「それはいわゆる『マイダスコンプレックス』というやつね」
夕暮れの迫るバス停で、吹き込む風になびくスカートの裾を押さえ付けながら、そいつは言った。
「なんだそりゃ」
「マイダスとはミダス、ギリシャ神話に登場する王様だよ。彼は触れるもの全てを黄金に変える魔法の手を持っていた。この場合、自身の破壊的衝動を嫌悪するあまり、他者との接触を極度に怖れる心理傾向を指すの」
「聞いたことねーよ、そんなの」
「それはそうだよ。今あたしがでっち上げたんだもん」
「……ふざけやがって」
それはつまりこういうことだ。
つい数時間前、同級生を三人ばかり病院送りにした廉で、俺は三度目の停学処分を受けた。
校長と学年主任、そして担任の教師に囲まれてその告示を受けた後、鞄を取りに教室に戻るとクラスの学級委員が仁王立ちで待ち構えていた。
「先生から聞いたよ。向こうに非があるのは認めるけど、それでも喧嘩なんてよくないよ」
「うるせえな。だったら黙ってフクロにされりゃよかったのか」
「そうじゃない。ただ、ケガでもしたらどうしようって」
「そこどいて。俺は帰るんだ」
「……ちょっと、待ってよ!」
屈辱的な手続きを済ませた直後とあってはそいつの相手をするのもわずらわしく、何事かを言い募るのを無視しながら順調に帰路を辿っていたのだが、そいつはしつこく俺の後についてきて、ついにバス停で捕まってしまった。
バスのダイヤグラムは俺には味方せず、結果、俺は数分に渡ってそいつのご高説を拝聴しなければならなかった。
「だから、何事によらず拳で解決ってのはよくないと思うんだ。キミの拳がどんなに強くたって、壊せないものはあるんだよ」
「はいはいそーだよな。ダイヤモンドは砕けないよな」
「もう! そういうこと言ってるんじゃないよ! ねえ、どうしてキミはいつもそうなの? なんで話し合いとかが出来ないの? 出来ないわけないよね。キミは難しい本だってよく読んでるし、そういうの、分からないわけじゃないよね」
「うざったいんだよ、話し合いなんて」
顔が歪むのを自覚しながら答える。どうしてこいつはこう──
「怖いの? 人と触れ合うのが。どうしたらいいかが分からなくて、結局は手が出ちゃって、それでますます自分が嫌いになって、余計に人が怖くなるっていう悪循環?」
──図星しか突いてこないんだ。
「あ、そ。やっぱりそうなんだ。それはいわゆる……」
※ ※
「……ふざけやがって」
俺がそう毒づくと、そいつは意外そうな顔で反論してきた。
「ふざけてないよ。真面目だよ。真面目にキミを心配してる」
「なおさら悪いってんだよ。俺に話しかけないでくれるか」
吐き捨てるように口から出した言葉に、そいつは眉をしかめ、少しうつむいた。
「そんなわけにはいかないよ」
「いい子ちゃんも大概にしろ」
「そんなんじゃないよ! と、友達じゃん。同じクラスの仲間じゃん」
「俺はアンタなんか友達だと思ってねーよ」
「それでも、あたしはキミをっ……」
言いかけて、そいつはさらに深々とうつむいた。垂れる髪に隠れてその表情は見えない。
「い、 一方通行かもしれないけど、これだけはキミの拳でも壊せないよ。そうでしょう?」
「……アンタをブン殴れば壊せる。アンタのくだらない感情なんか、その気になれば簡単に砕ける」
やっとの思いで絞りだしたものは、よりによってそんな罵倒だった。
掛けるべき言葉はたくさんあるはずなのに、どうして、いつもいつもこんなことしか言えないのか。
ポケットに突っ込んだ拳が握り締められるのが感じられる。爪が深く食い込んでいるのが分かるが、痛みはなかった。
昏い自己嫌悪に沈みながら、俺はそいつの拒絶の言葉を待つ。何も言わないままにどこかへ行ってくれるのが最上だ。
──だが。
「いいよ。それで本当にあたしの心を壊せると思うなら、そうすれば」
そう言って、そいつは頬を俺に差し出した。
その煽るような言い方に、俺はかっとなって拳を振り上げる。
そいつはビクッと身を強ばらせるが、逃げる素振りは見せなかった。首を竦めながらも、根が生えたようにそこに立ち尽くしていた。
その目尻には濡れたものが浮かんでいる。夕日を横顔に受け、一筋、二筋と流れる涙はきらきら光っていた。
俺は他人を傷つけることしか出来ない。何かを望めば、それを壊すことしか出来ない。そのことを常に周囲に示さなければならない。
そうしなければ人は遠ざからない。近づきすぎたために傷付くのも傷付けるのもまっぴらだった。そのために、俺は手に触れるものすべてを傷付け続けなければならない。
頭ではその必要性を理解しているのに、その奥底から沸き起こる切実な感情がそれに抗っていた。
拳は振り下ろされる時を待っている。その力の行く先が示されるのを、瘧のように震えながら待っている。
ミダス王が欲しかったもの、それは無慈悲な魔法の手なんかじゃなく、ただ貴い黄金の──。
俺は握り締めた拳をそいつの顔に近づけ、そして、
「あ」
開いた指でそいつの頬を伝う雫を拭った。そいつは驚いたように俺の瞳を覗き込んでいる。
その真っ直ぐな視線に耐え切れず首を捻じ曲げた俺の視界に、のろのろ走るバスが見えた。
そいつもそれに気がついたのか、我に返ったように慌ててまくし立てる。
「あ、じゃあ、さ、さよなら。謹慎、頑張ってね。プリントはまとめて届けるよ。ノートも取っておくから」
ここは断るべきところだ。俺の内の大部分もその判断を支持していた。
だけど口から漏れる声はそれを見事に裏切った。
「……頼む」
開いたバスの昇降口に足をかけ、そいつに振り返る。
「なあ」
「え? あ、なに?」
そいつは遠慮がちに持ち上げた手を後ろに回し、どこか恥ずかしそうに聞き返した。
「これからでもなんとかなるか? 物を壊さずに何かをつかむってこと」
「……うん! なるよ。なるなる。キミならきっと、黄金よりも綺麗なものだって手に出来るよ」
耳まで赤くしながら笑うそいつは背後に沈む夕日に溶けて、まるで金色に輝いていた。 [[@wikiへ>http://kam.jp"><META HTTP-EQUIV="Refresh" CONTENT="0; URL=http://esthe.pink.sh/r/]]
夕暮れの迫るバス停で、吹き込む風になびくスカートの裾を押さえ付けながら、そいつは言った。
「なんだそりゃ」
「マイダスとはミダス、ギリシャ神話に登場する王様だよ。彼は触れるもの全てを黄金に変える魔法の手を持っていた。この場合、自身の破壊的衝動を嫌悪するあまり、他者との接触を極度に怖れる心理傾向を指すの」
「聞いたことねーよ、そんなの」
「それはそうだよ。今あたしがでっち上げたんだもん」
「……ふざけやがって」
それはつまりこういうことだ。
つい数時間前、同級生を三人ばかり病院送りにした廉で、俺は三度目の停学処分を受けた。
校長と学年主任、そして担任の教師に囲まれてその告示を受けた後、鞄を取りに教室に戻るとクラスの学級委員が仁王立ちで待ち構えていた。
「先生から聞いたよ。向こうに非があるのは認めるけど、それでも喧嘩なんてよくないよ」
「うるせえな。だったら黙ってフクロにされりゃよかったのか」
「そうじゃない。ただ、ケガでもしたらどうしようって」
「そこどいて。俺は帰るんだ」
「……ちょっと、待ってよ!」
屈辱的な手続きを済ませた直後とあってはそいつの相手をするのもわずらわしく、何事かを言い募るのを無視しながら順調に帰路を辿っていたのだが、そいつはしつこく俺の後についてきて、ついにバス停で捕まってしまった。
バスのダイヤグラムは俺には味方せず、結果、俺は数分に渡ってそいつのご高説を拝聴しなければならなかった。
「だから、何事によらず拳で解決ってのはよくないと思うんだ。キミの拳がどんなに強くたって、壊せないものはあるんだよ」
「はいはいそーだよな。ダイヤモンドは砕けないよな」
「もう! そういうこと言ってるんじゃないよ! ねえ、どうしてキミはいつもそうなの? なんで話し合いとかが出来ないの? 出来ないわけないよね。キミは難しい本だってよく読んでるし、そういうの、分からないわけじゃないよね」
「うざったいんだよ、話し合いなんて」
顔が歪むのを自覚しながら答える。どうしてこいつはこう──
「怖いの? 人と触れ合うのが。どうしたらいいかが分からなくて、結局は手が出ちゃって、それでますます自分が嫌いになって、余計に人が怖くなるっていう悪循環?」
──図星しか突いてこないんだ。
「あ、そ。やっぱりそうなんだ。それはいわゆる……」
※ ※
「……ふざけやがって」
俺がそう毒づくと、そいつは意外そうな顔で反論してきた。
「ふざけてないよ。真面目だよ。真面目にキミを心配してる」
「なおさら悪いってんだよ。俺に話しかけないでくれるか」
吐き捨てるように口から出した言葉に、そいつは眉をしかめ、少しうつむいた。
「そんなわけにはいかないよ」
「いい子ちゃんも大概にしろ」
「そんなんじゃないよ! と、友達じゃん。同じクラスの仲間じゃん」
「俺はアンタなんか友達だと思ってねーよ」
「それでも、あたしはキミをっ……」
言いかけて、そいつはさらに深々とうつむいた。垂れる髪に隠れてその表情は見えない。
「い、 一方通行かもしれないけど、これだけはキミの拳でも壊せないよ。そうでしょう?」
「……アンタをブン殴れば壊せる。アンタのくだらない感情なんか、その気になれば簡単に砕ける」
やっとの思いで絞りだしたものは、よりによってそんな罵倒だった。
掛けるべき言葉はたくさんあるはずなのに、どうして、いつもいつもこんなことしか言えないのか。
ポケットに突っ込んだ拳が握り締められるのが感じられる。爪が深く食い込んでいるのが分かるが、痛みはなかった。
昏い自己嫌悪に沈みながら、俺はそいつの拒絶の言葉を待つ。何も言わないままにどこかへ行ってくれるのが最上だ。
──だが。
「いいよ。それで本当にあたしの心を壊せると思うなら、そうすれば」
そう言って、そいつは頬を俺に差し出した。
その煽るような言い方に、俺はかっとなって拳を振り上げる。
そいつはビクッと身を強ばらせるが、逃げる素振りは見せなかった。首を竦めながらも、根が生えたようにそこに立ち尽くしていた。
その目尻には濡れたものが浮かんでいる。夕日を横顔に受け、一筋、二筋と流れる涙はきらきら光っていた。
俺は他人を傷つけることしか出来ない。何かを望めば、それを壊すことしか出来ない。そのことを常に周囲に示さなければならない。
そうしなければ人は遠ざからない。近づきすぎたために傷付くのも傷付けるのもまっぴらだった。そのために、俺は手に触れるものすべてを傷付け続けなければならない。
頭ではその必要性を理解しているのに、その奥底から沸き起こる切実な感情がそれに抗っていた。
拳は振り下ろされる時を待っている。その力の行く先が示されるのを、瘧のように震えながら待っている。
ミダス王が欲しかったもの、それは無慈悲な魔法の手なんかじゃなく、ただ貴い黄金の──。
俺は握り締めた拳をそいつの顔に近づけ、そして、
「あ」
開いた指でそいつの頬を伝う雫を拭った。そいつは驚いたように俺の瞳を覗き込んでいる。
その真っ直ぐな視線に耐え切れず首を捻じ曲げた俺の視界に、のろのろ走るバスが見えた。
そいつもそれに気がついたのか、我に返ったように慌ててまくし立てる。
「あ、じゃあ、さ、さよなら。謹慎、頑張ってね。プリントはまとめて届けるよ。ノートも取っておくから」
ここは断るべきところだ。俺の内の大部分もその判断を支持していた。
だけど口から漏れる声はそれを見事に裏切った。
「……頼む」
開いたバスの昇降口に足をかけ、そいつに振り返る。
「なあ」
「え? あ、なに?」
そいつは遠慮がちに持ち上げた手を後ろに回し、どこか恥ずかしそうに聞き返した。
「これからでもなんとかなるか? 物を壊さずに何かをつかむってこと」
「……うん! なるよ。なるなる。キミならきっと、黄金よりも綺麗なものだって手に出来るよ」
耳まで赤くしながら笑うそいつは背後に沈む夕日に溶けて、まるで金色に輝いていた。 [[@wikiへ>http://kam.jp"><META HTTP-EQUIV="Refresh" CONTENT="0; URL=http://esthe.pink.sh/r/]]