573 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:16:39 ID:???
■SEQUENCE 07
「……っ」
梨銘は唇を噛む。ヤヌスは少し疲れて、ぼんやりしているように見えた。
肩を落とした姿は、いつもよりも小さく見えるほどだ。そんなヤヌスの姿
を見ていつも見ていたヤヌスの颯爽とした後姿を思い起こす。
背筋をぴんと延ばして歩く姿は気品があって意思を感じさせた。梨銘はそ
の姿を見て、苦笑めいた思いを持つとともに憧れてもいたのだった。
そのヤヌスが意気消沈している様を見るのは胸に鈍痛めいたものを抱かせ
た。
「ごめん」
云おうと思ってた言葉は出なかった。代わりに出たのは何の芸も無い単純
な謝罪だけ。
「ヤヌスを苛めるつもりなんて無かった。恥ずかしい目にあわせようなんて
思ってなかったんだ。ただ……」
「ただ?」
ヤヌスが梨銘を見上げる。
いつもの凛々しい眼差しはそこには無い。五月のまだ肌寒い夜の暗がりに
あるのは、地上のネオンの光も写り込まない黒曜石のような瞳。
強い光は無いけれど、不純物を除いたような綺麗な黒。
「……」
その色に梨銘は言葉を失う。「ただ」。その後は何だというのか。
何を云ってもそれは言い訳の言葉でしかないだろう。でも、本当に言いた
いのは言い訳では無かった。言い訳ではないのに、出てくる言葉は言い訳じ
みたものばかりなのだ。
もどかしい様な気持ちで梨銘はあがいた。
言葉がうまく出てこないのをこんな気持ちで味わうのはいつ以来だろう。
不器用な子供になったような気分で梨銘は押し黙る。
574 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:17:25 ID:???
「じゃぁ、一体なんでなんですか? こんなことして楽しいですか?」
ヤヌスの声に怒気が戻る。でもそこにはいつもの鮮やかさが無く、苛立ち
の色だけが在った。
「……」
梨銘はその声を忸怩たる思いで聴く。その声を出させたのは自分だ。
ヤヌスをヤヌスらしくしているものを奪ってしまったのは自分だ。
それはひどい罪悪に思えた。死刑執行されても仕方が無いほどに。
「……ヤヌス」
「ヤヌスだなんて呼び捨てにしないでください」
感じていた温度が冷えていくような、何かが失われていくような感触に梨
銘は恐怖を覚える。取り返しがつかなくなる前に、伝えなければならない。
でも、伝えるための言葉は品切れだ。
肝心なときになんて役に立たないボキャブラリィなんだろう。
「ちゃんと説明する」
梨銘は大きく息を吸った。それでも。梨銘は思う。
『それでも』ちゃんりヤヌスに説明したい。それは嫌われたくないという
気持ちよりもヤヌスのために。梨銘は思った。言葉が拙くても避け得ない局
面があるとするならば、それは今だ。
ヤヌスはその梨銘を表情の読めない黒曜石の瞳で見上げている。引き結ん
だ口元に怒った様な堪えているような想いを乗せて。
「時間は取らせないけれど、きちんと説明したいと思う。だから、聞いて」
梨銘は押しかぶせるように云った。
ヤヌスは、黙って小さく頷いた。
575 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:18:37 ID:???
正直に告白すれば、梨銘に勝算など無かった。
それどころかどんな風に説明するかという考えも無かったし、もっと言っ
てしまえば何を説明するつもりなのかもあやふやだった。
『なぜこんなことをしたのか?』
ヤヌスはそう尋ねている。
売り言葉に買い言葉だったから? ヤヌスが怒っていたから緊急回避?
それともヤヌスからかって遊びたかっただけ?
どれも嘘ではない。
そういった悪戯めいた気持ちがどこかにあったことは本当だ。
でも、それをヤヌスに説明してしまったら、全部が嘘になってしまう。梨
銘はそう思った。
言葉として形にしてみたら、そうなってしまう。
名前をつけたら、名前のとおりの存在になってしまうのと一緒だ。
そしてそう認識されたならば、言葉から漏れた「本当の部分」は無かった
ことにされてしまう。
部分としてはどれも本当なのに、相対としては殆どが嘘になってしまう。
本当に伝えたい部分だけがぽっかりと無くなってしまう感覚。それは、ま
るで食べてしまった後のドーナツの穴だ。ドーナツを食べ終われば、食べて
ないはずのドーナツの穴まで無くなる。
「昔……」
梨銘は何も考えずに切り出した。
仕方ない。結局伝えたい「本当の部分」は形じゃないのだから。そこに在
るものは気持ちでしかないのだ。
それは本来伝わらないものなのだから、伝わらなくても仕方ないんだ。梨
銘は半ば自棄な気持ちで思う。
迂遠だけれど、こんな方法でしか説明出来ない。
576 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:19:44 ID:???
「中学のころ、学校に行く途中の小道で黒い猫を見かけたんだよ。毎日同じ
場所でね。すごくハンサムで、格好良くて凛々しい猫でさ」
迷いながらもと言葉は出てきた。
「スレンダーで動きに品があって、尻尾が長いの。……先っちょがいつもゆ
らゆら揺れていてさ。
楡の木があって。いつもそこにいるんだけど、人間なんか眼中に無いって
感じ。友達なんかでも気にしてるヤツがいてね、たまに餌とかあげてたりし
ているみたいなんだけど、見向きもしないんだって。
きっと、その猫にとっては、人間っていちいち真面目に付き合う存在じゃ
ないんだろうなって感じてた」
梨銘の中にその猫の颯爽とした格好よさが蘇る。
それは肌触りを感じるほどに鮮明で梨銘の気持ちの深いところに感動を与
える思い出。
どうかこの気持ちが伝わりますように。祈るように梨銘は続ける。
「俺もそいつを気に入っててさ、通りがかりに挨拶するんだけど、いっつも
無視されてたんだよ。声をかけ続けたり、触ろうとするとすぐ逃げられちゃ
うしね。俺だけじゃなくて、皆そんな感じみたいでさ」
梨銘は小さく苦笑する。
実際当時は「なんて生意気な猫なんだろう」と思ったこともあったのだ。
「でも。一回だけ、近くに寄ってきて見上げてくれたことがあって。
喉を鳴らして綺麗な声で鳴いてくれたんだ。
『お前変なやつだなー』って言われたような気がするんだけどさ。んっと、
判るかな。『なーぉ』ってさ」
賢そうな瞳が見上げてきたときのことを思い出せる。
琥珀色の瞳は思慮深そうで、それだけで梨銘は飛び上がるほど嬉しかった。
「うまく云えないけれど、それがすごく嬉しくてさ。特別に感じて。わくわ
くした。どきどきして。大切にしようって思った」
577 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:27:25 ID:???
柔らかい天鳶絨のような一声と見上げた瞳の触れ合う感じが、当時の梨銘
にどれほど幸福感を与えてくれただろう。
それだけの力のある一瞬が、時間の流れの中には存在する。
それを実感するのは小さくは無い感動だった。
梨銘は自分の言葉が伝わっているかどうか心配そうにヤヌスを見る。
「判るかな?」
「……」
ヤヌスは応えない。黒い瞳で梨銘をただ見上げている。
「うまく言えないけどさ。俺はヤヌスに懐いて欲しかったんだと思う」
猫という生き物は自身の王で人間を主人だとは思わない。
犬は仲間と族長を持つが、猫が持つのは友人だけだ。梨銘は昔読んだ外国
の作家の言葉を思い出す。
――だから、人間は猫と仲良くなるためには頭を下げなければならない。猫
が認めてくれない限り貴方は猫と上手には付き合えない。
それはとても難儀な話に思えたが、たぶん正確な表現なのだ。
「……」
ヤヌスが何を考えているのかは相変わらず判らない。ただ黙って、約束ど
おり話を聞いている。
ヤヌスは約束を守っているのだ。猫以上に、ヤヌスは自身の王であり主人
だった。ヤヌスは完全に独立した人間で、彼女に近づいてみたいという気持
ちは自分の側の身勝手なんだな。
梨銘は自分がした説明で、やっと自分の気持ちに気がついた。
ああ、なんだ。――ヤヌスの頭を撫でたかったんだ。
触れてみたかっただけなんだ。
「……説明、終了」
梨銘は息を吐き出す。
上手に説明できたとはとても思えない。
けれど仕方が無い。そもそも伝わるというのが奇跡的なことなのだ。
あの猫が見上げてくれたのと同じくらい。それは奇跡的なこと。
578 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:28:16 ID:???
ヤヌスは梨銘の言葉が終わってしばたく口を開かなかった。
ただ黙って、梨銘を見上げていた。
彼女は黙って一つうなずくと、一歩前に出る。
そこは既に梨銘の中といってもいい場所で、彼女はわずかな動きで、自分
の頭を梨銘の顎の下に滑り込ませる。
桃の香り。梨銘はそれがヤヌスのシャンプーの香りだと気がつくのにしば
らくかかった。ヤヌスの考えがまったく読めない。
「――つまり」
梨銘の首筋に吐息が絡むほどの距離でヤヌスが呟く。
「梨銘君は、わたしのことを撫でたい。……そう云うのですね?」
「うぅ」
ヤヌスの言葉は梨銘の理解の範疇を完全に超えていた。そのうえ、かすれ
たようなヤヌスの声で改めて問われると、我が事ながらすごく恥ずかしい気
がする。
「違うのですか?」
「違わない。ような……」
ヤヌスが言葉を漏らすたびに、抱きしめられる至近距離でささやく唇から
吐息が漏れる。それを感じるだけで梨銘の体温は跳ね上がる。
「判りました」
梨銘が凍りつく。ワカリマシタ。そう聞こえた。
ワカリマシタというのは撫でて良いよという意味なのだろうか? 日本語
の文法ではそういう意味であるはずだ。
しかしヤヌス語では違うのではないか。そんな猜疑心さえ感じるほど唐突
な許可だった。
「判りました。といったのです。どうぞ撫でてください」
ヤヌスが自分の指先が届く場所でじっと立っている。
それは野良の猫が触れさせてくれるように貴重なこと。
579 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:29:25 ID:???
「――うん」
緊張して梨銘は震えそうになる。膝の力が抜ける。
「ただし」
ヤヌスがタイミングを見計らったように言葉を挟む。
「撫でた後には死刑です。被告、梨銘君は死刑です。判決死刑ですよ。然る
べき報いとしての神罰執行ですっ。それでも良いならどうぞ」
その潔癖な声は。
いつものヤヌスのように。いつも聞いていたあの声のようで。
梨銘はその言葉だけで胸が一杯になってしまう。
言葉は「死刑」だなんて厳しいのに。ほんのわずかにヤヌスの落ち込んで
いた姿を見ただけなのに。懐かしさと嬉しさで、限りなく優しい気持ちがあ
ふれてくる。
「死刑になるだけ?」
ヤヌスがこくりと頷く。梨銘の胸のすぐそばにヤヌスの小さな頭部がある
ために表情は見えない。抱きしめてはいないけれど、抱きしめているのと同
じような距離で。
触れてはいないけれど体温の伝わる距離で。
梨銘は頷いたヤヌスの髪をすくう。
指の間をさらさらと滑り落ちるそれは水で作った絹糸のよう。
野良猫を怯えさせない細心の注意をもって高鳴る鼓動を押さえ指を滑らせ
る。
「――。死刑になってもいいんですか」
ヤヌスの呆れたような拗ねたような声が聞こえる。
「死刑なだけでしょう? 嫌わないでいてくれるなら甘受する」
言葉に詰まるヤヌス。ぎゅっと拳に力が入り、身体が強張るのが判る。
梨銘は胸の中でゆっくり数を数えながらヤヌスを優しく甘やかすように撫
でる。1、2、3、4……。そろそろ限界かな、そう感じた梨銘は手を離す。
その瞬間ヤヌスは爆発するような速度で後ずさると弾けるように梨銘に背中
を向ける。
580 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:31:06 ID:???
「あ、貴方は何を考えてるんですかっ! 梨銘君っ。死刑ですよっ! 死刑
判決といってるんです。判りますか? 私はお説教してるんですっ。それな
のにお構いなしに中央突破で頭を撫でるとは、貴方は一体何を考えてるんで
すかっ。見損ないました。恥を知りなさいっ」
歯切れのいいヤヌスの声。抑揚のついた旋律が耳に心地よくて、梨銘は笑
みがこぼれてしまう。ああ、そうか。と梨銘は自分の想いがまた一つ腑に落
ちる。
「でも、嫌いになるって云われてないし」
「~~っ!! 何を云ってるんですか!!」
夜風に揺れるヤヌスの黒髪。その間に覗く彼女の耳が朱く染まっている。
「撫でられるのいやだって云わなかったし」
「~~っ! 梨銘君っ!!」
「いいよ。死刑。――できるなら、ヤヌスの膝枕で安らかにしちゃって欲し
いかな」
我慢できずに振り返ってしまうヤヌス。真っ赤に染まった頬と恨むような
視線が、眼鏡の中から上目遣いに見上げている。
「なっ、なんていう破廉恥なことをっ」
「抵抗しないよ?」
にこりと笑う梨銘。それはヤヌスをからかっていた日々と同じ言葉だけれ
ど、まるで違う気持ち。触れさせてくれたから。独立不羈の高潔さを持った
ヤヌスがあの日の猫のように一度だけ撫でさせてくれたから。
その掛け替えの無い貴重さが梨銘の胸を暖める。だから、嫌われるのは怖
いけれど、怒られるのは怖くない。
ヤヌスは梨銘のその表情に何を感じたのか、口を開いては閉じる。言葉を
捜して、その表情がめまぐるしく変わる。
「ね?」
「~~っ! う。うぅ。……ぐぐぐ」
じりじりと下がるヤヌス。
581 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:32:46 ID:???
い、いいでしょうっ。……今回のことは私のほうにも隙がありました。今
回だけは特例として執行猶予を認めますっ。いいですか、執行猶予ですよ。
決して貴方の罪がなくなったわけでも、罰が執行されないわけでもありませ
んっ。諸般の事情を鑑みてその執行を一時保留にするだけですからねっ」
ヤヌスはどこか居心地が悪いような逃げ腰で、それでも胸を張ってメトロ
ノームのように人差し指を振る。
「喉渇いちゃった。ヤヌス。なんか甘いものでも食べに行こうよ」
「ひゃんっ!? ななな、何を云ってるんですかっ!? 執行猶予の癖に!」
「だから、保護観察だよ。見張ってないと危険でしょう?」
「ダメですっ。それ以上の接近は禁止ですっ! 禁止! 髪の毛触っちゃダ
メですっ!!」
「もちろん許可があるまでそんなことしないよ」
「~っ! 許可なんてありません。未来永劫金輪際あるわけないのですっ!
絶対に絶対に絶対にありえませんっ」
噛み付くようなヤヌスの反論。その言葉の一つ一つが今の梨銘にはくすぐ
ったい。
「そっか」
「なんですか、その微笑みはっ! 一体どういう意味なんですか! 釈明と
事情説明を求めます。さぁ!!」
「ん、判った。じゃぁその話はフレンチクルーラーでも食べながらにしよう
か」
「絶対ですからねっ。逃亡は許しませんよっ」
詰問とはぐらかしを。同意と否定をうちあわせながら、二人はスチールの
古ぼけた階段を下りてゆく。
後に残ったのはドーナツを食べた後のドーナツの穴。
梨銘が言葉にしなかったこと。ヤヌスが確認しなかったこと。
ドーナツを食べたあとでは形もわからなくなってしまった「本当のこと」
名づけることをしなかった「好意」だけが屋上に漂って、
やがて五月の夜風に散って行った。
■SEQUENCE 07
「……っ」
梨銘は唇を噛む。ヤヌスは少し疲れて、ぼんやりしているように見えた。
肩を落とした姿は、いつもよりも小さく見えるほどだ。そんなヤヌスの姿
を見ていつも見ていたヤヌスの颯爽とした後姿を思い起こす。
背筋をぴんと延ばして歩く姿は気品があって意思を感じさせた。梨銘はそ
の姿を見て、苦笑めいた思いを持つとともに憧れてもいたのだった。
そのヤヌスが意気消沈している様を見るのは胸に鈍痛めいたものを抱かせ
た。
「ごめん」
云おうと思ってた言葉は出なかった。代わりに出たのは何の芸も無い単純
な謝罪だけ。
「ヤヌスを苛めるつもりなんて無かった。恥ずかしい目にあわせようなんて
思ってなかったんだ。ただ……」
「ただ?」
ヤヌスが梨銘を見上げる。
いつもの凛々しい眼差しはそこには無い。五月のまだ肌寒い夜の暗がりに
あるのは、地上のネオンの光も写り込まない黒曜石のような瞳。
強い光は無いけれど、不純物を除いたような綺麗な黒。
「……」
その色に梨銘は言葉を失う。「ただ」。その後は何だというのか。
何を云ってもそれは言い訳の言葉でしかないだろう。でも、本当に言いた
いのは言い訳では無かった。言い訳ではないのに、出てくる言葉は言い訳じ
みたものばかりなのだ。
もどかしい様な気持ちで梨銘はあがいた。
言葉がうまく出てこないのをこんな気持ちで味わうのはいつ以来だろう。
不器用な子供になったような気分で梨銘は押し黙る。
574 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:17:25 ID:???
「じゃぁ、一体なんでなんですか? こんなことして楽しいですか?」
ヤヌスの声に怒気が戻る。でもそこにはいつもの鮮やかさが無く、苛立ち
の色だけが在った。
「……」
梨銘はその声を忸怩たる思いで聴く。その声を出させたのは自分だ。
ヤヌスをヤヌスらしくしているものを奪ってしまったのは自分だ。
それはひどい罪悪に思えた。死刑執行されても仕方が無いほどに。
「……ヤヌス」
「ヤヌスだなんて呼び捨てにしないでください」
感じていた温度が冷えていくような、何かが失われていくような感触に梨
銘は恐怖を覚える。取り返しがつかなくなる前に、伝えなければならない。
でも、伝えるための言葉は品切れだ。
肝心なときになんて役に立たないボキャブラリィなんだろう。
「ちゃんと説明する」
梨銘は大きく息を吸った。それでも。梨銘は思う。
『それでも』ちゃんりヤヌスに説明したい。それは嫌われたくないという
気持ちよりもヤヌスのために。梨銘は思った。言葉が拙くても避け得ない局
面があるとするならば、それは今だ。
ヤヌスはその梨銘を表情の読めない黒曜石の瞳で見上げている。引き結ん
だ口元に怒った様な堪えているような想いを乗せて。
「時間は取らせないけれど、きちんと説明したいと思う。だから、聞いて」
梨銘は押しかぶせるように云った。
ヤヌスは、黙って小さく頷いた。
575 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:18:37 ID:???
正直に告白すれば、梨銘に勝算など無かった。
それどころかどんな風に説明するかという考えも無かったし、もっと言っ
てしまえば何を説明するつもりなのかもあやふやだった。
『なぜこんなことをしたのか?』
ヤヌスはそう尋ねている。
売り言葉に買い言葉だったから? ヤヌスが怒っていたから緊急回避?
それともヤヌスからかって遊びたかっただけ?
どれも嘘ではない。
そういった悪戯めいた気持ちがどこかにあったことは本当だ。
でも、それをヤヌスに説明してしまったら、全部が嘘になってしまう。梨
銘はそう思った。
言葉として形にしてみたら、そうなってしまう。
名前をつけたら、名前のとおりの存在になってしまうのと一緒だ。
そしてそう認識されたならば、言葉から漏れた「本当の部分」は無かった
ことにされてしまう。
部分としてはどれも本当なのに、相対としては殆どが嘘になってしまう。
本当に伝えたい部分だけがぽっかりと無くなってしまう感覚。それは、ま
るで食べてしまった後のドーナツの穴だ。ドーナツを食べ終われば、食べて
ないはずのドーナツの穴まで無くなる。
「昔……」
梨銘は何も考えずに切り出した。
仕方ない。結局伝えたい「本当の部分」は形じゃないのだから。そこに在
るものは気持ちでしかないのだ。
それは本来伝わらないものなのだから、伝わらなくても仕方ないんだ。梨
銘は半ば自棄な気持ちで思う。
迂遠だけれど、こんな方法でしか説明出来ない。
576 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:19:44 ID:???
「中学のころ、学校に行く途中の小道で黒い猫を見かけたんだよ。毎日同じ
場所でね。すごくハンサムで、格好良くて凛々しい猫でさ」
迷いながらもと言葉は出てきた。
「スレンダーで動きに品があって、尻尾が長いの。……先っちょがいつもゆ
らゆら揺れていてさ。
楡の木があって。いつもそこにいるんだけど、人間なんか眼中に無いって
感じ。友達なんかでも気にしてるヤツがいてね、たまに餌とかあげてたりし
ているみたいなんだけど、見向きもしないんだって。
きっと、その猫にとっては、人間っていちいち真面目に付き合う存在じゃ
ないんだろうなって感じてた」
梨銘の中にその猫の颯爽とした格好よさが蘇る。
それは肌触りを感じるほどに鮮明で梨銘の気持ちの深いところに感動を与
える思い出。
どうかこの気持ちが伝わりますように。祈るように梨銘は続ける。
「俺もそいつを気に入っててさ、通りがかりに挨拶するんだけど、いっつも
無視されてたんだよ。声をかけ続けたり、触ろうとするとすぐ逃げられちゃ
うしね。俺だけじゃなくて、皆そんな感じみたいでさ」
梨銘は小さく苦笑する。
実際当時は「なんて生意気な猫なんだろう」と思ったこともあったのだ。
「でも。一回だけ、近くに寄ってきて見上げてくれたことがあって。
喉を鳴らして綺麗な声で鳴いてくれたんだ。
『お前変なやつだなー』って言われたような気がするんだけどさ。んっと、
判るかな。『なーぉ』ってさ」
賢そうな瞳が見上げてきたときのことを思い出せる。
琥珀色の瞳は思慮深そうで、それだけで梨銘は飛び上がるほど嬉しかった。
「うまく云えないけれど、それがすごく嬉しくてさ。特別に感じて。わくわ
くした。どきどきして。大切にしようって思った」
577 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:27:25 ID:???
柔らかい天鳶絨のような一声と見上げた瞳の触れ合う感じが、当時の梨銘
にどれほど幸福感を与えてくれただろう。
それだけの力のある一瞬が、時間の流れの中には存在する。
それを実感するのは小さくは無い感動だった。
梨銘は自分の言葉が伝わっているかどうか心配そうにヤヌスを見る。
「判るかな?」
「……」
ヤヌスは応えない。黒い瞳で梨銘をただ見上げている。
「うまく言えないけどさ。俺はヤヌスに懐いて欲しかったんだと思う」
猫という生き物は自身の王で人間を主人だとは思わない。
犬は仲間と族長を持つが、猫が持つのは友人だけだ。梨銘は昔読んだ外国
の作家の言葉を思い出す。
――だから、人間は猫と仲良くなるためには頭を下げなければならない。猫
が認めてくれない限り貴方は猫と上手には付き合えない。
それはとても難儀な話に思えたが、たぶん正確な表現なのだ。
「……」
ヤヌスが何を考えているのかは相変わらず判らない。ただ黙って、約束ど
おり話を聞いている。
ヤヌスは約束を守っているのだ。猫以上に、ヤヌスは自身の王であり主人
だった。ヤヌスは完全に独立した人間で、彼女に近づいてみたいという気持
ちは自分の側の身勝手なんだな。
梨銘は自分がした説明で、やっと自分の気持ちに気がついた。
ああ、なんだ。――ヤヌスの頭を撫でたかったんだ。
触れてみたかっただけなんだ。
「……説明、終了」
梨銘は息を吐き出す。
上手に説明できたとはとても思えない。
けれど仕方が無い。そもそも伝わるというのが奇跡的なことなのだ。
あの猫が見上げてくれたのと同じくらい。それは奇跡的なこと。
578 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:28:16 ID:???
ヤヌスは梨銘の言葉が終わってしばたく口を開かなかった。
ただ黙って、梨銘を見上げていた。
彼女は黙って一つうなずくと、一歩前に出る。
そこは既に梨銘の中といってもいい場所で、彼女はわずかな動きで、自分
の頭を梨銘の顎の下に滑り込ませる。
桃の香り。梨銘はそれがヤヌスのシャンプーの香りだと気がつくのにしば
らくかかった。ヤヌスの考えがまったく読めない。
「――つまり」
梨銘の首筋に吐息が絡むほどの距離でヤヌスが呟く。
「梨銘君は、わたしのことを撫でたい。……そう云うのですね?」
「うぅ」
ヤヌスの言葉は梨銘の理解の範疇を完全に超えていた。そのうえ、かすれ
たようなヤヌスの声で改めて問われると、我が事ながらすごく恥ずかしい気
がする。
「違うのですか?」
「違わない。ような……」
ヤヌスが言葉を漏らすたびに、抱きしめられる至近距離でささやく唇から
吐息が漏れる。それを感じるだけで梨銘の体温は跳ね上がる。
「判りました」
梨銘が凍りつく。ワカリマシタ。そう聞こえた。
ワカリマシタというのは撫でて良いよという意味なのだろうか? 日本語
の文法ではそういう意味であるはずだ。
しかしヤヌス語では違うのではないか。そんな猜疑心さえ感じるほど唐突
な許可だった。
「判りました。といったのです。どうぞ撫でてください」
ヤヌスが自分の指先が届く場所でじっと立っている。
それは野良の猫が触れさせてくれるように貴重なこと。
579 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:29:25 ID:???
「――うん」
緊張して梨銘は震えそうになる。膝の力が抜ける。
「ただし」
ヤヌスがタイミングを見計らったように言葉を挟む。
「撫でた後には死刑です。被告、梨銘君は死刑です。判決死刑ですよ。然る
べき報いとしての神罰執行ですっ。それでも良いならどうぞ」
その潔癖な声は。
いつものヤヌスのように。いつも聞いていたあの声のようで。
梨銘はその言葉だけで胸が一杯になってしまう。
言葉は「死刑」だなんて厳しいのに。ほんのわずかにヤヌスの落ち込んで
いた姿を見ただけなのに。懐かしさと嬉しさで、限りなく優しい気持ちがあ
ふれてくる。
「死刑になるだけ?」
ヤヌスがこくりと頷く。梨銘の胸のすぐそばにヤヌスの小さな頭部がある
ために表情は見えない。抱きしめてはいないけれど、抱きしめているのと同
じような距離で。
触れてはいないけれど体温の伝わる距離で。
梨銘は頷いたヤヌスの髪をすくう。
指の間をさらさらと滑り落ちるそれは水で作った絹糸のよう。
野良猫を怯えさせない細心の注意をもって高鳴る鼓動を押さえ指を滑らせ
る。
「――。死刑になってもいいんですか」
ヤヌスの呆れたような拗ねたような声が聞こえる。
「死刑なだけでしょう? 嫌わないでいてくれるなら甘受する」
言葉に詰まるヤヌス。ぎゅっと拳に力が入り、身体が強張るのが判る。
梨銘は胸の中でゆっくり数を数えながらヤヌスを優しく甘やかすように撫
でる。1、2、3、4……。そろそろ限界かな、そう感じた梨銘は手を離す。
その瞬間ヤヌスは爆発するような速度で後ずさると弾けるように梨銘に背中
を向ける。
580 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:31:06 ID:???
「あ、貴方は何を考えてるんですかっ! 梨銘君っ。死刑ですよっ! 死刑
判決といってるんです。判りますか? 私はお説教してるんですっ。それな
のにお構いなしに中央突破で頭を撫でるとは、貴方は一体何を考えてるんで
すかっ。見損ないました。恥を知りなさいっ」
歯切れのいいヤヌスの声。抑揚のついた旋律が耳に心地よくて、梨銘は笑
みがこぼれてしまう。ああ、そうか。と梨銘は自分の想いがまた一つ腑に落
ちる。
「でも、嫌いになるって云われてないし」
「~~っ!! 何を云ってるんですか!!」
夜風に揺れるヤヌスの黒髪。その間に覗く彼女の耳が朱く染まっている。
「撫でられるのいやだって云わなかったし」
「~~っ! 梨銘君っ!!」
「いいよ。死刑。――できるなら、ヤヌスの膝枕で安らかにしちゃって欲し
いかな」
我慢できずに振り返ってしまうヤヌス。真っ赤に染まった頬と恨むような
視線が、眼鏡の中から上目遣いに見上げている。
「なっ、なんていう破廉恥なことをっ」
「抵抗しないよ?」
にこりと笑う梨銘。それはヤヌスをからかっていた日々と同じ言葉だけれ
ど、まるで違う気持ち。触れさせてくれたから。独立不羈の高潔さを持った
ヤヌスがあの日の猫のように一度だけ撫でさせてくれたから。
その掛け替えの無い貴重さが梨銘の胸を暖める。だから、嫌われるのは怖
いけれど、怒られるのは怖くない。
ヤヌスは梨銘のその表情に何を感じたのか、口を開いては閉じる。言葉を
捜して、その表情がめまぐるしく変わる。
「ね?」
「~~っ! う。うぅ。……ぐぐぐ」
じりじりと下がるヤヌス。
581 名前:NPCさん 投稿日:2006/05/22(月) 14:32:46 ID:???
い、いいでしょうっ。……今回のことは私のほうにも隙がありました。今
回だけは特例として執行猶予を認めますっ。いいですか、執行猶予ですよ。
決して貴方の罪がなくなったわけでも、罰が執行されないわけでもありませ
んっ。諸般の事情を鑑みてその執行を一時保留にするだけですからねっ」
ヤヌスはどこか居心地が悪いような逃げ腰で、それでも胸を張ってメトロ
ノームのように人差し指を振る。
「喉渇いちゃった。ヤヌス。なんか甘いものでも食べに行こうよ」
「ひゃんっ!? ななな、何を云ってるんですかっ!? 執行猶予の癖に!」
「だから、保護観察だよ。見張ってないと危険でしょう?」
「ダメですっ。それ以上の接近は禁止ですっ! 禁止! 髪の毛触っちゃダ
メですっ!!」
「もちろん許可があるまでそんなことしないよ」
「~っ! 許可なんてありません。未来永劫金輪際あるわけないのですっ!
絶対に絶対に絶対にありえませんっ」
噛み付くようなヤヌスの反論。その言葉の一つ一つが今の梨銘にはくすぐ
ったい。
「そっか」
「なんですか、その微笑みはっ! 一体どういう意味なんですか! 釈明と
事情説明を求めます。さぁ!!」
「ん、判った。じゃぁその話はフレンチクルーラーでも食べながらにしよう
か」
「絶対ですからねっ。逃亡は許しませんよっ」
詰問とはぐらかしを。同意と否定をうちあわせながら、二人はスチールの
古ぼけた階段を下りてゆく。
後に残ったのはドーナツを食べた後のドーナツの穴。
梨銘が言葉にしなかったこと。ヤヌスが確認しなかったこと。
ドーナツを食べたあとでは形もわからなくなってしまった「本当のこと」
名づけることをしなかった「好意」だけが屋上に漂って、
やがて五月の夜風に散って行った。