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1918年5月民族主義的社会主義政党ミュサバト党の主導により独立。バクーがボリシェヴィキの支配下にあったため、ガンジャが共和国の臨時首都となった。民主的議会が開かれイスラーム国家にもかかわらず女性参政権も一部認められた。1918年6月からバクーを巡るバクーの戦いでアルメニア・アゼルバイジャン戦争が本格化する。当初は評議会制であったがナショナリストからの批判により廃止され民主的選挙による議会が設置される。1920年4月28日に赤軍第11軍に占領され滅亡。設立からわずか2年しか経っていないにもかかわらず、アゼルバイジャンの多党制議会は、国家建設、教育、軍隊の創設、独立した金融・経済システムの確立、独立国家としての多くの国からの国際的な承認と外交関係の構築、憲法の整備、万人の権利の平等、近代的大学の設立など、多くの施策を達成した。
第一次世界大戦におけるオスマン帝国の敗北が決定的となるオスマン帝国に不利な条項が多数あるムドロス休戦協定に抗議する形で設立。20年にアンカラで大国民議会が招集されるまで民族解放運動を指導した。当時はケマル・アタテュルクが所属していた。
現在のカザフスタンの辺。1917年12月白軍の支援を受け独立。1919年、白軍が敗北すると、アラシュ自治政府はボリシェビキとの交渉を開始し、1920年に白軍が一掃され、8月26日滅亡
トルコ北西部に位置し、世界有数の銅の埋蔵量を誇る。カルス条約でトルコの物になる。
別名ダシュニャク党。大アルメニア主義を唱える民族主義的社会主義政党。アルメニア第一共和国独立を主導。平和的な目的で設立されたがアルメニア人が虐殺された事により武装し自らの民族を虐殺するロシアやオスマン帝国に対しテロリズムを敢行する団体と化す。スルタンの暗殺未遂事件までも起こした。オスマン帝国に対する敵対心から青年トルコ党と一時的に協力関係になる。実はテロリズムにより虐殺が過激化したという見解もある。何とかアルメニアの独立を勝ち取ったが、その後すぐにアルメニア第一共和国が赤軍に支配され、その際にボリシェヴィキとの共産性の違いにより追放される。追放後も亡命により意志を絶やさず今も存在する。現在アルメニア議会の議席の7%を所持。
文字通りアルメニア人の虐殺。19世紀末にもあったが20世紀以降の物が最も大規模。何かある度にスナック感覚で計画的且つ大量に虐殺されたのでアルメニア民族運動が活発化して反乱が何度も発生。結果的に総勢150万人程が死亡したと言われる。実はアルメニア人が特別多いだけで他の少数民族も相当数巻き添えで殺されている。
1918年5月30日独立。政権の指導部は民族主義的な社会主義政党ダシュニャク党。1919年6月21日から23日にかけて全ての20歳以上の住民を対象とした普通選挙が行われ、当選者は80人中3人が女性であった。アルメニアはアルメニア人が多く住む地域に対して領有権を主張してよりそれを巡りグルジアやアゼルバイジャンと紛争を起こした。1920年9月からトルコからセーブル条約で失った条約を取り戻す名目で侵攻を受ける。1920年11月赤軍第11軍の侵攻を受け、アルメニアは赤軍にソビエトに加盟し、赤軍は進撃するトルコ軍から残りの領土を守ることに同意したが、その約束は反故にされダシュニャク党はアルメニアから追放される。その後もアルメニアはトルコに侵攻され続け12月にアレクサンドロポリ条約によりアルメニアの国土の半分の割譲とセーブル条約を認めない事を強要された。
アルメニア人虐殺が原因でアルメニア人がカナダやロシアやアメリカに散り散りになった出来事、とは言っても大アルメニアの時代から一定数近辺には散っていた。
ビザンチンの将軍ストラテゴスとほぼ同等、公爵と翻訳された。ナンヤイネ公爵家の公爵に当たる部分である。
1917年12月に結ばれたオスマン帝国とロシア間の休戦協定。これによりカフカースからロシア帝国軍が撤退を開始するが背景にはロシア革命により兵力の動員が強いられ、ロシアのカフカス方面軍がアルメニア人の新兵を動員し始めた事がある。ロシアが革命で混乱してる間にオスマン帝国は積極的に旧ロシア帝国領であるカフカスに攻め入った。
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1919年~1922年に第一次世界大戦後にギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争。大ギリシャ主義を標榜してアナトリア半島に侵攻したギリシャ軍は、ムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い、現在のギリシャ領がほぼ確定した。アンカラ政府の権力が決定的になりスルタン制崩壊に繋がる。
1次大戦から希土戦争までオスマン帝国土着のギリシャ人に行われた大量虐殺、イスラム教への強制改宗、死の行進、トルコからの追放、略式処刑、および東方正教の文化的、歴史的、宗教的象徴の破壊を含む強制移住などが行われ数十万のオスマン帝国のギリシア人がこの期間に死亡した。アッシリア人やアルメニア人など、この時期にオスマン帝国によって同様の攻撃を受けた他の民族グループがあり、一部の学者や組織はこれらの出来事を同じ大量虐殺政策の一環として認識している。
ナンヤイネ東部の都市。キカニ要塞やスカルタ修道院などの史跡が存在する。ナンヤイネの農村住民と言えばここら辺が多い。
つむつむの曾祖伯父。リュクスポー朝の初代デンマーク王。
つむつむの祖母の家。デンマーク読みだとリュクスポー。
現地語ではサカルトヴェロ民主共和国。1918年5月26日ザカフカース連邦民主共和国の崩壊により成立。独立時はドイツの保護下におかれ、バトゥミ条約によりバトゥミ、アルダハン、アルトヴィン、アハルチケとアハルカラキをオスマン帝国に譲渡する事を強いられた。初期はアブハジアと国境を接していたがドイツの支援によりボリシェビキの脅威を撃退することが出来ていた。ドイツの敗戦と同時にイギリスが進駐したがオスマン帝国からイギリスに割譲された領土のうちバトゥミ地域やアルトヴィン地域は返還され無かった。この時イギリス軍はザカフカース連邦民主共和国の分裂により出来た3カ国を白軍(マッキー)の脅威から保護するために侵略してはならないラインを引いた。1919年2月14日議会選挙が行われ、メンシェヴィキであるグルジア社会民主党が8割の得票率で勝利する。この政権はボリシェヴィキに扇動された武装農民による土地改革を求める反乱は対処出来たが、少数民族であるアブハズ人や特にオセット人の白軍の支援による反乱には終始悩まされた。1920年4月、赤軍第11軍がアゼルバイジャンにソビエト政権を樹立するが次いでソビエト化した2国との関係は険悪なものだった。1922年3月12日3カ国はザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国に統合される。
ナンヤイネの北部に位置。現在はアルメニア人に人気のリゾート。アーサーの出身地。
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南コーカサスの事を指す。ロシア語からの音写で日本では一般的にザカフカースと呼ばれる。ロシア語では「コーカサス山脈の向こう側」という意味である。カフカース地方と呼ぶ時は特に北カフカスが含まれて居る場合もあるので注意。
通称オザコム。1917年11月トビリシに設立。ロシア帝国とオスマン帝国が休戦をしない中オスマン帝国の脅威を感じた為結成された。1918年3月にオスマン帝国との和平交渉(トラブゾン会議)が開始されたが、オスマン帝国が委員会の権威を認めず、ブレスト・リトフスク条約でロシアが権利を放棄した部分の権利を主張し、カスカスへの侵略を続行したため、ザカフカース民主連邦共和国として独立。
第一次世界大戦終戦に向けオスマン帝国と国として交渉するために1918年4月結成。
5月カフカス権益を守るためのドイツ軍の進駐やアルメニアのオスマン帝国軍との戦闘、アゼルバイジャンのボリシェビキによるバクーの占領等様々な問題を抱えている事からカフカスの団結に関してグルジアが諦めを感じ独立宣言。次いでアルメニアとアゼルバイジャンが同時に独立宣言をし解体される。
イズミルで1922年9月13日から22日にかけて起きた火災、トルコの正規・非正規軍が市内のギリシャ人とアルメニア人の居住区に対して火を放ち海岸を含む四方を封鎖したことにより数万のギリシャ人、アルメニア人が死亡したと言われる。火事が発生する前から、市内のギリシャ人とアルメニア人に対して虐殺や残虐行為を行われ、多くの女性が強姦された。その後生き残った者は強制労働に送られ処刑や過酷な労働環境で大半が死亡している。これにより3000年以上の歴史を持つエーゲ海沿岸部のギリシャ人はほぼ消滅した。トルコは現在に至るまでこの出来事の責任を否認している。
専制政治を行うアブデュルハミト二世に反抗する形で発生。トルコに憲政を復活させる。ほぼ無血で達成された。
オスマン帝国憲法に基づく憲政の復活を目指して運動した活動家たちのことをいう総称。官僚、将校、医師などオスマン帝国の近代化によって誕生した新しい階層に属した青年たちにより構成された。
第一次世界大戦後の1920年8月10日に連合国とオスマン帝国との間に締結された講和条約。1918年10月30日に結ばれたムドロス休戦協定を受けての講和条約である。希土戦争に勝利したトルコ大国民議会がソ連と単独で交渉し、モスクワ条約とカルス条約を締結したため保護にされた。
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グルジアの高位貴族。自分の領地での自治が許されていた。つむつむはバトゥミ伯かつアルトヴィン伯。
チョルフ川のグルジア語名。ギリシャ語だとアカンプシス川。トルコが源流でバトゥミの真南から黒海に流れ込む。
1918年3月から4月にかけて行われたオスマン帝国とザカフカース委員会間の休戦交渉。
委員会はオスマン帝国がブレスト・リトフスク条約における東アナトリア地方を取り戻したことを認めることと引き換えに、カスカース地方に対して侵攻を行わない事を要求した。ザカフカース委員会は民衆の集まりに過ぎないとオスマン帝国に一蹴され休戦協定は結ばれずオスマン帝国はアルメニアへの侵攻を続行した。
ザカフカースの英語での呼び方。南コーカサスの事を指す。ちなみに北コーカサスはノースコーカサスと言う。
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現在のアジャリヤ自治共和国の辺り。イッチが配慮したのか実在の地名では無い。チュルク諸語でnane(ミント) yakın(近い)が合わさったナーネェ=ヤフィネが訛ってナンヤイネになった。かつて山岳地帯では、ミントが歩けばどこにでもあるほど、たくさん取れることからつけられた地名。
古くからのグルジアの大貴族。公爵はグルジア語で言うところのエリスタヴィ。多分5世紀位までは起源を遡れる。
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ナンヤイネの首都。黒海有数の良港、バクーからパイプラインが引かれ石油の重要積み出し港として当時から世界各国との貿易が行われた。第一次世界大戦末期にロシア、イギリス、グルジア、オスマン帝国など様々な国に支配された。
1918年5月オスマン帝国とカフカース地方の3カ国で締結された条約。ちょうどオスマン帝国軍がアルメニアの首都エレバンの目前に迫る時期に締結された。オスマン帝国は3カ国に帝国の諸都市とカフカース地方を結ぶ鉄道の建設とアルメニアの領土の大部分とグルジアの領土の相当量の割譲を要求した。
油田の町、中東が擡頭する以前は世界最大の油田であった。カスピ海の畔の真ん中辺りに位置する。バトゥミ-バクーパイプラインはバトゥミ経済を支えている。また、バトゥミ-トビリシ-バクー鉄道でバトゥミへ直行できる。1917年アルメニア革命連盟ことダシュニャク党の支援を受けたボリシェヴィキにより占領される。その後ダシュニャク党がイギリスの支援を拒むボリシェヴィキを追い出し、カスピ海中央独裁政権が樹立される。アゼルバイジャン民主共和国の独立宣言後にオスマン帝国の支援を受けバクーはアゼルバイジャンに奪還される。3月にアルメニアはバクーでアゼルバイジャン人をアルメニア人虐殺の報復に数千人虐殺しているが、これをアゼルバイジャンはこれを虐殺記念日として今に至るまで追悼記念式典を行っている。
第一次世界大戦の終結を巡り1918年3月に結ばれた条約。この条約によりロシアはカフカースの権利を放棄した。ブレスト・リトフスクでの交渉にカフカス諸国は参加していなかったため、ザカフカース委員会は世界各国の政府にメッセージを送り、条約を守らないとの旨を述べ、カフカス戦線からの退去を拒否した。条約の日本語訳
ポントスは、アナトリア半島の黒海南岸東部の地方名である。中心都市はトレビゾンド。
北西アナトリアやカルス州に住むギリシャ人。強制改宗により人口を減らし続けていたが、19世紀初頭には25万人程居た。
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当時のアルメニアとアゼルバイジャンの第一党の思想。社会主義と民主主義の両方を支持する政治哲学。
1918年10月30日、連合国とオスマン帝国との間で締結された休戦協定。これ以降ロシア軍とオスマン帝国の戦闘行為は完全に解消する。これによりオスマン帝国はアルメニアへの侵攻を止め全ての同国軍が動員解除される。休戦後、イスタンブールの占領とその後のオスマン帝国の分割が行われた。
トルコ大国民議会(アンカラ政権)と、ボリシェビキ政府が締結した友好条約。バトゥミが赤軍に売り飛ばされる条約。原文の日本語訳
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1918年11月3日にロシアのオムスクに建国された短命政権。オムスク政府や沿海共和国ともいわれ、社会革命党や立憲民主党などが中心となっていた。1920年1月5日に政府が倒され、消滅した。首都はウファ、オムスク。
1923年トルコでの政権交代により新しい講和条約を結ぶことになり、7ヶ月に渡る会議の末条約が調印された。この条約により近代トルコ国境が決定した。ギリシャとトルコの住民交換条約が締結され130万人のアナトリアのギリシャ人と35万4000人のギリシャ系イスラム教徒がアナトリア半島から永久追放される。トルコから100万余人もの人間が虐殺や国策でギリシャに移動したため国内格差や残された土地での略奪など様々な問題が発生した。
1917年の二月革命後にロシアで成立した暫定政権。ボリシェヴィキやメンシェヴィキや自由主義者などによる連立政権
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