卓上ゲーム板作品スレ 保管庫

■SEQUENCE 05

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takugess

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だれでも歓迎! 編集
513 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 12:35:24 ID:???
■SEQUENCE 05
「えーっと。あのさ」
 店内には喧騒が満ちている。週末だ。『部員』が陣取った席は、この広め
の居酒屋の中でも端のほうだったが、多くの客の話し声が重なって、一つの
背景音のように空間を満たしているのだ。
 その喧騒の中で、ビッケは肩身が狭そうに切り出した。
「ヤヌスさんなんだけど、かなりてんぱってなかった?」
「そうか?」
 隣にいる暗牙が答える。飲み会が始まってから小一時間。場も暖まってき
て、ノリが良くなってくる頃だ。十人強のメンバーもさまざまな話題に興じ
てる。
「やぬやぬ?」
 その話題に何人かの『部員』が加わる。ヤヌスは先ほど憮然とした表情を
崩さずに化粧室に立っていった。この場にはいないからこそ話題に出来る気
安さがそこにはあった。
「いや、今日のは反則でしょう」
「やぬたん可愛いよ、やぬたん可愛いよ」
「猫耳はぁはぁ」
 『部員』達が、ここぞとばかりに盛り上がる。その盛り上がりに、他の話
題をしていた『部員』も加わり、場は一気にヒートアップしてしまう。
 ヤヌスといえば、板のご意見番、良心である。板にあっては舌鋒鋭くふし
だらな意見を抑え、『部室』にあってはいつも清廉な姿勢を崩さず、凛々し
い態度で馴れ合いをしない。
 綺麗な黒髪と理知的で涼しげな美貌に、実は隠れファンも多かったのだが、
彼女の潔癖ともいえる態度のせいで直接アタックをかける勇者がいなかった
のも事実である。
 仮にアタッカーが現れたとしても、彼女はいつもの穏やかだが決然とした
態度で「私のような地味コテに過分なお言葉です。が、身近に大切な方がい
らっしゃるのでは?」とやんわり断ってしまうのは見えていたのだが。


514 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 12:35:57 ID:???
 ヤヌスはそのイメージにそぐわず、いつも白いブラウスに紺色のスカート、
ジャケットという装いだった。そしてそれは今日も同じだ。
 しかし、一点。一点のみが普段とは違ったのである。
 その一点がこの大騒ぎを引き起こしていた。
 彼女はいつもの物静かな容貌の上に、ネコ耳カチューシャを乗せていたの
だ。ネコ耳といってもふわふわと毛が生えたものではなく、黒く滑らかなシ
ルクサテンで作られたそれは、ちょっと見るとリボンのようにも見える。
 しかし、実態はネコ耳である。素人からすればどちらでも変わりが無いよ
うに思えるが、それは浅はかな判断であって、リボンとねこ耳の間には主に
マニアにしか計測できないが深く険しい溝があるものと思われた。
 『部活』の持っている伝統からすれば、ねこ耳はそこまで大騒ぎになるよ
うなアイテムではない。
 『部員』の間で言えば冗談で済むようなことである。
 事実この程度のことならば、罰ゲームとして行われることは良くあった。
 先週もカタンで82連敗したビッケが「従わないと彼女さんに電突してやる」
と脅されて、メイドの女装でから揚げ弁当15個を買いにいかされていた。
 だから問題は「ヤヌスが」という所にあった。委員長気質のクールビュー
ティーとして隠れファンの多かったヤヌスがねこ耳。これは十分以上の衝撃
を『部員』に与えたのだ。
「ヤヌっち、ちょー可愛ええ。ちょー撫でさすりしてえ」
「ねこ耳、反則。鼻血出そう」
『やぬたん萌えすぎ』
「いや、澪。飲みすぎだってばぁ」
『文句あるならもう優しくしてあげない』
『なの』
「うぐっ」
 酒の酔いも手伝ったのか、『部員』は口々に感想を述べ合った。うっとり
と空中を見上げているものもいる。妄想の中のヤヌスがどんな痴態をとって
いるかは神のみぞ知る部分であり、余人には関与できない領域でもあった。


515 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 12:37:04 ID:0dI/P5Dm
「こら。飲んでますか。梨銘」
 梨銘の横の空席、そこは本来ヤヌスの席なのだが、そこに滑り込んできた
のはダガーだった。皆が今日のヤヌスの異変を話し合っている間中、その話
の輪にも入れずなんとなく上の空の梨銘を見かねたのか、話しかけたのだ。
「あっと、ダガーさん。飲んでますよ」
「ふぅん」
 ダガーはタバコに火をつけながら、雄弁な態度で目を細めた。その言葉は
はっきりとは云わないながらも、お見通しだぞ、と言われたような印象を梨
銘に与えた。後ろ暗いところがあまりにも大きい今日の梨銘は、やはりその
言葉にうろたえてしまう。
「ううっ。なんですか、ダガーさん」
「……いぇーい、のりのりだぜー!!!」
 その梨銘に突然大きな声でグラスを差し出し乾杯を求めるダガー。にかっ
と笑った笑顔が、後ろ暗い梨銘をほっとさせると同時に、なんだかやけくそ
な雰囲気に雪崩れ込ませる。
「いぇーい! だぜー!!」
 何の脈絡も無いダガーのノリノリ宣言に巻き込まれたように梨銘も叫んで
しまう。そしてダガーにつられたように手に持っていたサワーを一気に飲み
込んでいく。
 炭酸が喉を駆け抜けるのが心地よい。緊張して喉が渇いていたのだろう。
あっという間に半分近くの分量を流し込んでいく。
「で、ヤったの?」
「どぶはぁーっ!?」
 喉に流れ込んでいた液体は突然の言葉に期間に進路を変更してそこで猛威
を振るう。鼻の奥に流れ込んだサワーがつーんとした痛みを振りまき涙がこ
ぼれそうになる。
「げほっ、がふぉっ。けふんっ……。な、な、な、なにをっ」
「……《閨房戦》かな」
「それっていったい何のことですかっ」
 突然の撹乱攻撃に梨銘は目を白黒させる。


516 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 12:38:04 ID:???
「ちっ。まだ判定前か。ノロマめっ。キミのことを見損ないました。リメイ
ボォーイ」
「何でいきなりペガサス社長なんですか」
「いきなりもなにも、最初からだよ」
 ダガーは梨銘の追求をさらりと交わす。煙に巻くそのやり方は堂に入って
いて、梨銘には残念だが年季と役者が違うという感じだった。

 そのとき、テーブルの端からおかえりなさーいという声が聞こえる。みん
なが笑顔で迎えたのは化粧室から戻ってきたヤヌスだった。いつものように
凛々しく背筋を伸ばしたヤヌスは、ちょっと冷たい感じがする理知的な顔で
口元を引き締めて挨拶を返している。
 梨銘がそのヤヌスに視線を奪われた瞬間、ダガーは猫じみた軽妙さでする
 りと席を抜け出していった。問い返す隙も無いほど完璧な逃走だ。
(うう、いったいどこまで判ってるんだ。あの人はっ)
 梨銘は頭を抱える。まさか『部室』での顛末がばれているとは思えないが、
常人離れした能力を持つ『部員』の面倒を見ているほどの人だ、何を感づい
てるか判ったものではない、とも思う。

「お騒がせしました」
 考えれば考えるほどなんだか宜しくない方向に気が回りそうになっている
と、ダガーが立ち上がったその席にヤヌスが戻ってくる。この席は壁際の隅。
目立ちたくないヤヌスがいつに無い強引さで引きこもってしまった場所だっ
た。
 みんなの話の輪に加わるには多少不便な角度なのだが、今日はヤヌスに視
線が集中してしまうために、梨銘まで微妙な居心地の悪さを感じている。
 ヤヌスは席に座ると、モスコミュールをこくこくと飲む。やっぱり少しは
緊張しているのかな。梨銘はその様子を見て思った。
 ヤヌスはいつものように凛々しい清廉な表情をしている。ただ、梨銘の気
のせいじゃなければ、その眉が時折、何かを我慢するようにきゅうっとひそ
められるのが、不謹慎だが艶っぽくて可愛らしく思えた。
(とはいえ、嫌われたよなぁ)

531 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 20:56:14 ID:???
 実際問題、この居酒屋に入るときにネコミミを渡した時にきつく睨まれた。
それっきり、一言の言葉も交わしていない。言葉を交わしていないどころか、
視線さえこちらには向けようとしない。
 潔癖なヤヌスのことだ。相当怒ってるかな。と梨銘は思う。
 売り言葉に買い言葉というのはあるし、あまりにもヤヌスがうろたえるの
が可愛くて悪乗りした部分はある。緊急回避的に身を守ろうとした言葉が余
計に自体を悪化させたことも認める。
 そういったことは判っているのだが、いざヤヌスを前にすると、諸々の感
情のセーブが非常に難しくなってしまうのだ。ヤヌス以外ではそんなこと起
きないのに。
 梨銘はそこが不思議でならない。
 ヤヌスと話していると楽しい。
 ヤヌスを見ていると嬉しい。
 なのに、結果としては怒られたりお説教されたり冷たくされたり軽蔑され
たりといった、嬉しくない事態に遭遇してしまう。もっと上手にやれればい
いのに、何もかもが不器用で、いたらなくなってしまう。
 不器用の上塗りだ。
「……浮かない顔ですね」
 ぼそり、とヤヌスが言う。
「え?」
 声をかけてもらったのが一瞬だけ信じられなくて梨銘は顔を上げる。ヤヌ
スは口を引き結んだ表情で、まっすぐ前方を見つめながら話しているようだ。
 その表情は梨銘にはやはり不機嫌そうに見える。
――こちらを向いてはくれないんだ。
 自分でも良く判らないが、悔しいような苛立たしいような感情が胸の水底
で揺れる
「そんなことないよ」



532 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 20:58:35 ID:???
「そう、ですか」
 ヤヌスは低い声でぼそぼそというと、そのまま居酒屋の安っぽいカクテル
をこくこくと飲む。最初からかなりのペースで飲んでいるようだ。ヤヌスと
はあまり飲んだこともないが、ずいぶんお酒慣れしているんだな。梨銘はそ
んなことを思う。
「その割には。……さ、晒し者にしたり、嬲ったりしないんですね」
 前方を向いたままのヤヌスの眉が、困惑したようにひそめられる。
 憮然とへの字に引き結んだ口元が、不安そうに翳る。
 なじる様な声は、他の人には聞こえないように潜められている。
「……」
「変態のくせに」
「……あのね、ヤヌス」
 梨銘は意を決した。さすがにこのままじゃ居心地が悪い。胃に穴が開きそ
うだ。なんだか良くは判らないが、ヤヌスを放っておくのはいたたまれない。
現にそれほど飲んだわけでもないのに、胸の辺りが焼けたような感じがする。
 ヤヌスにはっきり言おう。ちゃんと謝ろう。
 ねこ耳なんかきっぱり取ってしまおう。
 二三発分殴られるのは覚悟する。ヤヌスがこのまま抜け出したってかまわ
ない。責任はどう考えたって梨銘にあるのだ。
「ヤヌス、あの」

「やーぬたんっ!」
 梨銘が決心をして話しかけようとした瞬間、芥が梨銘とは反対のほうから
近寄ってきて、ヤヌスを背後から抱きしめる。
「な、なっ!?」
 突然のことにびっくりするヤヌスを背後から胸に抱え込んだ人妻は、ころ
ころと笑うとヤヌスの後頭部を胸の中でなんどもぱふぱふとする。
「今日のやぬたんは可愛いねぇ。思わず、きゅん☆ってなってしまいました
よ。あたしはっ!」



533 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 20:59:17 ID:???
「な、何を云ってるんですか、ふしだらなっ。そんなっ。芥さんっ。仮にも
言い交わした良人のある身でありながら、そんな、揺らさないで。当たって
ますっ、当たってますぅ」
「うーん。硬いこと云っちゃって。若い子にセクハラするのは楽しいなぁ♪」
 背後からぬいぐるみのように抱えられたヤヌスは、相手が女性ということ
もあって、いつものようにきつい言葉も吐けずに抱きしめられて振り回され
るままだ。
 その様子に当たり前といえば当たり前だが、テーブルの視線は集中してい
る。梨銘が見ると、ポテトサラダを箸で持ち上げて食べる途中で動きが固ま
っている『部員』までいる始末だ。
(GJ!)
(GJ! 芥さま!)
(GJ過ぎます! ご飯三杯ですっ)
 周囲の賞賛の電波を無視して、芥は愛いやつじゃ愛いやつじゃと、悪代官
のRPを実演する。困ったようなヤヌスの懇願とあいまってたっぷりと5分
はテーブルを混乱と妄想に陥れた。
「こぼれちゃいます。カクテルが。放してくださいっ。芥さんっ」
「うぅーん。残念だなぁ」
 ヤヌスの抵抗を十分に楽しんだ芥は、しぶしぶといった様子で漸くヤヌス
を解放する。
「いやぁ。いいねぇ。やぬたん堪能しましたっ」
 ご馳走様のポーズで手を合わせる芥。ヤヌスは気を取り直したのか柳眉を
逆立てる。
「誰がやぬたんです。誰がやぬたんですっ! そういった誤解と妄想に満ち
た呼称は禁止ですと何度申し上げたらわかっていただけるんですかっ。だい
たい、芥さんはあんなに素敵な旦那様がいるのに、何で私なんかにかまうん
ですか」


534 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 21:00:29 ID:???
 恥ずかしそうに芥に抱きしめられていた自分の胸の辺りを点検しつつ、口
早にまくし立てる。芥はまったく悪びれた様子もなく頬を膨らませながら続
ける。
「えー。だって、やぬたん可愛いんだもん。控えめな胸も感度良さそうで、
すっごくツボっす」
「~~~っ!! だっ、誰が貧乳ですかっ!? 誰がやぬたんれふかっ?」
「……」
「……」
「……」
「こほん。――失礼。噛みました」
 生真面目な表情を必死で保ちながらも頬を染めたヤヌスが、照れ隠しに指
先で眼鏡のリムを押し上げる。
(GJ!)
(やぬたんかわいいよやぬたんっ~)
 実際その仕草がテーブルに及ぼした効果はマスタードガスに匹敵するもの
があった。何人かの『部員』はサムズアップの姿勢で涙を流しながら悶絶し
ている有様なほどだ。
「いや、ゴメン。でも実際可愛いよ。やぬたん」
「うん。自信もっていいぞ」
「かわいいよやぬたん、はぁはぁ」
「ねこ耳、かぁいい♪」
「やぬっちらぶりぃ」
『萌えすぎ』
「萌えやぬ万歳~♪」
 一人が口火を切ってしまったせいか、皆が口々にヤヌスに言葉を掛け始め
る。ヤヌスは立ち上がりかけたままの姿勢で、好奇の視線と賞賛の言葉の集
中砲火を浴びる。
 その表情はもう桜の色を越えて夕焼けの朱。
 彼女はそれでも勇敢に顔を無理やりに上げて、凛とした声を保つ。



535 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 21:01:47 ID:???
「一体全体何を考えているのですかっ。一介の地味で平凡で真面目なコテで
ある私が、このようなねこ耳だなんてっ。私がこの耳をつけて電波を受信し
たかのような甘い戯言をもってご奉仕するとでもっ? 死刑です。そんな辱
めを企画した人間は全員死刑ですっ」
 彼女は燃え上がるような頬の色を気にもせず、傲然と胸を張って指先をふ
る。
「私がこの屈辱的なアイテムを身につけているのは、ブロックスの勝敗にお
ける罰ゲームの一環であり、私の意図とはなんらかかわりがないことをここ
に明言しますっ。私は、私はっ……。ただの地味コテで、決してやぬたんで
もやぬみょんでもやぬりんでもやぬやぬでもないのですっ」
「でも、やぬたん。すっげぇ似合うよ」
 『部員』の一人がポロリとこぼす。
「~~っ! だからっ!!」
 その言葉が、もう限界ぎりぎりだったヤヌスの器に垂らされた一滴になる。
 ヤヌスは抗議の叫びを上げる。その声はおそらく、大きく、鋭く。
 テーブルの『部員』達から一瞬にして言葉を奪う。
「だからっ! わたしは、やぬたんではっ……」
 真っ赤に頬を染めたまま、それでも凛と背筋を伸ばしたヤヌスの言葉が途
切れた。眼鏡のレンズが曇ってその表情が曖昧になる。
 いつものあの言葉。『わたしは、やぬたんではないのです』が始まるかと
誰もが思った。
 しかしその言葉が放たれることはなく、ヤヌス一人が立ち尽くす居酒屋の
中で奇妙なほど胸に訴える静けさだけが過ぎていく。
「――あなた達は」
 ヤヌスがこぼした言葉は、大半の予想を裏切って川原の小石ほどに小さな
ものだった。


536 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 21:05:14 ID:???
「あなた達は。……わたしみたいにっ、地味な。なんでもない人間をからか
って、そんな事が楽しいのですか……。私がこうやって、いちいち反論する
のがそんなに楽しいですか」
 その声は少しだけ水っぽくて、先ほど張り上げた声とは比べ物にならない
ほど弱かった。
「それは私は良識だとか公序良俗だとかを振り回して掲示板では煙たい存在
でしょう。部室でも掃除をしなさいとかゴミはゴミ箱へとか口うるさく云っ
てるかもしれません」
 ヤヌスの滔々とした言葉が喧騒の中に流れる。
「皆さんが私みたいな小姑じみた女を嫌うのは判ります。……でも。だから
って、こんな扱いは酷いじゃないですか。私が何をしたって云うんですか。
わたしはごく普通の秩序を保ったスレや『部室』を望んだだけじゃないです
か。卓上ゲーマーにだってステキな話やかっこいい話があったって良いじゃ
ないですか。そういう場所がちょっとでもいい状態で長く続いたらって思っ
ただけじゃないですかっ」
 瞳の光が滲む。
「私がこんなものを身につけているのが、そんなにっ。そんなに滑稽ですか。
滑稽ですよね。判ります。すごく判ります。笑っちゃいますよね。何を隠そ
う、私自身が一番笑っちゃいそうです。あはっ。ははっ。――でも、だから
といったって、晒し者にされたって……いえ、晒し者にだからこそ五分の魂
はあるんですよ?」
 短い沈黙。
「こんなのは酷いです。酷すぎです」
 居酒屋の喧騒の中で、このテーブルだけが静まり返っていた。
 ヤヌスはその静けさの中で、ねこ耳をはずすと、テーブルに置く。
「楽しい宴に無粋、本当に失礼いたしました」
 彼女は荷物を手に取ると、そのまま席を辞した。
――俯いたまま。
 最後の最後までまっすぐ前を見詰めていたヤヌスが。
――俯いたままで。



537 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/18(木) 21:08:02 ID:???
 そこにいる誰もが、触ったら砕けてしまうようなガラス質の空気を共有し
ていた。誰も動けない。何もしゃべれない。それを一番強く感じていたのが
梨銘だ。
 店を出るヤヌスの後姿が小さくなる。会計をすませて小さくなる。
 胸がつぶれそうな思いで梨銘はそれを見るしか出来なかった。
 ヤヌスの言い分は正当だった。悪乗りをした梨銘が悪いのだ。
「梨銘~」
 触れたら裂けそうなほどの空気を穏やかな人を煙に巻くような声が横切る。
梨銘が視線を上げた先には、ダガーのいつもどおりの姿があった。
 面倒くさがるような、面白がるような表情。
 その余りにもいつも通りの表情が梨銘をほんの少し引き戻す。
「今日のところは奢ってやる」
「え?」
「“ベトナムに行く前に戦争が終わっちまうぞ、アホ!”って云ってるんだ
よ」
 呆れたようなため息をつくダガー。梨銘はその言葉で反射的に立ち上がる。
考えるより先に判ったのだ。いや、頭の中はまだヤヌスの後姿でいっぱいだ
った。自分でもなんで立ち上がったのか、何で上着を突っかけているのか、
何で歩き出しているのか判らなかった。
「“『部員』は許可なく死ぬことを許されない! ”ってこと」
 有名な台詞の後半を引き取りながら聖騎士がその梨銘に荷物を押し付ける。
「あ、あのっ」
 振り返る梨銘。何を云えばいいのかわからない。でも自分は何か大きな借
りを作ったような気がする。
「とっとと行けよ。萌え話スレのありとあらゆる兵器ぶつけられねぇうちに」
「はいっ!」
 しかし、その借りの大きさを確認することも出来ず、結局梨銘は駆け出し
た。
 行く先もわからない曖昧な喧騒の中へ。
 小さくなった背中を追いかけて。

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