(メカギャル文庫)妹改造計画 冒頭立ち読み版
腕を上げるのがこんなに難しいと感じたのは初めてだった。白く眩しい蛍光灯の下で手を顔の前にかざし、市原真紀は何度か瞬きをした。昨日の晩、手入れが途中になっていたはずの指先の爪の形は驚くほど整っている。うっかり手元を誤って、削りすぎてしまった左人差し指の爪も、他の爪と同じように綺麗な形に変わっていた。幼い頃に怪我で出来た傷跡もすっかり無くなってしまっている。
真紀はまじまじと自分の手を見つめてから腕を下ろした。ひんやりとした台の感触がはっきりと判る。腕や手だけでなく、身体全体の感覚がはっきりとし過ぎている。横たえられた身体のどこの部分も、これまでよりずっと感覚が鋭敏で、触れたものの温度や質感が意識していなくてもよく判る。
視界は前よりずっとクリアだ。元々、真紀は視力があまり良くなかった。近視だったため、眼鏡を掛けなければ遠くのものはぼやけて見えていたのだ。だが今は違う。真紀は頭だけを起こして試しに部屋の中を見回してみた。意識すればピントを当てる場所が切り替わり、遠くのものもはっきりと見ることが出来る。床に落ちている小さなごみ、金属製の壁が所々くもっていることも解る。スチール製の棚の中に入れられた遮光瓶のラベルに書かれた文字まできっちりと読み取ることも可能だ。近くのものに焦点をずらせば、真紀の横たわっている台の縁が少し欠けていることもはっきりと見て取れる。見た瞬間は眩しく感じた蛍光灯も、両端が黒ずんでいて、表面が薄汚れていることが判る。
音の聞こえ方も以前とは異なっていて、隣の部屋で誰かが話をしている声もはっきりと聞こえる。聞こえるボリュームを自由に上げることも出来るらしい。真紀は耳に仕込まれたマイクのボリュームを上げ、隣室でしている声に意識を向けた。
聞き慣れた声に真紀は思わず表情を緩めた。きっと誰かと電話をしているのだろう。兄の恭司の声がする。真紀はどきどきしながら壁越しに聞こえてくる恭司の声を意識した。どうやら話をしているのは、恭司と同じ科学部の部員の誰からしい。実験の計画でも練っているようだ。
真紀は恭司の声を聞きながらどきどきする胸を押さえ、ふと気付いた。どうして新しく機械の身体になったのに胸がどきどきするのだろう。機械の身体は生身とはまったく違う、と恭司は言っていた。なのに胸を押さえると鼓動のようなものを感じることが出来る。これは一体、どういうことだろう。真紀はその理由をしばらく考えてから恭司に説明してもらおうと思い直した。真紀がどれだけ考えたところで、機械の身体についてはほとんど知らないし、そもそも恭司が改造したのだから、説明義務はあるはずだ。
そこまで考えてから、真紀は不機嫌になった。どうして恭司は自分の傍にいないのだろうか。生身ならともかく、機械になった真紀がいつ目を覚ますかを恭司は知っていたはずだ。なのに恭司は別の部屋で電話をしているようだ。
恭司の声の調子はいつもと変わりない。話している内容も科学部が行っている実験についてで、色恋沙汰とはほど遠い。だが恭司が電話の相手に呼びかけるのを聞いた真紀は怒りに目を吊り上げた。
「お兄ちゃん！」
真紀は意識して最大音量で壁の向こうにいる恭司を呼んだ。窓硝子が震えて音が鳴る。それと同時に恭司の話し声が止み、また後で、と慌ただしく言った後に足音がし始める。
ドアが開き、現れた恭司は困ったような顔をしていた。
「ごめん。ちょっと電話が掛かったから」
そう言った恭司が足早に台に近付いて真紀の顔を覗き込む。ふて腐れた顔をして真紀はつんと横を向いた。
「急ぐ用事を話してたわけじゃないんでしょ？」
恭司が所属している科学部では、様々な実験が行われているという。真紀の改造も多くの実験のうちの一つに過ぎず、恭司にとっては特別な意味はないのかも知れない。だがそのことが真紀には気に入らなかった。生身の人間を機械の身体に改造する実験は、他の実験とは比べものにならないくらいに重要なはずだ。
「だから、謝ってるだろう。真紀が目を覚ますまでに話が終わると思っていたから」
ぼそぼそと聞き取りにくい声で言った恭司が真紀の身体に薄い布を掛ける。どうやら裸で横たわっていたために隠してくれたらしい。
「さいぼーぐの研究はお兄ちゃんの夢だったんでしょう？」
「ああ、そうだ。ずっとそのことばかり考えてた」
それまで自分から研究や実験のことについて語らなかった恭司が、ある日ふと漏らしたのがサイボーグの話だった。サイボーグとは生身の人間が機械の身体に作り替えられたものらしい。本人の人格や性格、記憶などは機械の身体になっても損なわれず、身体だけが機械になるのだと事前に説明も受けた。初めて恭司が熱心に語った日のことを思い出し、真紀はそっと息を吐いて顔の向きを戻した。
少し不安そうな顔をした恭司が間近にいる。
「どうしたの？」
「実験が成功して嬉しいって、言わなきゃ判らないか？」
恭司がそう言って困ったような顔をする。真紀は恭司が喜んでくれているらしいことを知り、表情を緩めた。恭司は全身で喜びを表現したりするタイプではない。科学部での活動のことも、真紀が聞き出さなければ自分からは喋らないし、学校でどんな生活をしているか、誰と交友があるか、そんなことですら恭司は自分からは一切口にしないのだ。
「あたしも嬉しい」
にっこりと笑って真紀は頷いた。
それから真紀は恭司に言われるままに服を身に着けた。ここは真紀と恭司の両親が研究用にと建てた施設だ。二人の両親は最近は海外の研究所に勤めていて、こちらには滅多に帰ってくることはない。以前は二人も両親に連れられて海外に行っていたのだが、恭司が高校に通うようになってからは、両親は二人を家に残して長期出張に出かけるようになった。
だから、今この施設にいるのは自分と恭司の二人だけだ。着慣れた服を身に着けた真紀は、恭司と向かい合わせに腰掛けた。
「お兄ちゃん、さっき電話で明日未さんに、あたしの事、話そうとしたでしょう？」
薄型の端末を操作していた恭司に向かって、真紀は不機嫌に言った。すると恭司が怪訝そうな顔をして真紀を見る。
「大津に話すと何かまずいことでもあるのか？」
大津明日未というのが、さっき恭司が話をしていた相手の名前だ。明日未は二人の幼なじみで、恭司と同じ科学部に所属している。何かと言えば恭司にちょっかいを掛けてくる厄介な相手だ。
「別に話すだけなら構わないけど」
唇を尖らせて真紀は上目遣いに恭司を伺った。考えるような顔で黙った後、恭司がふと気付いたように言う。
「もしかして大津に知らせるのが遅れたのがいけなかったのか？」
どうやら恭司は部員の中でも明日未にだけ、真紀のことを知らせるのが遅れてしまったことを言っているらしい。だがそれは、真紀自身が恭司が明日未と喋るのを邪魔したからだ。改造することが決まった後、真紀は頻繁に科学部の部室やこの施設に出入りするようになった。それまで知らなかった恭司の周辺の状況を見て、真紀は危機感を覚えた。
自覚をしていないが、恭司は女性によくもてる。顔立ちやスタイルが整っていて、真紀と一緒に街を歩いている時にもモデルにならないかと声を掛けられる。下駄箱にはラブレターがしょっちゅう入っているし、バレンタインデーやクリスマスなど、イベントがあるたびに女性にアタックされてもいる。だが当の恭司は女性には一切関心がないらしく、誘いを受けても必ず断っているようだ。
そんな恭司が所属する科学部には数人の女子生徒がいる。その中の一人が恭司と同級生の明日未なのだ。
「違うわ。お兄ちゃん、あたしの事、明日未さんに任せようとか考えてない？」
「女同士の方が安心だろ？」
なにを当たり前のことを、とでも言いたげな顔をして恭司がテーブルの端末に目を落とす。
「あたしに聞きもせずに、どうして断言できるの？」
わざと厳しい口調で真紀は恭司に訊ねた。すると恭司が驚いたように真紀を見る。だがすぐに恭司はすまなかったと謝った。
「そうだな。真紀に訊かないと判らないな。それで？ 真紀は大津の世話になるのは嫌なのか？」
「嫌よ。だって、明日未さんは、さいぼーぐに特に興味あるってわけじゃないでしょ？」
真紀は頷いてそう言った。サイボーグに興味を持ち、出来れば自分の手で造りたいと考えていたのは恭司であって、明日未ではない。真紀がそう言うと恭司が渋い顔をして腕組みをする。
「サイボーグに関心がなくても、大津の腕は確かだし、それに判断力も優れてる。機械体の調整は出来ると思うが」
どうやら恭司は真紀が明日未の能力に疑いを持っていると取ったらしい。真紀は眉を寄せて睨むように恭司を見た。
「明日未さんが優秀な人だってのは知ってるわよ！ お兄ちゃんが頼めば、断らないだろうってことも！ あたしが聞きたいのはお兄ちゃんの気持ち！」
テーブルに身を乗り出し、真紀は真剣な顔でそう言った。恭司がじっと真紀を見据えて考えるような顔をした後、困ったように笑う。
「まさかおれが真紀の機械体を調整する訳にもいかないだろ？ 機械の身体になったって言っても、真紀は女なんだし」
「女だったらどうして駄目なの？ っていうか、女の方がさいぼーぐの素材にするには適しているって言ってたのはお兄ちゃんじゃない？」
恭司がどう答えるのかはある程度、予想はしていた。明日未にアタックされていることにも気付いていない、いや、気付いていたとしても恭司はそのことを完全に無視している。そんな恭司のことを真紀はいつしか異性として意識するようになっていた。恭司が女性に興味を抱いていないことも知っている。かといって男性に興味があるという訳でなく、恭司は恋愛そのものに関心がないのだ。
「確かに女じゃないと無理だと判断したのはおれだが……」
言葉尻を濁して恭司が渋い顔をする。親が建てたこの施設を使い、恭司は様々な研究を行っている。科学者である両親に言わせると恭司はかなり優秀らしく、この施設は研究のために好きに使えとも言われているようだ。そんな恭司が研究の末に出したのが、サイボーグ化する人間は女性に限られるという結論だったそうだ。その理由を恭司は説明してくれたのだが、真紀にはその内容がまったく理解出来なかった。だが恭司がそう言うなら確かなのだろう。
「改造手術はスタートに過ぎないって言ってたじゃない！ さいぼーぐにする事に成功しても、維持していくにはどうすればいいか未知数だって。人任せにして大丈夫だとは思えないんだけど」
「だから、大津にとってもらったデータを基に」
困ったようにそこまで言ってから、恭司が深々とため息を吐く。少し間を置いた後、恭司はごく小さな声で言った。
「そうだな。おれが直接に見た方が早いだろうな」
「今だって、本当はすぐにでも、きちんと動いているか確認したりしなきゃダメなんじゃないの？ 機械ってそういうものでしょ？」
気が逸るのを堪え、真紀は落ち着いた口調で言った。端末画面から目を上げた恭司がそうだな、と言って立ち上がる。真紀は促されて席を立ち、恭司に言われるままに椅子から離れた。
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