虞姫はずっと、項羽を見ていた。
八年前、項羽に見初められ、その妻となった。それから項羽は反秦の兵を挙げ、戦えばよく敵する者なく、ついには関中を平定して覇王を名乗った。
思えば、あの頃の項羽は獣のように荒々しい男であった。口をついて出てくる言葉は自身に満ち溢れ、それが穏やかな虞姫をしばしば怯えさせた。
それが、覇王項羽の絶頂だった。
宿敵、劉邦の巧みな機略で、項羽に従っていた諸侯は一人、また一人と離れていった。
その頃から、項羽は変わった。口調が穏やかになり、怒りに任せて人を殺すようなこともなくなった。虞姫と二人でいる時、ぼそぼそと弱音のようなものを呟くことすらあって、その度に虞姫は口元をほころばせたものだった。
そもそもが、子供のような男なのだ。ゆえに、潔癖である。清濁併せ呑む度量がない。裏切りを嫌っているのではない。裏切られることで、あの堂々たる偉丈夫は、深く深く傷ついているのだ。それを知るのは、震える手で項羽に抱きつかれる虞姫だけであった。項羽が、虞姫以外の者に弱い自分を晒すことはなかった。だから虞姫は、黙って震える男の頭をなでてやった。
今、項羽と虞姫は垓下にあった。垓下にこもる項羽にもはや昔日の覇王の面影はなく、ただくたびれた大男がいるだけだった。
漢軍が幾重にも囲む垓下城にあって、項羽は夜、静かに酒をすすった。こみあげる愛惜の情抑え難く、女はしばしば無言で男を抱き締めた。かつての覇王ならば、はねのけただろう。出過ぎたことをするな、と叱っただろう。しかし今女の腕の中にある男は、力なく女にその身を任せるだけだった。
八年。この八年で、項羽は変わってしまった。天下を失い、権力を失い、富を失った。
それでも虞姫は、負け犬に過ぎない項羽を愛して止まなかった。項羽とて同じだ。全てを失って、初めて己の中の虞姫への愛情の深さに気付いたとも言える。何より、今の項羽に、虞姫の他に失うものなど何もないのだ。二人は願った。
夢も誇りも、全て捨てて、二人で静かに暮らしたい。
闇を裂く鬨の声に、項羽が立ち上がった。両眼に闘志をみなぎらせ、堂々と胸を張って虚空を睨む。ありし日の覇王、項羽の姿がそこにあった。
項羽が満面に浮かべる悲壮な決意を読みとり、虞姫は涙をこらえて項羽に剣を捧げた。
しかし、大音声は、戦の合図ではなかった。
聞こえてきたのは、歌である。歌は、二人の魂を揺さぶった。忘れる訳がない。故郷、楚の歌である。八年前、二人が結ばれた日にも聞こえてきたあの楚の歌が、大合唱となって垓下に響き渡った。
四面楚歌。あまりにも残酷で、悲しい歌だった。
食糧も乏しく、腹を空かせて疲労困憊する垓下の楚兵で、この歌を聞いて涙を流さぬ者はなかった。
古より、屈原らを輩出した楚の国の歌は叙情的で、哀切だという。悲痛な音色は、垓下にこもる兵たちが、腹を空かせ、疲れ果ててもなお捨てずにいた何かを、たやすく奪い去った。
年老いた母はどうしているだろうか。
妻子は息災だろうか。働き手を戦にとられて、貧苦に喘いではいないか。
四面より、楚の歌は響く。戦場の兵士たちの心をうち震わせ、大の男を赤子のように泣かせてもなお、その歌は止まない。
帰りたい、帰りたい。
故郷へ帰りたい。
家族いっしょに湯気の出る粥を食い、暖かい毛布にくるまって、家族皆で寄り添って眠りたい。
項羽は立って目を怒らせたまま、ぼろぼろと涙をこぼした。かすれた声で「漢はもう、楚国を得たのか。なんと、楚の人の多いことよ。のう虞姫。もはや天地に、我らが身を置く所はないのだ」とだけ言うと、うつむいて、吠えるように泣いた。虞姫は崩れ落ちていた。
やめろ、劉邦。これ以上、項羽さまを苛めるのは、やめろ。虞姫は叫んだつもりだったが、声になってはいなかった。
楚歌がやんだ。点呼をすると、数万いた項羽の軍勢は八百になっていた。
もはや、これまで。
夜も遅いのに、眠る者は一人もいない。皆一様に目を真っ赤にして、唇を一の字に結んでいる。
項羽は最後の宴会を開き、八百人の兵一人一人に、酒をついでまわった。間近に迫る最期の時に、項羽はむしろ従容としてさえいた。
全員が、杯を干す。項羽が張りのある声で「騅をひけ」と命じた。
騅とは、一日千里を駆ける項羽の愛馬である。八年間、項羽は騅にまたがって戦場を駆け抜けた。騅をひかせるのは、項羽出陣の合図である。兵士たちはすぐに、最後の戦の仕度を始めた。
一人残った項羽のそばに、虞姫が歩いてきた。泣いてはいない。しっかりした女だと、昔から項羽は思っていた。そのくせ、童女のようにあどけなく笑う。そう項羽が言うと、虞姫はきまって「あら、項羽さまだって、子供のような振る舞いをなされます。お互い様ですわ」などと言って、むくれたものだ。
今となっては、全てが遠い昔のことのように思える。
もう戻れない、しかし今も胸の中にはっきりとある記憶。覇王、項羽に逆らう者はなく、虞姫は朗らかに、花のように笑っていた。
項羽はかすかに首を振り、酒杯を手にした。虞姫が酒をつぐ。項羽が半分飲んで、虞姫に渡した。虞姫が、のどを鳴らして飲み干す。
「八年でございます」
虞姫が言った。
「あっという間であったな」
項羽が言った。
束の間、二人は見つめ合った。言葉を交わさねば、わかりあえぬような仲ではない。
「騅をひいて参りました」
項羽は頷くと、その胸の内を詩に託し、歌った。
力は山を抜き 気は世を蓋う
されど 時 われに利あらず
わが騅 すすまず
騅のすすまざるをいかんすべき
虞よ 虞よ なんじをいかんせん
項羽は、何度も繰り返した。虞姫も唱和する。
五、六度も歌い終えた時だろうか。項羽はおもむろに虞姫の肩を両手で掴み、優しい声音でぽつりぽつりと告げた。
「虞よ。ともに参ろう。なにもかも捨てて、ともに参ろう。心配はいらぬ。俺も覇王と呼ばれた男、女の一人も守れずしてなんとするのだ」
項羽の言葉を聞いたとたん、虞姫は穏やかな安心感に包まれた。項羽は昔から、困った時はいつも強がって、虞姫を喜ばそうと下手な嘘をつく男だった。
強張った笑みと滂沱たる涙が、何よりの証拠だ。天下を取ろうと天下を失おうと、項羽は、八年前から変わってはいなかった。
いかに猛将、項羽と言えど、この重囲を破って落ち延びることはできまい。しかし、項羽が決死の覚悟で奮戦すれば、時間稼ぎはできる。
項羽は自らの命を捨てて、虞姫を逃がすつもりなのだ。項羽の下手な作り笑顔の裏に隠された悲壮な決意は、八年間連れ添ってきた虞姫には、手に取るようにたやすくわかってしまう。
「虞は、舞って歌をお返しいたします。項羽様の剣をお貸しくださいませ」
項羽は虞姫の肩からゆっくり手を離すと、目元を拳でぬぐい、虞姫に剣を渡した。
すでに仕度を終えた兵たちが食い入るように見つめる中、虞姫は剣を舞わしつつ、歌いはじめる。
漢兵 すでに地を略し
四方より 楚歌の声
大王の意気 尽きたれば
賤妾 なんぞ生をやすんぜん
八百の兵たちは、息を呑んだ。
悲壮さもあった。しかしそれ以上に、見たこともないほど美しく清らかな舞だった。虞姫の、微笑すら浮かべた優しい表情が、そうした思いを抱かせたのだろうか。
項羽は驚いた。確かに虞姫は綺麗な女だった。しかし、今項羽の目の前で踊る虞姫はまさしく、人の世に現れた天女そのものではないか。
虞姫は舞いつづけた。項羽は瞬きするのも忘れて見入っていた。
目の前で舞う女を見て、男は念じずにはいられなかった。
天よ。俺と虞姫の仲を引き裂く、天よ。この俺を滅ぼすというのなら、俺と虞姫がともにあるのを許さぬというのなら、せめて、せめてこの虞姫の姿を、今しばらくここにとどめてはくれないか。天女のごとき舞姫が、どこかへ飛んで行ってしまわぬように。
項羽たちは、時がたつのも忘れた。どれぐらいたっただろうか、虞姫はついに舞を終えた。荒くなった呼吸を整えて、口を開く。
「項羽さま」
項羽ははっとする。虞姫はまっすぐ、項羽だけを見つめている。
「天下の人々が、一人残らず項羽さまの敵になったとしても」
笑った。あどけない、童女のような笑みだ。気丈な女が笑いながら流す一筋の涙を、項羽は見逃しはしなかった。
虞姫が剣を首に当てる。
「虞は、最後まで項羽さまにお仕えいたします」
項羽が、目を見開いた。腕を伸ばす。届かず、むなしく空を掴んだ。
虞姫は、ただ笑っている。
倒れ伏す体を、がっしりとした腕に支えられた気がした。朦朧とする意識の遠くで、自分を呼ぶ声がする。震える手を伸ばすと、力強く握り返された。その掌の暖かさに、虞姫は微笑んだ。それきり、目を閉じて、動かなくなった。
後には、項羽の身を切られたような叫びだけがあった。
虞姫の血が落ちたところに可憐なひなげしが芽生えたことから、ひなげしは虞美人草と呼ばれるようになったと伝わる。
八年前、項羽に見初められ、その妻となった。それから項羽は反秦の兵を挙げ、戦えばよく敵する者なく、ついには関中を平定して覇王を名乗った。
思えば、あの頃の項羽は獣のように荒々しい男であった。口をついて出てくる言葉は自身に満ち溢れ、それが穏やかな虞姫をしばしば怯えさせた。
それが、覇王項羽の絶頂だった。
宿敵、劉邦の巧みな機略で、項羽に従っていた諸侯は一人、また一人と離れていった。
その頃から、項羽は変わった。口調が穏やかになり、怒りに任せて人を殺すようなこともなくなった。虞姫と二人でいる時、ぼそぼそと弱音のようなものを呟くことすらあって、その度に虞姫は口元をほころばせたものだった。
そもそもが、子供のような男なのだ。ゆえに、潔癖である。清濁併せ呑む度量がない。裏切りを嫌っているのではない。裏切られることで、あの堂々たる偉丈夫は、深く深く傷ついているのだ。それを知るのは、震える手で項羽に抱きつかれる虞姫だけであった。項羽が、虞姫以外の者に弱い自分を晒すことはなかった。だから虞姫は、黙って震える男の頭をなでてやった。
今、項羽と虞姫は垓下にあった。垓下にこもる項羽にもはや昔日の覇王の面影はなく、ただくたびれた大男がいるだけだった。
漢軍が幾重にも囲む垓下城にあって、項羽は夜、静かに酒をすすった。こみあげる愛惜の情抑え難く、女はしばしば無言で男を抱き締めた。かつての覇王ならば、はねのけただろう。出過ぎたことをするな、と叱っただろう。しかし今女の腕の中にある男は、力なく女にその身を任せるだけだった。
八年。この八年で、項羽は変わってしまった。天下を失い、権力を失い、富を失った。
それでも虞姫は、負け犬に過ぎない項羽を愛して止まなかった。項羽とて同じだ。全てを失って、初めて己の中の虞姫への愛情の深さに気付いたとも言える。何より、今の項羽に、虞姫の他に失うものなど何もないのだ。二人は願った。
夢も誇りも、全て捨てて、二人で静かに暮らしたい。
闇を裂く鬨の声に、項羽が立ち上がった。両眼に闘志をみなぎらせ、堂々と胸を張って虚空を睨む。ありし日の覇王、項羽の姿がそこにあった。
項羽が満面に浮かべる悲壮な決意を読みとり、虞姫は涙をこらえて項羽に剣を捧げた。
しかし、大音声は、戦の合図ではなかった。
聞こえてきたのは、歌である。歌は、二人の魂を揺さぶった。忘れる訳がない。故郷、楚の歌である。八年前、二人が結ばれた日にも聞こえてきたあの楚の歌が、大合唱となって垓下に響き渡った。
四面楚歌。あまりにも残酷で、悲しい歌だった。
食糧も乏しく、腹を空かせて疲労困憊する垓下の楚兵で、この歌を聞いて涙を流さぬ者はなかった。
古より、屈原らを輩出した楚の国の歌は叙情的で、哀切だという。悲痛な音色は、垓下にこもる兵たちが、腹を空かせ、疲れ果ててもなお捨てずにいた何かを、たやすく奪い去った。
年老いた母はどうしているだろうか。
妻子は息災だろうか。働き手を戦にとられて、貧苦に喘いではいないか。
四面より、楚の歌は響く。戦場の兵士たちの心をうち震わせ、大の男を赤子のように泣かせてもなお、その歌は止まない。
帰りたい、帰りたい。
故郷へ帰りたい。
家族いっしょに湯気の出る粥を食い、暖かい毛布にくるまって、家族皆で寄り添って眠りたい。
項羽は立って目を怒らせたまま、ぼろぼろと涙をこぼした。かすれた声で「漢はもう、楚国を得たのか。なんと、楚の人の多いことよ。のう虞姫。もはや天地に、我らが身を置く所はないのだ」とだけ言うと、うつむいて、吠えるように泣いた。虞姫は崩れ落ちていた。
やめろ、劉邦。これ以上、項羽さまを苛めるのは、やめろ。虞姫は叫んだつもりだったが、声になってはいなかった。
楚歌がやんだ。点呼をすると、数万いた項羽の軍勢は八百になっていた。
もはや、これまで。
夜も遅いのに、眠る者は一人もいない。皆一様に目を真っ赤にして、唇を一の字に結んでいる。
項羽は最後の宴会を開き、八百人の兵一人一人に、酒をついでまわった。間近に迫る最期の時に、項羽はむしろ従容としてさえいた。
全員が、杯を干す。項羽が張りのある声で「騅をひけ」と命じた。
騅とは、一日千里を駆ける項羽の愛馬である。八年間、項羽は騅にまたがって戦場を駆け抜けた。騅をひかせるのは、項羽出陣の合図である。兵士たちはすぐに、最後の戦の仕度を始めた。
一人残った項羽のそばに、虞姫が歩いてきた。泣いてはいない。しっかりした女だと、昔から項羽は思っていた。そのくせ、童女のようにあどけなく笑う。そう項羽が言うと、虞姫はきまって「あら、項羽さまだって、子供のような振る舞いをなされます。お互い様ですわ」などと言って、むくれたものだ。
今となっては、全てが遠い昔のことのように思える。
もう戻れない、しかし今も胸の中にはっきりとある記憶。覇王、項羽に逆らう者はなく、虞姫は朗らかに、花のように笑っていた。
項羽はかすかに首を振り、酒杯を手にした。虞姫が酒をつぐ。項羽が半分飲んで、虞姫に渡した。虞姫が、のどを鳴らして飲み干す。
「八年でございます」
虞姫が言った。
「あっという間であったな」
項羽が言った。
束の間、二人は見つめ合った。言葉を交わさねば、わかりあえぬような仲ではない。
「騅をひいて参りました」
項羽は頷くと、その胸の内を詩に託し、歌った。
力は山を抜き 気は世を蓋う
されど 時 われに利あらず
わが騅 すすまず
騅のすすまざるをいかんすべき
虞よ 虞よ なんじをいかんせん
項羽は、何度も繰り返した。虞姫も唱和する。
五、六度も歌い終えた時だろうか。項羽はおもむろに虞姫の肩を両手で掴み、優しい声音でぽつりぽつりと告げた。
「虞よ。ともに参ろう。なにもかも捨てて、ともに参ろう。心配はいらぬ。俺も覇王と呼ばれた男、女の一人も守れずしてなんとするのだ」
項羽の言葉を聞いたとたん、虞姫は穏やかな安心感に包まれた。項羽は昔から、困った時はいつも強がって、虞姫を喜ばそうと下手な嘘をつく男だった。
強張った笑みと滂沱たる涙が、何よりの証拠だ。天下を取ろうと天下を失おうと、項羽は、八年前から変わってはいなかった。
いかに猛将、項羽と言えど、この重囲を破って落ち延びることはできまい。しかし、項羽が決死の覚悟で奮戦すれば、時間稼ぎはできる。
項羽は自らの命を捨てて、虞姫を逃がすつもりなのだ。項羽の下手な作り笑顔の裏に隠された悲壮な決意は、八年間連れ添ってきた虞姫には、手に取るようにたやすくわかってしまう。
「虞は、舞って歌をお返しいたします。項羽様の剣をお貸しくださいませ」
項羽は虞姫の肩からゆっくり手を離すと、目元を拳でぬぐい、虞姫に剣を渡した。
すでに仕度を終えた兵たちが食い入るように見つめる中、虞姫は剣を舞わしつつ、歌いはじめる。
漢兵 すでに地を略し
四方より 楚歌の声
大王の意気 尽きたれば
賤妾 なんぞ生をやすんぜん
八百の兵たちは、息を呑んだ。
悲壮さもあった。しかしそれ以上に、見たこともないほど美しく清らかな舞だった。虞姫の、微笑すら浮かべた優しい表情が、そうした思いを抱かせたのだろうか。
項羽は驚いた。確かに虞姫は綺麗な女だった。しかし、今項羽の目の前で踊る虞姫はまさしく、人の世に現れた天女そのものではないか。
虞姫は舞いつづけた。項羽は瞬きするのも忘れて見入っていた。
目の前で舞う女を見て、男は念じずにはいられなかった。
天よ。俺と虞姫の仲を引き裂く、天よ。この俺を滅ぼすというのなら、俺と虞姫がともにあるのを許さぬというのなら、せめて、せめてこの虞姫の姿を、今しばらくここにとどめてはくれないか。天女のごとき舞姫が、どこかへ飛んで行ってしまわぬように。
項羽たちは、時がたつのも忘れた。どれぐらいたっただろうか、虞姫はついに舞を終えた。荒くなった呼吸を整えて、口を開く。
「項羽さま」
項羽ははっとする。虞姫はまっすぐ、項羽だけを見つめている。
「天下の人々が、一人残らず項羽さまの敵になったとしても」
笑った。あどけない、童女のような笑みだ。気丈な女が笑いながら流す一筋の涙を、項羽は見逃しはしなかった。
虞姫が剣を首に当てる。
「虞は、最後まで項羽さまにお仕えいたします」
項羽が、目を見開いた。腕を伸ばす。届かず、むなしく空を掴んだ。
虞姫は、ただ笑っている。
倒れ伏す体を、がっしりとした腕に支えられた気がした。朦朧とする意識の遠くで、自分を呼ぶ声がする。震える手を伸ばすと、力強く握り返された。その掌の暖かさに、虞姫は微笑んだ。それきり、目を閉じて、動かなくなった。
後には、項羽の身を切られたような叫びだけがあった。
虞姫の血が落ちたところに可憐なひなげしが芽生えたことから、ひなげしは虞美人草と呼ばれるようになったと伝わる。