Beyond the school gate
※
(どうりゃいいんだ……これ……)
俺と蜘蛛との運動能力に絶対的な格差が存在するという前提を考えると、まともな鬼ごっこでは勝てない。
頭の中で仁科学園のマップを開く。
俺の現在位置は、校門校舎間を結ぶ煉瓦敷きの大通り。その南門の付近、やや西寄りの地点だ。
南門は校舎から最も遠い。
この大通りには、出会いと別れに花を添える桜の並木がある。さらにその外側は、ちょっとした人工林を挟ん
で、西には広大な第一グラウンド、東にはここから近い順に第二グラウンドとテニスなどの競技専用コートと屋
内外のプール施設が敷き詰められている。
一番近いのは第一グラウンドの北にある体育館だろうが、とうに施錠されているだろう。……籠城戦は立て籠
りの態勢を整える前に食い殺されるのがおちか。
迎撃はもちろん選択肢にも入らない。
頭の中で仁科学園のマップを開く。
俺の現在位置は、校門校舎間を結ぶ煉瓦敷きの大通り。その南門の付近、やや西寄りの地点だ。
南門は校舎から最も遠い。
この大通りには、出会いと別れに花を添える桜の並木がある。さらにその外側は、ちょっとした人工林を挟ん
で、西には広大な第一グラウンド、東にはここから近い順に第二グラウンドとテニスなどの競技専用コートと屋
内外のプール施設が敷き詰められている。
一番近いのは第一グラウンドの北にある体育館だろうが、とうに施錠されているだろう。……籠城戦は立て籠
りの態勢を整える前に食い殺されるのがおちか。
迎撃はもちろん選択肢にも入らない。
(となると)
――俺がそれに反応できなかったのは、愚にもつかない思考にかまけていたからではない。
目など離した覚えなどないのに、気づいた時には既に、蜘蛛の姿が俺の視界から、消え――
目など離した覚えなどないのに、気づいた時には既に、蜘蛛の姿が俺の視界から、消え――
「ッ!!」
あれこれ小賢しく考えていた自分が馬鹿に思えるほどに、その時俺が取った行動は、まったく動物的な脊髄反
射によるものだった。
手にした合成革の学生鞄を、鋭い長槍のような何かが串刺しにしていた! 今思えばそれは、自覚できない瞬
間を生きるもうひとりの俺が、食人鬼への生け贄として差し出したものだったのだろう。
死の長槍の正体が蜘蛛の“爪先”であったことを脳が理解する。交通事故にひやりとするのとは訳が違う。俺
に向けられた明確な害意を察知して、全身の皮膚が粟立つ。
射によるものだった。
手にした合成革の学生鞄を、鋭い長槍のような何かが串刺しにしていた! 今思えばそれは、自覚できない瞬
間を生きるもうひとりの俺が、食人鬼への生け贄として差し出したものだったのだろう。
死の長槍の正体が蜘蛛の“爪先”であったことを脳が理解する。交通事故にひやりとするのとは訳が違う。俺
に向けられた明確な害意を察知して、全身の皮膚が粟立つ。
――蜘蛛の怪物が、ついに俺に牙を剥いたのだ!
驚愕と戦慄で凍結していた思考が、ようやく言語化を果たす。
鞄を捨てて脚のひと振りをどうにか受け流し、俺は我が身を翻して地を蹴る。全身の動きに火事場の馬鹿力が
乗り、今よりもっと前へと懸命に俺自身を押し続ける。
だが、これから逃げ延びるのに、人類の二本足はあまりに遅すぎた。
視界の右端。全力疾走しているはずの俺の背後から、さながら死に神の大鎌のように、するすると一条の鈍色
の槍状が伸びてゆく。
鞄を捨てて脚のひと振りをどうにか受け流し、俺は我が身を翻して地を蹴る。全身の動きに火事場の馬鹿力が
乗り、今よりもっと前へと懸命に俺自身を押し続ける。
だが、これから逃げ延びるのに、人類の二本足はあまりに遅すぎた。
視界の右端。全力疾走しているはずの俺の背後から、さながら死に神の大鎌のように、するすると一条の鈍色
の槍状が伸びてゆく。
――これは、蜘蛛の、前肢だ――!!
理解した瞬間に“俺の体が浮いていた”。大地から引き剥がされ、体重が行き場を失う感覚。
混乱。
前後不覚からどうにか我に返り、状況判断に掛かる。横から薙ぎ倒されたのだとしか思えない。咄嗟に腕を挟
んで胴を庇ったが、そのひ弱な防御ごと巨大質量に吹き飛ばされ、煉瓦敷きの通りの上にどうと倒れた。
混乱。
前後不覚からどうにか我に返り、状況判断に掛かる。横から薙ぎ倒されたのだとしか思えない。咄嗟に腕を挟
んで胴を庇ったが、そのひ弱な防御ごと巨大質量に吹き飛ばされ、煉瓦敷きの通りの上にどうと倒れた。
激痛のあまり絶叫もできない。
「……ちっ……」
……くしょうっ!
俺は悪態を吐きながら、我が身のコンディションをざっとスキャン。重傷と言えるレベルの外傷は負っていな
い。ド素人のわざではあったが、どうにか受け身が間に合った。擦過傷だか摩擦熱だかで肌が焼けついている。
自分の呼吸音が尋常ではなかった。瞼が重い。意識が朦朧とし掛かっている。とんでもなく危険な兆候。
俺は悪態を吐きながら、我が身のコンディションをざっとスキャン。重傷と言えるレベルの外傷は負っていな
い。ド素人のわざではあったが、どうにか受け身が間に合った。擦過傷だか摩擦熱だかで肌が焼けついている。
自分の呼吸音が尋常ではなかった。瞼が重い。意識が朦朧とし掛かっている。とんでもなく危険な兆候。
(これは、だいぶ、まずそうだ)
絶体絶命の状況を、敢えて柔らかく表現してみる。これで少しは気休めにな……らねーよ!
この巨大な蜘蛛のバケモノから逃げ切れる未来のビジョンが、ひとつも頭に浮かんで来ない。
何せ二〇メートルあった隔たりを一瞬にして無に帰し、走る俺の正面に回りこみやがったのだ。一体、どうい
う速さをしていやがる!
昆虫のノミが人間大になれば東京タワーを跳び越えられるという喩え話があるが、現実には百歩譲ってサイズ
を大きくできたとしてもその時には当然体重も跳ね上がってしまうため、飛距離が伸びることはない。だが、こ
いつの身体能力は、まさにそういう仮想の巨大昆虫のそれだ。
先刻の一撃でやられなかっただけでも、もう俺が強運としか言いようがない。
半ば無意識に、うつ伏せの腹を引き摺り、一歩でもこの処刑場から遠ざかろうとする。まるでぶきっちょな爬
虫類にでもなったかのようだな。自分を俯瞰しているもうひとりの自分が喩えて自嘲するが、そんなことしてい
る場合か。
そんなすっとろい逃亡をまさか見過ごしてくれるはずもなく、蜘蛛は俺の腹の下に尖った爪先をすうと差し入
れ、ぞんざいに引っ繰り返した。
カブトムシとの戦いの敗者さながらに、あっけなく横転する。
この巨大な蜘蛛のバケモノから逃げ切れる未来のビジョンが、ひとつも頭に浮かんで来ない。
何せ二〇メートルあった隔たりを一瞬にして無に帰し、走る俺の正面に回りこみやがったのだ。一体、どうい
う速さをしていやがる!
昆虫のノミが人間大になれば東京タワーを跳び越えられるという喩え話があるが、現実には百歩譲ってサイズ
を大きくできたとしてもその時には当然体重も跳ね上がってしまうため、飛距離が伸びることはない。だが、こ
いつの身体能力は、まさにそういう仮想の巨大昆虫のそれだ。
先刻の一撃でやられなかっただけでも、もう俺が強運としか言いようがない。
半ば無意識に、うつ伏せの腹を引き摺り、一歩でもこの処刑場から遠ざかろうとする。まるでぶきっちょな爬
虫類にでもなったかのようだな。自分を俯瞰しているもうひとりの自分が喩えて自嘲するが、そんなことしてい
る場合か。
そんなすっとろい逃亡をまさか見過ごしてくれるはずもなく、蜘蛛は俺の腹の下に尖った爪先をすうと差し入
れ、ぞんざいに引っ繰り返した。
カブトムシとの戦いの敗者さながらに、あっけなく横転する。
「ぐ……うっ!?」
これが肉体的にはともかく、精神的には手痛かった。絶望がひたひたと現実味を帯びてくる。みっともない声
を恥じる余裕すらない。
仰向けに地に伏せたところで、目の前に蜘蛛の貌。いっそさっさと殺してくれと懇願したくなる。
信号機の畸形のような四つの単眼には、むしろ無邪気な子どものそれを思わせる残虐性が浮かぶ。
きちきちと打ち鳴らされる一対の毒牙は、象牙のように大きい。そういえば、クモの食事の作法は、“毒で動
けなくした獲物に消化液を注入し、体外で溶かしたものを吸う”というものだ。この怪物は、それにしてはやけ
に大袈裟な“口腔”を持っているようにも見えるが。
を恥じる余裕すらない。
仰向けに地に伏せたところで、目の前に蜘蛛の貌。いっそさっさと殺してくれと懇願したくなる。
信号機の畸形のような四つの単眼には、むしろ無邪気な子どものそれを思わせる残虐性が浮かぶ。
きちきちと打ち鳴らされる一対の毒牙は、象牙のように大きい。そういえば、クモの食事の作法は、“毒で動
けなくした獲物に消化液を注入し、体外で溶かしたものを吸う”というものだ。この怪物は、それにしてはやけ
に大袈裟な“口腔”を持っているようにも見えるが。
(何だこいつ。ライオンでも丸呑みにできそうじゃないか)
……こんな時に抱く感想としては、我ながら何ともノンキにすぎた。夏休みの自由研究で昆虫を観察する小学
生かお前は。……俺か。セルフツッコミがむなしい。
生かお前は。……俺か。セルフツッコミがむなしい。
蜘蛛は俺に兇相を突きつけたきり、獲物の恐怖や抵抗を愉しみに待つように沈黙した。しかしもちろん、この
まま五体満足で帰す気などないに決まっている。ネコやカラスが小動物をいたぶって遊ぶようなものだ。
まま五体満足で帰す気などないに決まっている。ネコやカラスが小動物をいたぶって遊ぶようなものだ。
――“遊ぶ”?
そこでふと違和感を覚えた。
どうやら俺は、とんでもない思い違いをしてるのではないか?
どうやら俺は、とんでもない思い違いをしてるのではないか?
――“遊ぶ”。考えてみればおかしな話だ。“昆虫やクモは遊戯などしない”
昆虫などは、ある意味では機械じみてさえいる、よほどシステマティックな生き物だ。本能という形に最適化
されたルーチンは融通が利かないが単純明快で合理的だ。
もしも、この蜘蛛が本能のみで動く怪物であるならば、俺は勝機を見出だすこともできず、第一撃によってき
っちり殺されているはずだ。
けれど、俺はまだ死んでいない。麻痺毒の枷を嵌められるでもなく、全力疾走すら可能な体のままで生かされ
ている。何故なら、それがこの蜘蛛の遊びだから。
そこに希望の光を見出す。
そう、こいつは“クモ”ではないのだ。クモに姿がよく似ているだけの、サディスティックなモンスターにす
ぎない。
狂博士の檻から解き放たれた生物兵器であるにせよ、封印を破って里に下りた妖怪変化であるにせよ。これの
正体が、“遊び”に興じるような精神を持つ者であるならば、
されたルーチンは融通が利かないが単純明快で合理的だ。
もしも、この蜘蛛が本能のみで動く怪物であるならば、俺は勝機を見出だすこともできず、第一撃によってき
っちり殺されているはずだ。
けれど、俺はまだ死んでいない。麻痺毒の枷を嵌められるでもなく、全力疾走すら可能な体のままで生かされ
ている。何故なら、それがこの蜘蛛の遊びだから。
そこに希望の光を見出す。
そう、こいつは“クモ”ではないのだ。クモに姿がよく似ているだけの、サディスティックなモンスターにす
ぎない。
狂博士の檻から解き放たれた生物兵器であるにせよ、封印を破って里に下りた妖怪変化であるにせよ。これの
正体が、“遊び”に興じるような精神を持つ者であるならば、
――あるいはそこに付けこむこともできる!
深呼吸ひとつで、俺は歯車を組み換える。
蜘蛛が退屈そうに俺を爪先で小突く。このモラトリアムも、どうやらそう長くはない。
まあどんな目が出るにせよ、このまま賽も振らずにジリ貧になるよりはましだ。ここは、地獄に垂らされたひ
と筋の蜘蛛の糸を手繰るとしよう。
蜘蛛が退屈そうに俺を爪先で小突く。このモラトリアムも、どうやらそう長くはない。
まあどんな目が出るにせよ、このまま賽も振らずにジリ貧になるよりはましだ。ここは、地獄に垂らされたひ
と筋の蜘蛛の糸を手繰るとしよう。
※
同時刻。
私立仁科学園体育館に設えられた大武道場は剣道場の一角。
そこは静謐なる空間だった。あるいは大気の中にぴんと張った一本の弦を想う者もいる。無闇に口を利くこと
の躊躇われる厳粛な空気は、この場で修練を積み重ねた少年剣士たちの魂が染みついたものか。
蒸し暑いという正常な皮膚感覚すら、ここでは緊張のための空寒さの前に制圧されるだろう。
私立仁科学園体育館に設えられた大武道場は剣道場の一角。
そこは静謐なる空間だった。あるいは大気の中にぴんと張った一本の弦を想う者もいる。無闇に口を利くこと
の躊躇われる厳粛な空気は、この場で修練を積み重ねた少年剣士たちの魂が染みついたものか。
蒸し暑いという正常な皮膚感覚すら、ここでは緊張のための空寒さの前に制圧されるだろう。
「ここは」
ぽつりと誰かが発した声が、鋼の線を弾いたように大きな広がりを持って響き渡る。たとえば、青竹を手斧で
割った小気味の良さを伴っていた。
割った小気味の良さを伴っていた。
誰か。今は竹刀を打ちこむ者もなくなって久しい時間帯であるはずだ。
誰だ。ここは扉の施錠を教諭によって確かめられた密室であるはずだ。
無人のはずの仁科学園体育館大武道場に姿を見せた何者かは、精悍な眼差しにひと掴みばかりの困惑を散らし
て呟く。
誰だ。ここは扉の施錠を教諭によって確かめられた密室であるはずだ。
無人のはずの仁科学園体育館大武道場に姿を見せた何者かは、精悍な眼差しにひと掴みばかりの困惑を散らし
て呟く。
「ここは……どこだ?」
青年。
まだ若さの盛りだが、立ち姿には一種達観の境地にあるような落ち着きも窺える。年の頃は二〇代の半ばと見
えた。少なくとも高校生ではない。
着古しのジーンズに縫製のしっかりしたTシャツ。飾らない服装の上からでも、その体が鍛え上げられている
ことが分かった。アスリート、軍人、そういう人種を思わせる。
右手に携えるのは、金属製の棒。およそ七尺に及ぶ長さは、青年の身の丈を上回る。滑らかな痩身には叉も装
飾もない。鋼色が纏う“物質としての確かさ”がその最大の特徴と言えるか。
まだ若さの盛りだが、立ち姿には一種達観の境地にあるような落ち着きも窺える。年の頃は二〇代の半ばと見
えた。少なくとも高校生ではない。
着古しのジーンズに縫製のしっかりしたTシャツ。飾らない服装の上からでも、その体が鍛え上げられている
ことが分かった。アスリート、軍人、そういう人種を思わせる。
右手に携えるのは、金属製の棒。およそ七尺に及ぶ長さは、青年の身の丈を上回る。滑らかな痩身には叉も装
飾もない。鋼色が纏う“物質としての確かさ”がその最大の特徴と言えるか。
――ここはどこだ? 何があった?
青年は今一度、我が身が陥った、わけのわからない事態について考察を試みる。
最後の記憶は夜明け前。ひと仕事を終えて仮眠を執ろうと、自室の床に横たわったところだったはずだ。何か
と身の回りの世話を焼こうとする白狩衣の娘を遠ざけて、何の気兼ねなく体を休めるつもりだった。
最後の記憶は夜明け前。ひと仕事を終えて仮眠を執ろうと、自室の床に横たわったところだったはずだ。何か
と身の回りの世話を焼こうとする白狩衣の娘を遠ざけて、何の気兼ねなく体を休めるつもりだった。
(そこへ、不意に耳のそばで雑音がして跳ね起きた。蠅の羽音に似た微振動)
思い出すだけでも不快になる。あれは何だったのだろう。“そういう音を発するもの”に、心当たりがないで
はない。たとえば、手の金属の棒が粉砕すべき異形のものどものうちの数種であるとか。
はない。たとえば、手の金属の棒が粉砕すべき異形のものどものうちの数種であるとか。
(しかし、あれは異形じゃなかった。
もっと大きなスケールで、根源的な変化があった感じだ。……存外、“またぞろ世界のいくつかでも重なり合
った”か?)
もっと大きなスケールで、根源的な変化があった感じだ。……存外、“またぞろ世界のいくつかでも重なり合
った”か?)
いわゆる“一般人”には理解しかねることを当然のように心のうちに並べてから、青年はのんびりと歩き出し
た。足の先が向かうのは体育館の出入り口だ。錠前はもちろん内側から開けられる。
右肩には重さの頼もしい金属の棒。左手には運よくそばに転がっていた履き物の左右。それが、異世界にやっ
て来た彼の荷物の全てだった。
た。足の先が向かうのは体育館の出入り口だ。錠前はもちろん内側から開けられる。
右肩には重さの頼もしい金属の棒。左手には運よくそばに転がっていた履き物の左右。それが、異世界にやっ
て来た彼の荷物の全てだった。
(ここにいても仕方がない。外に出て状況確認といこう)
うまくすれば仲間と合流できるかもしれない。
磨き上げられた板張りの床を、窓から射しこんだ月光が舐めてゆく。
磨き上げられた板張りの床を、窓から射しこんだ月光が舐めてゆく。
※
蜘蛛の小突く力を利用して立ち上がる。
意表を突き、しかし下手に刺激しないように自然な流れに乗る。俺だって、伊達にどこかの変態少女の不意打
ちハグやちゃっかりキスを躱し続けてきたわけじゃない(伊達とかそういう問題じゃないけど……)。
意表を突き、しかし下手に刺激しないように自然な流れに乗る。俺だって、伊達にどこかの変態少女の不意打
ちハグやちゃっかりキスを躱し続けてきたわけじゃない(伊達とかそういう問題じゃないけど……)。
蜘蛛は出方を窺うように、無機質な目で俺を見ている。……もうクモの視力がどうのこうのなんてことは忘れ
よう。希望的観測としても虫のいい話だ。
よう。希望的観測としても虫のいい話だ。
(逃げ場はひとつ)
人工林以外、有り得ない。
あそこは“林”を名乗るには東西の奥行きが薄いが、木々の間隔がやや狭い。俺なら走ってでも通れるが、目
測した限りあの蜘蛛は体を横にしたって確実に閊(つか)える。もし蜘蛛が、樹木を粉砕してでも獲物を追うな
どというクモらしからぬ発想に至ったとしても、時間稼ぎにはなるだろう。
俺は蜘蛛から目を離さず、摺り足でするすると滑って位置を調整。このまま一動作で人工林に跳びこめるまで
距離を削ることができればいいのだが――
そんな祈りも空しく、蜘蛛の姿がまた掻き消える。
あそこは“林”を名乗るには東西の奥行きが薄いが、木々の間隔がやや狭い。俺なら走ってでも通れるが、目
測した限りあの蜘蛛は体を横にしたって確実に閊(つか)える。もし蜘蛛が、樹木を粉砕してでも獲物を追うな
どというクモらしからぬ発想に至ったとしても、時間稼ぎにはなるだろう。
俺は蜘蛛から目を離さず、摺り足でするすると滑って位置を調整。このまま一動作で人工林に跳びこめるまで
距離を削ることができればいいのだが――
そんな祈りも空しく、蜘蛛の姿がまた掻き消える。
(くそがっ!)
摺り足を止め、俺は目的地に向けて死に物狂いで走った。
蜘蛛は俺の逃走経路を読んで割りこんでいた。もはや瞬間移動というべき速さ。
頭蓋骨を一撃で噛み砕くであろう牙が、ぐいとこれ見よがしに突き出される。ヘビに睨まれたカエルならここ
で全てを諦めるだろう。本能と本能の歯車は噛み合う。
だが!
蜘蛛は俺の逃走経路を読んで割りこんでいた。もはや瞬間移動というべき速さ。
頭蓋骨を一撃で噛み砕くであろう牙が、ぐいとこれ見よがしに突き出される。ヘビに睨まれたカエルならここ
で全てを諦めるだろう。本能と本能の歯車は噛み合う。
だが!
――それがただの“威し”であると見抜く
だから俺は制動ではなく、最加速を掛ける。
蜘蛛が立ち塞がるなら、背中を蹴って跳び越える。体構造上では背中は蜘蛛の爪牙が及び難いはずではあるが、
その反応速度と敏捷性を考えれば勝算などあるわけもない。ここは博打に出るしかない。遊びと遊びの歯車もま
た噛み合うのだと信じて走る。
スニーカーで固めた俺の右足が、蜘蛛の首あたりに着地。
蜘蛛が立ち塞がるなら、背中を蹴って跳び越える。体構造上では背中は蜘蛛の爪牙が及び難いはずではあるが、
その反応速度と敏捷性を考えれば勝算などあるわけもない。ここは博打に出るしかない。遊びと遊びの歯車もま
た噛み合うのだと信じて走る。
スニーカーで固めた俺の右足が、蜘蛛の首あたりに着地。
――踏破――!!
蜘蛛の背中は異様に硬く、反動で足首に痛みすら覚えた。――知ったことか!
(ここだ!)
並ぶ木々のうち、おあつらえ向きの株に目を付け、爪先から蜘蛛の首に全体重を射ち出す。
樹木と樹木の狭間。それが生還への門だ。
制服を削るようにしてすり抜ける。
前転して落下の衝撃を殺し、ひと足先に成功を確信。
数瞬遅れで二本の樹木に巨大蜘蛛が激突していた。
繊維の破砕される轟音に胆が冷える。あるいはそれが蜘蛛の渾身の突進であるならば、強引に木をへし折って
突破できたであろうことは疑いようがない。
だが、“遊び”の体当たりではわずかに足りなかった。
力強い樹幹に弾かれて、蜘蛛はそこを一発で抜けられなかった。
一度足を止めざる得なかった。
樹木と樹木の狭間。それが生還への門だ。
制服を削るようにしてすり抜ける。
前転して落下の衝撃を殺し、ひと足先に成功を確信。
数瞬遅れで二本の樹木に巨大蜘蛛が激突していた。
繊維の破砕される轟音に胆が冷える。あるいはそれが蜘蛛の渾身の突進であるならば、強引に木をへし折って
突破できたであろうことは疑いようがない。
だが、“遊び”の体当たりではわずかに足りなかった。
力強い樹幹に弾かれて、蜘蛛はそこを一発で抜けられなかった。
一度足を止めざる得なかった。
――“一度”。そう、一度で充分
さて。
ここで突進の運動エネルギーの全てを消費してしまったクモはどうするか?
後退して再び体当たりするか、怪力でこじ開けて押し通るか。……どちらもスペックの上ではやってのけそう
ではある。というかやってのけるだろう。
しかし、どちらにせよ、俺はその時間に第二の“門”を潜り抜ければよい。
ここで突進の運動エネルギーの全てを消費してしまったクモはどうするか?
後退して再び体当たりするか、怪力でこじ開けて押し通るか。……どちらもスペックの上ではやってのけそう
ではある。というかやってのけるだろう。
しかし、どちらにせよ、俺はその時間に第二の“門”を潜り抜ければよい。
「どうせ遊ぶなら、もっと真剣にやろうじゃないか。――なぁ?」
背後に投げ掛けた格好つけの台詞は、息も絶え絶えであまり決まっていなかった。
――木を舐めてはいけない
樹木は、セルロースとリグニンによる鉄筋コンクリートにも喩えられる、極めて頑丈な構造体だ。たとえば街
路樹の根本に自動車で突っこんでも、倒壊させることは容易ではない。
それに一口に“木”といっても、重さや堅さといった木質から、展開していく根の形状まで、それらはまった
く多様性に富んだ生き物だ。もし「以前は倒せたから」という怪物なりの学習があっても、種類を見極めずに舐
めて掛かると思わぬ苦闘を強いられることもある。
……まぁ、結果論でうまくいったから、こうして余裕ぶって解説なんぞできているわけなんだが。
余計な考えもそこそこに、俺は人工林を駆け抜ける。
路樹の根本に自動車で突っこんでも、倒壊させることは容易ではない。
それに一口に“木”といっても、重さや堅さといった木質から、展開していく根の形状まで、それらはまった
く多様性に富んだ生き物だ。もし「以前は倒せたから」という怪物なりの学習があっても、種類を見極めずに舐
めて掛かると思わぬ苦闘を強いられることもある。
……まぁ、結果論でうまくいったから、こうして余裕ぶって解説なんぞできているわけなんだが。
余計な考えもそこそこに、俺は人工林を駆け抜ける。
(――閑かだ。いや、あの後輩ではなく)
どうやら、蜘蛛は追って来ていない。何せあれだけの巨体だ、密集した木々の間を通り抜けようとしていれば
物音がないはずがないからだ。まだ、俺を狩り出すことに血眼になってまではいないらしい。
林間の暗がりにまぎれ、俺はひと息吐く。夜の世界でも一層黒々とした木陰に腰を下ろした。血流が、耳の奥
をごんごんと叩いていた。
実のところ、そこまで長距離を移動したわけではない。昼間ならそろそろ進行方向に体育館が見えてくるあた
りだろうか。
このまま蜘蛛が諦めてくれればそれでよし。俺の逃走ルートを予測して迂回するかもしれないが、お生憎だっ
たな、俺はもうしばらくここを動く気はない。
位置を特定されて一帯の木々ごと薙ぎ倒されでもしたら打つ手がないが、俺はその前に学園と官憲に通報すれ
ばいい。錯乱した演技で「イノシシのような強暴な獣に襲われた」とでも言い張れば、警察官も拳銃の一挺くら
いは携行して来てくれるだろう。
物音がないはずがないからだ。まだ、俺を狩り出すことに血眼になってまではいないらしい。
林間の暗がりにまぎれ、俺はひと息吐く。夜の世界でも一層黒々とした木陰に腰を下ろした。血流が、耳の奥
をごんごんと叩いていた。
実のところ、そこまで長距離を移動したわけではない。昼間ならそろそろ進行方向に体育館が見えてくるあた
りだろうか。
このまま蜘蛛が諦めてくれればそれでよし。俺の逃走ルートを予測して迂回するかもしれないが、お生憎だっ
たな、俺はもうしばらくここを動く気はない。
位置を特定されて一帯の木々ごと薙ぎ倒されでもしたら打つ手がないが、俺はその前に学園と官憲に通報すれ
ばいい。錯乱した演技で「イノシシのような強暴な獣に襲われた」とでも言い張れば、警察官も拳銃の一挺くら
いは携行して来てくれるだろう。
(拳銃)
あの戦車じみた怪物を殺すには、あまりに頼りない武器にも思える。
震える手で携帯電話をばちりと開く。今はこれが命綱だ。
光源のディスプレイを直視しないように注意しながら、まず【電話帳】から【私立仁科学園高等部】を呼び出
す。知らずに出歩いた教職員が、翌朝死体となって発見されるなんて事態は避けたい。まずはそちらの安全を確
保するべきだろう。日頃からあちこちで信用を売っておいたから、いきなり狼少年扱いはされないはずだ。
震える手で携帯電話をばちりと開く。今はこれが命綱だ。
光源のディスプレイを直視しないように注意しながら、まず【電話帳】から【私立仁科学園高等部】を呼び出
す。知らずに出歩いた教職員が、翌朝死体となって発見されるなんて事態は避けたい。まずはそちらの安全を確
保するべきだろう。日頃からあちこちで信用を売っておいたから、いきなり狼少年扱いはされないはずだ。
(それにしても、いよいよ大事になってきたものだ)
嘆息しながら、俺は携帯電話を耳に当てる。
――コール音がない
「何っ」
慌ててアンテナのようなアイコンに注目。
電波障害? ――馬鹿な、ここは僻地のトンネルでも何でもないぞ!
藁にすがる思いで一一〇番に掛ける。……やはり繋がらない。
電波障害? ――馬鹿な、ここは僻地のトンネルでも何でもないぞ!
藁にすがる思いで一一〇番に掛ける。……やはり繋がらない。
「まじか」
愕然とする。
悠長に電波の回復を待つか? しかし俺がこのまま一夜を明かすようなことになれば、何も知らずに登校して
きた誰かが食い殺されるかもしれない。そんなのは、俺はごめんだ。
ならば、さらに人工林の中を北上して校舎内に入るか、もしくは西門を抜けるか。いっそ南下してもいいが、
心理的にはもうイヤだ。……どちらにせよ、蜘蛛の居場所が分からないのだから同じっちゃ同じだけど。
悠長に電波の回復を待つか? しかし俺がこのまま一夜を明かすようなことになれば、何も知らずに登校して
きた誰かが食い殺されるかもしれない。そんなのは、俺はごめんだ。
ならば、さらに人工林の中を北上して校舎内に入るか、もしくは西門を抜けるか。いっそ南下してもいいが、
心理的にはもうイヤだ。……どちらにせよ、蜘蛛の居場所が分からないのだから同じっちゃ同じだけど。
(…………)
悩ましい。
悩ましいが、こんなのもはや答えはひとつしかない。
俺は蜘蛛の見えない影に怯えながら、気持ち北北西に針路を取った。
悩ましいが、こんなのもはや答えはひとつしかない。
俺は蜘蛛の見えない影に怯えながら、気持ち北北西に針路を取った。
※