卓上ゲーム板作品スレ 保管庫

第06話

最終更新:

takugess

- view
だれでも歓迎! 編集

柊蓮司攻略作戦・エリスの場合~エピローグ~





 嬉しいことってなんだろう。
 楽しいことってなんだろう。
 それは私にとって「だけ」じゃ、絶対にダメなことで。
 ましてや、柊先輩「だけ」でもダメなことで。

 みんな嬉しい。みんな楽しい。
 それがなにより、絶対、絶対に大事なこと ―――

 私は、そんな風に思うんです ―――




 キッチンに小気味良く響く、まな板の上を包丁が踊る音。
 タン、タン、タン、と一定のリズムを刻む軽やかな音にはひどくご機嫌な鼻歌が乗せられて、周囲を漂い始めた食欲をそそる匂いとともに、居間のほうまでふわりふわりと届いていく。
 そして、また。
 ことこと、ぐつぐつ、しゅうしゅう、と。
 キッチンを賑わす調理の音色。それは音ひとつだけでも、「食欲」という名のオーディエンスを期待させてやまない、食材と食器たちの混声合唱である。
 たっぷり買い込んだ食材と。
 まるで魔法のように広げられた鍋やらフライパンやら一杯のお皿やら、と。
 これらが「食」を題材とした楽曲を奏でる楽団であるとしたならば、炊事場に立つ少女 ――― 志宝エリスは、作曲家であり指揮者でもあるのだろう。
 指揮棒の代わりに、味見用の小皿とおたま。
 右へ左へと軽やかにステップを踏む彼女はまた、“演奏者”の一人でもあるのだった。
 組曲『晩御飯』 ――― エリスのステップと鼻歌、そして調理の賑やかな音を評して、そんな表題をつけてもいいかもしれない。

 うきうきと、エリスが踊るキッチンは ――― いや、キッチンというよりいかにも和風の台所は、奥行きのある大きな日本家屋の一角に存在していた。
 いまの彼女が住み暮らす、馴染みの台所。
 霊験あらたか、家内安全、商売繁盛。
 その名も由緒正しき、赤羽神社の人々が暮らす母屋の一角なのであった。
「エリスちゃーん、お野菜の皮むき終わったよー」
「はーい。お疲れ様です、くれはさん。それじゃ、次はそのお野菜を千切りにしておいて貰えますか?」
「……エリス。足りなかった調味料……これでいい……?」
「わ、ご苦労様、灯ちゃん。寒いのにお使い頼んじゃってごめんね。うん、これで全部揃ったよ。ありがとう。居間のほうで休んで? コタツもあるし、先輩も待ってるし」
「……もっと手伝う。なにか、仕事言いつけて……?」
「うーん、それじゃ、頼んじゃおうかな。居間に人数分の食器を用意しておいて貰えるかな? それと、物置に土鍋とガスコンロ、あるはずなんだけど……」
「……了解。取ってくる」
 台所に立ち、この後に控える楽しい食卓の準備に余念がないのはエリスだけではない。
 くれはと灯も合わせて、三人の少女たちの賑やかな声が赤羽家の居間と台所の間を飛び交っている。エリスは布巾で包丁をひと拭きすると、次の食材を手に取った。
 鶏肉である。それをまな板の上で一口サイズに切り分ける作業が開始された。いつの間にか、エリスの細い歌声は、冬の年の瀬の定番「第九」へとスライドしている。
 楽しげに調理を続けるエリスの真横へと、くれはが遠慮がちに立った。
 わざわざ野菜用のまな板をずりずりと引きずって。
 くれはが、いつもの彼女らしからぬ歯切れの悪さで、エリスに呼びかける。

「エリスちゃん、ごめん」
「はい?」
「なんか、気を使わせちゃったのかなって」
 くれはが言うのは、地下食品売り場での邂逅を指しての言葉である。
 一足どころか二足、三足遅れの柊の卒業祝いということで、エリスと柊二人きりのお夕飯のため、食材の買出しにやってきていた二人と、偶然出会ってしまったくれは。
 柊のためになにかをしてあげたい、というエリスの切なる願いに気づいたくれはが、二人から逃げるようにして別れた直後、携帯にエリスからの着信が入ったことで、現在の状況にいたる。

『着信:エリスちゃん』

 携帯のディスプレイに表示された文字に息を飲み、わずかに躊躇った後で呼び出しに応じたくれは。
「も、もしもし、エリスちゃん? どうしたの?」
 上手く声の震えを隠せただろうか。そんなつまらない危惧に心を砕く。
『あ、くれはさん。いまどちらですか?』
 息せき切って、そんな風にエリスが問う。
「は、はわ、いま、帰るとこだよ」
 だって二人の邪魔はできないから。せっかく、エリスちゃんが勇気を出して柊を誘ったのに、いつまでも二人を引き止めておくことなんてできないから。
『直接帰るんですよね? 寄り道とか、しませんよね? それじゃ、買い物済ませたら私たちも帰りますから、待っていてくださいね』
「はわ!? か、帰るってウチに? だってエリスちゃん、ひーらぎと……」
『はいっ。柊先輩と一緒に赤羽神社に帰ります。くれはさん、すいませんけど、ほかにもお客さん連れて行っても構いませんか?』
 エリスがそんなことを言う。

 なんで? どうして? ひーらぎと二人きりのお夕飯なのに、なんでウチに帰ってくるの?
 しかも、お客さんを連れてなんて、どういう意味?
「う、うん。ウチは全然平気だよ。居間、広いから。だけど ――― 」
『よかったあ。ありがとうございます、くれはさん。それじゃ、期待して待っていてくださいね』

 プツッ、ツーツーツーツー。

 呆気に取られたくれはが言葉を繋ぐ暇もなく、エリスからの電話は切れてしまった。
 疑問符だらけの混乱した頭で、とりあえず帰途についたくれはは、玄関に到着した瞬間、エリスの取った行動にますます不可解な思いに囚われたのである。
「……くれは」
「はわっ!? あかりん!?」
「……エリスに呼ばれて、来た。たくさん、エリスの御飯食べられるって」
 お客さんを連れてくる、とは灯のことか。
 エリスとの通話からのタイムラグを考えると、きっとあの後すぐに灯にも連絡を入れたのに違いない。くれはの帰宅と同時に到着したということは、きっと箒に乗って飛んできたのだろう。
 そして、くれはの驚きはそれだけに収まらなかった。
「今晩は、くれはさん。灯さんも」
「ご無沙汰しております」
 神社の境内の宵闇の向こうから、男女の声が呼びかける。
 いつの間にやら音もなく(おそらくはどこかの空から灯と同様に飛んできたのであろう)、境内には一台のリムジンが停まっていた。
 夜の闇の中でさえ映える黒いドレスに身を包んだ銀髪の少女と、その背後で彼女を守護する騎士のように控えた仮面の青年の姿が視界に飛び込んでくる。

「はわわっ、アンゼロットにコイズミさんまで!?」
 “世界の守護者”とその側近が、そこには立っていた。境内の玉砂利を音を立てて踏みながら、アンゼロットが歩み寄る。
「年の瀬の忙しいときに急な呼び出しなんて、随分忙しないことですわね」
 そう言いつつも、アンゼロットの声に非難の響きはない。
 これは時節柄の挨拶のようなものなのだろう、とくれはは理解した。
「……二人ともどうしたの?」
 灯の不審げな問いかけに、一礼をして主の代わりにコイズミが答える。
「は。先ほど柊様から私の0 ― PHONEへご連絡いただきまして」
「ひーらぎが?」
「はい。なんでも、エリスさまが手ずからお料理の腕を振るわれるとのことで。ぜひ我が主を、そして勿体無くもこの私めも晩餐にご招待いただきまして」
 ますますエリスちゃんの行動がわからない。
 私、あかりん、アンゼロットにコイズミさん。
 これだけお邪魔虫が勢揃いしたら、二人きりのディナーどころじゃなくなっちゃうよ?
 そんなことを、くれはは心配してしまう。
 もしかしたらエリスちゃん、私に気を使ったのかな。だから、私も一緒にお夕飯に誘ってくれたのかな。でも、私たち三人だと気まずくて、こんなにたくさん人を呼んだのかな。
 そうも思ってしまう。
 しかし、不可解な面持ちのまま居間へと来客を通し、数十分後に帰ってきた二人 ――― 言うまでもなくエリスと柊 ――― の姿を見た瞬間。
 自分の心配が杞憂だったことにホッとする半面、やはりエリスの考えていることがわからなくなるくれはなのであった。




「ただいまー。皆さんもうおそろいですかー?」
 溢れんばかりの喜色を浮かべたニコニコ顔のエリスと。
「ぐぬぬ……も、もう二度、と……女の買い物には、つき、あわ、ねー、ぞー……」
 両手だけでは到底足らず、背中や首にまで買い物袋をぶら下げて、よろよろと境内への長い石段を登ってきたのであろう柊の、息を切らした声。
 くれはの見る限り、エリスの表情に暗いものや懊悩の影は微塵も見えない。
 居間に勢揃いした面々の顔を見つけて、本当の本当に嬉しそうな顔をしているのであるから、くれはにしてみればますます不可解である。
 いったい何人分の食材を買い込んできたのだ、と唖然とするぐらい大量の荷物を、柊が居間の畳に降ろしたとき、すでにエリスは制服の上からエプロンを羽織っていた。
 エリスの真意がわからなくて。エリスの真意が知りたくて。その好奇心についつい抗うことができず、だからくれはは台所でエリスに話しかける機会を窺っていたのである。




「気を使うなんて。私のほうこそ、くれはさんにお礼言わなくちゃ」
「はわ? お、お礼?」
「はい。私、やっぱりまだまだですね……だって、気づきもしなかったんです。柊先輩のためにお料理を作りたいって思っていたのに、私ったら ――― 」

 本当に柊先輩にとって一番のご馳走がなんなのか。それに気づいていなかったんです。
 エリスは、そのときだけちょっぴり淋しそうな表情をした。
 柊と二人で買い物をしていたとき、確かにすごく楽しくて嬉しかった。
 だけど、あの場所と時間には、「私たち」だけしか居なかった。
 柊先輩の一番喜ぶことをしてあげたい。そう、考えていたはずなのに、一番喜んでいたのは他の誰でもない、自分ひとりだけだったのではないだろうか。
 自分のために、くれはがそっと身を引こうとしていることに気がついたとき、エリスはそのことにも気がついたのである。

 くれはは、柊が幸せであるのなら、と身を引くことを知っていた。でも、自分はそのことに気がつくまで随分と時間がかかってしまったものだ。
 だから、くれはに心から「ありがとう」。
 だから、やっぱり私は「まだまだです」、と。

 エリスは考えた。柊先輩のために。柊先輩が喜ぶこと。柊先輩にとっての一番。

 それは、いつでも誰かのために、みんなのために戦い、傷ついてきた柊が、もっとも望むこと。
 みんなが笑って、みんなが一緒で、みんなで平和な時間を共有できること。いつだって彼は、そんな時間や場所を守るために、戦っていたのではなかったか。
 だからこそ、みんな。みんなを呼んで、みんなと一緒に御飯を食べて。
 それこそが、柊の一番囲みたい食卓なのではないだろうか。
 エリスの考えが正鵠を得ていたことは、柊の笑顔と言葉が力強く証明してくれた。
 あの時、地下食品売り場で。
「柊先輩! ごめんなさい。やっぱり、二人きり……じゃなくて、柊先輩お一人に、お料理を独り占めさせてあげられなくなっちゃいました!」
 エリスが柊の顔を見上げ、そうきっぱり言い切ったときの柊の顔。
「そーだな。そりゃそーだよな」
 と、そう言って笑った柊の顔と声の、なんと嬉しそうであったことか。それは、エリスの選択が間違っていなかったことの、なによりも確かな証拠であった。

「だから、いいんです。みんなで楽しく御飯食べたいのは、私も柊先輩も一緒なんです」
 エリスは調理の手を休めずに、うふふ、と笑ってそう言った。
 包丁を操るその手元を、くれはがじっと見つめている。そのリズムに狂いはなく、エリスの心が平穏そのものであることがよくわかる。
 なにごとかが、くれはの胸の中で腑に落ちたのか。その顔に浮かんだ表情は、いつものくれはの太陽のような笑顔であり。

「ぃよぉーし、私もじゃんじゃん手伝うからねー。そんで、今日はじゃんじゃん私も食べちゃうもんねー」
 そして、二人が笑い合う。ようやく、いつもの二人が戻ってくる。
 エリスの耳に、かすかに柊とアンゼロットの他愛もない言い合いと、たしなめるコイズミのオロオロした声が届いてきた。

「あんまりお待たせすると、みなさんお腹が空きすぎて不機嫌になっちゃいますから。急いで用意しましょうね、くれはさんっ!」

 ガッツポーズも凛々しく、エリスは満面の笑顔を浮かべていた。




「お招きに預かっちゃってー……って、本当に来ても良かったの? 蓮司」
 エリスの料理が完成に近づく丁度いいタイミングで。
 赤羽家の居間に顔を覗かせたのは、誰あろう蓮司の姉・京子であった。帰宅途中に柊の携帯を借りて、エリスが直接話をつけて呼びつけたのである。
 力一杯遠慮する京子を、時たま鎌首をもたげる押しの強さで説き伏せて、エリスが半ば強引に同席を承諾させたのだ。
「エリスがいいっていうんだから断る理由はねーだろ。むしろ、姉貴にはぜひ来てくれって言ってたぜ」
 弟の台詞に、一瞬きょとんとした顔をする京子。しばらく思案顔をしていたが、その表情には次第に理解の色となんともいえない微笑が広がっていく。
「な、なんだよ。急に笑い出しやがって」
 気味悪そうに一歩引く弟に、軽くゲンコツを入れてやる。
「いてッ!」
「ったく、この幸せモン」
 その言葉の意味が分からずに眉をひそめて弟を見て、京子が深い溜息をつく。彼女の思いは、実に複雑なものであった。
(そっか。そういうことね……まったく……思った通り、どころか私の思ってた以上に、やっぱりエリスちゃんスゴクいい娘じゃないのよ)
 これじゃ、ますますくれはちゃんとどっちを応援してあげたらいいのかわからなくなるわ。
 贅沢な悩みといえば贅沢だと言える。問題なのは、当の弟がこの状況を僥倖ともなんとも感じていないところにあった。

「てゆーか、蓮司。随分とこの部屋の女の子率、高いわね」
 居並ぶ面々を一瞥して、目ざとく指摘する京子である。
「あ? ああ、まあそうだな。でも油断ならねえぞ。女ばかりだからって食が細いわけじゃねえからな。いかに自分の食う分を確保するかが勝負の別れ目ってばぶらぼげらばっ!?」
「だーれが食いモンの話をしてるかっ!?」
 柊の頭頂部に、京子の踵が落ちる。あまりの朴念仁ぶりを発揮した柊の色気のない発言に本日何度目かの体罰行為が発動したのは無理からぬことで。
 きっと、京子の造詣が深いのはプロレス技だけではない。
 新体操選手でもこうはいくまい、と思わせる柔軟な体躯の開脚から放たれたのは、頭上から垂直に降り落とされた踵 ――― 通称、“ネリチャギ”と呼ばれる足技である。
 ド派手な音を立てて畳みの上に沈んだ柊を、アンゼロットが目を丸くして凝視した。
 ウィザードである柊をイノセントでありながら叩きのめす京子 ――― 実際に目の当たりにしてみると、新鮮な驚きがあった。
「お見事な体捌きですわね」
 溜息とともに漏れた言葉にはまぎれもない感嘆の響きがある。赤羽神社敷地内ということで、一応は遠慮して禁煙パイプをくわえていた京子がたははと笑い、
「いやー、恥ずかしいとこ見られちゃったなー。愚弟を折檻しているうちに自然に身についただけなんだけどね」
 そうアンゼロットへ謙遜してみせた。
 さすがは柊様の姉君です、と誉めそやすのは数少ない男性のひとり、コイズミである。
 京子とアンゼロット、初対面であるはずの二人だが ―――
 居間に飛び込んできた京子を見るや否や、アンゼロットはどういうわけか緊張の面持ちで顔を引き締め、そのアンゼロットが視界に入るや否や、京子のほうでは無意識に身構えた。
 あわや一触即発か、という不穏な空気が漂い始める中。
 どちらからともなく二人はニカッと笑い、
「始めまして。失礼ですが、もしかして柊さんのお姉さまではありませんか?」
「あはは、たしかに不本意ながら“そいつ”の姉ってやつには違いないけどね。で、そういうそちらさんは?」
 互いのことがわからぬながらも、互いの中にあるなにごとかを敏感に感じ取ったものか、二人の間に奇妙なシンパシーが芽生えたようだった。


 のめりこんだ顔面を畳から引っぺがしながら、柊が起き上がる。
「ちきしょー! やっぱ呼ぶんじゃなかったぜー!」
 鼻の頭を抑えながら泣き言を喚く柊であった。

 騒々しくも和やかな(?)居間の風景に。
 今夜の主役が登場したのはそんなときである。

「そんな風に言ったダメですよ、柊先輩。みんな一緒じゃなきゃ、意味がないんですから」
「うんうん。エリスちゃんの言うとおり。ひーらぎ、ほら運んで運んで」

 手に土鍋を持ちながら登場したのはもちろんエリスとくれは。後ろからは運搬係に徹した灯が、食材溢れる何枚ものお皿を乗せた大きなお盆を軽々と運んでくる。

「おっ、到着か」

 手もみをしながら柊が声を弾ませる。テーブルの上のガスコンロに土鍋を置きながら、
「お母様も青葉も、寄り合いとか終わったら急いで帰るって言ってたよー」
 くれはが柊にそう言った。みんな一緒、ということは、この神社に住み暮らす住人ならば当然同席してもらいたい ――― エリスたっての願いで、くれはが家族に連絡を入れておいたらしい。
 ぱかり、と土鍋の蓋を開ける。ゆらゆらと白い湯気が立ち昇り、かぐわしい香りが漂った。
 葱、白菜、春菊、人参、椎茸。色とりどりの野菜に囲まれて、その中央には神々しくさえ見えるカニのご本尊。柊の口から「おおー、すげー!」と芸のない感想が飛び出した。
 しかし、その鍋の美味しそうなことといったら。
 アンゼロットですら思わず身を乗り出し、鍋の中身を覗きこむ。その行為をはしたない、と思ったのか、すぐに姿勢を正して咳払いをするところがご愛嬌であった。
 赤羽神社への来訪時、
「エリスさんの手料理というのでなければ、世界の守護者たるものホイホイと出向いたりはしませんわ」
 などと言っていたらしいが、要は食べ物に釣られたということである。
 しかし、それでもアンゼロットを引っ張り出すという快挙を成し遂げたのは、エリスの料理の腕があって初めて為しえたことであろう。

「早く帰ってくるといいですね」
 エリスがそう言いながら、もうひとつのコンロに鍋を置く。
 こちらの土鍋は多少趣が違い、鶏肉が主役である。
 野菜に囲まれているのは同じにしても、濃い目の醤油で味付けされて、香ばしい香りが食欲をそそる。エリスお手製のつみれが、ころころとたくさん浮いているのもポイントが高い。
 土鍋のセッティングが整うと同時に、灯がお盆を畳みの上に置いた。
 野菜や鶏肉のおかわり、カニだけでなく白身魚の切り身などの魚介類、その他、箸休めのお漬物やら白い御飯やらが所狭しと並ぶ壮観な眺めのお盆であった。
「ちょ、いくらなんでもこれ多すぎない?」
 心配そうに京子が言った。三十人前はありそうな食材の山は、確かに圧倒的な迫力だ。
「大丈夫だって。俺たち全員揃えば十人近くいるんだぜ? それにこいつらだって、こう見えて食い意地が……い、いてててっ、くれは、耳引っ張んなっ!?」

 楽しい夕餉の前の、楽しい寸劇に笑いが起こる。
「でも、ちょっと残念です。おばさまたちも入れて私たち全部で九人じゃないですか。あと一人居ればちょうど十人だったんですけど」
 先輩、くれはさん、灯ちゃん……と、指を折って数えながら、エリスが言う。
 それを聞きとがめたのは柊で。
「そうだ! 思い出した! エリス、気持ちはわかるけどな、誘う相手はちょっと考えたほうがいいぞっ!?」

 柊は、二人が神社への帰路を急いでいたときのことを思い出している。
 エリスが、「思い込んだら一直線」的なところがあるのは薄々感付いていたが、まさかあの時、エリスがあのような暴挙に出るとは予想だにしていなかった柊なのである。

 それは、大量の食材を買い終えて、二人が秋葉原の街中を歩いていたときのこと。
 重たい荷物にひーひー言いながら歩く柊の耳に、
「ああっ!」
 なにかに驚いたようなエリスの声が聞こえて、思わず顔を上げた。

 エリスが呆然と立ち尽くし、街中の一角をじっと見つめていた。なにか驚くようなものでも見つけたのか、といぶかしむ柊も、エリスの視線の先を目で追ってぎくりとする。
 柊が注意を喚起する暇もなく ――― エリスは見つけた相手めがけて走り出していたのである。
「お、おいっ、馬鹿 ! 待てよ、エリスっ!」
 柊の切羽詰った叫びなど聞こえていないかのようだった。
 エリスが駆ける。駆けていく。
 そして。

「お、お久しぶりですっ。あの、この後、ちょっとお時間ありますか!?」

 不意に声をかけられて振り向いた相手は、自分に声をかけた相手が誰なのかを見て口をあんぐり開け、その後ろから大荷物を抱えて走り寄ってきた柊の姿に、もう一度慌てたように目を見開いた。
 エリスと同じ輝明学園の制服 ――― そして、トレードマークのポンチョ。
 秋葉原の街を堂々と、裏界の大公 ――― 大魔王ベール=ゼファーが、呑気にぶらぶら歩いていたのである。
「あ、あーら、お久しぶりねエリスちゃん? わざわざこの大魔王ベール=ゼファーを呼び止めるなんて、相変わらず無謀な勇気を持っているじゃない?」
 ベルが不敵に笑い、唇の端をきゅっと吊り上げる。美しき蠅の女王、空を舞うもの全てを支配する大魔王としての威厳をたっぷり持たせたつもりなのだろうが ―――
「……おい。お前、歯に青海苔付いてんぞ」
 柊のツッコミが全てを台無しにした。
 顔を耳まで真っ赤にして、慌てて口元を隠すベル。
 きっと、さっきまでたこ焼きを食べていたのだろう。
「う、うるさいわね! 大きなお世話よ!」
 金切り声を出して抗議した途端、威厳も威圧感もどこかへ吹き飛んでいた。
 ウィザードたちの間でまことしやかに囁かれる噂。
 大魔王ベール=ゼファーは、ファー・ジ・アース、特に日本の文化に興味があるらしく、時折裏界からお忍びと称して来訪し、おでんやらたこ焼きやらを買い食いする姿が見られる……。
 噂は、どうやら真実であったようだ。

「そんなことよりなによ? まさか、この場で戦いでも始めるつもりじゃないでしょうね? どうみても戦いに向いた格好じゃないと思うけど、柊蓮司?」
 それは確かにベルの言葉の通りである。両手や身体中に買い物袋を大量にぶら下げておいて、戦いもウィザードもあったものではないからだ。
「戦いなんて、違いますよっ。私たち、これからお鍋なんですっ」
「……はぁ?」
「お、おい、エリス、まさか!?」
 勢い込んでベルに向かって身体を乗り出すエリス。
 眉をひそめて理解不能、という顔をするベル。
 エリスの意図するところを瞬時に悟ってしまい、青褪めていく柊。
「鍋ってなによ」
 毒気を抜かれ、当然の疑問を口にする大魔王。
「だから、お鍋ですっ。今夜のお夕飯は鍋パーティーなんですっ。だから、ベルさんもご一緒しませんかって、そう思いましてっ」
「はあっ!? あ、あによ、それっ!?」
 大魔王を鍋パーティーに誘うとは、まったくの予想外。
 秘密侯爵の書物でも見なければ、こんな展開考えつきもしないはずである。
「私、ずっと気になってたんです。あのとき、助けてもらったお礼ちゃんとできていなったし」
「あ、あのときってまさか、宝玉戦争のときのこと言ってるんじゃないでしょうね!? わ、私はそもそも、もとはといえばあなたを狙って……」
「はいっ、知ってますっ。でも、最後に助けてもらったのは本当じゃありませんか」
 やるな、エリス ――― 柊は内心舌を巻いていた。
 あの大魔王が、至近距離に迫るエリスの迫力にたじたじになっている。
「だけど助けてもらったのは……」
「あーーーーーっ、もうっ! あれは結局、そうすることが裏界のためでもあったからそうしただけよっ!? り、利害が一致したから協力しただけなんだからっ!?」
「はいっ、そうですよね! それで、鍋パーティには来て貰えるんですかっ?」
 人の話をとことん聞かないエリスである。
 そんな彼女に、大魔王ベール=ゼファーは ―――

 顔をますます赤らめて、口を酸欠の金魚みたいにパクパクさせながら。

「ば、馬鹿じゃないのっ!? そ、そんな仲良しごっこ、願い下げだわっ!?」
 回れ右をして、脱兎のごとく ―――
 そう。大魔王が、どう反応していいのかわからずに、無様にエリスたちに背中を向けて、なんと逃走してしまったのであった ―――




「……でも、やっぱり残念でした」
 ほんの少し、エリスがしょんぼりとした。
「でも、それで正解ですわよ、エリスさん。もし、ベール=ゼファーがここへ来ていたとしたら、十人で囲む食卓が、八人に減るところでしたもの」
 つんとそっぽを向いて、アンゼロット。大魔王と同席するくらいなら、エリスの手料理を諦めてでも、コイズミを連れて退散するつもりだ、という意思表示である。
「まったく、エリスは時々怖いもの知らずになるからなぁ」
 呑気に鍋の中身を覗きこんでいる柊のそんな言葉に、多少なりともくれはや灯は顔を引きつらせている。彼女たちにしたところで、大魔王と鍋をつつくのは抵抗があるだろう。
「さ、さっそくだけど始めよっか? これだけおかずがあれば、先に始めちゃっても大丈夫だよ」
 手をパタパタと振り回しながらくれはが言う。遅れて来る二人に気兼ねをせずとも、これだけの食材をたいらげてしまうことはないだろう。
「待ってました!」
 いち早く箸を取り上げた柊が、喜色満面のほくほく顔で叫ぶ。そして、はた、となにかに気づいたように、エリスのほうを振り向いた。
「そういえば、エリス」
「はい?」
「エリスの手料理、どんなメニューかなって俺もいろいろ想像はしてたけど……鍋、ってなんか普通じゃないか?」
 朴念仁が朴念仁らしい台詞を吐いた。
「ちょ、ちょっとひーらぎ、なんてこと言うのよ!?」
「……柊蓮司……無神経……」
 女性陣から非難の声が次々と上がるのは当然のことであっただろう。

「い、いや、不満があるわけじゃねーって! た、ただなんとなくそう思っただけだってっ」
「蓮司、もう一発お見舞いしとこうか……?」
 京子が拳を固めたその瞬間 ―――

 エリスがくすくすと笑い出す。

「はいっ。“普通”が、今晩のお夕飯のテーマですっ」
 満足げに微笑んで、エリスが声を弾ませる。
 柊先輩に感じてもらいたい。柊先輩のためにしてあげたい。
 それは日常の大切さ。ゆっくり、ゆったりと流れていく優しい時間。
 エリスが宝玉の力を失ったいまでも、この世界や、ここだけではないどこかの世界のために戦い続ける柊に捧げたい時間は、なんでもないただの日常。
 そんななんでもないことの大切さを、巨大な運命に翻弄されていた自分に教え、また与えてくれた柊に、エリスが本当にお返ししたいのは、そういうものだった。
 それに、気づくことができた。
 だから、特別なものなどなにもない食事を。
 だけど精一杯、お腹一杯になれる献立を。
 そんなものを、エリスはご馳走したかったのである。
「それと、もうひとつ……」
 ちょっと照れ臭そうにエリスが笑う。
「ん?」
「今晩のお夕飯のコンセプトは……“家族”、です」
 だからこそ、みんな一緒。
 お姉さんみたいなくれはさん。やさしいおばさま。自分をもうひとりの姉のように慕ってくれる青葉くん。
 そして、そんな家族を取り巻く、柊たち、大事な仲間たち。
 みんな一緒。みんな含めて大事な、エリスにとっての大事な家族。
 だから、たくさんの人が集まる献立を。
 それが柊先輩に一番食べてもらいたい料理なんだ、と。
 エリスは、そう思い、そう信じている。
 しかし、エリスの発言は思わぬ波紋を投げかけてしまったわけで。

「は、はわ……か、家族……?」
「幸せなご家庭を築きたい……そんな願望の現われ、ということですのね……?」
「……柊蓮司……エリスは、あげられない……」
 エリスの言葉を必要以上に深読みした女性陣が、皆一様に複雑な表情をし ―――

「え、ええっ!? そ、そんな、そういうのじゃないですっ! ち、違いますってばっ!」

 そして、“茹でエリス”の再臨である。
 真っ赤になって弁解するエリスの乙女心が再燃したことも、木石たる柊は一切気づくことなく、
「そうだよなー、エリスは俺にしてみればもう妹みたいなもんだしなー」
 笑いながら土鍋に箸を突っ込んでは、自分用の小皿にカニの脚を放り込んでいくのであった。

「い、妹……そ、そうですよね……あ、あは、はは……。はあ……」
「エ、エリスちゃん、気を落とさないで。こんなことくらいでへこたれてたら、まともにひーらぎなんかと付き合えないよ……」
「エリスさん……心中、お察しいたしますわ」
「エリス……なにもそんな茨の道を歩くこと、ないのに……」

 口々にエリスを慰める言葉が皆から発せられ。
 少女たちの心の機微などなにもわかっていない男どもは、まるっきり見当違いの言動をいつでも繰り返すのである。

「おおっ! この私めも家族の端に加えていただけるのですねっ。やはりエリス様は、お心の美しい方だっ!」
「うおおっ、カニ美味えっ! おい、お前らっ! 早くしないと俺が全部食っちまうぞっ!?」

 などと ―――

 振舞われた晩餐にがっつく柊たちの姿をしばらく見つめていたエリスが、不意に笑顔になった。
(そうか。そうですよね、柊先輩。これも、私たちの大切な日常ですもんね)
 いまさらだけど、そう気づく。
 これでいい。これが二人の仲の進展なのか、それともそうではありえないのか。
 そのことはいまのエリスにも分からない。
 だけど、確かに言えること。
 それはこの一時が、なにものにも代えがたく、光り輝いているということである。
 エリスの手がエプロンを外し、自分の分の箸を取る。そしてくれはたちを見回すと ―――
「それじゃ、みなさん。私たちも頂きましょうっ」
 一足遅い、晩餐のスタートを号令するのであった。
(家族の一員……これも、一歩前進ですよね、柊先輩?)
 エリスが、食卓を満たしていく白く温かい湯気の向こう側にいる柊に、そんなメッセージを心の中でだけ呟いた ―――



 柊蓮司攻略作戦。
 Mission Complete(………?)

(了)




タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
ウィキ募集バナー