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匿名ユーザー

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 田邉さんの突然の死を知らされてから半日、今だその驚きと悲しみが消えないでいた時、意外な人物が僕を訪ねてきた。
玄関の扉を開けると、最初に鴉の羽毛を剥ぎ取りそのまま取って付けたような黒い黒い髪の毛が目に入った。何故かというと彼が中腰だったせいである。そして彼が腰を上げると、そこにはどこか気の抜けた、しかし彼特有の頑なにどこまでも真っ直ぐな、標的の獲物を射抜く鋭さを持ち合わせた瞳が僕の眼前にあらわれた。僕を真っ直ぐに見つめるその瞳の持ち主は、この白樺荘の管理人である佐々木博巳(ササキヒロミ)だった。
「あ、どうも。どうしたんですか、突然」
「いや、ちょっとね。少し話があるんだが、まあ、ここで話すのも何なのでよければ上がらせてもらってもいいかな?」
「あ、はい。構いませんが……あ、すいませんこれどうぞ」
僕は管理人さんを招き入れ、開けた玄関の扉を閉めて、来客用のスリッパを管理人さんの足元に差し出した。
彼は軽くお辞儀をし、茶色のローファーを脱ぎ、スリッパに履き替えて、脱いだ靴を丁寧に揃え直した。
「すいません、あまり片づいてないんですけど……」
「いや、構わないよ」
僕は管理人さんを居間まで案内した……と言っても玄関から目と鼻の先にあるわけだが。
「えーっと、一応コーヒーかお茶ならお出しできますが」
「いえ、どうぞお気遣い無く。あ、じゃあせっかくなんでお茶をもらおうかな?」
「はい。すぐ用意しますので、そこのソファに座って待っていてもらえますか?」
とりあえず管理人さんにはソファの上に腰掛けてもらい、僕は台所に向かった。コンロの上に置いていたヤカンに水を入れてお湯を沸かす作業に入る。沸騰するまでの間、ガラス棚から客用と自分用の湯飲み、それに茶葉を取り出し、台所に置きっぱなしだった急須(もちろん洗ってある)にティースプーンで茶葉を小さじ2杯分程度入れておく。しばらくして、沸騰したお湯を急須に注ぐ。それから茶葉が開くまで1分程待ち頃合いを見て、用意していた湯飲みにゆっくりと均等にお茶を注いでいく。最後の一滴まで入れ、濃淡が程良く均等になったのを確認して、お盆に湯飲みを置き居間まで持っていった。
「どうぞ、粗茶ですが」
「ああ、いや、すまないね、ホント」
テーブルの上に湯飲みを、お盆を畳みに置いてから僕はテーブルの横に座布団を敷き、その上にあぐらをかいて座る。ちょうど管理人さんが腰掛けているソファと向かい合う形になった。
「何か茶菓子でも用意できればいいんですけど、あいにくろくなモノがなくて…」
「いや、本当にお構いなく。こちらこそ突然ですまないね」
「いえ。それで、何か僕にお話があるんですよね?」
彼はゆっくりとした動作でお茶を一口飲み、フゥと一息ついてから、静かな口調で喋りだした。
「ああ。そうなんだが……君は」
と話しを切り出そうとしたが、右手を口元に添えて何度か軽く咳払いをしたため、話が途切れてしまう。
「失礼。君は、松岡君はここに来て何年になるんだったかな?」
「はい。ちょうど去年のこの時期に引っ越してきました」
「ああ、そうか。僕がここの管理人になってからすぐだったね、そういえば」
「ええ、あのときはろくに挨拶もできずにすいませんでした」
「いや、それはお互い様だよ。僕も仕事を辞めて意気消沈していたときだったからね。僕のほうこそ住人の方々にちゃんとした挨拶ができなかったと思っているよ。申し訳ない」
彼はソファの上で小さく頭を下げた。僕も反射的に頭を下げる。
「いえ、そんな。本当にこちらこそ。これからもよろしくお願いします」
二人向かい合って頭を下げる光景。それが何だか妙に気恥ずかしくなってお互い思わず苦笑してしまった。
 それからしばらくとりとめのない世間話をした。大学のこと白樺荘のこと、管理人さんが昔勤めていた会社の話など。僕は彼の話に耳を傾け相づちを打ちながら、改めて彼の風貌を観察した。顔は有り体に言ってかなり整っているほうだろう。
いわゆるアイドルのそれとは違う、何というかいわゆるインテリっぽい顔立ちである。おそらく一度も染めたことがないであろう黒い艶のある髪の毛は彼が今まで歩んできた人生を物語っている気がした。口元と顎には無精ひげを生やしているが、おそらく剃れば実年齢よりかなり若く見られるのではないだろうか? そう思えるのは外見だけじゃなく彼の内面そのものが、純粋な大人ではないからだ。何故か直感的にそう思えた。
服装は至って普通だった。ストライプのボタンダウンシャツに黒無地のニットベスト。それにセンタープレスの入ったグレーのスラックスパンツを穿いている。しかし背が高く顔立ちも良いので、シンプルな格好が逆に彼の存在を際だたせていた。
こんなに男前だったんだ、と失礼ながらも僕は心の中で感心した。実のところこんなに長く話すのも初めてでほとんど初見に近いような感じであったからかもしれないが、一度引越のご挨拶の際に伺ったときは、もっと今よりもずっとイメージが違った気がする。気がするというのは要するにそれほどまでに印象に残っていなかったということだ。
僕がそんな不埒な考えに浸っているとき、不意に喋っていた管理人さんのトーンが下がった。
「松岡君は……知っているのかな? その、彼のこと」
彼? 胸中で自分に問いただせる。彼……
「田邉さん……ですか?」
僕が恐る恐る聞き返すと、彼はゆっくりとした動作で、音もなく頷いた。
「そうか。知っているのか。差し支えなければ誰に聞いたか教えてもらえるかな?」
「彼の、田邉さんの同僚の方に聞きました。そう、確かその同僚の方が田邉さんのバイクをここに返しにきたときですね」
僕はその時のことを詳しく話した。田邉さんが飲みにいくのにバイクで出かけたが、帰りの際は同僚にバイクを預けて
電車で帰ったこと。そしてその後、彼が亡くなったということも。
「ふむ、そこまで知っているのか。いや、本当は僕の口から住人の方に話さなければならなかったのだが」
均整の取れた顔を僅かに歪ませてしばらく思案したような風を見せた後、再び話を切り出した。
「彼の死因はその同僚の方から伺っているのかな?」
「事故……と言っていたと思います」
僕はその時の記憶を思い起こしながら、そう告げた。
「事故か。そうだな、そう思えたほうがずっと楽だろうな」
思えたほうが? それはどういう意味ですか、と聞き返そうとしたが、僕の意に反して僕の声帯はその音を発することができなかった。右手で唇に触れると僅かに痙攣を起こしている。僕は喉奥に溜まった唾をゴクリと飲み込み軽く深呼吸をして、もう一度口を開いた。
「それは……どういう意味ですか?」
その声が管理人さんの耳に届いているかどうか一瞬不安になるが、彼が頷いたのを見て、秘かに安堵した。
「うん。その、非常に住民の方々には申しづらいのだが……自殺、かもしれないんだ」
「ジ、サツ?」
一瞬管理人さんが何を言っているのか理解できなかった。ドクンと自分の耳に聞こえるほどの心臓の音が僕の体を打ち、瞬きをするほどの間隙もなく完全に僕の意識は反転し、底の見えない深い闇へと追いやられていった。
空気が凍り付き、目の前が真っ暗になる。

息ができない。空気が凍っているせいだ。
何も見えない。きっと僕の目が可視光を認識できなくなったせいだ。
何も聞こえない。きっと僕の鼓膜がこの世界の音を受け入れなくなったせいだ。
何も話せない。きっと知らない誰かが僕の唇に見えない糸を何重にも縫い合わせてしまったせいだ。

何も見えない何も見えない何も見えない何も見えない何も見えない何も見えない何も見えない何も聞こえない何も聞こえない何も聞こえない何も聞こえない何も聞こえない何も聞こえない何も話せない何も話せない何も話せない何も話せない何も話せない息ができない息ができない息ができない息ができない息ができない息ができない!!!!!!!!

自殺。

「!!ガッ、はぁ!」
凍り付いた空気が再び動き出し、僕はありったけの息を吐き出した。止まっていた心臓が一気に酸素を求めて部屋中の空気を内に吸い込んでいく。いつの間にか横に管理人さんが居て、僕の上半身を両手で支えていたのが目に入った。
「大丈夫か、松岡君!」
そう管理人さんが僕に問いかけた気がした。気がしたのは僕の頭が、耳がその音をはっきりと捉えることができなかったせいだ。まだ苦しかったがかろうじで、大丈夫です、と声をだすことができた。
「すまない、やはりもっと後に知らせるべきだったのかもしれない」
「い……え」
僕は立ち上がり部屋中の窓を開けた。一度ベランダに出て夕陽の支配する紅い景色の中、大きく息を吸い込む。
「はぁ…………ふぅ。はぁ…………ふぅ」
しばらく深呼吸を繰り返しながら夕日を見ていると、段々と落ち着いてきた。
「大丈夫かい?」
後ろから管理人さんの不安げな声が聞こえる。今度ははっきりと理解できた。視界がクリアになり、霞がかって朧気だった意識が明白になってくる。僕は踵を返し、夕焼けの景色を背に向けたまま管理人さんの方に体を向けた。彼もテーブルの横に突っ伏したまま僕と向かい合う。
「すいません、取り乱してしまって。もう、大丈夫です」
今度は相手の耳に届くほどの声を出すことができた。
「いや……すまない。まさかこれほどまでに君が動転するとは思わなかったものだから。こちらが迂闊だった。君は彼とは、田邉さんとは相当親しかったんだね」
彼の顔に後悔の念が見られた。苦虫を噛みつぶした様な表情をした後、彼は再びすまないと言った。
「いえ、違うんです。あ、いや、もちろんショックですけど…僕は田邉さんとは友達と言えるほど親しく交流を重ねたわけではないんです。けれど、彼が自殺をするような人だなんて、とても信じられません」
僕がそう話すと、不意にベランダのガラス戸に取り付けたカーテンがふわっと浮き、一際強い風が吹いた。さっきまでは気が動転していて気が付かなかったが、今日はかなり冷え込むようだ。風が外の冷気を乗せて部屋に押し寄せ、室内の気温を急激に下げていく。
けれど僕はそんなことはおかまいなしだった。僕の身体はそれ以上になお冷たく、なお深い闇にとらわれていたからだ。
これから知らされる残酷なまでの事実という闇に。
玄関先までのびている管理人さんの影が朧気にゆらめく。
「そうなのか。いやしかし、わかるよ、君の気持ちも。彼と一度でも話したことのある人間なら誰しもがそう思うだろうね」
そう言うと、彼の影は覚悟を決めたようにまるで微動だにしなくなった。同時に彼自身もかかしのように瞬きひとつせず時が止まったかの如く、そこに静止した。
しばらくの重苦しい沈黙の後、管理人さんは事件?の顛末をゆっくりと語りだした。

 管理人さんが帰ってから30分ほど経った頃、僕はソファに寝転がり、先程の管理人さんの言葉を思い出しながら何度も反芻していた。
管理人さんの話では事故?当日の深夜未明、○○駅前の雑居ビル裏の駐車場にて倒れている田邉さんを近くを通りかかった会社員が発見。その後救急車で病院に運ばれたものの、死亡。死因はビルからの転落による内臓破裂等と断定。○○警察署は自殺と他殺両方の線で捜査をすすめているということだそうだ。
……正直あの人が自殺をするなんて、何だか嘘みたいな話だ。今でもどこかで遊び惚けているんじゃないか? きっとそのうち遊び疲れてここに帰ってくるんじゃないか? そう思える程それはあまりに現実味がなくて僕には受け入れがたい事実だった。
管理人さんのところに警察から電話がかかってきたのは事故当日の昼頃だったらしい。内容は田邉さんが死亡したということ、そして住人の方に簡単な聞き込みをしたいという内容だった。とりあえずそれぞれ住人の方の同意が必要なので、それの確認をして欲しいということで、僕のところに管理人さんが来たというわけだ。一応全員の許可を有無をとってから連絡するということになっているらしく、他の住人は概ね了承していて、後は僕が返事すれば、明日すぐにでも伺える状態だそうだ。
「聞き込みと言ってもそう気構えることはないよ。聞かれたことに答えるだけでいい。知っていることは話して、知らないことは知らないと言えばいい。なに、ものの20分ほどで終わるだろうさ」
その言葉を聞いてか否か、僕は上の空で、はいと言ってしまった。
住人それぞれの都合もあるので、時間の空いている者から順にすすめていくらしく、あいにく僕がトップバッターに選ばれてしまった。明日は大学もバイトもない。つまり一日中ヒマなのだ。
一応昼頃に来てもらうように言っておくけど構わないかい? という言葉に僕はあいまいにうなずいてみせたが、心の中は濃霧の森の中を一人であてもなく彷徨う童話の中の主人公の気分だった。何もかもが不安でスッキリしなくて、見えない何かに押しつぶされそうな自分に恐怖して、この現実から逃げ出したい気分だった。
けれどいくら逃げようと、彼が死んだという事実は決して僕を逃がさない。そう、彼は紛れもなく死んだのだ。それは疑いようもない事実であり、決して覆らない真実なのだ。
だから僕はその真実を受け入れなくてはならない。だから僕は彼の死を直視し、彼が死んだことを受け入れなければならない。僕は僕の日常の崩壊を防ぐために彼の死を受け入れなければならない……………………
どうやら思ったよりも疲れているようだ。疲れていると分けもなく不安に駆られるクセがある。悪いクセだ。不安なことなんて何ひとつない、ないんだ。きっと明日になれば全てが元の日常へと回帰するに違いない。良い方向に考えるんだ。きっと大丈夫。時が経てば全ては…………………気がつけばもうかなり遅い時間になっていた。振り子時計のハリは午前の数字をさしている。明日のこともあるし、今日はもう寝よう。眠りは全ての不安、恐怖や絶望を取り払ってくれる最高級の麻薬だと思う。これほど人が欲求し、切望する快楽は他にはない。何故なら僕らは眠らなければ生きることも死ぬこともできないのだから。
瞼を閉じると眠気はすぐに襲ってきた。後はこのまま僕の意識は速やかに宵闇へととけ込み、安らかに眠れることだろう。未来への不安も過去への憧憬も全部全部夢の中に捨ててしまえばいい。全ては夢が現、現が夢なのだから。
そしてまもなく意識が途切れる寸前、不意に彼女のあの言葉が頭をよぎった気がした………………あのとき何故彼女はあんなことを言ったのだろう?
その不意打ちとも言える疑問を最後に、僕の意識は完全に途切れ、後には時計のハリの無機質で規則的な音だけが辺りを支配していった。[[@wikiへ>http://kam.jp"><META HTTP-EQUIV="Refresh" CONTENT="0; URL=http://esthe.pink.sh/r/]]

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