556 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:02:12 ID:???
■SEQUENCE 06
どの店からも有線の音楽が聞こえてくる。
明るくてポップな流行曲が寄せては返す波のように繁華街を浸している。
明るいネオンには楽しげに歩くグループ、酔ったサラリーマン、親しげな
態度の客引き、家路を急ぐOL、こんな時間にも塾に急ぐ子供達。
様々な種類の人間が、それぞれの目的に向かって足早に歩く。
そんな人々の間を、ヤヌスはうつむいて歩いていく。
どこへ向かうという当てはない。
ただ、繁華街をさっさと抜けて、もうちょっと人目のないところへ行きた
かった。
頭の中は羊の綿毛でも詰められてしまったように白い。
思考の瞬発力がなくなって、ただぼんやりしている自分を外側から眺めて
いるような精神状態だった。これも飽和というのだろうか。
(格好わるいな……)
肌寒い五月の風が頬を過ぎる。
暗い天には都会のあいまいな夜空。ネオンに照らされた灰紫の雲が低く流
れていく。星は一つも見えない。雨が近いのだろうか。空気には湿った感触
がある。
(いっそ、降ってくれれば良いのに)
多少自暴自棄な気分で思う。
ぐすり。
鼻がなる。
鏡を見なくても、自分がどんな顔をしているかはわかった。
今は亡き祖母に言われた言葉が蘇る。
――女の子が泣くときには、決して大声を立てたりしてはダメ。声を荒げた
らそれだけで不合格ね。しくしく泣けてやっと三流。目じりに涙をためて口
元を引き絞れて、やっと二流ね。
一流はね、涙を真珠みたいにほろりと一粒こぼしながら微笑めるの。そこ
までいけたらどんな男の子も手玉に取れるのよ。ええ、いちころですとも。
お祖母ちゃん? そうね。お祖母ちゃんは超一流ですからね。だからお祖
父ちゃんと結婚できたのよ。とでも云っておきましょうか。
557 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:03:18 ID:i7iFeo+e
あれはいつ云われた事だろう。
原因は忘れてしまったが、ヤヌスが悔しくて辛くて堪らなくて大泣きをし
てしまった時の事だ。祖母は穏やかな声で話しながら、大きなタオルでヤヌ
スを包んでくれていた。
――あらあら。そんなにお鼻を真っ赤にするものじゃないわ。女の子の中に
はね、先天的にキレイに泣ける娘がいるのよね。でも残念だけど貴方はそう
じゃないから。ほら、酷い顔してますよ、ヤヌス。鼻をかんで。
貴方は泣き方が不器用だから。それじゃ男の子に逃げられちゃうわ。超一
流になるまでは、泣かない戦略でいくのね。
思い返せばずいぶん酷い台詞を言われた気がする。
しかし長じて理解されて来たのは祖母の予言は確かなものであり、ヤヌス
の泣き顔はやはり上達しないということだった。
鼻をすすり上げる。
きっと自分の鼻も目じりも涙で赤くなって、酷い顔だろう。そうヤヌスは
思った。
困ったような表情でそれで意地を張る駄々っ子のような自分はとてもとて
も滑稽だろう。それは祖母の予言どおりに。そして祖母の作戦を守れなかっ
た罰のように。
視線を足元に落として歩く。祖母の言葉を守ってヤヌスはずっと視線を上
げて生きてきた。自分でも意固地で不器用だったとは思う。けれど他に選択
肢もなかったのだ。仕方がない。仕方がないが、羞恥と悔しさで胸が詰まる。
居酒屋のことを思い出すと涙があふれてきそうだ。
だからあえて思い出さないように歩く。でも、思い出さないように努力し
ていることは、本当はその考えが頭から去ってなどいないということだ。そ
んなことも判っている。
唇からはため息が漏れる。
自分らしくはないと思っても、どうにもならない。
558 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:04:01 ID:???
気がつくと殺風景なビルの屋上にいた。
コンクリートで作られた雑居ビルは不ぞろいなドミノのようで、足元の道
路にはネオンの光があふれている。給水塔とパイプが這い回る屋上は薄暗く
て見通しが悪いが、ヤヌスには慣れ親しんだ場所だった。
(あ……)
そう。結局は『部室』に来てしまったのだ。
他の場所を考え付かなかったのか。足が勝手に向かってしまったのか。
つくづく活動範囲の狭い人間だと、ヤヌスは自嘲する。
「ここにはいられない、ですね」
飲み会が行われている今、『部室』は無人だろうが、終わってしまえば酔
い覚ましや二次会、三次会で『部員』が帰ってくる可能性が高い。とぼとぼ
と二駅以上も歩き続けて疲れていたが、この場所には居られなかった。
それは今日だけのことではなく。
あんな醜態をさらしてしまった以上、もう『部室』に居続ける事は難しい
のではないか。ヤヌスは思う。自分のあの姿を見て、皆はさぞかしいやな思
いをしただろう。呆れ果てられただろうな。そう思うと胸がつぶれるような
気持ちがした。
(素直に家に帰ればよかった)
ヤヌスは頭を振る。そんなことにも気が回らなくなっていたらしい。
せめて紅茶だけでも持ち帰ろう。
そう思ってドアノブに手をかける。しかし、ドアは手をかけた瞬間内側に
開いた。
ヤヌスのことには気がついていたのだろう。
そこには怯えるような気持ちを押し隠す表情があった。
「――梨銘君」
ヤヌスの頭の中にいろんな思いが去来する。
――こんな事態を巻き起こす最初のきっかけになったひと。気さくで陽気だ
けど、悪ふざけと悪乗りをしてしまう人。何でこんな場所に居るのだろうか。
あの飲み会に居たのに。ああ、そうか。自分は歩いてきたから。電車を使え
ば先回りできるのか。それにしても、どういう理由でここに?
559 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:05:12 ID:???
思いは感情を連れてくる。
――そうか。自分を笑いにきたのか。そもそもねこ耳は梨銘が言い出したこ
と。途中であんな無様な幕引きになって、溜飲の下がる思いをしただろう。
そういえば、ワンダフルワールドのすみれ色のサマードレス。あの写真を
撮られていたんだっけ。
そのこともなんだか遠い出来事のようで。
――そうだよね。そういう意味で言えば、そもそも、私が似合いもしないよ
うな服を身に着けてこそこそしていたのが原因なのだ。でもあのフワフワと
したワンピースと白いサンダルは、卑しくも女の子に生まれたからには一度
は着てみたいではないか。たとえどんなに似合わなくたって。
――それは郷愁に似た強い気持ち。憧れなのだ。
梨銘は、重いスチールドアを開けた体勢のまま、ヤヌスと見詰め合ってい
る。その表情は大きな苦痛をかみ殺しているように沈痛で、痛々しいものだ
った。
――なんでこの人はこんな顔をしているんだろう。もっと無茶な要求をする
とか、大笑いするとか、馬鹿にするとかすればいいのに。もう、そんなこと
をしても、怒る気にもなれないけれど。全部終わってしまったことなのだか
ら。
「梨銘君。そこをどかなきゃ紅茶が取れないです」
ヤヌスが出した声は、自分で思っていたよりもずっと掠れた声だった。
ずっと嗚咽をこらえていたのだ。喉がひりついて痛い。その声は自分で聞
いてもびっくりするほど小さくて情けないほどだ。
その声で、梨銘の表情がもっと険しくなる。
――梨銘君は変な子。何がそんなに辛いんだろう。
ヤヌスは不思議に思う。
梨銘は何かを言おうとするように何度も口を開くが、言葉にならないのか、
そのたびに口を閉じてしまう。息苦しいような空気だけが時間を刻み込む。
――ああ。仕方のない子だなぁ。
ヤヌスは手を伸ばすと、自分よりも15cm高い梨銘の頭を優しく叩いた。
「これ以上苛めても、なんにもだせないですよ?」
■SEQUENCE 06
どの店からも有線の音楽が聞こえてくる。
明るくてポップな流行曲が寄せては返す波のように繁華街を浸している。
明るいネオンには楽しげに歩くグループ、酔ったサラリーマン、親しげな
態度の客引き、家路を急ぐOL、こんな時間にも塾に急ぐ子供達。
様々な種類の人間が、それぞれの目的に向かって足早に歩く。
そんな人々の間を、ヤヌスはうつむいて歩いていく。
どこへ向かうという当てはない。
ただ、繁華街をさっさと抜けて、もうちょっと人目のないところへ行きた
かった。
頭の中は羊の綿毛でも詰められてしまったように白い。
思考の瞬発力がなくなって、ただぼんやりしている自分を外側から眺めて
いるような精神状態だった。これも飽和というのだろうか。
(格好わるいな……)
肌寒い五月の風が頬を過ぎる。
暗い天には都会のあいまいな夜空。ネオンに照らされた灰紫の雲が低く流
れていく。星は一つも見えない。雨が近いのだろうか。空気には湿った感触
がある。
(いっそ、降ってくれれば良いのに)
多少自暴自棄な気分で思う。
ぐすり。
鼻がなる。
鏡を見なくても、自分がどんな顔をしているかはわかった。
今は亡き祖母に言われた言葉が蘇る。
――女の子が泣くときには、決して大声を立てたりしてはダメ。声を荒げた
らそれだけで不合格ね。しくしく泣けてやっと三流。目じりに涙をためて口
元を引き絞れて、やっと二流ね。
一流はね、涙を真珠みたいにほろりと一粒こぼしながら微笑めるの。そこ
までいけたらどんな男の子も手玉に取れるのよ。ええ、いちころですとも。
お祖母ちゃん? そうね。お祖母ちゃんは超一流ですからね。だからお祖
父ちゃんと結婚できたのよ。とでも云っておきましょうか。
557 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:03:18 ID:i7iFeo+e
あれはいつ云われた事だろう。
原因は忘れてしまったが、ヤヌスが悔しくて辛くて堪らなくて大泣きをし
てしまった時の事だ。祖母は穏やかな声で話しながら、大きなタオルでヤヌ
スを包んでくれていた。
――あらあら。そんなにお鼻を真っ赤にするものじゃないわ。女の子の中に
はね、先天的にキレイに泣ける娘がいるのよね。でも残念だけど貴方はそう
じゃないから。ほら、酷い顔してますよ、ヤヌス。鼻をかんで。
貴方は泣き方が不器用だから。それじゃ男の子に逃げられちゃうわ。超一
流になるまでは、泣かない戦略でいくのね。
思い返せばずいぶん酷い台詞を言われた気がする。
しかし長じて理解されて来たのは祖母の予言は確かなものであり、ヤヌス
の泣き顔はやはり上達しないということだった。
鼻をすすり上げる。
きっと自分の鼻も目じりも涙で赤くなって、酷い顔だろう。そうヤヌスは
思った。
困ったような表情でそれで意地を張る駄々っ子のような自分はとてもとて
も滑稽だろう。それは祖母の予言どおりに。そして祖母の作戦を守れなかっ
た罰のように。
視線を足元に落として歩く。祖母の言葉を守ってヤヌスはずっと視線を上
げて生きてきた。自分でも意固地で不器用だったとは思う。けれど他に選択
肢もなかったのだ。仕方がない。仕方がないが、羞恥と悔しさで胸が詰まる。
居酒屋のことを思い出すと涙があふれてきそうだ。
だからあえて思い出さないように歩く。でも、思い出さないように努力し
ていることは、本当はその考えが頭から去ってなどいないということだ。そ
んなことも判っている。
唇からはため息が漏れる。
自分らしくはないと思っても、どうにもならない。
558 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:04:01 ID:???
気がつくと殺風景なビルの屋上にいた。
コンクリートで作られた雑居ビルは不ぞろいなドミノのようで、足元の道
路にはネオンの光があふれている。給水塔とパイプが這い回る屋上は薄暗く
て見通しが悪いが、ヤヌスには慣れ親しんだ場所だった。
(あ……)
そう。結局は『部室』に来てしまったのだ。
他の場所を考え付かなかったのか。足が勝手に向かってしまったのか。
つくづく活動範囲の狭い人間だと、ヤヌスは自嘲する。
「ここにはいられない、ですね」
飲み会が行われている今、『部室』は無人だろうが、終わってしまえば酔
い覚ましや二次会、三次会で『部員』が帰ってくる可能性が高い。とぼとぼ
と二駅以上も歩き続けて疲れていたが、この場所には居られなかった。
それは今日だけのことではなく。
あんな醜態をさらしてしまった以上、もう『部室』に居続ける事は難しい
のではないか。ヤヌスは思う。自分のあの姿を見て、皆はさぞかしいやな思
いをしただろう。呆れ果てられただろうな。そう思うと胸がつぶれるような
気持ちがした。
(素直に家に帰ればよかった)
ヤヌスは頭を振る。そんなことにも気が回らなくなっていたらしい。
せめて紅茶だけでも持ち帰ろう。
そう思ってドアノブに手をかける。しかし、ドアは手をかけた瞬間内側に
開いた。
ヤヌスのことには気がついていたのだろう。
そこには怯えるような気持ちを押し隠す表情があった。
「――梨銘君」
ヤヌスの頭の中にいろんな思いが去来する。
――こんな事態を巻き起こす最初のきっかけになったひと。気さくで陽気だ
けど、悪ふざけと悪乗りをしてしまう人。何でこんな場所に居るのだろうか。
あの飲み会に居たのに。ああ、そうか。自分は歩いてきたから。電車を使え
ば先回りできるのか。それにしても、どういう理由でここに?
559 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/20(土) 18:05:12 ID:???
思いは感情を連れてくる。
――そうか。自分を笑いにきたのか。そもそもねこ耳は梨銘が言い出したこ
と。途中であんな無様な幕引きになって、溜飲の下がる思いをしただろう。
そういえば、ワンダフルワールドのすみれ色のサマードレス。あの写真を
撮られていたんだっけ。
そのこともなんだか遠い出来事のようで。
――そうだよね。そういう意味で言えば、そもそも、私が似合いもしないよ
うな服を身に着けてこそこそしていたのが原因なのだ。でもあのフワフワと
したワンピースと白いサンダルは、卑しくも女の子に生まれたからには一度
は着てみたいではないか。たとえどんなに似合わなくたって。
――それは郷愁に似た強い気持ち。憧れなのだ。
梨銘は、重いスチールドアを開けた体勢のまま、ヤヌスと見詰め合ってい
る。その表情は大きな苦痛をかみ殺しているように沈痛で、痛々しいものだ
った。
――なんでこの人はこんな顔をしているんだろう。もっと無茶な要求をする
とか、大笑いするとか、馬鹿にするとかすればいいのに。もう、そんなこと
をしても、怒る気にもなれないけれど。全部終わってしまったことなのだか
ら。
「梨銘君。そこをどかなきゃ紅茶が取れないです」
ヤヌスが出した声は、自分で思っていたよりもずっと掠れた声だった。
ずっと嗚咽をこらえていたのだ。喉がひりついて痛い。その声は自分で聞
いてもびっくりするほど小さくて情けないほどだ。
その声で、梨銘の表情がもっと険しくなる。
――梨銘君は変な子。何がそんなに辛いんだろう。
ヤヌスは不思議に思う。
梨銘は何かを言おうとするように何度も口を開くが、言葉にならないのか、
そのたびに口を閉じてしまう。息苦しいような空気だけが時間を刻み込む。
――ああ。仕方のない子だなぁ。
ヤヌスは手を伸ばすと、自分よりも15cm高い梨銘の頭を優しく叩いた。
「これ以上苛めても、なんにもだせないですよ?」