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心に一番近い場所

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心に一番近い場所



「―――ずっと、持ってろよ」
「―――ありがとう、蓮司」
 笑みを含んだ声に、はにかんだ声。

 ―――これは、不器用な幼馴染二人の仲が、一歩進んだ日の、お話。



 少年少女達が通いなれた学舎(まなびや)から巣立つ日―――卒業式。
 この日、言葉の綾でもなんでもなく奇跡的に、輝明学園秋葉原分校高等部から巣立った少年が一人。
「あー………卒業したんだなー………」
 その少年は嬉しそうに、本当に嬉しそうに手の中の卒業証書の筒を眺めている。
 彼の名を柊蓮司。幾度も世界を滅亡の危機から救い、しかしその戦果の代償として学生生活を多大に犠牲にし、高校卒業は絶望的といわれていたウィザード。
 彼は元々鋭いはずのその目元を緩めきって、己の悲願を果たした喜びに浸っていた。
「ひーらぎ~? 顔緩みすぎだよ~」
 と、そのしまりのない様子を窘める少女が一人。
 紺を基調とした制服の隣で、一際鮮やかな白い小袖と緋の袴。膝裏に届くまでの黒髪といい、典型的な“巫女さん”姿。
 彼女は赤羽くれは。ウィザードの家系である赤羽神社の長女で、彼女自身ももちろんウィザード。柊とは幼少の頃からの付き合いがある、いわゆる幼馴染である。
 そう―――幼馴染、である。
 かつて“星の巫女”という数奇な運命を背負っていたくれは。彼女が危機に陥る度、柊はまさに命がけで助けてきた。
 世界のためという名目で殺されそうになった彼女を組織の命令を無視して守りながら宇宙に飛び出したり、いきなり出てきた異世界の騎士に半殺しにされながらも攫われた彼女の魂を取り戻しに異世界に行ったり、あまつ魔王に身体を乗っ取られた彼女自身に殺されかけたりして―――その上で、彼女をその数奇な運命から救った。
 これがお伽噺なら、主人公がそこまでして守る相手は、主人公にとって特別な存在であるものである。具体的には想い人とか恋人とか。
 しかし、柊蓮司はこう言い切る。何の裏もなく、本心から。
「幼馴染なんだから当然だろ?」
 ちなみにこの台詞には「仲間なんだから」「友達なんだから」というバリエーションが存在し、そのバリエーションの数以上に命がけで助けた相手―――しかも何故か大半が美少女―――が存在する。
 下心でも何でもなく、「助けたいから」「見捨てたくないから」というだけで命をかけられる彼の姿勢は、ある意味素晴らしいことなのかもしれないが―――助けられた少女達にとっては、たまったものではない。
 物語の騎士のように命がけで助けてくれる相手に、物語の姫君達と同じように惹かれてしまって―――その上で、物語の定石無視したその騎士に「いやいや当然のことしただけだから。じゃ、またな。元気で」とか言われたら、もはや泣くにも泣けない。
 そして、くれはもまた、この定石外れの騎士に惹かれ、やきもきしている一人なのである。―――ただし、彼女が彼に惹かれているのは、彼が命がけで自身を助けてくれる以前からのことであるが。
 そんな彼女にとって“幼馴染”という言葉は、彼との長い絆を象徴する大切なものであるのと同時に、命がけのイベントを乗り越えてまでも“それ以上”になれない現状を突きつける苦いものでもあった。
 一ヶ月前、世界を震撼させた事件の最中で、くれははどさくさ紛れに面と向かって「大好き」とまで言ってしまったというのに―――
 この男は、その言葉にすら「友達として」「仲間として」という要らない枕詞を自分の中で勝手にくっつけて、今日この日までスルーする始末。
 ―――このニブチン―――
 本当に嬉しそうに卒業証書を眺める柊の姿に、思わずその卒業証書にすら嫉妬を覚えそうなくれはである。
 二人は無事に卒業式を終え、もう一人の友人と共に催した『卒業記念の打ち上げパーティー』と称したカラオケ大会に繰り出した、その帰りである。
 午前中から始めたのに結構な時間まではしゃいでしまってため、既に辺りは宵闇に包まれている。くれはの幼馴染は、この状態で女性を一人で帰せるような性格ではなかった。
 もう一人の友人を二人で彼女の新しい住まいに送ってから、二人並んで赤羽神社への道を歩む。
 ―――こういうとこは気が利くのに―――
 思わずくれはは溜息をつく。
 当たり前のようにこういうことをするくせに、自身の行為が相手にどんな感情を齎すか、という点が、すこん、と抜け落ちているのだ、この男は。
 と、でれでれと卒業証書の筒を眺めていた柊が、表情を引き締めて問う。
「―――どうした、くれは。溜息なんかついて」
「………な~んでもぉ~?」
 だから、そういうことに気づくならその理由まで察しろというのに―――よっぽどそう思うくれはである。
 そうか? と鈍い幼馴染は首を傾げつつも案じる視線を投げてくる。その視線がくすぐったくも嬉しくて、同時にもどかしい。
 ―――どうして、わかってくれないかな………―――
 もう一つ溜息。
 わかるように言えばいい、という問題ですらないのだ、この男相手では。
 ストレートに「大好き」と告げてこの始末。くれはとのことを「お似合いですね」なんていわれても、普通に流してしまう。
 ここまで鈍いと、もはや意図的にその可能性を排除して考えられているような―――柊自身がくれはに“そう”思われているという事態を避けているのではないか、と思えてくる。
 ―――それって、脈ないってことだよね―――
 嫌われている、とは思わない。けれど、そういう対象には見れない、といわれているような気分になる。
 ただ、彼の場合、他の誰に対してもそんな感じであるため、単にくれはが思いつめすぎているだけ、という可能性の方が高いが―――それでも、悪い予想、というのは一度思いつくとなかなか消えてくれないものである。
 ―――っていうか、秘密握って振り回す女なんか、普通嫌だよねぇ………―――
 そう思って、思い切り凹む。
 幼い頃から付き合いがある故に知っている柊の秘密、くれははそれを盾に散々彼に無茶を言ってきた。彼が反応を返してくれるのが嬉しくてその秘密をちらつかせることも多々あった。そのことを深く考えたことはなかったが、相手の立場に立って考えてみれば、不快に違いない。
 ―――うぅ………あたしって………―――
 自己嫌悪やら消えてくれない最悪の可能性やらに思わず俯く。と―――
「―――おい、くれは。本当にどうしたんだよ」
 あからさまに様子のおかしいくれはに、柊が真剣な声音で訊いてきた。
「もしかして、具合悪いんじゃねぇのか? どっか痛いのか? 気持ち悪いのか?」
「ち、ちが………」
 表情を見られたくなくて俯いたまま返した声は泣き出す寸前のように震えていて、何かあると言っているようなものだった。
 案の定、柊は案じる色を一向に消さず、
「無理すんな、どっかで適当に休ん―――――」
 そう、言いかけて―――
 柊が突然くれはの手を強く引いた。
 ―――え………!?―――
 視界が真っ暗になり、暖かい感触が身体を包む。突然の事態に真っ白になったくれはの脳内に、高い破砕音と派手な水音がワンテンポ遅れて届いた。
「………つっめてぇ………」
 耳元で聞こえる、幼馴染の呻き声。それと同時に、
「―――すみません、大丈夫ですかっ!?」
 上の方から聞こえる、悲鳴のような謝罪の声。
「うひー、派手に濡れたなぁー。―――くれは、大丈夫か?」
 声と共に、暖かな感触が離れ、視界が回復する。
 目の前には頭から水を被った幼馴染の姿、その足元に色とりどりの花と花瓶のらしい陶器の欠片が散乱している。よく見れば、その茶の髪や肩にも花や破片が引っかかっていた。
「―――え、えと………?」
 事態への理解が追いつかず混乱するくれはの前で、柊は肩や髪に引っかかったものを手で払いながらぼやく。
「あっぶねぇなぁ………普通の人間が振ってきた花瓶頭に食らったら、最悪死ぬぞ」
 その言葉に、くれはは上を見やる。―――くれは達が立っているすぐ脇の建物、その二階の窓が開け放たれていた。
 開け放たれた窓、花瓶の残骸―――
 ―――あそこから、花瓶が落ちてきて………?―――
 引き寄せられた手、抱きしめられた感触。びしょぬれの幼馴染に、殆ど濡れていない自分。
 ―――柊が、庇ってくれた………?―――
 それも―――おそらくは抱きしめるように覆いかぶさって。
 今更ながらに、先程まで自分が感じていた感触が彼の腕だと気づいて―――くれはは真っ赤になって硬直する。
 と、そんなくれはに柊が気づくより早く、脇の建物から人が降りてきた。
 顔色をなくした様子で、花瓶を落としたらしいその女性は柊に声をかける。
「すみません! 怪我は………!?」
「あー、大丈夫。でも気ぃつけてな。次落としたら、誰かが大怪我するかもしれねぇ」
 ウィザードである柊は二階から落ちてきた花瓶を食らったところでたいしたこともないが、一般人(イノセント)はそうはいかない。
「本当にすみません、気をつけますっ。―――あの、あなたは?」
 柊に頭を下げて、女性はくれはにも案じるような声をかける。
「はわっ!?―――だだだ大丈夫ですっ! ええほんと全く!」
 自失から覚めて、くれはは慌てて首を横に振った。女性は安堵したように息を吐く。
「そうですか………よかった。―――あ、でも、服、そのままじゃ………」
 濡鼠状態の柊を見て言う女性に、当の柊ははたはたと手を振ってみせる。
「どうせ家まですぐだし。この程度で風邪引くほどヤワでもねぇしな」
 あ、でも―――と気づいたようにくれはを見る。
「こいつ、ちょっと具合悪いみたいんで、ワビがわりっちゃ何だけど、ちょっと休ませてやってもらえるか?」
「―――はわっ!?」
 忘れかけていた事態に話が逆戻りして、くれはは慌てた。
「あ、はい、どうぞ―――」
「いえ、ほんと大丈夫ですから!―――行くよ柊っ!」
「―――うぉっ!?」
 中へと勧めてくれる女性の声を遮ってくれはは叫ぶようにいい、強引に幼馴染の手を引いてその場から一目散に走り去った。



「―――って、おい! どこまで行く気だお前は!?」
「………はわっ!?」
 幼馴染の制止の声に我に返ると、もう神社の石段の前だった。危うく走りすぎるところだったらしい。
 立ち止まり、ついで抱きつくように掴んでいた幼馴染の腕を慌てて放して、彼から背を向けるように立つ。
「………ったく………ホントどうしたんだ? 何か変だぞ、くれは」
 背後から聞こえる幼馴染の言葉にただ俯く。
「言いたくないなら、無理に言えとはいわねぇけど………俺でよければ聞くぜ?」
 気遣ってくれるその言葉は嬉しくて、でも、胸に渦巻く不安は告げられなくて。
 ―――あんたは、あたしをどう思ってるの? なんて―――
 そんなことを訊いても、いつものように当たり障りなく流されるか―――万一、寧ろ億に一、兆に一だけれど―――この気持ちに気づかれてしまうか。
 気づかれて―――拒絶、されてしまうか―――
 黙りこくるくれはの耳に、困ったような幼馴染の溜息が聞こえた。ついで、濡れた布が擦れる音がして、アスファルトを叩く水音が続く。視線を足元から僅かに後ろに向けると、どうやら脱いだ上着を絞っているらしい様子が見て取れた。
 と―――ぶち、という妙な音。
「―――あ」
 間の抜けた声。思わず振り返ると、気まずいような顔をした柊と目が合う。
「………取れちまった」
 言って、彼は手にした小さいものをくれはに掲げてみせる。それは、制服の袖についている飾りボタン。どうやら、力任せに絞った拍子にちぎれたらしい。
「………あー、もう、何やってんのよ………」
 くれははがっくりと首を項垂れる。一気に脱力した。―――馬鹿馬鹿しくなった、ともいう。
 ―――こんな馬鹿相手に深読みして、悩むのも馬鹿みたい―――
 そう、思ったのである。
「ったく、子供じゃないんだから。っていうか、ボタン取れるほどめいっぱい絞るなんて、生地痛むよ~?」
 言って、その手から制服とボタンを奪う。鞄から小さなソーイングセットを取り出した。
「―――おおっ!?」
「はわっ!? な、何さ柊!?」
 突然声を上げた柊に驚いて、くれはは思わず悲鳴じみた声を返す。
「いや………お前が、裁縫道具なんて女らしいもの持ってるなんて―――ぐはっ!?」
 失礼千万な物言いに、くれはは無言で膝蹴り制裁を加える。―――確かにこのソーイングセットは、先刻まで一緒にいた友人の日用品を買いに行った時にお揃いで買ったもので、一人なら買わなかっただろうものなのだが。
 それでも、袖のボタンをつける程度のことはできる―――はずだ。多分、きっと。
 はなはだ心もとない自信を胸に、石段の一段目に腰掛け、軽く全体を絞ってからぐしゃぐしゃの制服を膝の上で広げる。左右の袖を見比べた。
 ―――取れちゃったのは、左か―――
 そう、思って―――瞬間、くれはは勢いよく立ち上がった。
「―――柊っ!」
「うお何だくれはっ!」
 ようやく膝蹴りから復活した柊が、突然呼ばれて身を竦ませる。
 くれははその彼に駆け寄るように詰め寄って、
「―――このボタン、ちょうだいっ!」
「………はぁっ?」
 完全に予想外の言葉に、柊は目を見開いた。
 くれはは、妙に意気込んだ様子で畳み掛けるように言う。
「よく考えたら卒業したんだからもう着ないじゃない。 だから、別にいいでしょっ?」
「いや、いいけど………どうすんだ、そんなもん?」
 半ば勢いに圧されながらも柊がやっとそう問うと、くれは一瞬息を呑むように言葉を詰まらせて―――
「―――そ、卒業の記念っ!」
「………その制服のボタンがか?」
 訝しげな柊の言葉に、くれはは自分の服装を示して見せる。
「ほらあたし、ずっと巫女服だったから制服持ってないの! だから輝明学園の校章入ってるものって生徒手帳くらいしかなくて………これ、このボタン、校章入ってるでしょうっ?
 ―――だから、記念にちょうだいっ!」
 妙に必死な、不自然に早口での説明に、しかし柊は、なるほど、と頷いた。
「そっか、そういうことなら喜んでやるよ。―――お前、それで元気なかったんだな」
 卒業記念になるようなもんがないから、と柊は安堵したように笑う。
 見当違いの、いつもの彼の勘違い。―――けれど、それすらも今のくれはには気にならない。
「―――ありがとうっ、柊!」
 満面の笑みで言うなり、上着を押し付けるように返し、踵を返して石段を駆け上がる。
 足を止めぬまま、肩越しにちょっと振り返って、
「送るのここまででいいからっ!―――じゃあねっ!」
 鼻歌でも聞こえそうな上機嫌な様子で、階段を駆け上がってく。
「………そんなに、記念欲しかったのか、あいつ」
 ぽつねんと残された柊は、呆然とそう呟いて、
 ―――まあいいか、嬉しそうだから―――
 そう思って、自身も家路についた。



「ただいまー」
「おかえり―――って、何あんたその格好」
 柊が居間に入るなり、そこでくつろいでいた長身の美女が顔をしかめた。
 男物の上下をラフに着こなし、それが様になる女性。―――柊京子、柊の姉である。
 絞ったとはいえ、湿ったままの上着を羽織った柊の姿を、京子は眉をしかめて見る。
「あー、帰る途中で窓から降ってきた水被っちまって」
 花瓶を頭に食らった、とはさすがに言えず、柊はそう答えた。
 その答えに、京子は呆れ顔で冷たく言った。
「原因なんか聞いてないわよ馬鹿。何その格好で平気で居間に入って来てんの、っつってんのよ。カーペット濡れるでしょうが」
「うわひでぇ」
 思わず柊は呻く。―――心配なのは弟じゃなくてカーペットですか。
「ほら、さっさと風呂場行きなさいよ―――って、あら?」
 いいかけて、京子は何かに気づいたように呟く。
「あんた、左袖のボタンどうしたの?」
「うぉ、そんな細かいとこよく気づいたな、姉貴」
 変なところで目敏い姉に柊は軽く目を見開く。
「いいから質問に答えなさいよ」
「………くれはがくれっていうから、やったんだよ」
 冷たく促され、何となく釈然としないものを覚えつつ、素直に答える柊。
 途端、京子はこの上なく目を見開き、信じられないものでも見るように柊を見やった。
「―――えぇっ!?」
「な………なんだよっ!?」
 姉のリアクションに思わず身構えつつ、柊は問う。―――自分は何かまずいことを言ったか。
 京子は搾り出すように一言、
「―――マジ?」
「………んなウソついて何になんだよ?」
 憮然と返せば、京子は打って変わって上機嫌な様子で何度も頷いた。
「なるほどー、ようやっと朴念仁のあんたもくれはちゃんの気持ちに応える気になったわけねー。あー、安心したわー」
 うんうん、と呟く姉に、柊は目を(またた)く。
 ―――気持ち? 応える?―――
「………何の話してんだ?」
 呆然と呟けば、ぴしり、と音を立てて姉の周りの空気が凍った。
「………あんた、今、なんて、言った………?」
 ぎぎ、と堅いしぐさで柊に向き直り、一言一言区切るように問う姉に、柊は眉をしかめつつ、繰り返す。
「何の話してんだ?―――意味、わかんねぇんだけど」
 言い終えた瞬間―――柊の視界に火花が散った。
「―――あんったはぁぁぁぁああああっ! どこまで朴念仁かっ!」
 弟の顔面目掛けて灰皿をぶん投げた京子は、怒り心頭、という様子で叫ぶ。
「―――こ、殺す気かっ!?」
「ああもう本気でいっぺん殺して生まれ変わってやり直して来いって言いたいわよっ!」
 柊の抗議に、京子は凄まじい剣幕で怒鳴った。
 柊はその剣幕に腰を引きつつ、それでも怒鳴り返すように問う。
「何なんだよ、俺が何したってんだ!? くれはがくれっていうから、ボタンあげただけだぞ!?」
「だから、その意味をあんたはわかってないっていってんの―――――ッ!」
 声と共に今度はリモコンが飛んできた。
「うをぁっ!?―――い、意味!?」
 柊は何とかリモコンをキャッチしつつ、問う。
「輝明学園で左袖のボタン、っつったらねぇ、“卒業式の第二ボタン”なのよっ!?」
 怒鳴るように告げられた姉の答えに、
「―――は?」
 柊は一言そう呻いて、完全にフリーズした。



 くれはは、自室で一人、貰ったボタンを眺める。
「………えへへっ」
 思わず顔がにやけて、慌てて引き締める。でも、それもすぐににやけ顔に戻ってしまう。
 ―――ちょっとだまし討ちだけど、いいよね?―――
 そう思って、そのボタンを胸元で大切に握り締める。―――抱きしめるように。
 ―――左袖のボタン………輝明学園の“卒業式の第二ボタン”―――
 “第二ボタン”―――それは、卒業式に女子が好意を持つ男子から貰う、一種のイベントアイテムである。
 本来は、その名の通り前身の上から二番目のボタンのことなのだが、輝明学園では少し変わっていて、左袖のボタン、となっていた。
 そもそも“第二ボタン”がなぜ第二ボタンなのか、はっきりとした由来はわかっていない。しかし、一説に、心臓(ハート)から一番近い場所―――(ハート)に一番近い場所だから、というのがある。
 しかし、その説にのっとると、ブレザーの第二ボタンなどありがたみも何もない。
 そこで、制服がブレザーである輝明学園では、前の第二ボタンではなく、左袖の飾りボタンが“第二ボタン”の意味を持つようになった。
 理由は―――心臓から一番近い脈の場所だから、心臓(ハート)に―――(ハート)に近い場所だ、と誰かが言い出したのが始まりらしい。
 心臓から一番近い脈は残念ながら首で、間違いも甚だしいのだが―――まあ、医学的な正答なんて恋する乙女達には意味を成さない。それっぽければいいのである。
 そんな訳で、輝明学園で“第二ボタン”といえば左袖のボタンのことで、それは―――

 ―――あなたの心に一番近い場所を、あたしに下さい―――

 そういう、意味を持つのだ。
 本来なら、あげた当人がこの意味を知らなければ、本当の意味でその場所を許されたことにはならないだろう。
 けれど―――

 ―――今は、いいよね?―――

 今だけ、彼にまだ、特別な人がいない今だけは―――特別な人が見つかるまでは―――

 ―――あたしが、一番近いって思ってても、いいよね?―――

 もしも、彼に本当に特別な人が出来たその時は―――

 ―――ちゃんと、返すから―――

 それまでは、それまでだけでも、一番近くでいさせて―――



「―――うそだろ?」
 姉の懇切丁寧な説明を正座で聞いた―――聞かされた、柊の第一声がこれだった。―――ちなみに、濡鼠では居間が汚れるという理由で既に着替えさせられており、部屋着姿である。
「んなウソついて何になんのよ」
 奇しくも、先程柊自身が言った言葉で返されて、柊は混乱する。
 ―――左袖のボタンが“第二ボタン”? だって、それは女子が好きな男からもらうもんだろ?―――
 いくら柊でも、“第二ボタン”の意味くらいは知っている。
 だが―――だから、おかしい。なぜそのボタンを、くれはは柊からもらったのか―――もらいたがったのか。
 ―――だって、それじゃあ、まるで、くれはが俺のこと―――
 そこまで考えて、
「―――いやいやいやっ! やっぱありえねぇだろそれっ!?」
 全力で頭を振って柊はその可能性を否定する。
「………なんで、あんたはそこまでしてくれはちゃんの気持ちを否定するわけ」
 こめかみに青筋立てながら、京子は呻く。
「だって、くれはだって、ただ卒業記念に校章の入ったものが欲しいっていってただけだし―――くれはの方が、この話を知らないかもしれないだろ!?」
 なんだかもう必死に―――自分の信じるものを守るように言う弟に、京子は頭痛を覚えた。
 同じ女として、幼い頃から知っている妹のような少女の恋路を応援したいと思っているのに―――当の相手がこの朴念仁の弟なのである。
 可愛いあの少女に妹になってもらいたいから、応援をやめる気はないが―――
「―――くれはちゃん、何だってこんな男を………」
 思わず呟いて―――瞬間、その愚弟が身を乗り出して叫ぶ。
「それ!―――そう思うだろ姉貴だって!」
「………はぁ?」
 眉をしかめて呻くと、愚弟は我が意を得たりと力説する。
「何でくれはが俺なんかを、すっ………きっ、に、なるんだよ! おかしいだろ!?
 姉貴だって散々言ってたじゃねぇか、『お前みたいのは女の子にモテない』って!」
 肝心のワードでどもりながらも、柊は自身の主張を言い切った。
 その渾身の主張に、姉は目をまん丸に見開いて固まる。
 ―――あんた、そんなんじゃ女の子にモテないわよ―――
 京子は確かにそう、よく弟に言っていた。幼い頃、弟が自分に対して生意気に反抗する度に。
 別にモテなくていい、弟は決まってそう返していたが―――まさか、まさか―――
 ―――これが、原因?―――
 京子は愕然と凍りつく。
 三つ子の魂百まで、という言葉がある。幼い頃の性質、習慣や思い込みは一生もので、簡単には変わらない、という言葉。
 この弟は、子供の頃京子が軽口で言っていた『あんたはモテない』という言葉を鵜呑みにし、そこから『自分が異性からそういう風に見られる』という概念をどこかに置き去りにして成長してきてしまったのだ。
 その概念の欠けたフィルターを通して全ての物事を解釈しているから、意味を取り違える。―――言葉が悪いが、歪んだレンズには歪んだ像しか映らないのだ。
 ―――うわぁ………―――
 京子は頭を抱える。―――この場合悪いのは、平気でぽんぽんあんな台詞を吐いた幼い頃の自分か、それを無駄に素直に受け取ってしまった幼い頃の弟か。多分両方だけど。
 ―――ごめん、くれはちゃん―――
 京子は胸中で詫びる。―――ちなみに、彼女が詫びるべき相手は他にもごまんといたりするが、その辺は彼女の知らぬところである。
 なにはともあれ、この弟が失くしてしまった『自分が異性からそういう風に見られる』という概念を取り戻させてやらねば、くれははおろか、他の女子の好意にも気づくことなく、弟は一生独り身だ。
 深く―――深く深呼吸して、京子は口を開いた。
「―――あのねぇ、蓮司」
 真っ直ぐに、弟の目を見て言う。
「あんたはね、そのどうしようもなく女心に鈍いところを除けば、結構いい男なのよ?」
「は………はぁっ!?」
 普段聞きなれぬ姉からの褒め言葉に、柊は固まる。
 京子の方も正直慣れぬ言葉に舌が拒絶反応を起こしかけているが、本心を述べているわけなのだから、と自身に言い聞かせて言葉を続ける。
「背は高いし、顔だって、このあたしの弟なんだから悪いわけないのよ。しょーもなく馬鹿だけど、あんたの馬鹿は、言い換えれば人が()いっていえるタイプだから、長所でもあるの。変に頭回って相手を心理ゲームに嵌める男なんかよりよっぽどいいわ」
 つまり、と指を弟の眼前に突きつけて、言う。
「あんたはね、十分にくれはちゃんの好意に足る男なの! わかった!?」
 そう、告げられた柊は―――
 完全に自身の処理能力を超えた情報を与えられて、フリーズした。



 一晩じっくり考えろ、と自室に放り込まれた柊は、一人混乱していた。
 ―――だって、ありえねぇだろ!?―――
 胸に渦巻くのは、その言葉。
 ずっと幼馴染で、仲間で―――そう過ごしてきて、そんな―――姉が言うような感情の素振りなど、一度だって―――

 ―――本当になかったか?―――

 ぐるぐると渦巻く思考をついて湧き出た言葉。一度その言葉に意識が向くと、一気にいろんな記憶が噴き出してきた。
 ―――幼馴染なんだから、といったら途端に不機嫌になったり、
 ―――他の女子に抱きつかれていたところを、机で殴られそうになったり、

 ―――真っ直ぐに見詰め合って告げられた、あの言葉。

 ―――あたしの大好きな蓮司なら―――

(―――のぁぁぁぁぁぁああああッ!?)
 思わず口をついて出た絶叫を、柊は慌てて枕に顔をうずめて殺す。
 聞いた時には―――否、今の今まで―――ただ仲間として友達としての好意だと思っていて、何でもなかった言葉に―――のた打ち回りたくなるような気恥ずかしさが襲う。

 ―――違うっ! そんなんじゃない! 姉貴が勝手に言ってるだけで、そんなんじゃないっ!―――

 くれは自身から直接そういう意味だと聞いていない以上、そう解釈するのは酷い自惚れのような気がして、柊は自身へ必死にそう言い聞かせる。

 ―――でも、もし、もしも、姉貴の言うとおりだったら―――

 あの幼馴染が、自分をそういう風に思ってくれているとしたら―――

 ―――俺は、一体どうすりゃいいんだっ!?―――

 自分は、彼女をどう思っているのか。

 ―――わかんねぇぇぇぇえええッ!―――

 混乱は極まり、進退も窮まり―――柊蓮司は、完全に思考のドツボにはまっていた。



 卒業式の翌朝、くれはは境内の掃き掃除をしていた。
 それは、高校に通っていた頃から続く彼女の休日の日課で、これからは毎日の日課になるだろう行為である。
 と―――石段の方から人の気配がして視線を向けると、見慣れた姿が上がってくるところだった。
「あ、おはよ~、柊―――はわっ!?」
「………おう………」
 答えた幼馴染の目元にくっきりと浮かんだ隈に、くれはは身を引く。
「………ど、どうしたの!?」
「………ちょっとな………」
 何故だか視線を逸らして答える柊に、くれはは首を傾げる。
「っていうか………こんな朝早くから、何の用?」
 まだ早朝といえる時間だ。こんな時間に訪ねてくるくらいなのだから余程の用だと思い、くれははちょっと身構える。
「いや………そのな………」
 一方、柊の方はといえば―――ろくに寝られず、いてもたってもいられなくて、しかしどうすればいいのかわからず、思わずここに来てしまっただけで―――いきなりくれは本人と顔を合わせて途方にくれていた。
 どうすればいいのか―――何を、どう訊くべきか―――寧ろ、何も訊かない方がいいのか―――悩んで、
「―――昨日の、ボタンのことなんだけどな」
 結局、口をついて出たのはそんな言葉だった。
「………え………?」
 くれはの声に、微かに緊張の色が宿った気がして、けれど、それも自身の方に先入観があるからかもしれないと、あえて無視して柊は続ける。
「姉貴から………ちょっと、妙な話を聞いて。―――その、左袖のボタンの、話」
「―――っ!」
 今度こそ、はっきりとくれはの顔に緊張が走ったのが見えて、柊の方も動揺する。
 けれど、ここまで言って、話を止めるわけにもいかない。
「………卒業記念って言ってたけど………お前は………どういう意味で、あのボタンが、欲しかったんだ………?」
 毒を飲むような心持ちで、訊いて―――
「………ごめん、嘘ついて」
 深く俯いて返されたくれはの言葉は、泣き出す寸前のように震えていた。
「返すね、ボタン―――嫌だったよね、あんな、だまし討ちみたいなの」
「―――待て!」
 取ってくる―――と、踵を返しかけた幼馴染の腕を、柊は咄嗟につかんで止めた。
「なんでそうなる! 別に返せなんていってないだろ!」
 思わずそう叫べば、くれはは一瞬硬直して―――緩やかに振り返る。
「―――え………?」
 顔を上げた彼女は、信じられないようなものでも見るように目を見開いて―――頬を僅かに桜の色に染めていて。
 ―――え………?―――
 何かを期待するような表情に、柊は一瞬理解が追いつかず―――次いで、その意味に気づいて固まった。
 くれはは“だまし討ち”といった。それは、昨日彼女が柊に告げた理由がただの口実で、本当の理由が他にあるということで―――それは、姉の言っていた理由が当たりだったということで。
 それを返すといった彼女を、柊は咄嗟に止めた。それは酷く傷ついた様子の彼女を黙って見送れなかった反射のような行動だったが、客観的に思い返してみれば―――その行動は、くれはにボタンを返すな、といってるのと同じで―――
 つまりは―――“そういう意味”で“第二ボタン”を持ってろ、といっているようなもので。
 ―――俺は何を口走ってんだぁぁぁぁぁぁああッ!?―――
 柊は赤面して内心絶叫する。―――正直、周りからすれば、彼自身に自覚がないだけで柊のこの手の発言は日常茶飯事なのだが。
 ―――何やってんだよ俺自分の気持ちもはっきりしてねぇのに何こんなこと口走ってんだおい!?―――
 しかし、今更自身の発言のやばさに気づいても、それを打ち消す言葉を告げるのは躊躇われる。
 ここでそんな意味じゃなかった、といえば彼女は本当に傷つくだろう。泣くかもしれないし―――そんな考えなしな言葉で傷つけた自分に、本気で嫌気が差すかもしれない。
 今までずっと―――姉の弁によるものだが―――思っていてくれたのに、全く気づかなくて、やっと気づいたと思ったら、そんな考えなしで最低な言葉で平気で傷つける―――
 ―――それこそ、本気で嫌われるんじゃないか?―――
 そう思って、背に氷を落とし込まれたような感覚を柊は覚えた。
 今までずっと一緒にいた。些細な言い合いはしょっちゅう、互いに本気で腹を立てることもあった。それでも、結局はいつの間にかお互い水に流して、いつもの形に戻って。
 だから、本気で互いの仲が拗れること、本気で彼女から嫌われることなど、考えたこともなかった。
 離れることなど考えたことがなくて―――当たり前のように、ずっと傍にいる存在(もの)ように思っていた―――

 ―――ああ、そうか―――

 不意に柊は気づく。
 離れることを考えたことがなかった、ずっと傍にいると思っていた。それに疑問を持つことも、嫌だと思ったこともなかった。
 それは、裏を返せば―――

 ―――俺自身がずっとくれはの傍にいたいって思ってる、ってことじゃねぇか―――

 すとん、と落ち着くところに答えが落ち着いた。そんな感じだった。
 あまりにもあっけなく見つかったその答えに、散々悩んだ昨夜の自分が馬鹿馬鹿しくなって―――思わず、柊は吹き出してしまった。
「………は、はわっ!? 何でいきなり笑うのよー!?」
 自身が笑われたと思ったのか、真っ赤な顔で怒鳴るくれはに、柊は彼女を掴んでいた手を離して静止するように掲げ、
「ち、ちが………悪い、何か俺って、ホントに馬鹿だと思って」
 笑いの発作の合間に切れ切れに告げた。くれははきょとんと目を見開く。
 その表情が余計におかしさを誘って―――ひとしきり笑ってから、柊は、はぁ、と息をつく。
「………何なのよ、もう」
「悪い悪い―――ごめんな」
 憮然と呟く少女に柊は笑いかけながら、その頭を撫でる。
 その笑顔は―――彼自身に自覚はないものの、思わずその笑みを向けられたくれはが頬を染めて硬直するくらいに、ひどく優しくて。

「―――ずっと、持ってろよ」

 その彼女に、そう柊は告げる。今度こそはっきりと、反射的な考えなしな言葉なんかではなく、きちんと自身の気持ちを乗せた言葉で。
「ずっと、持ってろ。お前自身が要らないって思うまで。―――お前自身が要らないって思わない限り、ボタンが壊れても、失くなっても、俺にとってはお前が持ってることになるから」
 形としての証がなくなっても、それと一緒に渡したものはそのままだから―――

「―――ずっと、隣に、いてくれ」

 自分の一番近いところに―――自分の心に一番近い場所に。
 辛くなったり寂しくなったら、入ってきて休んでいいから。自分が馬鹿やりそうになったら、土足で乗り込んで止めてくれていいから。
 ずっと―――この心の横に、寄り添っていてくれ。
 そう―――柊は、告げる。
 その言葉を受けた少女は、この上なく瞳を見開いて―――次の瞬間、花開くように、笑った。

「―――ありがとう、蓮司」

 澄んだ彼女の笑顔は、本当に綺麗で―――ひどく、愛おしいものに、思えて。
 無意識のうちに、柊の宙に浮いていた手が、その頬へと伸びた。
 くれはは一瞬、驚いたように目を見開いて―――はにかむように、目を伏せる。
 柊は、僅かにその背をかがめるようにして、そして―――

 そして―――



 くれはの五つ下の弟である青葉は、母に姉を呼んでくるよう言われて、一人境内を歩いていた。
 石段の方に向かっていくと、遠目に、姉の姿と、こんな時間に来るのは珍しいその幼馴染である青年の姿もあった。
 青葉は、彼のことを本当の兄のように慕っていたから、思いがけず彼を見かけたことが嬉しくて、駆け寄りながら大声で声をかけた。
「―――蓮兄ちゃん!」
 瞬間、二人の身体がびくりと震え―――そこでようやく、青葉は二人の姿勢に気がついた。
 姉の頬に添えられた青年の手、不自然に近い二人の位置。
 それは、どう見ても―――まだ色恋沙汰には縁遠い年頃の青葉にも、そうとはっきりとわかるほど―――口付けを交わす寸前のラブシーンに他ならなくて。
「―――え………あ………その………お邪魔しましたっ!」
 いたたまれないやら恥ずかしいやら申し訳ないやらで、真っ赤になって叫び、青葉は踵を返して逃げ出した。
「―――あ………青葉ぁぁぁぁぁぁぁあああッ!」
 硬直から脱したくれはが、真っ赤になって絶叫しながら、弟の背を追って走り出す。
 ばたばたと神社の境内に相応しくない足音が二つ、遠ざかって行くのを聞きながら、柊はその場にがくりと膝をつく。
 普通の男子であれば、いいところを台無しにされた落胆のポーズ、というところなのだが―――当然のように、柊蓮司はその普通の規格には当てはまらなかった。
 ―――今俺は何しようとしたんだおいいくら早朝で人気がないにしたっていつ人が来るか知れないところであんなことをああおばさんごめんなさいどうしようもう会わせる顔がねぇよ―――
 頭を抱えて自責と自戒と悔恨の念を掻き立てられている様は―――到底、今年十九になる若者のものではない。

 まあ、何はともあれ―――

 一歩進んだ、二人の関係。けれど、次の一歩までの道のりは―――果てしなく、厳しそうである。





終わり

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