449 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:13:17 ID:???
■SEQUENCE 01
「まったく、なんでわたしがっ」
化粧室のドアを後ろ手で閉めると急に頬が熱くなってくるのを実感する。みんなの前では冷静に装っていたはずだが、独りになるとあまりの羞恥と屈辱に、身体がわなわなと震えて、手足から力が抜けるのを実感する。
膝に力が入らない。肘にもだ。
立ってはいるけれどまるで間接がゴムホースにでもなってしまったようにぐんにゃりしている。化粧タイルの床がふかふかの布団のように感じるほどだった。
持ってきたミニポーチを握り締めている。そのポーチの形からしてちゃんと力を入れて握っているはずなのに、握力が感じられない。
そこまでお酒は飲んでいないはずなのに。
これも精神が動揺せいているせいなのか。
「なんでわたしがぁ……」
再び呟いて、自分がいつの間にか肩で息をしていることに気がつく。困った。これは本格的に良くない傾向だ。
こんなに動揺していてはこの先が乗り切れない。定例の飲み会はまだ始まって1時間くらいしか経過していないはずだ。そう思ってヤヌスは古めかしい懐中時計をひきだしてみる。
(時間感覚も狂ってますか)
まだ開始30分だった。狂っているというよりは、周知と願望が脳内で時間を早回ししていたのだろう。途方にくれたようなため息が漏れてしまう。
抜けそうになる膝を叱咤して、むりやり鏡に向かう。なんとかこの頬の熱を沈めて、いつもの態度を取り戻さなければならない。席に戻れば多くの『部員』が待っているのだ。毅然とした態度できっぱりと! いつもの自分をアピールしなければならない。
弱みを見せればどんな風に付け込まれるか判らない。
ヤヌスはそう思う。
450 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:14:14 ID:???
「うぅっ」
ヤヌスは思わず鏡から目をそらしてしまいそうになる。正直に言えば、周り右をしてこのまま撤退したい。化粧室からではない。この居酒屋そのものからだ。
薄々判っていたので鏡を見ないようにしていたのに、そこには想像通りの自分がいた。
長い黒髪を、今日は下のほうでひとつにまとめている。涼しげな目元と、すっきりした唇。細いフレームの眼鏡。真っ白いブラウスに、紺色のタイ。そして同色のロングスカート。どこかの大学の司書のような地味な装い。
それはいつもどおりの自分だ。地味だけどどこに出たって恥ずかしくない格好のはずだ。
それなのに今は、装いはそのままに、顔だけが桜よりも濃い桃色に染まっている。茹でダコといっても良い。必死に表情を引き締めようと努力しているせいで、への字にしかめられた口元さえ、どこか無理をしている子供みたいに見える。
自分しかいない場所なのに、強がったようにひそめられる眉と、動揺が隠せない瞳は、まるで敵前逃亡するかどうか迷っている下士官のようだった。
それもこれも。
指先をそっと頭の上に伸ばす。シルクサテンで作られた、滑らかな感触。
このっ。
(なんで、わたしばっかりっ!?)
彼女の頭の上に鎮座する、ねこ耳カチューシャのせいだった。
(こんなものをつけてるからっ)
思わず胸の中で呪詛の呟きがもれそうになる。
先ほどまでの辱めを思い出したのだ。みんなの好奇の視線。揶揄するような軽口。くすくす笑い。
それも致し方ない。いつもは目立たない一般常識人だと自分を喧伝していた彼女が、定例の飲み会にこんなアイテムを身に着けて現れるとは、まさか誰も予想していなかっただろう。
(一番予想していなかったのは、わたしですよ。……神様、どうしてこんなことに)
451 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:16:49 ID:???
彼女がこれまで築き上げてきた常識人としての全ての信用は今日で完全に瓦解してしまったのだ。きっと皆は自分のことを腐女子のレイヤーだと思うのだろうな、とヤヌスは混乱して熱に浮かされたような思考で考える。
(レイヤーって、レイヤーです。そ、そ、そんなふしだらなっ)
いつの間に力が入っていたのか、自分の身体を抱きしめるように捕まえて、膝ががくがくしている。
(そんな誤解と妄想に満ちた視線を受けているなんてっ。うう、こんな恥辱、屈辱、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に許すことは出来ませんっ)
席に戻っても、きっとやぬたん等という呼称でからかわれるのだろう。
自分が席にはいない今この一瞬でさえ、彼らは上等の酒の肴と場ありに自分の豹変を話題にしているに違いない。
そこでやり取りされている『わたし』は自分自身ではないと心を諌めながらも、あまりの恥ずかしさに呪詛の呟きが延々ともれて出てくるのを止めることが出来ない。
いっそ、このような耳など投げ打ってしまおうかと考える。しかし、そうするとその先の問題に行き当たるだろう。それを想起しただけで頬の熱が一段と燃え上がる。
――そんなことをしたら。
ぞくりと、背筋を走り抜けるものがある。
――ばらされてしまうかもしれない。
それではいっそトイレから帰らずに逃げてしまうというのはどうか。熱で浮かされたような彼女の意識において、それはとても素晴らしいアイデアのように思える。
さっさと帰宅してお風呂に入り、優しい布団に包まれて眠るのだ。明朝は六時に起きて部屋の掃除と洗濯を行い、七時前には朝食の支度をする。
健康的な生活。規律正しい朝の光景。
素晴らしい! それこそが人間のおくるべき文明的な態度というものだ。
そこまで考えて、自分の思考が逃避していることに彼女は気づく。
452 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:17:57 ID:???
なにしろもうすでにこの耳のことは露見しているのだ。少なくとも十人には見られてしまった。いまさら逃げたところで、事実は消えない。
いやむしろ、逃げたことにより、彼ら全員に自分の羞恥を知らしめ、未来永劫に渡ってつつかれる隙を与えるだけだろう。
やはりここは当初の予定通り、冷静かつ峻厳な態度を崩さず、「これはやむなく罰ゲームの結果受け入れているものであり、わたしはこのようなアイテムには興味もないし、まったく何の痛痒を感じていない」という態度を崩さないほうが上策だと、ヤヌスは判断する。
それに逃げたら逃げたで、やはりばらされるかもしれない。
「まったく、なんでわたしがっ」
鏡におでこを接触させる。ひんやり冷たくて気持ちがいい。
泣き言のような愚痴のような感情が溢れてくる。そんなシロモノは自分にまったく似つかわしくはない、とヤヌスは思う。
もっと整理された理路整然とした感情で自分は生きていたいのだ。目立たぬ地味コテとして板の片隅で秩序と良識を守っていくのだ。
しかしその理想とは裏腹に、化粧室に逃げこもっている自分がいる。
(ぜんぶ……)
ヤヌスは始まりの日に思いを馳せる。
(全部、あの雨の日にはじまったんだ)
■SEQUENCE 01
「まったく、なんでわたしがっ」
化粧室のドアを後ろ手で閉めると急に頬が熱くなってくるのを実感する。みんなの前では冷静に装っていたはずだが、独りになるとあまりの羞恥と屈辱に、身体がわなわなと震えて、手足から力が抜けるのを実感する。
膝に力が入らない。肘にもだ。
立ってはいるけれどまるで間接がゴムホースにでもなってしまったようにぐんにゃりしている。化粧タイルの床がふかふかの布団のように感じるほどだった。
持ってきたミニポーチを握り締めている。そのポーチの形からしてちゃんと力を入れて握っているはずなのに、握力が感じられない。
そこまでお酒は飲んでいないはずなのに。
これも精神が動揺せいているせいなのか。
「なんでわたしがぁ……」
再び呟いて、自分がいつの間にか肩で息をしていることに気がつく。困った。これは本格的に良くない傾向だ。
こんなに動揺していてはこの先が乗り切れない。定例の飲み会はまだ始まって1時間くらいしか経過していないはずだ。そう思ってヤヌスは古めかしい懐中時計をひきだしてみる。
(時間感覚も狂ってますか)
まだ開始30分だった。狂っているというよりは、周知と願望が脳内で時間を早回ししていたのだろう。途方にくれたようなため息が漏れてしまう。
抜けそうになる膝を叱咤して、むりやり鏡に向かう。なんとかこの頬の熱を沈めて、いつもの態度を取り戻さなければならない。席に戻れば多くの『部員』が待っているのだ。毅然とした態度できっぱりと! いつもの自分をアピールしなければならない。
弱みを見せればどんな風に付け込まれるか判らない。
ヤヌスはそう思う。
450 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:14:14 ID:???
「うぅっ」
ヤヌスは思わず鏡から目をそらしてしまいそうになる。正直に言えば、周り右をしてこのまま撤退したい。化粧室からではない。この居酒屋そのものからだ。
薄々判っていたので鏡を見ないようにしていたのに、そこには想像通りの自分がいた。
長い黒髪を、今日は下のほうでひとつにまとめている。涼しげな目元と、すっきりした唇。細いフレームの眼鏡。真っ白いブラウスに、紺色のタイ。そして同色のロングスカート。どこかの大学の司書のような地味な装い。
それはいつもどおりの自分だ。地味だけどどこに出たって恥ずかしくない格好のはずだ。
それなのに今は、装いはそのままに、顔だけが桜よりも濃い桃色に染まっている。茹でダコといっても良い。必死に表情を引き締めようと努力しているせいで、への字にしかめられた口元さえ、どこか無理をしている子供みたいに見える。
自分しかいない場所なのに、強がったようにひそめられる眉と、動揺が隠せない瞳は、まるで敵前逃亡するかどうか迷っている下士官のようだった。
それもこれも。
指先をそっと頭の上に伸ばす。シルクサテンで作られた、滑らかな感触。
このっ。
(なんで、わたしばっかりっ!?)
彼女の頭の上に鎮座する、ねこ耳カチューシャのせいだった。
(こんなものをつけてるからっ)
思わず胸の中で呪詛の呟きがもれそうになる。
先ほどまでの辱めを思い出したのだ。みんなの好奇の視線。揶揄するような軽口。くすくす笑い。
それも致し方ない。いつもは目立たない一般常識人だと自分を喧伝していた彼女が、定例の飲み会にこんなアイテムを身に着けて現れるとは、まさか誰も予想していなかっただろう。
(一番予想していなかったのは、わたしですよ。……神様、どうしてこんなことに)
451 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:16:49 ID:???
彼女がこれまで築き上げてきた常識人としての全ての信用は今日で完全に瓦解してしまったのだ。きっと皆は自分のことを腐女子のレイヤーだと思うのだろうな、とヤヌスは混乱して熱に浮かされたような思考で考える。
(レイヤーって、レイヤーです。そ、そ、そんなふしだらなっ)
いつの間に力が入っていたのか、自分の身体を抱きしめるように捕まえて、膝ががくがくしている。
(そんな誤解と妄想に満ちた視線を受けているなんてっ。うう、こんな恥辱、屈辱、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に許すことは出来ませんっ)
席に戻っても、きっとやぬたん等という呼称でからかわれるのだろう。
自分が席にはいない今この一瞬でさえ、彼らは上等の酒の肴と場ありに自分の豹変を話題にしているに違いない。
そこでやり取りされている『わたし』は自分自身ではないと心を諌めながらも、あまりの恥ずかしさに呪詛の呟きが延々ともれて出てくるのを止めることが出来ない。
いっそ、このような耳など投げ打ってしまおうかと考える。しかし、そうするとその先の問題に行き当たるだろう。それを想起しただけで頬の熱が一段と燃え上がる。
――そんなことをしたら。
ぞくりと、背筋を走り抜けるものがある。
――ばらされてしまうかもしれない。
それではいっそトイレから帰らずに逃げてしまうというのはどうか。熱で浮かされたような彼女の意識において、それはとても素晴らしいアイデアのように思える。
さっさと帰宅してお風呂に入り、優しい布団に包まれて眠るのだ。明朝は六時に起きて部屋の掃除と洗濯を行い、七時前には朝食の支度をする。
健康的な生活。規律正しい朝の光景。
素晴らしい! それこそが人間のおくるべき文明的な態度というものだ。
そこまで考えて、自分の思考が逃避していることに彼女は気づく。
452 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/14(日) 23:17:57 ID:???
なにしろもうすでにこの耳のことは露見しているのだ。少なくとも十人には見られてしまった。いまさら逃げたところで、事実は消えない。
いやむしろ、逃げたことにより、彼ら全員に自分の羞恥を知らしめ、未来永劫に渡ってつつかれる隙を与えるだけだろう。
やはりここは当初の予定通り、冷静かつ峻厳な態度を崩さず、「これはやむなく罰ゲームの結果受け入れているものであり、わたしはこのようなアイテムには興味もないし、まったく何の痛痒を感じていない」という態度を崩さないほうが上策だと、ヤヌスは判断する。
それに逃げたら逃げたで、やはりばらされるかもしれない。
「まったく、なんでわたしがっ」
鏡におでこを接触させる。ひんやり冷たくて気持ちがいい。
泣き言のような愚痴のような感情が溢れてくる。そんなシロモノは自分にまったく似つかわしくはない、とヤヌスは思う。
もっと整理された理路整然とした感情で自分は生きていたいのだ。目立たぬ地味コテとして板の片隅で秩序と良識を守っていくのだ。
しかしその理想とは裏腹に、化粧室に逃げこもっている自分がいる。
(ぜんぶ……)
ヤヌスは始まりの日に思いを馳せる。
(全部、あの雨の日にはじまったんだ)