馬鹿な。
 南米の熱帯雨林に生息するルブロンオオツチグモ、またの名をゴライアスバードイーター。世界最大のクモの
ひとつとされるこの種でも、せいぜい体長一〇センチメートル、脚を含めた全幅でも二〇センチメートルほどの
大きさだ。

 だが、俺の目の前にいるこいつは、ざっと見積もってもその三〇倍もある。
 並の大型哺乳類をも凌駕するこんな図体、節足動物の構造的にも存在が有り得ない。かの有名なタカアシガニ
でも鋏脚を広げてやっと三メートル、それも水中での話である。
 どう考えてもまっとうな生き物ではない。

(――落ち着け、先崎俊輔(さきざき しゅんすけ)……!)

 必要もない知識を引っ張り出して現実逃避している場合か。
 何よりまずその危険性を直視せねばならない。
 この蜘蛛は、今すぐにでも、俺を獲物と見定めて襲い掛かって来るかもしれないのだ!
 遠目にも兇悪極まる蜘蛛の口器は、それが純然たる狩猟者であることを物語っていた。ほとんどの蜘蛛の毒は
哺乳類には効かないが、そんなもの気休めにもならない。牙だけで致命傷となり得る。
 大型種のクモともなれば、時にカエルにトカゲ、ネズミさえ捕食する。このサイズなら、“人食い”など当た
り前のようにやってのけるだろう。
 そして、今の俺はそんな怪物のすぐそばにいる!

(まずいな。これは。どうも)

 彼我の距離は、二〇メートルに満たない。これをクモの体長の六から七倍に相当すると見ると、かなり際どい
気がする。ここまで足音を立て放題だったのが痛い。無表情だから分からないだけで、向こうはとっくにこちら
に気づいて狙いを定めているかもしれないのだ!
 俺は、肺腑と心臓の欲求を捻じ伏せ、息を殺した。
 クモの視力は種によるが、概ねとても低い。ハエトリグモなどの単眼は物体の形を認識できるていどの解像度
を持つというが、それでも別格だ。もとより虫の視覚とは、動体視力に特化して進化してきたからだ。
 クモが最も依存している感覚は、触覚、そして振動覚である。この振動には当然、“音”も含まれる。特に音
を立てた者から見境なしに狩っていく習性を持つものもいる。
 ごちゃごちゃ述べ立てたが、つまりこの場は、“闇雲に逃げ出す”よりは“動かない”ほうがいいかもしれな
いということだ。

 もっとも、人知及ばぬ怪物にそんな安易な手でやりすごせるとは限らない。気休めていどだ。
 一層の警戒を心掛けながら、俺はじっと巨大な蜘蛛の様子を窺う。

「……」
 ――。

 ……眼が合っている、気がした。蜘蛛の無機質な単眼の奥に、こちらを意識しているような不気味な感情が見
え隠れしてはいないか。件の後輩と見つめ合うのと同じくらい、嬉しくないぞ!
 背中にべったりとシャツが貼りつく感触がある。唾液を呑みこんで干上がった喉が鳴ることすら、恐ろしくて
たまらなかった。できることならこのまま後退りたい。まったくの無音で怪物の間合いから離脱するのだ。そん
なことが可能なのか。できっこない。だが、このままでは向こうが俺に興味を持つのも時間の問題だ。

(どうする?)

 恐怖で思考がまとまらない。なんてザマだ。
 雑用で学園を駆けずり回って知ったあれやこれやを思い出して、俺は必死で打開策を練る。
 そんな俺を嘲笑うかのように、蜘蛛は王者の余裕で数歩、街路灯の下から這い出した。




 ※


 最悪のタイミングだった。
 時刻は深夜零時を回っていて、わたしはわたしでなくなっていた。
 目の霞みと耳鳴りに、一瞬だけ意識を奪われて。
 気付いた時には、わたしは“外”にいた。
 見覚えのない街の中だった。
 青い家に黄の窓。痩せ細ったお月さま。団欒の笑い声。近づいて来る誰かの足音。
 どうして? だってわたしは、さっきまで部屋の中にいたのに。
 誰も傷つけることのないように、“無敵”のあのひとだけを見ていられるように。
 なのに。
 目の前には、男のひと。どこかの高校生だろうか、知らない制服。
 わたしでないわたし、あなたは、また、罪を重ねるの?

 ――たすけて……
 ――わたしをとめて……
 ――まもる、さん……




 ※



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