卓上ゲーム板作品スレ 保管庫

第03話

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迷錯鏡鳴 竜の巻・前編



 春が来た。
 短い春休みが終わって、学年が上がり、前とは違う教室に通う。
 どこか新鮮な気持ちになれる。
 桜舞う校門に少しだけ見とれながらも、呼吸を整えて、彼は歩き出した。
 どこか童顔な顔つきを瓶底眼鏡で隠した地味な少年。
 輝明学園秋葉原分校の制服を身に付けて、手には小さな学生カバンが一つ。
 彼の名は藤原 竜之介。

 少々変わった体質を持った少年である。




【龍の巻】




 新学年のクラスはいつでも騒がしい。
 同じクラスになれたことを喜ぶこと、見慣れない顔に恐る恐る話しかけて、気が合う仲間を見つけた時など。
 ホームルームの前の僅かな時間、割り当てられた席に座った竜之介の前に一人の少女が現れた。

「おはよー、竜之介!」

 香椎珠実。
 竜之介の幼馴染でもある少女、新聞部に所属する元気のいい彼女の声に、はぁっと竜之介はため息を吐き出して。

「お前も同じクラスか」
「いいじゃない。ラッキーよ? 結構前の面子とはクラスが違っちゃったけど」
「そうだな」

 竜之介も知らない顔がずいぶんと新しいクラスには多いようだ。
 個性的な顔つきが多いし、髪型や格好なども独自のファッションで決めている奴がちらほらと見えた。
 どこか地味な顔つきの少年が、彼女だろうか? と可愛い顔つきの少女に話しかけられている。
 それと前の方の席に座っているのは――亜門 光明だ。
 ある理由で彼女のことを龍之介は知っていた。
 まあ顔を知っている程度だが、知り合いでもない。

「はぁ」

 こんなクラスで上手くやれていけるのか。
 とある理由で人付き合いが得意ではない龍之介はため息を吐き出した。

「なにため息付いてるの?」
「いや、ちょっとな」

 やれやれとこれからの苦労を考えて、竜之介は机に突っ伏した。



 昨日と同じ今日。
 今日と同じ明日。
 誰もがそう信じている。
 そう、信じていたいからこそ今の今日がある。
 世界は常に危機に晒されていた。
 侵魔、そう呼ばれる異次元からの侵略者達。
 それに抗うもの。
 常識の領域外――魔法を使いこなす存在。
 紅い夜の下で戦い続ける夜闇の魔法使い。
 すなわちナイトウィザード。

 その歴史は一つの変貌を遂げていた。

「ただいまー!」

 新学年初日、その授業を終わらせて竜之介は家に帰宅した。
 古めかしい道場――九天一流拳法の道場、それと隣接した家屋の玄関、ガラガラと音を立てる扉を開いて、家に入った。

「竜之介、帰ったか」

 そこに掛けられた声。
 視線を降ろせば、玄関の脇で丸くなっている三毛猫が一匹。
 あげは。
 そう名乗る猫は人語を喋り、竜之介を見上げていたが、彼は驚きもしないで答える。

「ただいま。爺ちゃんは?」
「竜作老なら出かけているぞ、なにやら親交のあるウィザード組織に顔を出してくるわい。とかいっていたが」

 竜之介の祖父である藤原 竜作のことを老と付けて、どこか古風に呼ぶあげは。

「へえー」

 気の乗らない口調で返事をしながら、竜之介は靴を脱いで、玄関に上がった。
 そんな竜之介の後姿を見ながら、あげはが口を開く。

「興味はないのか?」
「んー。俺にはあまり関係ない話だろー?」
「やれやれ」

 板張りの廊下を歩いていく竜之介の背中を見ながら、あげはははぁっとため息を付いてその後姿を追うと、ぴょいっと歩く竜之介の肩に乗った。

「なんだ?」
「聞け。これは一応お前にも関係のある話なのだからな」
「ん? どういう意味だ」
「先のシャイマール事件、お前も話は聞いてるだろう?」
「ああ」

 竜作から聞かされた話。
 この秋葉原から避難するように言われて、その理由を尋ねた時に竜作から説明されたのだ。
 マジカル・ウォーフェア。
 七つの宝玉を巡る事件。
 その一つを巡る攻防に竜之介も参戦したからこそ分かる。
 そして、そのケリを付けたのがある有名なウィザード――下がる男と以前マユリが言っていた男だということを。
 それによって世界結界が弱体化し、侵魔などが強力になり、そして新種の“冥魔”と呼ばれるものが出現するようになったと聞かされてはいる。

「これは竜作老から聞かされた推測なのだが、竜之介。お前にも招集が掛かるかもしれんぞ」
「へ?」

 一人の身のフリーのウィザード、いや、単なる能力持っているだけの学生をやっているつもりだった竜之介は驚きに声を上げた。
 そんな竜之介の態度に、あげははやれやれと首を横に振った。
 呆れたように。

「仮にも魔王級エミュレイターとの交戦経験があり、しかも宝玉の手助けがあったとはいえ倒したのだぞ? シャイマールの覚醒で熟練のウィザードが数多く失われ、死亡した。今はどの組織も人手不足だと聞く」
「で、それにお鉢が回ってくる、と?」

 どこか信じられないように訊ね返す竜之介。
 彼にはまるで実感がなかった。
 彼は自分の実力を知らない。
 世間から比べればどれだけ重要な、貴重な人材だと見られているのかもしらないのだ。

「魔術教会の長が是非とも。と、お前に誘いを掛けたらしいがな。竜作老が断ったようだ」
「じいちゃんが?」
「未熟者を預けるのは断る! と折檻していたようだ」

 竜之介の不在時、仮面を付けたロンギヌスたちの勧誘があったのをあげはは知っていた。
 それを断った竜作老の立場は危うい。
 魔術協会の長――すなわちロンギヌスの統率者であるアンゼロットからの直々のスカウトを断ったのだ。
 穏やかな外見に比べて、いささか癇癪もちらしいと噂されるアンゼロットからの召喚を断ったのは竜作としても危ういことだったのだろうが、実際のところ孫の身の安全を案じたのだろうとあげは推測している。
 横で「やっぱりそんな理由か~」と肩を落とす竜之介に、あげはは少しだけ笑った。

 お前は愛されているな。

「ん? なんか言ったか、あげは」
「いや、なんでもない」

 あげはは首を振るうと、竜之介の肩から降りて、ぼそりと呟いた。

「そうだ。竜之介」
「ん?」
「竜作老がな、帰ったら組み手をするから道場を掃除しとけ。と言っていたぞ?」
「な、なにぃ! 早く言えよ、そういうことは!!」

 竜之介は慌てて駆け出した。
 万が一帰ってきたときの掃除が終わっていなかったら、組み手と称してぼこぼこにされるのが目に見えていた。
 小さな道場といっても一人でやれば時間が掛かる。
 あげはが手伝ってくれると性格では無いと、既に竜之介は理解していた。

「きがえー! ああ、飯は後回しだ!」

 恐怖の滅多打ちから逃れるために、竜之介は廊下の奥に走り去って、あげははふわぁっと欠伸をするように口を開けた。

 平和だった。
 今日の時点では。


 まだ彼らが立ち向かうべき危機の姿は無い。





 調身、調息、錬気。
 錬気法。
 その基本にして正道。
 姿勢を正すこと、調身。
 練り上げるために、呼吸を乱れなく行うための姿勢。
 呼吸を整え、調息。
 気息を整え、閉息し、息吹を発す。
 忘我の領域に入り、丹田の氣を練り上げる。
 皮膚は血を包み、血は肉を満たし、肉は骨を覆い、骨は筋を整える。
 乱れることなかれ。
 歪めることなかれ。
 違えることなかれ。
 先天の氣を全身の経絡より巡らせる。
 骨格により整えられ、全身に張り巡らされた血管と筋の複合器官によって全身に流す。
 後天の氣を呼吸より取り込む。
 丹田に存在力、すなわちプラーナを練り上げて、丹田に溜め込んでいく。
 二天の氣を混じり合わせて、体中に流し込み、グルグルと流転させながら練り上げる。
 さらに、さらに、さらに。
 己の氣を大地と見立て、外界の氣を天に見立て、天地流動、森羅万象、流れるが如く、激流の如く、或いは清流の如く、流して、練り上げ、整える。
 大地に染み込んだ水は蒸発し、天へと還り、雨となって大地に降り注ぎ、再び地を満たす。
 森羅万象。
 その全てが流転。
 巡り、巡らし、流れる氣の行く先。
 大いなる万物の流れ、それらに器を与え、我らは龍と呼ぶ。
 己の中に万物を内包し、流転させながら、己が森羅万象そのものと目指して、鍛錬を続ける。
 力が満ちる。
 心が満ちる。
 張り裂けそうになる、空気の詰まった風船のように充実し、骨が、肉が、血が、皮膚が軋みだす。
 破裂しそうな血管、整えられ、氣を乗せた血流は轟々と血管の中を荒れ狂い、荒れ狂う。
 それを整えるのが気息。
 荒れ狂う龍を宥めすかし、己の経絡を整え、血流を把握し、呼吸を持って己が五臓六腑を掌握する。
 そうして、ようやく使い手は己が力を振るう資格を得るのだ。

「ふぅ」

 気息を整えながら、氣を巡らせ続けた“少女”が目を見開いた。
 その額には汗が浮かび、全身にびっしりと汗が噴き出していた。
 それは美しい少女だった。
 動きやすい武道着を身に付けた少女。
 色素の抜けた茶髪をツインテールに結い上げて、身動き一つ取らずに道場の真ん中で構えを取ったまま動かない。
 微動だにせずに、静止し続けている。
 時間にして一時間ほどにも渡り続けている。
 ただ規則性のある呼吸を続けて、その度に珠のような汗を流していた。
 運動力学的にはどこにも熱量を生み出すような動作をしていないのにも関わらず、少女の吐く息は熱く、その身から立ち上る陽炎の如き水蒸気はフルマラソンをした陸上選手のようだった。

「……ふむ」

 そして、その様子を見ていた人物が一人居た。
 どこか紫色を帯びた銀髪の女性。
 年齢からすれば二十代半ばぐらいか、長身のふくよかな体つきの女性が涼しげな中華服を身に付けて、佇んでいた。

「練りはそこそこよくなったのぉ。よし、やめていいぞ」

 パンッと女性が手を叩くと、同時に少女が息吹を緩やかに弱めて、ふぅーと己の気息を乱さぬように体中を弛緩させた。

「つか、れたぁ」

 丹田の練り上げを止めて、少女がだらりと息を吐いた。
 練った氣は充足させたまま、へ垂れ込む。
 ここで霧散させるようなことをすれば、横に立つ女性――少女の“祖父”からの叱咤が飛ぶのは明白だったからだ。

「なんじゃだらしない。高々一時間程度の錬気でへこたれるのか」
「無茶言わないでくれよぉ」

 ぐでーと疲れたまま、答える孫の言葉に女性はため息を吐くと――呼吸を整えた。
 調息の息吹、閉息に繋げて、錬気の工程をこなす。
 その呼吸音を聞きつけた瞬間、少女の反応は早かった。

「ちょ、まっ!」

 飛び退ろうと立ち上がる少女――その額が“仰け反った”。
 パンッとデコピンでも食らったかのような姿勢、されど誰も手に触れていない、ただ激痛の呻き声が上がった。

「いったー!!」
「やれやれ、この程度も見切れんのか――龍之介」

 “竜之介”、そう呼ばれた少女に、ピンッと虚空に指を突き出した彼女の祖父――藤原 竜作は呆れたように声を上げた。
 少女――藤原 竜之介。
 女性――藤原 竜作。
 彼女達は“男性”である。
 されど、その姿は歳若き少女であり、妙齢の女性でもあった。
 別段女装をしているわけでもなく、その体は確かめる必要もなくれっきとした女性のもの。
 何故そのような状態なのか?
 それは彼らの一族に大体伝わる特異体質が原因だった。
 彼らが伝える気功武術、九天一流。
 その開祖である一人の女性龍使い。
 その子孫は類稀なる良質のプラーナを保有し、ウィザードを多く排出する家系であったが、開祖の龍使いに何らかの遺伝子欠陥があったのか、それとも外的要因か。
 自身の肉体の心拍数、それが一定以上にまで上がるとその性別を女性へと変質させてしまう呪いじみた体質を持っていたのである。
 故に本来は男である竜之介は自身と同じ年頃のうら若き少女となり、竜作は自身の年齢とは関係ないのか老体の身でありながら若返ったかのように二十代半ばの女性へと変身する。
 竜之介はその特異体質に以前から悩んでいたが、唯一の解決策だったかもしれないとある宝玉を己の意思で手放し、今は諦め半分で過ごしていた。

「ほれ、さっさと立ち上がらんか。組み手をするぞ」
「へーい」

 竜之介は赤くなった額を摩りながら立ち上がると、竜作と対峙するように足場を移動し、構える。
 距離は大体五メートル。
 龍使いならば一足で踏み入り、攻撃を交わせる間合い。
 けれども、竜作はその位置から脚位置を組み替えて、すらりと綺麗に両足を並べて立つと、静かに告げた。

「上達の程度を見てやろう。ほれ、この位置から動かんからかかってこい」

 くいっくいと手の平で誘いながら、その本来の性別と年齢を知らなければ魅了されそうな妖艶な微笑を浮かべる竜作。
 それにカッと来たのは竜之介だった。

「余裕ぶっこきやがって! これでも、魔王級エミュレイター倒したんだぞ!!」

 自惚れではない自信があり、自負がある。
 鍛錬は続けていた。
 一時間もの錬気の果てに、氣は充足している。
 だんっと踵で床を踏み締めると、その反発力でロケットのように竜之介が前に飛び出し――

「ほれ」

 パンッと空気が破裂するような音と共に竜之介の頬が打たれた。
 手の届かぬ位置、そこで竜作が無造作に手を振るった。
 それだけなのに、竜之介の頬には確かな衝撃があった。
 出掛かりを潰されて、僅かによろめきながらも、錬気を練り上げ、さらに踏み込もうとした瞬間。

「立ち直りが遅い」

 竜作の両手が閃き、蝿でも払うかのように大気を叩いた。
 パンッ、パンッ、パンッと見えない太鼓を叩いているかのような音。
 その度に竜之介の体がくの字に曲がり、ベコリと一瞬体に手の平方の陥没が浮かんだ。

「こ、のぉ!」

 気息を発し、神経をさらに過敏化させながら、竜之介が不意に大気に向けて手を打ち込んだ。
 奇しくも同じパンと竜作が音を鳴らした瞬間。
 二つの大気の爆ぜる音に、爆竹のような音が鳴り響き、閉ざされたはずの道場の中で大気が渦巻いた。

「ワシの伏竜に反応したか」

 いつもよりも早く反撃を開始した孫に、嬉しそうに竜作が微笑む。

「はっ! 伊達に毎度殴られてねーよ!」
「ならば、少し本気でいくぞ」

 息吹を発しながら、竜作の手が緩やかに構えられて、その腕の動きはまるで舞いでも踊るかのように優雅に円を描く。

「へ?」
「むんっ!」

 息吹を僅かに発し、練り上げた氣を持って、見極めた大気の打点――道場内の気圧、寒暖差の流動、見えぬほどに細分化された大気を構成する成分を見極め、衝撃を浸透させるのに最適なポイントを見抜き、殴りつける。
 その際に振るわれた脱力した腕はどこか優雅に、インパクトの瞬間引き締まった一撃は苛烈に。
 大気を貫き、僅か数センチの挙動で爆風を生み出した。

「げぇつ!!」

 少女あるまじき呻き声。
 竜之介は感知する。
 大気が歪曲し、衝撃が増幅されたその一撃による衝撃破がまるで巨人の拳のような勢いを持って直前にまで飛び込んできたことに。

「っ!!」

 咄嗟に氣を解放、全身を噴き出す氣の内圧で凝固させ、同時に床を蹴り飛ばし、十字に腕を構えて直撃に備えた。
 全身に叩きこまれる衝撃。
 まるでトラックで撥ねられたかのような重さ。

 ――加減ってものをしらないのか、くそ爺!

 と、内心竜之介が罵り、ビリビリと痺れる両手を苦労して引き剥がすと、空中で体勢を整える。
 すとんっと血流を操作し、流れる勢いを操作しながら、ふわりと重力を感じさせない重みで床に音もなく着地する。

「いってぇえー! ジジイ! 孫がかわいくないのか!」

 ズキズキと鈍痛が走る全身。
 幸い骨までは行っていないようだが、湿布が必須だろう打撲に竜之介が抗議の咆哮を上げた。

「ほほほ、この程度で潰れるなら九天一流など継げないじゃろうて」

 片手を己の唇に当てて、優雅に微笑む竜作。
 その脚は先ほどから一歩も動かず、ただ立ち尽くしていた。

「くそ、今日こそ一発その顔をぶん殴ってやる!!」

 調息、閉息、錬気。
 どこか荒々しく呼吸法の息吹をこなすと、全身からプラーナの輝きを放出させ、龍之介が踏み込む。

「む?」

 それに応えて、竜作が再び大気の打点を打ち抜き、衝撃破を乱射するが、ジグザクに高速移動を繰り返す竜之介には当たらない。
 氣を練り上げて、心臓から走る血流の勢いを強めて、血管の中に流れる僅かな勢いを束ねて増幅し、脚力へと変換している動きはまるで疾風の如し。
 風は風を捉えることなど出来ぬ。
 そう告げるかのように影を残して、揺らめき舞い踊り、十数メートルまで広がっていた間合いを次の瞬間には二メートルにまで潰した。

「ほっ!」

 竜作が目を見開く。
 その様子をほくそ笑みながら、右手を掬い上げるように、練り上げた氣を放出させながら、叫ぶ。

「雷、竜ゥ!」

 練り上げられた氣は電光を放つ雷氣を纏い、殺意すらも篭められていた。
 己の練り上げた内功、全てを注ぎ込むつもりで放った気剄。
 地から天へと放たれるかのような、天地の理を逆転させるかの如き電流の迸りは――

「未熟」

 流麗に伸ばされた指先で受け止められていた。
 たった二本の指、それが放たれる電流を受け止め、切り裂いていた。

「へ?」
「――かっ!」

 タンッと上げていた踵を踏み降ろし、動かずにして放つ震脚から体重が、増幅され練り上げられた桁違いの気功が、迸る電流を呑みこみ、噛み千切る暴龍の如き威力で消し飛ばされた。
 打ち込んだ拳から一転し、弾き飛ばされ、今度こそ体勢も取れずに、ゴロゴロと道場の故に背中から激突し、強制的に肺の中の酸素を吐き出された。

「がっ!! ぐっ、ふっ!!」

 咳き込み、気息が乱れた。
 その瞬間、僅かに残っていた錬気が荒れ狂い、臓腑にビキリと激痛を発せた。

「つっ~」

 気息を整える。
 乱れた経絡を整え、緩やかに、落ち着いて、されど急いで気息を発しながら、痛みを押さえつける。

「まだまだ、じゃな。思い切りはよかったが、気功の練が足りんぞ。見た目こそ派手じゃが、あれでは威力も拡散するわい」

 少しだけ焦げ付いた指先をふっと息で吹き払うと、気息を整えて、練っていた氣を霧散化させた竜作が歩み寄る。
 未だに呻く竜之介の背に優しく手を載せると、その手の平から温かい光を放った。

「無茶しおって。放つのなら制御出来るだけの気功にせんか」
「や、やれると思ったんだけどさ……マジで化け物だな、爺ちゃん」

 気功を用いた回復魔法を受けて、徐々に痛みが和らいでいく。
 気功を放ち、内傷を負うのは未熟である証拠だった。
 上手く散らせず、整えられなかった氣が暴発し、内臓に負担を掛けるのだ。
 未熟なものであれば、神経がズタズタになってもおかしくない。
 それだけ氣を、龍を操ることは命がけな行為なのである。

「ま、しかし――それなりに成長はしたのぉ、竜之介」
「へ?」
「少しだけあの雷竜にはひやりとしたぞ」

 にやりとどこか余裕のある笑み、けれど誇らしげな笑顔を浮かべて、竜作は告げた。

「とりあえず今日の鍛錬はここまで。気息を忘れずに、汗を流してさっさと寝るんじゃな」
「あ、ああ」

 竜之介は髪をかきあげ、額の汗を拭うと、立ち上がり、道場から出ようと足を踏み出した。
 いつもとは違うどこか優しげな態度に首を捻り、竜之介は汗ばんだ武道着に風を送りながら出て行った。
 その背を道場に残る竜作は見届けると、先ほど竜之介の一撃を受け止めた二指を眼前に上げた。
 その第一関節は見る見る間に青白く膨れ上がり、折れていることを鈍痛と共に竜作に伝えている。

「成長したのぉ」

 気息を続け、流れる気で折れた指の気脈を整えながらカラカラと竜作が笑った。
 たった指二本。それだけで防げると確信していた。
 だが、それを上回った竜之介の成長に、祖父たる女性は誇らしげに笑ったのだった。





 流れる。
 裸身の上を熱い液体が流れ、滑り落ちていく。
 珠のような肌の上に熱い液体が流れ、肩から脇へ、脇から腹へ、腹から太ももへと流れ落ち、髪を濡らしたお湯と共に床へと流れる。
 一糸纏わぬ裸身、そこにタライで汲み上げたお湯を被せて、体を清める。
 スリムな体型、程よく膨れ上がった乳房、美の女神が祝福したかのような整った体型。
 見るものが見れば息を飲むような素晴らしい肉体、されどその本人は何も感じずに、ただお湯をかけるたびに染みる痛みに情けない声を上げていた。

「いちち、染みるなぁ」

 未だに性別は戻らず、熱いお湯で心拍数の上がったままの竜之介が女体の裸のまま呟く。
 全身にアザだらけ、風呂から出たら湿布でも張る必要があるだろう。
 丁寧にスポンジで体を擦る。
 いつもならタオルでゴシゴシと体の汚れを落とすのだが、今の体でやると簡単な拷問だ。
 丁寧に、されど手早く泡だらけの体に変えて、再び汲み上げたお湯で流す。
 シャンプーは祖父と共同のものを使う。
 男性でも女性でも使える奴だ、その横にある猫用シャンプーと女性専用のシャンプーはあげは用だから下手に使うと後が怖い。
 シャンプーを二回、リンスを一回。
 浴室に備え付けた鏡を見ながら、両手で揉み解すように洗う。
 女性化すると何故か長くなる髪は洗うのに手間がかかるから、竜之介は嫌いだった。
 普通ならば興奮してもおかしくない女性の裸身、だがそれが自分のものだとすれば途端に興味を失う。
 そもそも子供の頃から見慣れた体に一々欲情が湧くわけがない。
 洗髪を終えれば、後に待つのは入浴だ。
 疲労回復に効く入浴剤を入れたフローラルな香りのする浴槽にゆっくりと細い足を差し込んで、温度を確認しながらゆっくりと全身を沈める。

「ぁ~、効くな~」

 痛い、熱い、けれど気持ちいい。
 プカプカと浮かびそうになる乳房が邪魔だが、それすらもどうでもよくなるほどに疲労が抜けていく。
 極楽、極楽。
 脚なんか組んで、浴槽の外に突き出しながら、仰向けに伸びをした。

「あー生き返る~」

 疲労が溶けていくようだった。
 日本人の心はやはりお風呂だろう。
 心の洗濯。
 これがなくては生きてはいけない。
 最高だった。
 鼻歌なんぞ歌ってしまう。
 ……そんな入浴を三十分ほど続けた頃だろうか。
 そろそろいいかと、竜之介が浴槽から出て、裸のまま浴室から出ようとした瞬間だった。

 ――ズキリと痛みが生じた。

「え?」

 それは言葉にすら出来ない激痛。
 “背より発した焼け付くような痛み”。

「がぁあっ!!」

 思わず転倒する。
 脳内が沸騰しそうなほどの痛み、鋭い痛み、ズキズキと脳神経を焼き焦がす激痛。
 がらがらと音を立てて、竜之介の体が浴槽から半分ほど出た位置で倒れた。

「どうした!?」

 瞬間、ドタバタと廊下から走る音がした。
 浴室に繋がる部屋の扉を開けて、一人のパジャマを着たネコ耳少女が飛び込んでくる。
 人化したあげはだった。

「竜之介!?」
「あ、げは……」

 痛みがある。
 背中が痛い。
 痛い、痛い、痛い。
 斬られたかのような痛みがあった。

「どうし――なんだこれは?」

 竜之介の裸身。
 うつ伏せに倒れた彼女の背中、そこには“一線の巨大な傷跡”があった。
 まるで今そこで斬られたかのような傷跡から、血が流れていた。

「っ、まってろ! 今、止血してやる!!」

 慌てながらあげはが月衣から取り出した化膿止めや包帯などで治療をされながら、竜之介は混沌とした意識の中でまどろむように意識を薄れていく。

 あげはの悲鳴が聞こえたような気がした。

 けれども、どこか眠くて、そのまま竜之介は意識を失った。



 異変は既に始まっていた。







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