つややかな黒髪。薄絹のネグリジェが、彼女―――流鏑馬真魅の艶めかしい肢体を包んでいる。
その薄布は彼女の体のラインを消すことなく、扇情的に緩やかな曲線を描き出し、むしろあまりの薄さに健康的な肌の色さえ透けるほど。
緩んだ口元。鼻から抜けるような小さな吐息。
そんな彼女の深い眠りを、優しく暖かく表層に持ち上げる刺激がもたらされた。
とんとんとんとん、と規則正しくリズミカルに奏でられる、野菜を切る音。
じゅうじゅう、とかぐわしい匂いを立たせながら熱の入る油の音。
くつくつ、と小さく気泡を生みながらとろ火をいれる鍋の音。
この数年変わらず響く朝食の準備の音だ。
いつものように優しい朝に優しく起こされた彼女は、その豊かな胸をベッドから離して一つ大きく伸び。
いまだにとろん、とした目でしばし虚空に目を泳がせた後、ぽつりと呟いた。
「……トマトとレタスと卵のスープと、ほうれん草とベーコンのキッシュにトースト。紅茶は……今日はアッサムか。朝から精が出るわねぇ」
こともなげに階下で現在進行形で作られている朝食の内容を言い当て、もう一度伸び。
そうして彼女はためらいもなくネグリジェを脱ぎ、身だしなみを整え、鏡台の上にある眼鏡をかけてから部屋を出た。
***
Dear my little brother -side M-
***
<朝>
朝早くから朝食を作っている肉親を労うため、顔を洗って笑顔でダイニングに向かい、ドアを開けて―――
「おはよー勇ちゃんっ! 今日も朝から手の込んだごはん、を……」
―――愛する弟こと流鏑馬勇士郎への朝の挨拶が、だんだんと弱くならざるをえなくなる光景が、ダイニングで繰り広げられていた。
翠緑玉のようにきらめく、柔らかな緑瞳の少女が『二人』。
二人の、形の寸分たがわぬ少女たちを、体勢を崩しながらも両腕に抱きしめている、我が愛しき弟。
やれやれ。人生ってのは度し難いことの連続だ。
踵を返し、笑顔を浮かべたままに声を震わせないように気をつけながら伝える。
「あー……うん、ごめん勇士郎。じゃ、ちょっとあたしは近くのジョ○サンでモーニングを―――」
「ちょっと待て姉さん。いい加減このパターンも飽きてきたから、そこになおってくれ。単なる勘違いだから」
「朝から元気ねぇ、個人的にはご近所の不良品学生みたいに評判が最悪にならないためにも二人分くらいで止まっておいてくれると嬉しいんだけどな」
「なにがどう二人分なんだっ」
ぎゃーぎゃーといつもの朝のやりとり。
朝食を食べるまでにちょっと余計な時間を要さなければならないのはある日からこの家―――流鏑馬家の慣習となっていたのだった。
なお。ご近所さんからは規則正しい時間に発生する朝の 恒例行事(強制イベント)のようなものであるため、むしろ目覚まし代わりに使われているところもあるのだとか。
秋葉原は今日も平和だった。
***
フォークをキッシュに垂直に立てて切り取り、一口。
口の中に広がるマイルドな味わいとベーコンの塩味。まとめているのはあらゆる中身を優しく包むタルト生地のたまものといったところか。
キッシュとトーストというコクとまろやかさの強い組み合わせの中、酸味のあるトマト入りのスープがアクセントを添える。
どれもこれも、時間内に作りながら一手間加えることを忘れてはいない。
ただ食べる者の腹を満たすためだけに作られた『食事』ではなく、食べる者への配慮を加え、それ自体に愛情を込めて作られた『料理』であった。
どこぞの料理屋で出していてもおかしくないそんな朝食を、物心ついた時から食べている果報者は、香りのいいアッサムを口に含みながら満足そうに微笑んだ。
「んー……もう勇ちゃんったらまた腕上げたでしょ。こんなにご飯おいしいとお嫁さんが気後れしちゃうわよ?」
「お、お嫁さんですかっ!?」
その言葉になぜか食いつく髪の色味のやや濃い目の少女。
先ほどは寸分たがわぬ、と表現したものの、よく見れば二人の少女は少しばかり様相が異なる。
今上ずった声を上げた少女は、赤みの強い薄めの茶髪であり、表情が豊か。
さきほどからもくもくとトーストをかじる少女は茶色というには色が薄すぎ、金糸にも見える髪で、表情に乏しく口数も少ない。
前者の名は鹿島はるみ、もう一人は鹿島ふゆみといい、流鏑馬家に住み込みで働く『姉妹』である。
はるみの言葉ににやり、と笑って頷きながらからかう。
「そうよ。勇ちゃんくらい料理上手だとお嫁さんは困るでしょ?」
あわあわあわ、と目に見えてあわてるはるみをよそに、今までもくもくとトーストをかじっていたふゆみがトーストを片付け、口元を紙でぬぐい、小さく拳を握る。
「がんばる……」
その言葉に少し驚く。
ふゆみは積極的とは言えない性格の少女だ。どちらかというのなら衝突すれば己の身を引くタイプの、我のあまり強くない娘だった。
そんな彼女がやる気を持って何かに取り組もうという意思を持った、というのは大きな前進だろう。
きっと草葉の陰から故・デュミナス(はるみ・ふゆみの父親)も喜んでいることだろう。
「……いや、あの親バカなら『うちの娘を二人もだと!? そんな馬鹿な話があるかっ、うちの娘たちが欲しくばこの父の屍を乗り越えていくがいい!』とか言うかも」
「なに一人でぶつぶつ言ってるのさ姉さん……」
つーかそんなんなのか絶滅社の研究者。
閑話休題。
アッサムの強い香りにダイニングが包まれる頃、勇士郎が各自の今日の予定を確認するように口にする。
「俺は昼まで学校だから、それまでは各自店内清掃なんかをしておくこと。できるだけ早く帰ってくるよ」
流鏑馬家の家長である真魅は自宅兼店舗として『天使の夢』というメイド喫茶を経営している。
……その経営手腕はアクロバティックにしてエキセントリックというか、考えなしというか、運任せというか、強引というかそんな感じなわけだが。
まぁともかくとして。
喫茶店の機能の中核を担う勇士郎はいまだ学生である。出席を邪魔するわけにもいかないため、学業優先。学校が終わった後と土日のみの営業となっているのだ。
彼が帰ってくるまで店は開けられない。それをわかっているからこそ、はるみは花開くような笑顔で答える。
「はい。お掃除は得意ですから任せちゃってください!」
胸を張っての答え。
はるみはややトロいところのある娘だが、健気にがんばる少女でもある。
中でも得意なのは掃除であり、細かい配慮の行き届いたきちんとした仕事をしてくれる。
「足りない買い物は、任せて……」
ふゆみも答える。
はるみとは違い感情をあまり表に出さない彼女だが、記憶力がよく一度聞いたことは忘れない。
買い物やオーダーとりは、彼女にとってお手の物なのだった。
その二人に笑顔で頷くと……勇士郎は、真魅に厳しい視線を向ける。
「それで、姉さんは?」
「姉さんはって、何が?」
本気で思い当たっていない様子の真魅。勇士郎はやれやれ、といつものように顔を手のひらで覆いつつ大きくため息。
「姉さん。働かざるもの食うべからずって言葉知ってるかい?」
「勇ちゃんこそ、釈迦に説法って知ってる?」
「姉さんの場合はそれよりも馬の耳に念仏って感じだけど」
「わかってるじゃない」
「開き直らないでくれっ。
まったく……経営者なら経営者でやることがあるだろう。俺に預けてばっかりの帳簿とか、他の店に偵察に行ってみるとか」
「帳簿はあたしに預けるとリフォームとかですっからかんにしちゃうからって勇ちゃんが離してくれないし
偵察に行くとケンカ売って帰ってくるからって勇ちゃんが止めるんじゃない」
「わかってるんだったら態度を改めてくれないかな……」
朝も早くから疲れた声と共にため息。この少年もなかなか苦労人である。
仕方ないな、と呟いて彼はどこから取り出したのかはわからない―――おそらくは月衣からだろうが―――食器のカタログを出す。
ところどころに付箋が貼られているのが見受けられる分厚いカタログを見て目を丸くする真魅。
「なにこれ」
「足りなくなった食器の補充。値段で手ごろだと思ったやつにちゃんと付箋貼ってあるから、その中から姉さんの好みのやつ選んで注文しといてくれ。
間違っても業務用のコーヒーメーカーとかを面白そうとか言って買わないように」
「えーでも面白そう……」
「姉さん。もし頼んだら姉さんのコーヒーは全部そのコーヒーメーカー製にするけど……その機械の作るコーヒーと俺の淹れるコーヒー、どっちが旨いと思う?」
「わ、わかってるわよ、無駄は省きますー。……勇ちゃんのケチ」
「ケチじゃないだろう……この喫茶店は姉さんのものだろ、もう少し店の利益を考えた行動をとってほしい」
そう言われては真魅に返す言葉はない。
……いや、もともと『天使の夢』への寄与率なら真魅が勇士郎にかなうはずもないのだが。
ともかく、午前中の暇つぶしは見つかったのだ。それに集中するとしよう、と考えて。
結局。真魅が気に入ったのは付箋の貼っていなかったやけに高級なマイセンのティーセットとボーンチャイナのカップとバカラグラスのセットで。
勇士郎が帰ってきて大きくため息をつくことになるのは、少し先のお話。
<昼>
帰ってきた勇士郎にしこたまため息をつかれ、お説教はあとだから。ちゃんとするからね、と釘を刺された上で開店する喫茶『天使の夢』。
食事時を少々過ぎた時間帯であるため行列ができるほどではないが、それなりに盛況な様子の自分の店を満足そうに見ている真魅。
と。新たに入ってくる客に目が言った。この店がまったくはやらなかった、改装前からの常連で、近所に住む友人。
久しぶりに見る気がするが、相変わらずのようだ。
挨拶するのも悪くない気がして、真魅はその客のテーブルまで行って挨拶する。
「久しぶりじゃない、京ちゃん」
「あ―――真魅さん。久しぶり、元気そうで」
そう返すのは、喫煙席で堂々とタバコをふかす長身の美人。
相も変わらずラフな格好。美人の中でも、明朗快活洒脱にして闊達。勝気で明るく包容力のあるタイプのその女性の名は柊京子。
真魅に気づいた京子は人懐こい笑みを浮かべる。
京子はこの店と同じく、この界隈にある大きな神社、赤羽神社の近所にあるマンションで実家暮らしの大学生だ。
同じ弟を持つ姉としてなのか、初めて改装前の『天使の夢』―――当時は『漆黒の夢』というなんとも悪夢見そうな感じ名前の売れない純喫茶だった
―――で出会った真魅とやけに意気投合。当時からの数少ない常連客だった。
最近来ていなかったこともあってなのか、京子は安心したように真魅に話しかける。
「いやー、もうびっくりしちゃいましたよ。ちょっと来てない内に店の名前は変わるわ改装はしてるわ。真魅さんの店なのか入るまで心配だったんだから」
「ごめんねぇ。京ちゃんは常連さんなんだから改装した時に手紙の一つも出すべきだったんだろうけど、改装した後色々忙しくってさ。
あ、あの時のコーヒーチケットまだ残ってるわよ。何か飲んでく?」
「ホントに? あー……じゃあ、久しぶりに弟くんの淹れたストロングブレンドが飲みたいかな」
「ストロングブレンドね。ふゆみちゃーん! こっちストブレとカフェラテ一つずつー!」
その声を聞いてふゆみがこくん、と頷くのを見ると、真魅は京子と他愛もない話をしだした。
なにせ本当に久しぶりなのだ。話せる話はいくらでもある。小さなことで笑い、ジョークを言って、時を楽しく浪費する。
コーヒーもそれぞれ3杯目を数える頃、京子が笑みを抑えながら、周囲にちらりと視線を移す。
「それにしても、結構盛況だね。もとから値段以上においしい店だったけど、前はあたしが来た時に他の客は見当たんなかったんだけどな」
「それがさぁ、タナボタでメイドさんかくまったもんだからメイド喫茶に宗旨変えしたら、お客さんがごそっとくるようになっちゃってね」
一見とんでもないことを口にしている真魅。この場に勇士郎がいたなら真魅を叱責するか顔を青くしていたかもしれない。
この世のどこに偶然メイドが逃げてくる喫茶店があるというのか、そもそもかくまう、と言っているということはメイドが何かから追われているということではないのか。
真魅の話したことは全てが事実だが、その背後にはイノセントには知られてはならないウィザードの世界の事情がある。
けれど、真魅とて別に何の考えもなく京子(イノセント)に話しているわけではない。
これまでの付き合いで、京子があらゆる非常識のできごとを『あーまぁそんなこともあるか』、で済ませてしまうタチの人間だと知っているゆえの発言である。
京子は、果たして真魅の言ったことにへー、とどうでもよさそうな声を上げながらはるみとふゆみに視線を向ける。
「ふぅん。メイドさんってあの子たち? よく働くいい子じゃないオーナー?」
「でしょー。もうここはウチに来てすぐ雇用関係結んじゃったあたしの手腕をほめるべきよね」
「はいはいエラいエラーい。弟くんも腕上がったんじゃない? コーヒー前よりおいしくなってる気がするんだけど」
「住み込みで二人が働くようになってから、勇ちゃんってば張り切っちゃってね。
―――まぁ、ちょっと前までみたいに達観した気になって、全部諦めたみたいな目してるよりはマシだと思うんだけど」
流鏑馬勇士郎、という少年は転生者と分類されるウィザードだ。
記憶を引き継ぎ、因果の導きに従い、世界を守るために戦う者達、それが転生者だ。
彼らは記憶を引き継ぐ。常人ならば魂が転生の際に一度漂白され、なくなってしまうはずの前世の記憶。
それを、今世の偉業によって世界から一方的に認められ、法則に干渉されて漂白処理が為されなかったり、記憶を封印されたりした者達。
そんなうちの一人が、現世において流鏑馬勇士郎と呼ばれる少年だ。
転生者はいくつもの生と死を超えた記憶を有する。
ゆえにか、勇士郎はどこか超然として、同年代の子供よりも大人びて、悪く言えばじじむさい子供だった。
彼自身それでいいと思っていただろうし、世の―――というより、転生者の常としてそれはよくあることだったのだろう。
しかし、真魅にはそんなことは関係なかったのだ。
弟なのだ。たった一人の。
流鏑馬真魅にとって、流鏑馬勇士郎は世界にたった一人の弟だったのだ。
転生者とか、勇者とか、ロンギヌスとかはどうでもいい。
彼女にとっては、宿命とか宿縁とか、そんなものなんかのせいで。弟の笑顔が見られないのも弟の人生に刺激がないのも、おかしいと思っただけの話。
だからこそ、真魅は自分の進む道を迷わない。
弟を巻き込んで、むちゃくちゃをやって、勇士郎に呆れられて、けれどどこか困ったように笑わせて。
この世界はお前の知ってるものだけでできてたりはしないんだぞ、ということを思い知らせて。
これまでの人生と。ただ侵魔と戦うのが日常のような、長すぎる彼の記憶の中で、忘れられる日常にならないように。
自分が楽しくて、勇士郎にどうしようもなく楽しい一瞬(いっしょう)をあげて―――そんな、毎日をまわし続けるために。
それが今、うまくいっていることを誇るように、いたずらっぽく笑う真魅。
そんな彼女を、うらやましそうに見つめて。京子はため息とともに告げる。
「あーあ、こんないいお姉さんにこんだけ思われてるんだから、弟くんはよっぽどいい奴なんだろうねぇ。
それに引きかえ、うちの馬鹿は……」
「あぁ、そういえば京ちゃんのとこの弟くんは今年の春高校卒業だっけ。大学でも行ったの?」
真魅は、京子から彼女の弟の話を何度か聞いていた。
なんでも(京子も人のことはいえないが)素行が乱暴、よく家出する、学校の単位も出席日数も危険域。本当に卒業できるのかどうか、と何度か愚痴られたこともある。
最後に京子に会った時は、半年の家出から帰ってきて、運よく学校側の配慮で三年に上がれたもののすぐに二ヶ月ほど音信不通になったと聞いている。
そうそう、と真魅の言葉に頷きながら彼女は続けた。
「聞いてくれるー? ウチの馬鹿ってば辛うじて、運よく、学校側の粋な計らいでなんとか、高校卒業できたはいいんだけどねー……。
定職にもつかずに『ちょっと行ってくる』の一言でまーたどっか行っちゃったわけ。
盆と暮れには帰って来いって行ってるのに、夏も帰ってこなかったし。帰ってきたらガツンとやってやんないとね」
ブレンドを傾け、一口。
京子のその言葉に、真魅は内心京子の弟に手を合わせていた。京子のガツン、はおそらく言葉の通りだろうから。
それにしても因果なもんだわね、と真魅は思う。
流鏑馬真魅は魔法使いである。
それも、運命と星の運行を読むところから始まった陰陽師と、人の無意識である夢の中を見守る夢使い、両方の技術を会得した、凄腕が枕につくウィザードだ。
だからこそ、たまに『見える』ことがある。
それは、宿星を読む陰陽師だけでは人には結びつかず、また夢を守る夢使いでは触れることのできない、深層にして真相。
見た人間全てが全てを見ることができるわけではないが、特に見る対象が変わっていたり、世界で屈指と呼べるほどの世界とのズレを有す存在であると「見えて」しまう。
今の世に生まれ出る以前、魂が漂白される前の――― 一言で言うのならば、前世のカタチを見ることができてしまうのだ。
真魅の見立てでいくと、京子の前世はすさまじいの一言につきる。
最近月衣を得たウィザードの中に、『侍』と呼ばれる者たちがいる。
彼らの祖はただ己の内にある技を磨くことで大いなる魔にすら立ち向かうことを可能とした タダビト(イノセント)より生まれし 異端(ウィザード)。
ただの人よりあらわれて、ただ己の技術を磨き続けることだけで。世界を侵す魔にすら対抗し、その能力をもって魔法すら超えるが彼らの祖。
柊京子の前世は、その侍と後に呼ばれることになるウィザードの一人。
今では名すら記述に残らないが、当時の当代に並ぶ者はなく、史上の侍の中でも指折りに数えられるほどの戦の剣姫。そう呼ばれた者であった。
当時まだ世界結界の存在していなかったファー・ジ・アースにおいて、襲い来る魔を一人で斬り倒し続けた武芸者にして女浪人。
仕官などの話が女であったゆえかなく、諸国を放浪しながら魔と対峙し続け、さまざまな若人に剣を教え、現代も残る様々な古流剣術に確かにその技を根付かせた修羅姫。
『彼女』の名を知る者は今には残っていないが、真魅に見えるヴィジョンでは、気楽に笑いながらリミッターなしの魔王の移し身をずんばらりと仕留めていたりする。
そんなとんでもない力を持ったウィザードであった前世であるのだが、京子はウィザードになる気配がない。
通常、死んだ後の魂は記憶などを分離され、記憶や精神などを漂白によって分離、無垢な魂のみが転生後の体に装填される。
なのだが、『彼女』は何の手違いか、魂そのものの大半を狭界に落っことしてしまったらしく、漂白作業のなされないまま『京子』になった。
あまりに魂のプラーナ量が少ないために、おそらくはこれから先もウィザードに目覚めることはないだろう。
もっとも、魂の中に前世の記憶がほんの微かに断片的に残っているせいなのか、彼女の拳は月衣を貫通できたりするのだが。くわばらくわばら。
閑話休題。
ともあれ。転生前の『彼女』にも、弟がいて、その弟が早くに死んでいる、ということを真魅は知っている。
だからなのか、憎まれ口は叩くものの、京子の弟に対する目は優しい。
もっとも、真魅は姉弟の絆に 転生(そんなもん)なんて関係ない、という考えなため、同じく純粋に弟を心配する姉に答える。
「でも、その弟くんも根性あるじゃない。仕送りとかしてくれてるんでしょ?」
「どっからともなく、エラい大金をね。ったく何をやってんだか」
「そう言いつつ、京ちゃんってばなんか弟くんのこと話してる時はどこか嬉しそうなのよねー」
そう楽しそうに頬杖つきながら言った真魅からいったん視線を外し、京子はブレンドを一口。
ふぅ、とどこか軽いため息をついて、京子はどこか困ったように笑った。
それは彼女の弟がよくやるような、保護者の笑みだったのだが―――そんなことは、ここにいる二人にわかりはしない。
「まぁね。
あいつは馬鹿だし、頭悪いし、女心に疎いし、実はアレの鈍感のせいで影でたくさんの女の子が泣いてるのも知ってるし、無理も無茶も無謀もすぐにやらかすし、
寝坊するし、頑固だし、あんまり甘えないし、大事なことはあたしにひとっことも相談しやがらないし、壊滅的に頭が悪いけど。
―――それでも、曲げないし、諦めないからね」
そういう馬鹿は、あたしは嫌いじゃないから、と笑ってから。
ため息をついて、彼女は目を閉じて微笑む。少し残念そうに。
「あーぁ。 ―――ちょっとばかり、イイ男に育てすぎたかね」
その彼女の言葉に、真魅もまた微笑んで。京子の首をぐっと抱き寄せ、このこの、といじめる。
「なによ、弟自慢? うちの勇ちゃんだって凄いんだからねっ」
「いたいいたいって真魅さんっ、ほんと凄いと思うよ弟くん。真魅さんの弟やってんだもん」
「それはどういう意味よっ!?」
言葉まんまの意味だと思われる。
―――ともあれ。
共に、厄介な弟を抱えた厄介な姉が二人いる、喫茶天使の夢の午後は。
穏やかに速やかに緩やかに流れていくのであった。
<夜>
営業時間も終わり、すっかり夜の帳に覆われた町。そんな中、天使の夢の店先に4人の人影があった。
勇士郎、はるみ、ふゆみ、真魅の四人である。
ちょっとした事故(真魅談)により、風呂場のボイラーが故障。近所の銭湯に行くことに決定したのである。
勇士郎が、本日何度目かのため息をつく。
「……姉さん、新しい魔法の練習とか訓練とかは非常に結構なことだと思うんだけどさ。ウチの風呂場でやらないでくれないかな」
「あははごめんごめん。さすがに壊れちゃったのは初めてだったから焦ったわよ」
「練習自体は今日がはじめてじゃないのか……」
真魅は水を第一属性とするウィザードだ。
ウィザードとは魔法使いの総称なわけであるが、魔法はどこでもどのような魔法でも使用できるわけではない。
この世界に満ちる属性―――天・冥・地・水・火・風・虚―――を帯びたプラーナの存在するところでしかその属性の魔法は使うことができないのだ。
月衣内への干渉―――付与魔法など―――ならばある程度はその前提も覆るが、外界に干渉する攻撃魔法はそうもいかない。
星一つなく、人工の光すら存在しない夜闇で光を扱う魔法は発動しないし、雲の上ほどの場所で足場として地面を粘土のように変化させて延ばすのは無理がある。
そして真魅は魔法を主体として戦うウィザードである。
魔法の研究には、多分に好奇心が混じるものの、余念はない。だからこそ水属性のプラーナを多く有するところを探し。
「……頑張りは評価するけどさ。
色々がんばりすぎて、風呂場を水の圧力で破壊しないでくれるかな。
水道管まで内側から圧力かかりすぎてパイプが百合の花になってるって、どうやって工事の人に弁解すればいいのさ」
……風呂場を完膚なきまでに破砕したのであった。
疲れた様子の勇士郎に、下手人はあっけらかんとした笑顔で答える。
「あはは。勇ちゃん頑張って説明してね」
「自分でやってくれ」
「えぇー、たった一人の肉親がこんなに困ってるって言うのにー?」
「たった一人の肉親が犯人なんだったら自業自得、因果応報、悪因悪果。当人がなんとかするしかないものだろう。俺は手伝わないよ」
大抵は真魅の頼みを聞いてくれる勇士郎も、今回は少しご立腹なようである。
内心でありゃ怒らせたか、と舌を出しながら、真魅はぶー、と言いながら勇士郎に答える。
「わかったわよ、自分でなんとかするわ。
あ、ただお金―――」
「自分で責任を持ってくれ。店のお金は出さないから」
「えぇっ!? ゆ、勇ちゃんそれは厳しすぎない?」
「ない。ウィザードの仕事の一つや二つあるだろう? 軽い仕事でもこなせばお金になるんだ、頑張ってくれ」
真魅は助けを求めるようにはるみとふゆみに目をやるものの、はるみは困ったように乾いた笑みを、ふゆみは小さくため息をつきながらやりとりを傍観している。
援軍は期待できない。肩が落ちるのが、真魅自身にも理解できた。
わざとらしく後ろを向いて、地面にのの字を書くフリをしながらすねてみせる。
「うぅぅ……あたしの楽園はどこにいっちゃったのやら」
「楽してお金を儲けよう、というその考えが間違ってるんだよ。人間もっと地道に生きていかないと」
「勇ちゃんが厳しいよう……あたしがおしめを変えてあげたあのかわいい勇ちゃんはどこへ……」
「それとこれとは話が別だよ、姉さん。
せっかく魔法の研究してたんだろう? イライラ解消も含めていいから、なんとかお金を稼いできてくれないと困る」
それもそうか、と納得。同時にやれやれ、という表情(ポーズ)を作りながら真魅は答える。
「わかったわよぅ……なんとかすりゃあいいんでしょ、なんとかすれば」
「そうしてくれ。ほら、行くよ姉さん。無駄口してると銭湯の時間が―――」
「大丈夫よあそこ夜の2時までやってるし。それより勇ちゃん、あたし忘れ物しちゃった。二人と先に行っててくれない?」
くるりと踵を返して真魅。その背中に少しだけいぶかしげな表情をする勇士郎。
いつもならば、忘れ物はとりあえず勇士郎に持ってきてくれない?と頼んで却下された後自分で持ちに行くのが真魅の行動パターンのはずで、つまりは嘘だ。
けれど、真魅は無茶なことを人にさせても、無理なことは自分はしない。無理なら素直に誰かに援軍を頼む。つまり今回は一人で対処できる、という判断ということだ。
ここで彼女の判断を疑うのは、彼女への侮辱につながる。
そう考えて、歩き去っていく背中に、一言だけ声をかけた。
「姉さん」
「ん、なに勇ちゃん。やっぱりあたしがいないと寂しいですーとか?だめよう、そんな両手に花状態なのに。
はるみちゃんとふゆみちゃんに嫌われちゃうわよ、このシスコン、って―――」
「気をつけてね」
一拍。
「だいじょーぶよ。チカンが出たら生まれてきたこと後悔させてやるってば。もう、勇ちゃんってば心配性ねぇ。じゃ、後でねー」
言ってそのまま歩いていく。
勇士郎はその背中に向けて一つため息。
「……まったく、妙なところで天邪鬼なんだから」
「はい? なにか言いましたか勇士郎さん?」
「ううん、なんでもない。先に行ってよう、ふゆみ、はるみ」
そう言って。三つの影は身を寄せ合って夜道を進んでいった。
***
「―――あれはバレてたわねー、絶対。
まったく、勇ちゃんってば妙なところで鋭いんだから」
困っちゃうわよねー、もう。とぼやく。
思えば、真魅の絶滅社時代、任務に赴く時は毎回あんな風に笑ってかわして、いつもいつもその背中に気をつけて、と言われていたような気がする。
彼女が、弟との二人暮らしを成立させるために赤い夜を駆け回っていた青春時代。
当時まだ勇士郎は一桁のお子ちゃまではあったが、やはり聡い子供で。
真魅の嘘を見抜く目を持っていながら、それでも彼女がその生活を壊す気がないことを理解していた。
彼がいまだ、戦う力を持たないがゆえに。彼女が戦っているということをわかっていたために、彼もいつかは姉の力になろうと思ったのかもしれない。
そのことは神でも勇士郎でもない真魅にはわからない。
だから、そんな感傷は振り捨てて。今すべきことに彼女は 視線を戻(しゅうちゅう)した。
ひたりと目を閉じて、ハイヒールのかかとを軽く鳴らす。
かつん、と乾いた音。
音が広まるように、青い波紋がアスファルトの上を走る。
石を落とした水面のように。渡り行く風のように。彼女が望む位置まで『境界』がきたことを知覚、拍手を一つ。
波紋の境界は、それに呼応するようにその場所にぴたりと停止。同時にビルの4階相当の高さまで青い壁をそそり立たせる。
月匣。
ウィザードにも最近使用できるようになった、「魔法」の一つ。一般人への影響を与えないために使用される結界の一種。
これを使用した以上は、相手にもこちらの意図は伝わっているはずだ、と考え、腕を組んで彼女は声を上げる。
「そんなわけよ。出てきなさいな、あんまりじろじろ見られるっていうのも好きじゃないのよ」
その声に呼応するように、電柱の影から、裏路地から、マンホールの中から。次々に現れるのは統一された制服に身を包み、槍型の魔法発動杖を持った仮面の集団。
彼らは、槍の穂先を天に掲げたまま真魅を取り囲むように集う。
その距離10mあまり。あまりに数の違いすぎるその相手に対し、しかし臆することなく彼女は尋ねる。
「それで? なんとなく察しはつくけど、あんたらはどこのどなたのナニ子ちゃんで、何が目的かってのは話してもらえるのかしらね?」
面倒そうにそう告げながら指先にふぅ、と暖かい息をかける真魅に、仮面の一人が答える。
「我らは世界の守護者・アンゼロット様の直属部隊である『ロンギヌス』の者だ。この度は流鏑馬勇士郎殿にアンゼロット様よりのお言葉を届けにきた次第。
非礼は詫びる。勇士郎殿と面会させてはもらえないだろうか」
ロンギヌス。
それは守護者直属のエリート部隊の名前であると同時に、世界を守る聖槍を自称する世界屈指の戦闘集団である。
そんな、一介のウィザードならばその名を聞くだけでしり込みしてしまいそうな集団の名を耳にしてなお、真魅はいつもの姿勢を崩さない。つまらなそうにたずねる。
「それで? 勇ちゃんは今学生とウチの手伝いで忙しいのよ、話なら姉のあたしを通してからにしてくれる?」
「し、しかしアンゼロット様のご命令で―――」
「どうせ勇ちゃんに話せって言われてるだけで他の人間に話すなとは一言も言われてないでしょ?
そもそも家族にすら話せないようなことなわけ? へー、そんなやましいことしてるんだ、ロンギヌスって」
「なっ……し、失礼なっ! 我らにやましいところなどあるはずがないだろうっ!」
「ならちゃっちゃと話しちゃってよ。そもそも勇ちゃんは未成年、保護者がウィザードなら話す義務があるでしょう。
ほら、早いとこしゃべらないと月匣解除してあげないわよー?」
どうでもよさそうにふぅ、ともう一度息をかける。
真魅に話しかけたそのロンギヌスは苦虫を噛み潰したような表情をしながら、真魅の問いに答えた。
「―――アンゼロット様は、一度ロンギヌスを一身上の都合で脱退した流鏑馬勇士郎を許す、と仰せだ」
「ふぅん? たしか勇ちゃんはきちんと手順を踏んであそこを出てたはずだけど?」
流鏑馬勇士郎はしばらく前に、戦いのむなしさからロンギヌスを脱退している。
脱走ではなく、脱退だ。きちんとアンゼロットに許可を得た上でロンギヌスを抜けたのであるから、許すも何もないはずだ。
もっとも、彼女には向こうの台所事情も、アンゼロットの真の思惑もなんとなく理解はできているので口には出さないが。
ロンギヌス隊員はそれに気づいた様子もなく、表情の変わらぬ真魅に講釈するように語る。
「ロンギヌスは一度脱退した者は基本的に二度と複隊することはない。心が折れた弱者に用意する席などは、世界を守る楯にはないのでな。
しかし、状況が変わった。冥魔という存在を知っているな? あれを滅するにはウィザードの数はいくらあっても困らないのだ」
冥魔。
今年の三月に起きた、今だに記憶に新しい大事件の結果この世界に攻めてくるようになった新たなエミュレイター。
真魅もフリーの身ながら、2、3度遭遇・撃退している。
一般的な侵魔などとは一線を画す厄介な相手。それが全世界のウィザードの認識だ。
しかしその話にも、真魅はやはり指先に息を吐きかけるだけ。
「冥魔関連の話なんてどうでもいいの、すぱっと本題言いなさいよ男らしくないわね」
「っ! ―――あ、アンゼロット様は、流鏑馬勇士郎を再びロンギヌスに迎えたいと仰っておられるのだ!」
真魅の言いように激昂したようにロンギヌスが答える。
その言葉を聴き、はぁ、と再度のため息。
「最初っからそれだけ言えばいいのよ。まったく、お役所仕事みたいに頭固いんだから。さくさく話進めなさいっての」
「うるさいっ! それで、どうなのだ! お前の要求には応えたぞ、流鏑馬勇士郎に会わせてもらおうか!」
声を荒げるロンギヌスの隊員に対し、真魅はにっこりと営業スマイルを浮かべ。
「―――却下。<ハリケーン>っ!」
己が全力を込めた魔法を解き放った。
100パーセントの不意打ちで放たれた暴風は、彼女を取り囲むロンギヌス隊員の実に半数以上をなぎ倒し、吹き飛ばし、飲み込んだ。
風が一通り収まるのを待ち、真魅は酷薄な目と皮肉気な笑みを浮かべてロンギヌスたちに向けて答える。
「悪いけど。ウチの勇ちゃんはあんたらの世界救済ごっこには付き合いきれないって言って脱退したはずよ?
それなのに、あんたらの都合なんぞで勝手に戻れっていうのは、さすがに現金すぎるでしょ。
絶対ないだろうけど、あたしだって絶滅社から同じオファーされたら担当業者張り倒すわよ。こっちの都合考えろ馬鹿ヤローってね」
「ろ、ロンギヌスだぞっ!? 我らにたてつくということがどういうことかわかっているのかっ!?」
「知ったこっちゃないわ。
上の名前チラつかせて自分たちを大きく見せることしかできないような、虎の威を借りた気になってる狐のつもりの負け犬の集団が、あたしに何をするって?」
「き……貴様っ! それ以上の侮辱は許さん! 倒してくれる!」
槍の穂先が軒並み真魅の方を向いた。しかし。
「遅いのよ、このボンクラ集団」
すでに。真魅は会話の間に魔装の換装を終えている。
手品のように、どこからか取り出された新たな符がその指にはさまれており、青く輝く。
「<エアフィスト>」
先ほどまで渦巻いていた風は、その輝きのもとに即座に収束、一点に向けて打ち出される。
そんなものをまともに食らったロンギヌスは吹き飛ばされ、即座に不自然に痙攣しながら戦闘行動が不可能になる。
半数以上の人員がすでに戦闘不能になったという事実に冷や汗を流しながら、指揮を執る一人がヒステリックに叫ぶ。
「え―――えぇい! 一斉射撃だ! 当たりさえすれば、我らの一撃は魔を貫く! 囲め、囲い込んで―――今だ、撃てっ!」
輝きを放つ魔導発動体の群れ。
放たれるは神威の雷光。
20を超える光の条閃は一人の女に向けて容赦なく放たれ、炸裂。
確かな手ごたえを感じ、ガッツポーズをとる指揮者の耳元で、囁く声。
「対象が撃破された確認ができるまで、勝利の確信なんてしない方がいいわよ? もひとつおまけに<エアフィスト>」
同時。真横から至近距離で放たれた大気の鉄拳は、彼を吹き飛ばしながら一瞬で意識を刈り取った。
ざわめく周囲。
彼らの目では確かに先ほどまで真魅は光の中に消えたはずで、それが今のこの状況に結びつかない。
真魅は講釈してやるように、月衣の中から一枚の符を出して口元を隠しながらイタズラっぽく笑う。
「あーあ。勇ちゃんのことは聞いてても、あたしのことは聞いてないなんてね。それとも、あたしの青春も今は遠くなりにけりってやつなのかしら。
ひよっこたちにわかりやすく教えてあげるわ。
あたしの名前は流鏑馬真魅。10年ほど前に絶滅社にいた夢使い。今は陰陽師でもあるけどね。
夢使いはご存知の通り夢を渡り現実との境を守る者。あんたたち程度なら認識をいじくるのはたやすいことよ、理解できたかしら?
そんじゃ、講釈ついでにもう一つ。
装備に頼ってばかりいるあんたらじゃ、常に研鑽を積み続ける人間にゃ勝てないっていうのを、ちょっと見せてあげるわ」
口元を隠していた一枚の符が、再び手品のように両手に扇のように出現する。
両の扇で空気を撫でるように、くるりくるりとその場で回りながら、安全装置を外すための言葉をつむぐ。
「色は黒。方位は北。汝は潤いを与え命をつむぐ者。其は調和の使者。我が声を聞きこの手に集え」
かつんっ、と勢いよくハイヒールを打ち鳴らす。
声は止まらない。
「色は青。方位は東。汝は駆け回りて命をはこぶ者。其は自由の使者。我が声を聞きこの手に集え」
再びの乾いた音。
同時。両手の符を投げ上げる。ただの紙ならばすぐに落ちただろうそれは、空を駆け上がる流星のごとくに飛んでいき―――真魅は、片手を天に掲げた。
にやり、と微笑む口元が、ロンギヌスたちの背筋をぞろりと逆撫でる。
蛇に射すくめられた蛙のごとく微動だにしない彼らを見て。
真魅は、一言だけ告げた。
「自分が正しいって信じるのは大事なことだけどね。
相手にも相手の都合ってモンがあんのよ。だったらせめて筋通しなさい。上を妄信的に信じてるんじゃなくて、自分の理由を見つけなさい。
これが最後のあたしの教授よ。
じゃあ―――あとは、体に刻んで覚えなさいっ! 天上の雷光! 風雨の緞帳! 其は我が敵を薙ぎ払う暴虐なり! <ライトニング、スコォォォール>っ!」
そして。
月匣の中に生まれるのは大嵐。そんなものに人間が抗えるはずもなく。
雷に打たれ、風に吹き飛ばされ、雨の水流に流されて。あっけなく、ロンギヌスは全滅した。
***
今しがた台風でも通り過ぎたかのような惨状の中、一人立つのは雨に濡れず、風に髪一本乱していない術者のみ。
ぱんぱん、と。両手を砂を落とすように払って、真魅は告げる。
「見てるんでしょ? 出てきなさいな」
「―――やれやれ」
そう言って、路地裏から現れるのは白い人影。
白タキシードに白チーフ、今軒並み倒れているロンギヌスたちと同じ白仮面。
実力者や特殊能力者の集められる、ロンギヌスのエリート中のエリート、ナンバーズの中のさらに異端。
ロンギヌス00。存在しないはずの番号を与えられた、人造人間にして強化人間。真魅とはとある一件より顔見知りである。
彼は皮肉気な笑みを浮かべながら真魅に苦言を呈す。
「彼らはロンギヌスの一員だ。それが任務を失敗したとなれば、尻拭いは私がすべきだろうよ」
「よく言うわよ、任務なんて建前のクセに。わざわざ峰打ちにしてあげたのよ? 慰謝料もらいたいくらいだってのにね」
「……魔法でどうやって峰打ちを?」
「夢使いには魔法で相手を峰打ちする技術が伝わってるのよ」
「初耳だ」
「どうせ会う機会もあるでしょうから現職最強の変態黒マントにでも聞いてみたら? 自信満々であるって答えるから」
鈴木さん家のパパがくしゃみしたとかしないとか。
閑話休題。
真魅は盛大にため息をつきながら、やれやれ、というように肩をすくめる。
「世界の守護者サマの真の思惑は、勇ちゃんを連れ戻すことでもなんでもなくて、このひよっこたちが経験を積むこと。
こんな三下以下どもじゃ、勇ちゃんに剣抜かすことすらさせられないわよ。
ともあれ。
はるみちゃんやふゆみちゃんと一緒のところを襲われたら、不測の事態が起きるかもしれないところを、
わざわざこのあたしが出張って助けてあげたんだから感謝してほしいくらいね」
「……新しく作った魔法の実験台が欲しかった、と顔に書いてある気がするのだがね」
「ギブアンドテイクよ。何かを得るためなら何かを支払わなきゃいけないのは当たり前でしょう?」
あっけらかん、とそう答える真魅に相変わらずだな、と呟いて。彼は一礼して去ろうとする。
「新人たちにもいい教導になったことだろう。事実、我が主は勇士郎を捕らえるつもりはない。安心してくれ。
では、私はここで失礼させてもらうと―――」
「待った」
笑顔で伊右衛門のスーツの袖を引っつかむ真魅。……嫌な予感はするものの、彼は振り向いて尋ねる。
「……なんだね?」
「迷惑料も置いてかずに去るってのは、虫がよすぎるんじゃない?」
「図々しいな君はっ!?」
「何言ってんの! 商売人はむしれるとこからむしってナンボ、さっさと出すもの出してってもらいましょうか?」
「……そろそろ君はライフパスの清貧を何か違うものに変えた方がいいと思うんだがね」
「何言ってるのよ、ほら清貧な善人よ? キャラシートにも書いてある」
それは違う人だ。
閑話休題。
真魅はあぁもう、と叫ぶとその白スーツの手を取って引っ張る。
「ラチがあかないわ。ちょっと一緒にいらっしゃい、銭湯代払ってもらって家に帰った後ちゃんとお金については話をしましょう。
どうせ勇ちゃんとも久しぶりでしょ。会えれば喜ぶと思うしちょうどいいわ」
「ま、待ちたまえっ!? 銭湯ってなんだ! なぜ私が行かねばならんっ!?」
「決まってるじゃない。あたしがお風呂壊しちゃったからみんなで神田川なのよ。OK?」
「そんな説明でわかるかっ!?」
「まぁまぁ。勇ちゃんが喜ぶだろうってのは本当だし、あなたもアレ以来勇ちゃんには会ってないでしょ? たまには旧交をあたためるってのも悪くないんじゃない?」
放せー、という声は夜の秋葉原に消えた。
***
「ま。今の楽しそうな勇ちゃんの邪魔するっていうのなら、あたしはどんな手段も問わないけどね」
「……君は意外とブラコンだな」
「あら、下着は黒だけど。見る?」
「誰がそんなことを言ったっ!?」
fin
その薄布は彼女の体のラインを消すことなく、扇情的に緩やかな曲線を描き出し、むしろあまりの薄さに健康的な肌の色さえ透けるほど。
緩んだ口元。鼻から抜けるような小さな吐息。
そんな彼女の深い眠りを、優しく暖かく表層に持ち上げる刺激がもたらされた。
とんとんとんとん、と規則正しくリズミカルに奏でられる、野菜を切る音。
じゅうじゅう、とかぐわしい匂いを立たせながら熱の入る油の音。
くつくつ、と小さく気泡を生みながらとろ火をいれる鍋の音。
この数年変わらず響く朝食の準備の音だ。
いつものように優しい朝に優しく起こされた彼女は、その豊かな胸をベッドから離して一つ大きく伸び。
いまだにとろん、とした目でしばし虚空に目を泳がせた後、ぽつりと呟いた。
「……トマトとレタスと卵のスープと、ほうれん草とベーコンのキッシュにトースト。紅茶は……今日はアッサムか。朝から精が出るわねぇ」
こともなげに階下で現在進行形で作られている朝食の内容を言い当て、もう一度伸び。
そうして彼女はためらいもなくネグリジェを脱ぎ、身だしなみを整え、鏡台の上にある眼鏡をかけてから部屋を出た。
***
Dear my little brother -side M-
***
<朝>
朝早くから朝食を作っている肉親を労うため、顔を洗って笑顔でダイニングに向かい、ドアを開けて―――
「おはよー勇ちゃんっ! 今日も朝から手の込んだごはん、を……」
―――愛する弟こと流鏑馬勇士郎への朝の挨拶が、だんだんと弱くならざるをえなくなる光景が、ダイニングで繰り広げられていた。
翠緑玉のようにきらめく、柔らかな緑瞳の少女が『二人』。
二人の、形の寸分たがわぬ少女たちを、体勢を崩しながらも両腕に抱きしめている、我が愛しき弟。
やれやれ。人生ってのは度し難いことの連続だ。
踵を返し、笑顔を浮かべたままに声を震わせないように気をつけながら伝える。
「あー……うん、ごめん勇士郎。じゃ、ちょっとあたしは近くのジョ○サンでモーニングを―――」
「ちょっと待て姉さん。いい加減このパターンも飽きてきたから、そこになおってくれ。単なる勘違いだから」
「朝から元気ねぇ、個人的にはご近所の不良品学生みたいに評判が最悪にならないためにも二人分くらいで止まっておいてくれると嬉しいんだけどな」
「なにがどう二人分なんだっ」
ぎゃーぎゃーといつもの朝のやりとり。
朝食を食べるまでにちょっと余計な時間を要さなければならないのはある日からこの家―――流鏑馬家の慣習となっていたのだった。
なお。ご近所さんからは規則正しい時間に発生する朝の 恒例行事(強制イベント)のようなものであるため、むしろ目覚まし代わりに使われているところもあるのだとか。
秋葉原は今日も平和だった。
***
フォークをキッシュに垂直に立てて切り取り、一口。
口の中に広がるマイルドな味わいとベーコンの塩味。まとめているのはあらゆる中身を優しく包むタルト生地のたまものといったところか。
キッシュとトーストというコクとまろやかさの強い組み合わせの中、酸味のあるトマト入りのスープがアクセントを添える。
どれもこれも、時間内に作りながら一手間加えることを忘れてはいない。
ただ食べる者の腹を満たすためだけに作られた『食事』ではなく、食べる者への配慮を加え、それ自体に愛情を込めて作られた『料理』であった。
どこぞの料理屋で出していてもおかしくないそんな朝食を、物心ついた時から食べている果報者は、香りのいいアッサムを口に含みながら満足そうに微笑んだ。
「んー……もう勇ちゃんったらまた腕上げたでしょ。こんなにご飯おいしいとお嫁さんが気後れしちゃうわよ?」
「お、お嫁さんですかっ!?」
その言葉になぜか食いつく髪の色味のやや濃い目の少女。
先ほどは寸分たがわぬ、と表現したものの、よく見れば二人の少女は少しばかり様相が異なる。
今上ずった声を上げた少女は、赤みの強い薄めの茶髪であり、表情が豊か。
さきほどからもくもくとトーストをかじる少女は茶色というには色が薄すぎ、金糸にも見える髪で、表情に乏しく口数も少ない。
前者の名は鹿島はるみ、もう一人は鹿島ふゆみといい、流鏑馬家に住み込みで働く『姉妹』である。
はるみの言葉ににやり、と笑って頷きながらからかう。
「そうよ。勇ちゃんくらい料理上手だとお嫁さんは困るでしょ?」
あわあわあわ、と目に見えてあわてるはるみをよそに、今までもくもくとトーストをかじっていたふゆみがトーストを片付け、口元を紙でぬぐい、小さく拳を握る。
「がんばる……」
その言葉に少し驚く。
ふゆみは積極的とは言えない性格の少女だ。どちらかというのなら衝突すれば己の身を引くタイプの、我のあまり強くない娘だった。
そんな彼女がやる気を持って何かに取り組もうという意思を持った、というのは大きな前進だろう。
きっと草葉の陰から故・デュミナス(はるみ・ふゆみの父親)も喜んでいることだろう。
「……いや、あの親バカなら『うちの娘を二人もだと!? そんな馬鹿な話があるかっ、うちの娘たちが欲しくばこの父の屍を乗り越えていくがいい!』とか言うかも」
「なに一人でぶつぶつ言ってるのさ姉さん……」
つーかそんなんなのか絶滅社の研究者。
閑話休題。
アッサムの強い香りにダイニングが包まれる頃、勇士郎が各自の今日の予定を確認するように口にする。
「俺は昼まで学校だから、それまでは各自店内清掃なんかをしておくこと。できるだけ早く帰ってくるよ」
流鏑馬家の家長である真魅は自宅兼店舗として『天使の夢』というメイド喫茶を経営している。
……その経営手腕はアクロバティックにしてエキセントリックというか、考えなしというか、運任せというか、強引というかそんな感じなわけだが。
まぁともかくとして。
喫茶店の機能の中核を担う勇士郎はいまだ学生である。出席を邪魔するわけにもいかないため、学業優先。学校が終わった後と土日のみの営業となっているのだ。
彼が帰ってくるまで店は開けられない。それをわかっているからこそ、はるみは花開くような笑顔で答える。
「はい。お掃除は得意ですから任せちゃってください!」
胸を張っての答え。
はるみはややトロいところのある娘だが、健気にがんばる少女でもある。
中でも得意なのは掃除であり、細かい配慮の行き届いたきちんとした仕事をしてくれる。
「足りない買い物は、任せて……」
ふゆみも答える。
はるみとは違い感情をあまり表に出さない彼女だが、記憶力がよく一度聞いたことは忘れない。
買い物やオーダーとりは、彼女にとってお手の物なのだった。
その二人に笑顔で頷くと……勇士郎は、真魅に厳しい視線を向ける。
「それで、姉さんは?」
「姉さんはって、何が?」
本気で思い当たっていない様子の真魅。勇士郎はやれやれ、といつものように顔を手のひらで覆いつつ大きくため息。
「姉さん。働かざるもの食うべからずって言葉知ってるかい?」
「勇ちゃんこそ、釈迦に説法って知ってる?」
「姉さんの場合はそれよりも馬の耳に念仏って感じだけど」
「わかってるじゃない」
「開き直らないでくれっ。
まったく……経営者なら経営者でやることがあるだろう。俺に預けてばっかりの帳簿とか、他の店に偵察に行ってみるとか」
「帳簿はあたしに預けるとリフォームとかですっからかんにしちゃうからって勇ちゃんが離してくれないし
偵察に行くとケンカ売って帰ってくるからって勇ちゃんが止めるんじゃない」
「わかってるんだったら態度を改めてくれないかな……」
朝も早くから疲れた声と共にため息。この少年もなかなか苦労人である。
仕方ないな、と呟いて彼はどこから取り出したのかはわからない―――おそらくは月衣からだろうが―――食器のカタログを出す。
ところどころに付箋が貼られているのが見受けられる分厚いカタログを見て目を丸くする真魅。
「なにこれ」
「足りなくなった食器の補充。値段で手ごろだと思ったやつにちゃんと付箋貼ってあるから、その中から姉さんの好みのやつ選んで注文しといてくれ。
間違っても業務用のコーヒーメーカーとかを面白そうとか言って買わないように」
「えーでも面白そう……」
「姉さん。もし頼んだら姉さんのコーヒーは全部そのコーヒーメーカー製にするけど……その機械の作るコーヒーと俺の淹れるコーヒー、どっちが旨いと思う?」
「わ、わかってるわよ、無駄は省きますー。……勇ちゃんのケチ」
「ケチじゃないだろう……この喫茶店は姉さんのものだろ、もう少し店の利益を考えた行動をとってほしい」
そう言われては真魅に返す言葉はない。
……いや、もともと『天使の夢』への寄与率なら真魅が勇士郎にかなうはずもないのだが。
ともかく、午前中の暇つぶしは見つかったのだ。それに集中するとしよう、と考えて。
結局。真魅が気に入ったのは付箋の貼っていなかったやけに高級なマイセンのティーセットとボーンチャイナのカップとバカラグラスのセットで。
勇士郎が帰ってきて大きくため息をつくことになるのは、少し先のお話。
<昼>
帰ってきた勇士郎にしこたまため息をつかれ、お説教はあとだから。ちゃんとするからね、と釘を刺された上で開店する喫茶『天使の夢』。
食事時を少々過ぎた時間帯であるため行列ができるほどではないが、それなりに盛況な様子の自分の店を満足そうに見ている真魅。
と。新たに入ってくる客に目が言った。この店がまったくはやらなかった、改装前からの常連で、近所に住む友人。
久しぶりに見る気がするが、相変わらずのようだ。
挨拶するのも悪くない気がして、真魅はその客のテーブルまで行って挨拶する。
「久しぶりじゃない、京ちゃん」
「あ―――真魅さん。久しぶり、元気そうで」
そう返すのは、喫煙席で堂々とタバコをふかす長身の美人。
相も変わらずラフな格好。美人の中でも、明朗快活洒脱にして闊達。勝気で明るく包容力のあるタイプのその女性の名は柊京子。
真魅に気づいた京子は人懐こい笑みを浮かべる。
京子はこの店と同じく、この界隈にある大きな神社、赤羽神社の近所にあるマンションで実家暮らしの大学生だ。
同じ弟を持つ姉としてなのか、初めて改装前の『天使の夢』―――当時は『漆黒の夢』というなんとも悪夢見そうな感じ名前の売れない純喫茶だった
―――で出会った真魅とやけに意気投合。当時からの数少ない常連客だった。
最近来ていなかったこともあってなのか、京子は安心したように真魅に話しかける。
「いやー、もうびっくりしちゃいましたよ。ちょっと来てない内に店の名前は変わるわ改装はしてるわ。真魅さんの店なのか入るまで心配だったんだから」
「ごめんねぇ。京ちゃんは常連さんなんだから改装した時に手紙の一つも出すべきだったんだろうけど、改装した後色々忙しくってさ。
あ、あの時のコーヒーチケットまだ残ってるわよ。何か飲んでく?」
「ホントに? あー……じゃあ、久しぶりに弟くんの淹れたストロングブレンドが飲みたいかな」
「ストロングブレンドね。ふゆみちゃーん! こっちストブレとカフェラテ一つずつー!」
その声を聞いてふゆみがこくん、と頷くのを見ると、真魅は京子と他愛もない話をしだした。
なにせ本当に久しぶりなのだ。話せる話はいくらでもある。小さなことで笑い、ジョークを言って、時を楽しく浪費する。
コーヒーもそれぞれ3杯目を数える頃、京子が笑みを抑えながら、周囲にちらりと視線を移す。
「それにしても、結構盛況だね。もとから値段以上においしい店だったけど、前はあたしが来た時に他の客は見当たんなかったんだけどな」
「それがさぁ、タナボタでメイドさんかくまったもんだからメイド喫茶に宗旨変えしたら、お客さんがごそっとくるようになっちゃってね」
一見とんでもないことを口にしている真魅。この場に勇士郎がいたなら真魅を叱責するか顔を青くしていたかもしれない。
この世のどこに偶然メイドが逃げてくる喫茶店があるというのか、そもそもかくまう、と言っているということはメイドが何かから追われているということではないのか。
真魅の話したことは全てが事実だが、その背後にはイノセントには知られてはならないウィザードの世界の事情がある。
けれど、真魅とて別に何の考えもなく京子(イノセント)に話しているわけではない。
これまでの付き合いで、京子があらゆる非常識のできごとを『あーまぁそんなこともあるか』、で済ませてしまうタチの人間だと知っているゆえの発言である。
京子は、果たして真魅の言ったことにへー、とどうでもよさそうな声を上げながらはるみとふゆみに視線を向ける。
「ふぅん。メイドさんってあの子たち? よく働くいい子じゃないオーナー?」
「でしょー。もうここはウチに来てすぐ雇用関係結んじゃったあたしの手腕をほめるべきよね」
「はいはいエラいエラーい。弟くんも腕上がったんじゃない? コーヒー前よりおいしくなってる気がするんだけど」
「住み込みで二人が働くようになってから、勇ちゃんってば張り切っちゃってね。
―――まぁ、ちょっと前までみたいに達観した気になって、全部諦めたみたいな目してるよりはマシだと思うんだけど」
流鏑馬勇士郎、という少年は転生者と分類されるウィザードだ。
記憶を引き継ぎ、因果の導きに従い、世界を守るために戦う者達、それが転生者だ。
彼らは記憶を引き継ぐ。常人ならば魂が転生の際に一度漂白され、なくなってしまうはずの前世の記憶。
それを、今世の偉業によって世界から一方的に認められ、法則に干渉されて漂白処理が為されなかったり、記憶を封印されたりした者達。
そんなうちの一人が、現世において流鏑馬勇士郎と呼ばれる少年だ。
転生者はいくつもの生と死を超えた記憶を有する。
ゆえにか、勇士郎はどこか超然として、同年代の子供よりも大人びて、悪く言えばじじむさい子供だった。
彼自身それでいいと思っていただろうし、世の―――というより、転生者の常としてそれはよくあることだったのだろう。
しかし、真魅にはそんなことは関係なかったのだ。
弟なのだ。たった一人の。
流鏑馬真魅にとって、流鏑馬勇士郎は世界にたった一人の弟だったのだ。
転生者とか、勇者とか、ロンギヌスとかはどうでもいい。
彼女にとっては、宿命とか宿縁とか、そんなものなんかのせいで。弟の笑顔が見られないのも弟の人生に刺激がないのも、おかしいと思っただけの話。
だからこそ、真魅は自分の進む道を迷わない。
弟を巻き込んで、むちゃくちゃをやって、勇士郎に呆れられて、けれどどこか困ったように笑わせて。
この世界はお前の知ってるものだけでできてたりはしないんだぞ、ということを思い知らせて。
これまでの人生と。ただ侵魔と戦うのが日常のような、長すぎる彼の記憶の中で、忘れられる日常にならないように。
自分が楽しくて、勇士郎にどうしようもなく楽しい一瞬(いっしょう)をあげて―――そんな、毎日をまわし続けるために。
それが今、うまくいっていることを誇るように、いたずらっぽく笑う真魅。
そんな彼女を、うらやましそうに見つめて。京子はため息とともに告げる。
「あーあ、こんないいお姉さんにこんだけ思われてるんだから、弟くんはよっぽどいい奴なんだろうねぇ。
それに引きかえ、うちの馬鹿は……」
「あぁ、そういえば京ちゃんのとこの弟くんは今年の春高校卒業だっけ。大学でも行ったの?」
真魅は、京子から彼女の弟の話を何度か聞いていた。
なんでも(京子も人のことはいえないが)素行が乱暴、よく家出する、学校の単位も出席日数も危険域。本当に卒業できるのかどうか、と何度か愚痴られたこともある。
最後に京子に会った時は、半年の家出から帰ってきて、運よく学校側の配慮で三年に上がれたもののすぐに二ヶ月ほど音信不通になったと聞いている。
そうそう、と真魅の言葉に頷きながら彼女は続けた。
「聞いてくれるー? ウチの馬鹿ってば辛うじて、運よく、学校側の粋な計らいでなんとか、高校卒業できたはいいんだけどねー……。
定職にもつかずに『ちょっと行ってくる』の一言でまーたどっか行っちゃったわけ。
盆と暮れには帰って来いって行ってるのに、夏も帰ってこなかったし。帰ってきたらガツンとやってやんないとね」
ブレンドを傾け、一口。
京子のその言葉に、真魅は内心京子の弟に手を合わせていた。京子のガツン、はおそらく言葉の通りだろうから。
それにしても因果なもんだわね、と真魅は思う。
流鏑馬真魅は魔法使いである。
それも、運命と星の運行を読むところから始まった陰陽師と、人の無意識である夢の中を見守る夢使い、両方の技術を会得した、凄腕が枕につくウィザードだ。
だからこそ、たまに『見える』ことがある。
それは、宿星を読む陰陽師だけでは人には結びつかず、また夢を守る夢使いでは触れることのできない、深層にして真相。
見た人間全てが全てを見ることができるわけではないが、特に見る対象が変わっていたり、世界で屈指と呼べるほどの世界とのズレを有す存在であると「見えて」しまう。
今の世に生まれ出る以前、魂が漂白される前の――― 一言で言うのならば、前世のカタチを見ることができてしまうのだ。
真魅の見立てでいくと、京子の前世はすさまじいの一言につきる。
最近月衣を得たウィザードの中に、『侍』と呼ばれる者たちがいる。
彼らの祖はただ己の内にある技を磨くことで大いなる魔にすら立ち向かうことを可能とした タダビト(イノセント)より生まれし 異端(ウィザード)。
ただの人よりあらわれて、ただ己の技術を磨き続けることだけで。世界を侵す魔にすら対抗し、その能力をもって魔法すら超えるが彼らの祖。
柊京子の前世は、その侍と後に呼ばれることになるウィザードの一人。
今では名すら記述に残らないが、当時の当代に並ぶ者はなく、史上の侍の中でも指折りに数えられるほどの戦の剣姫。そう呼ばれた者であった。
当時まだ世界結界の存在していなかったファー・ジ・アースにおいて、襲い来る魔を一人で斬り倒し続けた武芸者にして女浪人。
仕官などの話が女であったゆえかなく、諸国を放浪しながら魔と対峙し続け、さまざまな若人に剣を教え、現代も残る様々な古流剣術に確かにその技を根付かせた修羅姫。
『彼女』の名を知る者は今には残っていないが、真魅に見えるヴィジョンでは、気楽に笑いながらリミッターなしの魔王の移し身をずんばらりと仕留めていたりする。
そんなとんでもない力を持ったウィザードであった前世であるのだが、京子はウィザードになる気配がない。
通常、死んだ後の魂は記憶などを分離され、記憶や精神などを漂白によって分離、無垢な魂のみが転生後の体に装填される。
なのだが、『彼女』は何の手違いか、魂そのものの大半を狭界に落っことしてしまったらしく、漂白作業のなされないまま『京子』になった。
あまりに魂のプラーナ量が少ないために、おそらくはこれから先もウィザードに目覚めることはないだろう。
もっとも、魂の中に前世の記憶がほんの微かに断片的に残っているせいなのか、彼女の拳は月衣を貫通できたりするのだが。くわばらくわばら。
閑話休題。
ともあれ。転生前の『彼女』にも、弟がいて、その弟が早くに死んでいる、ということを真魅は知っている。
だからなのか、憎まれ口は叩くものの、京子の弟に対する目は優しい。
もっとも、真魅は姉弟の絆に 転生(そんなもん)なんて関係ない、という考えなため、同じく純粋に弟を心配する姉に答える。
「でも、その弟くんも根性あるじゃない。仕送りとかしてくれてるんでしょ?」
「どっからともなく、エラい大金をね。ったく何をやってんだか」
「そう言いつつ、京ちゃんってばなんか弟くんのこと話してる時はどこか嬉しそうなのよねー」
そう楽しそうに頬杖つきながら言った真魅からいったん視線を外し、京子はブレンドを一口。
ふぅ、とどこか軽いため息をついて、京子はどこか困ったように笑った。
それは彼女の弟がよくやるような、保護者の笑みだったのだが―――そんなことは、ここにいる二人にわかりはしない。
「まぁね。
あいつは馬鹿だし、頭悪いし、女心に疎いし、実はアレの鈍感のせいで影でたくさんの女の子が泣いてるのも知ってるし、無理も無茶も無謀もすぐにやらかすし、
寝坊するし、頑固だし、あんまり甘えないし、大事なことはあたしにひとっことも相談しやがらないし、壊滅的に頭が悪いけど。
―――それでも、曲げないし、諦めないからね」
そういう馬鹿は、あたしは嫌いじゃないから、と笑ってから。
ため息をついて、彼女は目を閉じて微笑む。少し残念そうに。
「あーぁ。 ―――ちょっとばかり、イイ男に育てすぎたかね」
その彼女の言葉に、真魅もまた微笑んで。京子の首をぐっと抱き寄せ、このこの、といじめる。
「なによ、弟自慢? うちの勇ちゃんだって凄いんだからねっ」
「いたいいたいって真魅さんっ、ほんと凄いと思うよ弟くん。真魅さんの弟やってんだもん」
「それはどういう意味よっ!?」
言葉まんまの意味だと思われる。
―――ともあれ。
共に、厄介な弟を抱えた厄介な姉が二人いる、喫茶天使の夢の午後は。
穏やかに速やかに緩やかに流れていくのであった。
<夜>
営業時間も終わり、すっかり夜の帳に覆われた町。そんな中、天使の夢の店先に4人の人影があった。
勇士郎、はるみ、ふゆみ、真魅の四人である。
ちょっとした事故(真魅談)により、風呂場のボイラーが故障。近所の銭湯に行くことに決定したのである。
勇士郎が、本日何度目かのため息をつく。
「……姉さん、新しい魔法の練習とか訓練とかは非常に結構なことだと思うんだけどさ。ウチの風呂場でやらないでくれないかな」
「あははごめんごめん。さすがに壊れちゃったのは初めてだったから焦ったわよ」
「練習自体は今日がはじめてじゃないのか……」
真魅は水を第一属性とするウィザードだ。
ウィザードとは魔法使いの総称なわけであるが、魔法はどこでもどのような魔法でも使用できるわけではない。
この世界に満ちる属性―――天・冥・地・水・火・風・虚―――を帯びたプラーナの存在するところでしかその属性の魔法は使うことができないのだ。
月衣内への干渉―――付与魔法など―――ならばある程度はその前提も覆るが、外界に干渉する攻撃魔法はそうもいかない。
星一つなく、人工の光すら存在しない夜闇で光を扱う魔法は発動しないし、雲の上ほどの場所で足場として地面を粘土のように変化させて延ばすのは無理がある。
そして真魅は魔法を主体として戦うウィザードである。
魔法の研究には、多分に好奇心が混じるものの、余念はない。だからこそ水属性のプラーナを多く有するところを探し。
「……頑張りは評価するけどさ。
色々がんばりすぎて、風呂場を水の圧力で破壊しないでくれるかな。
水道管まで内側から圧力かかりすぎてパイプが百合の花になってるって、どうやって工事の人に弁解すればいいのさ」
……風呂場を完膚なきまでに破砕したのであった。
疲れた様子の勇士郎に、下手人はあっけらかんとした笑顔で答える。
「あはは。勇ちゃん頑張って説明してね」
「自分でやってくれ」
「えぇー、たった一人の肉親がこんなに困ってるって言うのにー?」
「たった一人の肉親が犯人なんだったら自業自得、因果応報、悪因悪果。当人がなんとかするしかないものだろう。俺は手伝わないよ」
大抵は真魅の頼みを聞いてくれる勇士郎も、今回は少しご立腹なようである。
内心でありゃ怒らせたか、と舌を出しながら、真魅はぶー、と言いながら勇士郎に答える。
「わかったわよ、自分でなんとかするわ。
あ、ただお金―――」
「自分で責任を持ってくれ。店のお金は出さないから」
「えぇっ!? ゆ、勇ちゃんそれは厳しすぎない?」
「ない。ウィザードの仕事の一つや二つあるだろう? 軽い仕事でもこなせばお金になるんだ、頑張ってくれ」
真魅は助けを求めるようにはるみとふゆみに目をやるものの、はるみは困ったように乾いた笑みを、ふゆみは小さくため息をつきながらやりとりを傍観している。
援軍は期待できない。肩が落ちるのが、真魅自身にも理解できた。
わざとらしく後ろを向いて、地面にのの字を書くフリをしながらすねてみせる。
「うぅぅ……あたしの楽園はどこにいっちゃったのやら」
「楽してお金を儲けよう、というその考えが間違ってるんだよ。人間もっと地道に生きていかないと」
「勇ちゃんが厳しいよう……あたしがおしめを変えてあげたあのかわいい勇ちゃんはどこへ……」
「それとこれとは話が別だよ、姉さん。
せっかく魔法の研究してたんだろう? イライラ解消も含めていいから、なんとかお金を稼いできてくれないと困る」
それもそうか、と納得。同時にやれやれ、という表情(ポーズ)を作りながら真魅は答える。
「わかったわよぅ……なんとかすりゃあいいんでしょ、なんとかすれば」
「そうしてくれ。ほら、行くよ姉さん。無駄口してると銭湯の時間が―――」
「大丈夫よあそこ夜の2時までやってるし。それより勇ちゃん、あたし忘れ物しちゃった。二人と先に行っててくれない?」
くるりと踵を返して真魅。その背中に少しだけいぶかしげな表情をする勇士郎。
いつもならば、忘れ物はとりあえず勇士郎に持ってきてくれない?と頼んで却下された後自分で持ちに行くのが真魅の行動パターンのはずで、つまりは嘘だ。
けれど、真魅は無茶なことを人にさせても、無理なことは自分はしない。無理なら素直に誰かに援軍を頼む。つまり今回は一人で対処できる、という判断ということだ。
ここで彼女の判断を疑うのは、彼女への侮辱につながる。
そう考えて、歩き去っていく背中に、一言だけ声をかけた。
「姉さん」
「ん、なに勇ちゃん。やっぱりあたしがいないと寂しいですーとか?だめよう、そんな両手に花状態なのに。
はるみちゃんとふゆみちゃんに嫌われちゃうわよ、このシスコン、って―――」
「気をつけてね」
一拍。
「だいじょーぶよ。チカンが出たら生まれてきたこと後悔させてやるってば。もう、勇ちゃんってば心配性ねぇ。じゃ、後でねー」
言ってそのまま歩いていく。
勇士郎はその背中に向けて一つため息。
「……まったく、妙なところで天邪鬼なんだから」
「はい? なにか言いましたか勇士郎さん?」
「ううん、なんでもない。先に行ってよう、ふゆみ、はるみ」
そう言って。三つの影は身を寄せ合って夜道を進んでいった。
***
「―――あれはバレてたわねー、絶対。
まったく、勇ちゃんってば妙なところで鋭いんだから」
困っちゃうわよねー、もう。とぼやく。
思えば、真魅の絶滅社時代、任務に赴く時は毎回あんな風に笑ってかわして、いつもいつもその背中に気をつけて、と言われていたような気がする。
彼女が、弟との二人暮らしを成立させるために赤い夜を駆け回っていた青春時代。
当時まだ勇士郎は一桁のお子ちゃまではあったが、やはり聡い子供で。
真魅の嘘を見抜く目を持っていながら、それでも彼女がその生活を壊す気がないことを理解していた。
彼がいまだ、戦う力を持たないがゆえに。彼女が戦っているということをわかっていたために、彼もいつかは姉の力になろうと思ったのかもしれない。
そのことは神でも勇士郎でもない真魅にはわからない。
だから、そんな感傷は振り捨てて。今すべきことに彼女は 視線を戻(しゅうちゅう)した。
ひたりと目を閉じて、ハイヒールのかかとを軽く鳴らす。
かつん、と乾いた音。
音が広まるように、青い波紋がアスファルトの上を走る。
石を落とした水面のように。渡り行く風のように。彼女が望む位置まで『境界』がきたことを知覚、拍手を一つ。
波紋の境界は、それに呼応するようにその場所にぴたりと停止。同時にビルの4階相当の高さまで青い壁をそそり立たせる。
月匣。
ウィザードにも最近使用できるようになった、「魔法」の一つ。一般人への影響を与えないために使用される結界の一種。
これを使用した以上は、相手にもこちらの意図は伝わっているはずだ、と考え、腕を組んで彼女は声を上げる。
「そんなわけよ。出てきなさいな、あんまりじろじろ見られるっていうのも好きじゃないのよ」
その声に呼応するように、電柱の影から、裏路地から、マンホールの中から。次々に現れるのは統一された制服に身を包み、槍型の魔法発動杖を持った仮面の集団。
彼らは、槍の穂先を天に掲げたまま真魅を取り囲むように集う。
その距離10mあまり。あまりに数の違いすぎるその相手に対し、しかし臆することなく彼女は尋ねる。
「それで? なんとなく察しはつくけど、あんたらはどこのどなたのナニ子ちゃんで、何が目的かってのは話してもらえるのかしらね?」
面倒そうにそう告げながら指先にふぅ、と暖かい息をかける真魅に、仮面の一人が答える。
「我らは世界の守護者・アンゼロット様の直属部隊である『ロンギヌス』の者だ。この度は流鏑馬勇士郎殿にアンゼロット様よりのお言葉を届けにきた次第。
非礼は詫びる。勇士郎殿と面会させてはもらえないだろうか」
ロンギヌス。
それは守護者直属のエリート部隊の名前であると同時に、世界を守る聖槍を自称する世界屈指の戦闘集団である。
そんな、一介のウィザードならばその名を聞くだけでしり込みしてしまいそうな集団の名を耳にしてなお、真魅はいつもの姿勢を崩さない。つまらなそうにたずねる。
「それで? 勇ちゃんは今学生とウチの手伝いで忙しいのよ、話なら姉のあたしを通してからにしてくれる?」
「し、しかしアンゼロット様のご命令で―――」
「どうせ勇ちゃんに話せって言われてるだけで他の人間に話すなとは一言も言われてないでしょ?
そもそも家族にすら話せないようなことなわけ? へー、そんなやましいことしてるんだ、ロンギヌスって」
「なっ……し、失礼なっ! 我らにやましいところなどあるはずがないだろうっ!」
「ならちゃっちゃと話しちゃってよ。そもそも勇ちゃんは未成年、保護者がウィザードなら話す義務があるでしょう。
ほら、早いとこしゃべらないと月匣解除してあげないわよー?」
どうでもよさそうにふぅ、ともう一度息をかける。
真魅に話しかけたそのロンギヌスは苦虫を噛み潰したような表情をしながら、真魅の問いに答えた。
「―――アンゼロット様は、一度ロンギヌスを一身上の都合で脱退した流鏑馬勇士郎を許す、と仰せだ」
「ふぅん? たしか勇ちゃんはきちんと手順を踏んであそこを出てたはずだけど?」
流鏑馬勇士郎はしばらく前に、戦いのむなしさからロンギヌスを脱退している。
脱走ではなく、脱退だ。きちんとアンゼロットに許可を得た上でロンギヌスを抜けたのであるから、許すも何もないはずだ。
もっとも、彼女には向こうの台所事情も、アンゼロットの真の思惑もなんとなく理解はできているので口には出さないが。
ロンギヌス隊員はそれに気づいた様子もなく、表情の変わらぬ真魅に講釈するように語る。
「ロンギヌスは一度脱退した者は基本的に二度と複隊することはない。心が折れた弱者に用意する席などは、世界を守る楯にはないのでな。
しかし、状況が変わった。冥魔という存在を知っているな? あれを滅するにはウィザードの数はいくらあっても困らないのだ」
冥魔。
今年の三月に起きた、今だに記憶に新しい大事件の結果この世界に攻めてくるようになった新たなエミュレイター。
真魅もフリーの身ながら、2、3度遭遇・撃退している。
一般的な侵魔などとは一線を画す厄介な相手。それが全世界のウィザードの認識だ。
しかしその話にも、真魅はやはり指先に息を吐きかけるだけ。
「冥魔関連の話なんてどうでもいいの、すぱっと本題言いなさいよ男らしくないわね」
「っ! ―――あ、アンゼロット様は、流鏑馬勇士郎を再びロンギヌスに迎えたいと仰っておられるのだ!」
真魅の言いように激昂したようにロンギヌスが答える。
その言葉を聴き、はぁ、と再度のため息。
「最初っからそれだけ言えばいいのよ。まったく、お役所仕事みたいに頭固いんだから。さくさく話進めなさいっての」
「うるさいっ! それで、どうなのだ! お前の要求には応えたぞ、流鏑馬勇士郎に会わせてもらおうか!」
声を荒げるロンギヌスの隊員に対し、真魅はにっこりと営業スマイルを浮かべ。
「―――却下。<ハリケーン>っ!」
己が全力を込めた魔法を解き放った。
100パーセントの不意打ちで放たれた暴風は、彼女を取り囲むロンギヌス隊員の実に半数以上をなぎ倒し、吹き飛ばし、飲み込んだ。
風が一通り収まるのを待ち、真魅は酷薄な目と皮肉気な笑みを浮かべてロンギヌスたちに向けて答える。
「悪いけど。ウチの勇ちゃんはあんたらの世界救済ごっこには付き合いきれないって言って脱退したはずよ?
それなのに、あんたらの都合なんぞで勝手に戻れっていうのは、さすがに現金すぎるでしょ。
絶対ないだろうけど、あたしだって絶滅社から同じオファーされたら担当業者張り倒すわよ。こっちの都合考えろ馬鹿ヤローってね」
「ろ、ロンギヌスだぞっ!? 我らにたてつくということがどういうことかわかっているのかっ!?」
「知ったこっちゃないわ。
上の名前チラつかせて自分たちを大きく見せることしかできないような、虎の威を借りた気になってる狐のつもりの負け犬の集団が、あたしに何をするって?」
「き……貴様っ! それ以上の侮辱は許さん! 倒してくれる!」
槍の穂先が軒並み真魅の方を向いた。しかし。
「遅いのよ、このボンクラ集団」
すでに。真魅は会話の間に魔装の換装を終えている。
手品のように、どこからか取り出された新たな符がその指にはさまれており、青く輝く。
「<エアフィスト>」
先ほどまで渦巻いていた風は、その輝きのもとに即座に収束、一点に向けて打ち出される。
そんなものをまともに食らったロンギヌスは吹き飛ばされ、即座に不自然に痙攣しながら戦闘行動が不可能になる。
半数以上の人員がすでに戦闘不能になったという事実に冷や汗を流しながら、指揮を執る一人がヒステリックに叫ぶ。
「え―――えぇい! 一斉射撃だ! 当たりさえすれば、我らの一撃は魔を貫く! 囲め、囲い込んで―――今だ、撃てっ!」
輝きを放つ魔導発動体の群れ。
放たれるは神威の雷光。
20を超える光の条閃は一人の女に向けて容赦なく放たれ、炸裂。
確かな手ごたえを感じ、ガッツポーズをとる指揮者の耳元で、囁く声。
「対象が撃破された確認ができるまで、勝利の確信なんてしない方がいいわよ? もひとつおまけに<エアフィスト>」
同時。真横から至近距離で放たれた大気の鉄拳は、彼を吹き飛ばしながら一瞬で意識を刈り取った。
ざわめく周囲。
彼らの目では確かに先ほどまで真魅は光の中に消えたはずで、それが今のこの状況に結びつかない。
真魅は講釈してやるように、月衣の中から一枚の符を出して口元を隠しながらイタズラっぽく笑う。
「あーあ。勇ちゃんのことは聞いてても、あたしのことは聞いてないなんてね。それとも、あたしの青春も今は遠くなりにけりってやつなのかしら。
ひよっこたちにわかりやすく教えてあげるわ。
あたしの名前は流鏑馬真魅。10年ほど前に絶滅社にいた夢使い。今は陰陽師でもあるけどね。
夢使いはご存知の通り夢を渡り現実との境を守る者。あんたたち程度なら認識をいじくるのはたやすいことよ、理解できたかしら?
そんじゃ、講釈ついでにもう一つ。
装備に頼ってばかりいるあんたらじゃ、常に研鑽を積み続ける人間にゃ勝てないっていうのを、ちょっと見せてあげるわ」
口元を隠していた一枚の符が、再び手品のように両手に扇のように出現する。
両の扇で空気を撫でるように、くるりくるりとその場で回りながら、安全装置を外すための言葉をつむぐ。
「色は黒。方位は北。汝は潤いを与え命をつむぐ者。其は調和の使者。我が声を聞きこの手に集え」
かつんっ、と勢いよくハイヒールを打ち鳴らす。
声は止まらない。
「色は青。方位は東。汝は駆け回りて命をはこぶ者。其は自由の使者。我が声を聞きこの手に集え」
再びの乾いた音。
同時。両手の符を投げ上げる。ただの紙ならばすぐに落ちただろうそれは、空を駆け上がる流星のごとくに飛んでいき―――真魅は、片手を天に掲げた。
にやり、と微笑む口元が、ロンギヌスたちの背筋をぞろりと逆撫でる。
蛇に射すくめられた蛙のごとく微動だにしない彼らを見て。
真魅は、一言だけ告げた。
「自分が正しいって信じるのは大事なことだけどね。
相手にも相手の都合ってモンがあんのよ。だったらせめて筋通しなさい。上を妄信的に信じてるんじゃなくて、自分の理由を見つけなさい。
これが最後のあたしの教授よ。
じゃあ―――あとは、体に刻んで覚えなさいっ! 天上の雷光! 風雨の緞帳! 其は我が敵を薙ぎ払う暴虐なり! <ライトニング、スコォォォール>っ!」
そして。
月匣の中に生まれるのは大嵐。そんなものに人間が抗えるはずもなく。
雷に打たれ、風に吹き飛ばされ、雨の水流に流されて。あっけなく、ロンギヌスは全滅した。
***
今しがた台風でも通り過ぎたかのような惨状の中、一人立つのは雨に濡れず、風に髪一本乱していない術者のみ。
ぱんぱん、と。両手を砂を落とすように払って、真魅は告げる。
「見てるんでしょ? 出てきなさいな」
「―――やれやれ」
そう言って、路地裏から現れるのは白い人影。
白タキシードに白チーフ、今軒並み倒れているロンギヌスたちと同じ白仮面。
実力者や特殊能力者の集められる、ロンギヌスのエリート中のエリート、ナンバーズの中のさらに異端。
ロンギヌス00。存在しないはずの番号を与えられた、人造人間にして強化人間。真魅とはとある一件より顔見知りである。
彼は皮肉気な笑みを浮かべながら真魅に苦言を呈す。
「彼らはロンギヌスの一員だ。それが任務を失敗したとなれば、尻拭いは私がすべきだろうよ」
「よく言うわよ、任務なんて建前のクセに。わざわざ峰打ちにしてあげたのよ? 慰謝料もらいたいくらいだってのにね」
「……魔法でどうやって峰打ちを?」
「夢使いには魔法で相手を峰打ちする技術が伝わってるのよ」
「初耳だ」
「どうせ会う機会もあるでしょうから現職最強の変態黒マントにでも聞いてみたら? 自信満々であるって答えるから」
鈴木さん家のパパがくしゃみしたとかしないとか。
閑話休題。
真魅は盛大にため息をつきながら、やれやれ、というように肩をすくめる。
「世界の守護者サマの真の思惑は、勇ちゃんを連れ戻すことでもなんでもなくて、このひよっこたちが経験を積むこと。
こんな三下以下どもじゃ、勇ちゃんに剣抜かすことすらさせられないわよ。
ともあれ。
はるみちゃんやふゆみちゃんと一緒のところを襲われたら、不測の事態が起きるかもしれないところを、
わざわざこのあたしが出張って助けてあげたんだから感謝してほしいくらいね」
「……新しく作った魔法の実験台が欲しかった、と顔に書いてある気がするのだがね」
「ギブアンドテイクよ。何かを得るためなら何かを支払わなきゃいけないのは当たり前でしょう?」
あっけらかん、とそう答える真魅に相変わらずだな、と呟いて。彼は一礼して去ろうとする。
「新人たちにもいい教導になったことだろう。事実、我が主は勇士郎を捕らえるつもりはない。安心してくれ。
では、私はここで失礼させてもらうと―――」
「待った」
笑顔で伊右衛門のスーツの袖を引っつかむ真魅。……嫌な予感はするものの、彼は振り向いて尋ねる。
「……なんだね?」
「迷惑料も置いてかずに去るってのは、虫がよすぎるんじゃない?」
「図々しいな君はっ!?」
「何言ってんの! 商売人はむしれるとこからむしってナンボ、さっさと出すもの出してってもらいましょうか?」
「……そろそろ君はライフパスの清貧を何か違うものに変えた方がいいと思うんだがね」
「何言ってるのよ、ほら清貧な善人よ? キャラシートにも書いてある」
それは違う人だ。
閑話休題。
真魅はあぁもう、と叫ぶとその白スーツの手を取って引っ張る。
「ラチがあかないわ。ちょっと一緒にいらっしゃい、銭湯代払ってもらって家に帰った後ちゃんとお金については話をしましょう。
どうせ勇ちゃんとも久しぶりでしょ。会えれば喜ぶと思うしちょうどいいわ」
「ま、待ちたまえっ!? 銭湯ってなんだ! なぜ私が行かねばならんっ!?」
「決まってるじゃない。あたしがお風呂壊しちゃったからみんなで神田川なのよ。OK?」
「そんな説明でわかるかっ!?」
「まぁまぁ。勇ちゃんが喜ぶだろうってのは本当だし、あなたもアレ以来勇ちゃんには会ってないでしょ? たまには旧交をあたためるってのも悪くないんじゃない?」
放せー、という声は夜の秋葉原に消えた。
***
「ま。今の楽しそうな勇ちゃんの邪魔するっていうのなら、あたしはどんな手段も問わないけどね」
「……君は意外とブラコンだな」
「あら、下着は黒だけど。見る?」
「誰がそんなことを言ったっ!?」
fin