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第02話

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柊蓮司攻略作戦・エリスの場合 第02話



 左手を振り上げたときには頭の中が真っ白で。
 思い切り柊先輩の頬を張ってしまったときでさえ、自分がなにをしたのかよくわかっていなくって。
 ぱしん、と小気味いい音が、私の手のひらと柊先輩の右頬の間で鳴った後。
 先輩のお家の玄関前で転ぶよりも。勢いあまって私の身体の上に飛び込んだ先輩にのしかかられるよりも。起き上がろうとして先輩に、む………………む、ねを………………触られたこと、よりも………。
 私は、もっともっと―――恥ずかしい思いをする羽目になっちゃったんです。
(ど、どうしよう………先輩、叩いちゃった………)
 先輩には悪気なんてなかったのに。事故だったのに。わたし、思いっきり先輩に平手打ちを食らわせちゃったんです。
 心臓が早鐘のように高鳴って、私の顔に向かって血液を逆流させるかのようにとくんとくんと脈打ちます。鼓動ひとつで顔に血が昇って、みるみるうちに真っ赤になっていくのが自分でもはっきりとわかっちゃいます。
 熱い。ほっぺが熱い。たぶん、茹でダコならぬ『茹でエリス』になっちゃってるんじゃないでしょうか………?
 だって、顔に昇った血が熱すぎて、目の前がくらくらしてきちゃうくらいなんですもの!
 だから、柊先輩が起き上がってあぐらをかいたままの姿勢で私に両手を合わせるまで、私はなにを喋ったらいいのかもわからなくなって。ただ、赤面したまま口をパクパクさせていたんです。
「エリスっ、すまんっ! 悪気はなかったんだっ! こ、この通りっ!」
 パン、と両の手のひらを打ち合わせ、まるで拝むような格好の柊先輩が、私に向かって頭を下げたとき。
 ようやく私は我に返りました。
 そして―――ああ、私、なんてことをしてしまったんだろう、って………。自分が情けなくて、もっと恥ずかしくなっちゃいました。なにも悪いことしてない柊先輩を謝らせちゃうなんて、私、すごく申し訳なくて。
 ああ………穴があったら入りたいです………。
「先輩、あ、頭を上げてくださいっ。私こそスイマセン、た、叩いちゃってっ。先輩、そんなつもりじゃなかったのに、私、つい手を出しちゃってっ。本当にスイマセンっ」
 もう泣きそうです………。ただ会いたくて来ただけなのに、ひょんなアクシデントでこんなことになっちゃうなんて。
 恐縮して、真っ赤になって小さくなる私に、だけど柊先輩は温かい声をかけてくれて。
「そ、そーんなこと気にすんなって、エリスっ。俺は全然痛くなんかないからさっ、なっ!?」
 自分のほっぺを指差しながら、柊先輩が一生懸命私にそう言ってくれます。私が叩いちゃった先輩の頬―――普通なら叩かれて赤くなっているはずの箇所は、始めからなんでもなかったというくらい、本当になんでもなくって。
 あ―――月衣(かぐや)―――。
 いまの私にはもうなくなってしまった“それ”の存在を思い出し、私は少しだけホッとしました。
 ウィザードである柊先輩の身を護る個人結界。常識や科学の概念で造られた武器や攻撃を、防いでくれるもの。
 だから、ただの女の子の平手打ちなんて、それこそ痛くも痒くもなかったに違いないはずです。
 だけど、そんなことじゃないんです。痛くなかったからいい、とかそういう問題じゃなくて。
(私の馬鹿………)
 赤面して発熱したように熱い顔。目尻の辺りに、それとは別の熱さがじわりと湧いてきて。
 えっ!? と思う暇もなく、それはじわじわと大きくなっていき。あっという間に、全然考えてもいなかったのに、私の目からぽたぽたと勝手に溢れて零れて流れ出してしまったんです。
「うおっ!? エ、エリスっ!? いったいどうしだばらごぼべらっ!?」
 あんまり突然に泣き出した私に、柊先輩が仰け反って―――私にかけてくれようとした気遣いの言葉は、不明瞭な濁音となって遠ざかっていきました。げしっ、というか、どしっ、というか、とにかくそんな鈍い音がして、涙でにじんだ私の目にははっきりとは見えませんでしたけど、なんだか柊先輩が突き飛ばされてごろごろとマンションの扉の向こうへ転がっていったように見えたのでした。
「どきな、馬鹿蓮司っ! あーあー、ごめん、ごめん。うちの馬鹿がごめんね、ホントに」
 そう言いながら駆け寄ってきてくれた女の人―――後で紹介されたんですけど、先輩のお姉さんで京子さん―――が、手に持っていたはずのすりこぎ棒を、いつの間にか丁寧に四つ折りで畳まれたグレーのハンカチに変えて、ふわりと私の肩に手を回し。よしよし、って私の身体をまるで小さい子をあやすように抱え込みながら、ハンカチで涙を拭ってくれました。
「ご、ごめんなさい、私、なんで泣いて………あれ………ほんと、やだ、違うのに………」
「びっくりさせちゃったんだねー。あー、もう泣かないで大丈夫。後で、きっちりあの馬鹿シメとくからさ」
 私の髪を撫でる手がすごく優しい。拭い去られた涙のベールが取り払われると、柔らかい微笑みにぶつかって。
 切れ長のシャープな印象のある瞳が、笑うとすごく温かい。後で考えてみたら、「あ、やっぱりそういうところが柊先輩とすごく似てる」って、なんだか不思議と納得できたっけ。
 でも………どうやって柊先輩をあんなに遠くまで転がしちゃうほど………?
 頭にふと浮かんだ疑問を考え込む私に、
「はいっ、これで大丈夫。やっぱり女の子はいつでも笑ってなきゃね」
 私の肩を抱いたまま立ち上がらせてくれて、にかっ、と破顔一笑。うん。思ったとおり、柊先輩とイメージがすごく重なる。
「すいません………お手数かけます………」
「いいよ、別にこんなことくらい。ところで、さ。あなた誰?」
 あ―――そういえば自己紹介もまだしていなかったんだ―――。もう、今日の私、最悪です………。
「あ、す、すいませんっ。私、志宝エリスといいます。輝明学園三年、柊先輩のこ、後輩ですっ。いつも柊先輩には本当にお世話になってますっ」
 ぺこり、と頭を下げてお辞儀。じ、自己紹介、これで大丈夫かな。もう、これ以上失敗したくなんかない私は、ついつい余計な心配までしてしまいます。女の人―――京子さんが目を丸くして私に笑いかけ。
「へー。ま、そのカッコ見れば輝明の生徒ってのはわかるけど。だけど、あの蓮司に世話に、ね~。ほほ~」
 物珍しそうに私を頭から爪先まで観察するような視線。
 な、なんだか恥ずかしい………。
「あはは、ごめんごめん。あたしも大概失礼だね。いや、珍しくってさ、女の子が蓮司をキチンと訪ねてくるなんて」
 他は大抵、ベランダからいきなり押しかけてきたりいつのまにか蓮司の部屋に忍び込んでたりとか、常識外れなのが多くてさ、と笑いながら京子さん。
「ま、上がってよ。お詫びもかねてお茶しよっか。私は柊京子。あの馬鹿の、まあ認めたくはないんだけど実の姉」
「そりゃどういう意味だ、おいっ!?」
 遠くから柊先輩の怒鳴り声が聞こえてきます。
「言葉通りの意味よ。起き上がったんならお茶の用意をさっさとするっ! 戸棚の一番上にあるやつ出していいから」
 京子さんのまくし立てるような言葉に、柊先輩は不満そうな顔をしつつもキッチン(があるらしい方)へと、のそのそと歩いていきます。
「さ、上がって上がって。えーと、エリスちゃん、って呼んじゃうけど?」
 背の高い京子さんに、上から覗き込まれる。細められた目が悪戯っぽく笑っていました。
「はいっ、もちろんどうぞっ。よ、よろしくお願いしますっ」
 なんだか緊張が一気にほぐれていく。こういう人をほっとさせる雰囲気は、姉弟共通といったところなんでしょうか。
 私、京子さんのこと、会ったばかりなのにすごく好きになれそうです!
「こちらこそ。それじゃ、さっそく上がって。たいしたモンはないけど、ま、お詫びとお近づきのしるしってことで」
 京子さんにともなわれて先輩のお家へとお邪魔します。
 なんだかいろいろあったけど、柊先輩お宅訪問、第一関門クリア………かな………?




 柊家、居間。
 姉弟の二人で暮らしていくには十分な、というか広すぎるきらいのあるなかなかのマンションである。
 さすがに以前エリスが暮らしていたような、秋葉原一等地の高級マンションというわけにはいかないが、居間とキッチン、バス、トイレの他に、姉弟それぞれの個室だけでなく、急な来客にも対応できる客室と空き部屋がひとつ、きちんとあるのだから決して狭いとはいえない。エリスが通されたリビングも、ゆうに十畳は越える広さがあり、さきほどまで柊が自堕落に寝そべっていたせんべい布団を片付けた後には、随分とすっきりとした感がある。
 柊にお茶とお茶菓子の用意を命じておいて、京子はエリスと差し向かいに座り、他愛もないお喋りに興じていた。
 部活はなにやってるの? そっか、くれはちゃんの後輩なんだ。部員集め大変なの? 頑張ってね。
 学校はどう? もう受験生だもんね。大丈夫よ、エリスちゃん賢そうな顔してるもの。ほら、うちの蓮司と違って。

「なんか言ったかっ!?」

 キッチンから柊の怒鳴り声。あらら、聞こえてたか。さざめくように笑いあう二人。
「それにしても、ったく。アイツ三人分のお茶用意するのにどんだけ時間かけてるんだろうね。ちょっと、見てくるわ。席外すけど、ごめんね」
 笑顔でどうぞお気遣いなく、と返しエリスが京子の背中を見送る。背を向けたままエリスに手をひらひらと振って見せた京子が、キッチンへと足を運んだ。そこには、ガスコンロの前で腕組みしながら難しい顔をしている愚弟の姿が見える。
「おー、わざわざこなくても茶ぐらい淹れられるぞ。そんなに待たせてねえだ………うおっ!?」
 背後からの京子の気配を感じとった柊が、振り返りざま奇声を上げる。首根っこをぐわし、と京子につかまれたかと思うと、そのまま無理矢理体勢を崩されて、ヘッドロックをかけられた。
「こ、今度はなんだよ、姉貴っ………い、痛ぇえっ!?」
 抗議する柊のこめかみをぐいぐいと締め上げる京子であった。
「蓮司~。アンタってヤツは~。どういうことよあの娘~」
「ど、どういうって、後輩の………ぐえっ!?」
「いい娘じゃない。すごくいい娘じゃないの。よりによって私のいるときに………あ~、どうすればいいのよ、私」
 煩悶しながら、ぐいんぐいんと柊を振り回す。腕の中で弟がぐえぇぇぇ、と悲鳴を上げていることなどお構いなしであった。
 くれはちゃんとの仲を弟に問いただした途端に、物凄い伏兵が登場した―――京子の率直な感想である。
 京子は常々、進展しないくれはと弟の仲をやきもきしながら見守っていたのである。
 なにかと弟のことを気にかけてくれる幼馴染み。由緒正しい神社の娘。普段から巫女服姿を見慣れているせいもあるのだろうが、どこへ出しても恥ずかしくない、いまどき珍しい大和撫子的外見。しかも美少女。とびっきりの。
 うちの愚弟にここまで長く付き合ってくれるだけでも表彰ものだ。それに、京子の女の勘は―――くれはが柊のことをまんざらでもなく見ているような、そんな気がするのである。蓮司には勿体ない、いい娘であると思う。
 くれはちゃん可愛いし、いい娘だし、ウチの蓮司と上手くいってくれればいいな、というのが京子の本音。
 世の男どもなど、よりどりみどりであろうに、なぜか柊なんぞを憎からず思っているふしがある。
 問題なのは、当の柊本人にそういう自覚が微塵もないこと。くれはのことを大事に思っていることぐらいは分かるのだが、それが「女の子」としてのくれはというよりも、「友人」や「幼馴染み」としての彼女しか見えていないのではなかろうか、と。
 その苛立ちが蓄積した挙句、さきほどの弟との問答、騒動につながるのである。
 しかし、ここへきてまさかの伏兵登場!
 それが、志宝エリスなのである。
 逃げる柊を追いかけて扉を開けた瞬間。目を丸くしてこちらを見つめていたエリスの姿を目の当たりにしたときの、京子の第一印象は―――「アラ、可愛い娘」、なのであった。
 綺麗なショートカットの青い髪。カチューシャに大きなリボン。瞳がパッチリ大きくて、でも身体はちっちゃくて華奢で。
 自分が長身で大柄なせいかどうかはしらないが、京子はこういう小柄で可愛い娘を見ると無性に猫可愛がりしたくなる。
 聞けば弟の後輩で、あのバカを奇特にも訪ねてきてくれたという。お茶の用事を言いつけて邪魔者を遠ざけた上で、エリスと色々お喋りをしているうちに―――京子はこの志宝エリスという少女を、無茶苦茶気に入ってしまったのだった。
 しかも、エリスの言葉の端々から窺えるのは―――この娘、もしかして蓮司のことを好きなんじゃ………? と、まさしくそのことなのである。
 学校や部活のことを話していたのに、いつの間にか「柊先輩は」、「柊先輩が」となぜか話が逸れていく。
 そして柊のことを話すとなると、実に嬉しそうな目をして、口元がほころんでいく。それでもって、時々さっ、と頬を薄く染めちゃったりなんかするところがまた、なんとも初々しくてキュートなのだ。
 だからこそ、「どうすればいいのよ、私」という京子の懊悩に繋がってくるのである。
 くれはちゃんはもちろんいい娘だ。
 もし本当に蓮司のことを想ってくれているのなら、全身全霊をかけて応援してあげたいと思う。
 だけど、エリスちゃんも負けず劣らずいい娘なのだ。
 それこそ、幼馴染みというくれはのアドバンテージをものともしないくらいの、いい娘っぷりなのである。
 でも、こっそり応援してきたくれは、そして急遽現れたエリスの二人を天秤にかけるのは非常に心苦しいではないか。
 こんないい娘が二人も、どうしてうちの愚弟のことを好いてくれているのか。身内のことだから実はそれは大変に喜ばしいことなのだが、よりにもよってこの弟は―――多分エリスのことも同様に、「後輩」としか見ていないのであろう。
 そのことが、京子は歯痒くて仕方がない。
「おい、姉貴、放せ、沸いてるっ、沸いてるっ!」
 腕の中でもがく柊の声にハッとする。ガスコンロの上で、ヤカンが白い湯気を立てていた。
「ホラ、すぐ用意して持ってくから、姉貴は戻ってろよ。エリスもひとりじゃ落ち着かねえだろ」
 柊が、犬猫でも追い払うかのような仕草で手を振りながらそう言った。
 結構見逃されてしまいがちなのだが、こういうところ―――さりげなくエリスのことを気遣っているところ―――が、実は彼の美徳のうちでもある。それはとてもわかりづらくて、彼と付き合いが浅い、または彼のことをよく見ていないものにはきっと通じない美徳なのだ。でも、柊の一挙手一投足、一言半句を注視し、深く彼に接したものは―――多分、そのことに目を開かれる。柊蓮司という男の不器用な心配りや、根底に根ざした大らかさ、優しさに気がついて―――女の子なら、まあ、惚れちゃう娘がいても不思議はないのかなあ………と。
 京子はそんな弟を少し誇らしく思い、やはり溜息を深くつくのである。
 結局のところ、私が大騒ぎしてもしょうがないか。最後の最後には、蓮司とあの娘たちの問題だし………と。
「はいはい。それじゃ、さっさと持ってきてよね。お喋りしすぎて喉渇いちゃった」
 柊の首に絡めていた腕をほどき、京子がリビングへと退散する。するとまたすぐに、向こう側から賑やかな話し声がしてきて、二人が上手くやっているな、と柊は少し安堵するのであった。
 お盆に急須とお茶菓子、三人分の湯のみを用意して、保温ポットに沸き立ったお湯をじょぼじょぼと注ぎ込み。
「うーい。持ってきたぞー」
 のっそりリビングへと顔を出す。すると、振り向いたエリスの顔にまぎれもない喜色がパッと浮かび、華やかな笑顔で柊を出迎えるのだった。
「あ、ありがとうございます先輩。あ、後は私が―――」
「いいって、いいって。お客さんなんだぜ、エリス。俺が淹れる茶だから美味くないかもしれねーけど、ま、座っててくれよ」
「そ、そんなことありませんっ。柊先輩が淹れてくれるなら、きっとお茶も美味しいはずですっ」
 それはいくらなんでも褒めすぎだろう、と京子が内心ツッコんだ。
 しかし横目でちらりと見たエリスの顔つきは真剣そのもので。あー、あばたもえくぼ、恋は盲目とはよく言ったもんだわ、と呆れたり。自分の弟のことでなきゃ、そして相手がこんなに可憐で健気な美少女でなけりゃ、後ろから小突いてやりたいくらいのベタ甘っぷりである。
 褒めてもなにも出ないぞー、と笑う柊に「先輩が淹れてくれるお茶だけでご褒美です」と顔を真っ赤にしてうつむくエリス。
 ここまで露骨に親愛の情を表明されているにもかかわらず、「エリスは欲がないなー」と感心するだけの朴念仁。心の中で、鈍すぎる弟に百回舌打ちをして千の言葉で罵倒する京子であった。
「で、今日はどうしたんだ、エリス?」
 湯飲みをまずエリスの前に置いてやりながら、柊が尋ねる。
「え?」
 質問の意味がわからないから―――ではなく、そんな質問を予期していなかったための「え?」であろう。
 柊の問いに、エリスは完全に硬直していた。たらり、と、こめかみに一筋の汗。頬が見る間に鮮やかな桃色に染まり、視線がふよふよと泳ぎ始めた。顔色と表情からエリスの内心の叫びを読み取るとしたら、「絶体絶命、どうしようどうしよう」の言葉がリフレインされていることは疑いようもない。
 たぶん、エリスがここを訪ねてきたのはホントのホントにただの思い付きだったのだろう。
 なにかの拍子に柊のことを思い出して、口実も用事もないのに会いにきてしまったのであろう。
 恋する乙女特有の行動力は見境がない。
 今日はどうした、と聞かれても冷静に考えれば「どうもしません」としか応えようのないない質問を、柊はしてしまったことになる。エリスがそれにどう答えるか、本音を言ってしまえば「柊先輩のお顔が見たかったんです。会ってただお話したかっただけなんです」という一語に尽きるのだ。だが、エリスは本音を言うことはできまい。たぶん、すごくウブで控え目な彼女は、そんなぶっちゃけたことを告白することはできないだろう。それは遠まわしな、「柊先輩のことを気にかけています」という表現だし、さらに一歩踏み出せば、「柊先輩のことが好きなんです」という婉曲な言い回しとも取れるからだ。
 もっとも、よしんばそう言ったとして、柊がそれに気づくことは決してないであろう。
「よし、じゃあなに話すか」
 とでも言って、ただのおしゃべりを開始してしまいかねない男なのである。
 普通なら、というか普通の男ならわざわざどんな用事で来たのかなんて尋ねない。こんな美少女が用事もなく家を訪ねてきてくれたというだけで舞い上がってしまい、それどころではないだろう。
 しかし、小憎らしいくらいに柊は冷静だ。
 確かに突然後輩が自宅を訪問してきたら、頭に浮かんで当然の疑問ではあるだろう。しかし。だが、しかし。
(空気読みなさいよね、バカ蓮司~っ)
 エリスちゃん、困ってるじゃないの。この場にエリスちゃんがいなかったら、いま吸ってる煙草をアンタを灰皿にして消してやるところだわ、と。
「どした? なんか言い辛いことなら、姉貴に席外させるけどよ」
 言い辛いことを言わせようとしてるのはアンタでしょーが。
 即座にツッコミを入れるところは、やはりこの弟にしてこの姉あり、と言ったところであろうか。
 傷ましげにエリスのほうを見遣る京子。カチコチに硬くなって、華奢な身体をますます小さく縮こまらせて、赤面と発汗を繰り返しながらうつむいているエリス。そろそろ助け舟、出してやらなきゃね………と京子が身を乗り出したそのとき、
「あ………! そうだ、そうですっ、お祝い、お祝いさせてもらおうと思ったんですっ!」
 まさに、“いかにもいま思いつきました”的な口ぶりで、エリスが口走る。
 思いつきで柊家を訪ねたエリスの二度目の思いつき発言。これがはたして吉と出るか凶と出るか、いまはまだわからないが、一転して安堵しきった顔つきになったエリスは、これ以上はない口実を思いついたつもりなのか、さっきまでの沈黙が嘘だったかのように言葉を繰り出す。
「せ、先輩の卒業式の後、みんなで打ち上げやろうって言ってたじゃないですかっ? でも、あの後すぐにアンゼロットさんに連れて行かれて、結局集まれませんでしたよねっ? だ、だからいまさらかもしれませんけど、ちゃんとお祝いできたらいいなって思ったんですけど………き、急な話でスイマセン………っ!」
 早口でまくし立てるエリス。
 必死である。柊に会いに来た自然な理由を頭の中からひねり出して、かつ不審がられることのないようにつじつまを合わせようと必死である。手をぱたぱたさせ、オーバーなジェスチャーで。柊に色よい返事をもらおうと、一生懸命な姿がまたいじらしい。
 なのに。ああ、それなのに。エリスの懸命な、健気な姿を見てもなお、お前は気がつかないのか。
 これでもお前は、ぺきんぽきんと貴重ななにかを片っ端からへし折っていくのか。

「お、嬉しいこと言ってくれるじゃねえか、エリス~。それじゃさっそく、くれはと灯にも声かけでばぶばがばらっ!?」

 ひゅん、と風を切る鋭い音がしたかと思うと。
 目にも鮮やかな体さばきでくるりとその場で一回転した京子の、フライングニープレスが炸裂する。柊家の居間にたゆたう空気を薙いで割り、太平楽な罪深き朴念仁の吐いた台詞の代償を、その後頭部にお見舞いしてやるのだった。
 踵が一点のずれもなくつむじを穿ち、振り下ろした脚の描く軌道は、まさに筋骨隆々たる男が振り下ろした戦斧の勢いにも似た力強さで、おそらくは京子の知る限りもっともデリカシーと女心に疎い男を撃沈したのである。
 ばきっ、めぎょっ。
 柊先輩のおでこがテーブルにめり込んだ―――エリスがそう認識したのと同時に。
「き、きゃあっ!? 先輩っ、柊先輩っ!?」
 涙目で悲鳴を上げるエリス。肩をぷるぷると震わせ、「くおぉぉぉぉっ………」と痛みを堪えていた柊が、
「姉貴………なにしやがる………」
 苦悶のうめきと同時に不平を吐き出した。
 しかし、柊の不平など聞いている場合ではない。堪忍袋の尾を切ったのは、京子のほうである。
「馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、あんた超弩級の馬鹿だわっ! そこでなんで他の人を呼ぼうとするのよっ!?」
「………な………に………?」
 怒りにまかせた京子がなにを言おうとしているか、敏感に察知したエリスが、
「き、京子さんっ、だめですっ」
 テーブルにめり込んだ柊の姿に青ざめていたはずの顔を、今度は真っ赤に赤面させる。
 しかし、一度ついてしまった勢いをもう止められるはずもなく、

「蓮司、よく聞きなさいっ! この娘は、エリスちゃんはねっ、あんたに個人的にお祝いしたいって、そう言ってるのよっ!」

 言っちゃいました、はっきりと。

 必死の制止も間に合わず、ゆえに京子の言葉も当然止められず。手を伸ばしたままの姿勢で固まったエリスが、文字通りの『茹でエリス』と化して「あう、あう」とうわごとのように繰り返した。
「個人的に、って………エリス、それって―――」
 テーブルから身を起こした柊の、真剣そのものの瞳がエリスをじっと見つめる。
 熱っぽい、なにかを期待するような、それはとても喜びを押し隠しているような瞳の色で。
「わ、わたし、柊先輩のお祝いしたくて、それで、それで………っ、お、お料理、そうです、お料理を作って、柊先輩にぜひ召し上がっていただきたくって、き、今日はお買い物から、柊先輩と一緒にって思って、まだ晩御飯には早い時間ですけど、だから、あの、その………」
 潤んだ瞳を、それでも真っ直ぐに柊に向ける。さっきまで感じていた頬の熱は、さっき以上の熱さをもって甦っていた。

「個人的に………俺ひとり、俺のために―――か………?」
「は、はいっ」

 見つめあう二人。我知らず、京子は少し身体をテーブルから離していた。なんとなく、この空間には自分が異物のような、二人の邪魔になってはいけないような、そんな気がして。

「エリス………嬉しいぜ」
「え…………ひ、柊………せんぱ………い………」
 見上げるエリスの瞳に柊の温かい微笑が―――その笑顔だけが映っている。
 勇気を出して訪れた、先輩のお家。予定していなかった、京子さんの突然の心情暴露によって、どうなることかと思ったけど………これはもしかして、思わぬ僥倖、瓢箪から駒、結果オーライの大ラッキー!? と、エリスでなくても、いや、エリスでもそう思うであろう。
 しかし。
 柊蓮司はやってくれる。やってくれるのが、柊蓮司。ここまでいい雰囲気を造り上げておいて、ここまでエリスや京子になにかをたっぷり期待させておいて、それでいて次に発した台詞が―――

「それってつまり、エリスの料理独り占めってことかっ!?」

 …………………。

 だから嬉しいのか、柊蓮司。

 京子の肩が、ガクンと落ちた。
 エリスがきょとんとした顔で柊のきらきら輝く顔を見つめていた。

「は、はい………柊先輩お一人で、全部………頂いてもらおうかと………」
 大きな青い瞳と同じ幅の太い涙を滝のように流し、エリスは力なくそう言った。

 これぞ柊蓮司。これが柊蓮司。この世のありとあらゆるフラグを斬って捨てる男。
 柊蓮司よ、小躍りしながら「わっふぅっ!」と喜んでいる場合ではないのである。
 お前の喜びの裏で、というか目の前で、ひとりの少女が泣いているのだ。

 頑張れ、エリス。エリス、頑張れ。

 前途多難の彼女の挑戦は、まだその入り口にすら到達していない―――





(続く)

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