一軒の家に辿り着いた。
道路を少しそれた空き地で、塀はない。家に灯りは見られず道の街灯がわずかにその様子を照らし出している。トタン屋根をかぶった板張りの2階建てで、雨戸は全て閉じられ所々板が剥れかけ、幽霊でも住んでいそうな雰囲気だ。玄関は曇りガラスの引き戸のもので、戸の上のひさしに大きな蜘蛛の巣が張られている。暗くてよく見えないが家の周りには自転車の部品やバケツなどのガラクタが無数に散らばっているようだ。隣りに鳥小屋のようなものがあったけど、中に何かいるという気配はない。空気がずんと重たいような気がする。
猫は玄関の前でにゃあと一つ鳴いた。僕は少し怖かったけど、不思議なものを見る気持ちで猫の後ろに突っ立っていた。
何秒かの静寂のあと、引き戸がいきなりガラッと開き、僕の心臓は跳ね上がった。そして中にいたのは同じクラスの藤島だった。僕は新たに驚き、あっ、と小さく声を漏らし、同時に少しほっとした。藤島も意外そうな顔をした。猫は一つ鳴いて僕らを置いたまま家の中に入って行った。
こんばんは、と向こうが言ってきた。こんばんは、と口ごもりながら返した。
「牧野くん、こんな時間にどうしたの?」
と藤島は言った。
「いや、ちょっと」
僕は曖昧に返事をした。
「用事?」
「いや、違うけど、たまたまっていうか」
走って逃げたい気がしたけど、タイミングが上手くつかめない。
2人の間に沈黙が漂った。その内に藤島が口を開いた。
「あのさ、上がっていけば?……よかったら」
緊張がこちらにまで伝わってきて、さっきよりも硬い沈黙が僕らを包む。どうしてそんなことを言うのか分からなかった。僕は何も言わずに走っていってしまおうかと考え始めた。
「ごめん、嫌ならいいの」
と藤島は言った。本当に悪いことを言ってしまったというように聞こえた。
――嫌じゃないけど、帰らなきゃだから。
そう言い訳しようと考えたけど、すぐに止めた。僕はごめんと言って振り返り、やってきた道へと走り出した。
さっき、酔っ払った父親に説教をされ、塾をすすめられ、それで僕は家出をした。
説教の内容は進路についてだ。「お前はどこの高校に行くつもりなんだ」と聞かれ、「決まってない」と答えたら「早く決めろ。第一お前は何をするのにも遅すぎる」と始まった。
僕は将来のことなんてほとんど何も決めていない。多分高校に行くんだろうなとは思っていたけど、分かるのはそれくらいまでだった。僕はまだ二年生だし、今は夏だ。時間は十分にあると考えていた。それに、もしぎりぎりまで決まらなくても、きっとどうにかなると思っていた。
父親は1時間も説教をした。僕は箸や茶碗や爪楊枝をいじくりながらそれを聞いていた。最後に父親は「塾に行かせよう」と言った。いつか僕の隣りに座っていた母親も「そうね。じゃあ探さなきゃね」なんて言っていた。
説教はそんな風に終わり、そのあと僕は財布を持って家を出た。面倒臭かったのだ。自分自身の将来が。僕はきっとこれから塾に通うことになるか、それとも家で勉強するかして高校に入るだろう。それから大学へ行くか就職するかをまた悩むのかもしれない。きっと今よりもずっと深刻に。そういったぼんやりとした未来が、頑丈な細い縄となり僕をきつく縛り上げているようだった。縄はきりきりと食い込み僕の自由を奪っていった。そして僕はその縄を解く方法を知らなかった。
あるいは、単に塾に行きたくなかったからだし、説教にむかついてもいたからだ。消極的だけど、夏休みに入って学校がないというのも大きな理由のひとつだった。でも、もうどうでもいいやと僕は思った。もう家は出てしまい、少なくとも当分の間は帰らないつもりだ。解放感を味わおう。
しかし僕は30分後には公園のベンチに座ってぼんやりと空を眺めていた。自分がどこへ行きたいのか、どこへ行くべきなのかが分からなかった。どこへでも行けるのに行きたい場所がない。それは何よりもつまらなく不安なことだ。縄が深く食い込むのを感じた。
公園はそんなに大きくないけど、年寄りや若いカップルたちがけっこういて、それぞれ話しをするか夕焼けの終わりを眺めるかしていた。僕と同じくらいの年頃のグループもいて、周りの目を気にせず大声で騒ぎ笑い合っていた。僕はうらやましく思いながら空を見た。
そのとき、にゃあと細く高い鳴き声がした。見ると小さくて真っ白な猫が僕の前にいた。それは箱から出したばかりのガーゼみたいに清潔な白で、オレンジ色の景色の中で浮き上がって見えた。猫は前脚を立てて座り、細長いしっぽで地面をなでながら僕の方を見ていた。子猫特有の円い大きな瞳で、じっと見つめていた。
数秒間観察したあと、猫は立ってくるりと振り返り歩き出してしまった。僕は少し残念な気持ちで見ていた。しかし猫はそのまま立ち去らずに、首だけ振り向きにゃあと鳴いた。そしてまた歩き出す。まるで僕を誘っているようだった。猫が何度かそれを繰り返したあと、僕はその誘いに乗ることにした。誘いを受けるのはうれしかったし、このまま座っているよりはどこかへ向かって歩く方がよっぽど気が楽だった。
道路を少しそれた空き地で、塀はない。家に灯りは見られず道の街灯がわずかにその様子を照らし出している。トタン屋根をかぶった板張りの2階建てで、雨戸は全て閉じられ所々板が剥れかけ、幽霊でも住んでいそうな雰囲気だ。玄関は曇りガラスの引き戸のもので、戸の上のひさしに大きな蜘蛛の巣が張られている。暗くてよく見えないが家の周りには自転車の部品やバケツなどのガラクタが無数に散らばっているようだ。隣りに鳥小屋のようなものがあったけど、中に何かいるという気配はない。空気がずんと重たいような気がする。
猫は玄関の前でにゃあと一つ鳴いた。僕は少し怖かったけど、不思議なものを見る気持ちで猫の後ろに突っ立っていた。
何秒かの静寂のあと、引き戸がいきなりガラッと開き、僕の心臓は跳ね上がった。そして中にいたのは同じクラスの藤島だった。僕は新たに驚き、あっ、と小さく声を漏らし、同時に少しほっとした。藤島も意外そうな顔をした。猫は一つ鳴いて僕らを置いたまま家の中に入って行った。
こんばんは、と向こうが言ってきた。こんばんは、と口ごもりながら返した。
「牧野くん、こんな時間にどうしたの?」
と藤島は言った。
「いや、ちょっと」
僕は曖昧に返事をした。
「用事?」
「いや、違うけど、たまたまっていうか」
走って逃げたい気がしたけど、タイミングが上手くつかめない。
2人の間に沈黙が漂った。その内に藤島が口を開いた。
「あのさ、上がっていけば?……よかったら」
緊張がこちらにまで伝わってきて、さっきよりも硬い沈黙が僕らを包む。どうしてそんなことを言うのか分からなかった。僕は何も言わずに走っていってしまおうかと考え始めた。
「ごめん、嫌ならいいの」
と藤島は言った。本当に悪いことを言ってしまったというように聞こえた。
――嫌じゃないけど、帰らなきゃだから。
そう言い訳しようと考えたけど、すぐに止めた。僕はごめんと言って振り返り、やってきた道へと走り出した。
さっき、酔っ払った父親に説教をされ、塾をすすめられ、それで僕は家出をした。
説教の内容は進路についてだ。「お前はどこの高校に行くつもりなんだ」と聞かれ、「決まってない」と答えたら「早く決めろ。第一お前は何をするのにも遅すぎる」と始まった。
僕は将来のことなんてほとんど何も決めていない。多分高校に行くんだろうなとは思っていたけど、分かるのはそれくらいまでだった。僕はまだ二年生だし、今は夏だ。時間は十分にあると考えていた。それに、もしぎりぎりまで決まらなくても、きっとどうにかなると思っていた。
父親は1時間も説教をした。僕は箸や茶碗や爪楊枝をいじくりながらそれを聞いていた。最後に父親は「塾に行かせよう」と言った。いつか僕の隣りに座っていた母親も「そうね。じゃあ探さなきゃね」なんて言っていた。
説教はそんな風に終わり、そのあと僕は財布を持って家を出た。面倒臭かったのだ。自分自身の将来が。僕はきっとこれから塾に通うことになるか、それとも家で勉強するかして高校に入るだろう。それから大学へ行くか就職するかをまた悩むのかもしれない。きっと今よりもずっと深刻に。そういったぼんやりとした未来が、頑丈な細い縄となり僕をきつく縛り上げているようだった。縄はきりきりと食い込み僕の自由を奪っていった。そして僕はその縄を解く方法を知らなかった。
あるいは、単に塾に行きたくなかったからだし、説教にむかついてもいたからだ。消極的だけど、夏休みに入って学校がないというのも大きな理由のひとつだった。でも、もうどうでもいいやと僕は思った。もう家は出てしまい、少なくとも当分の間は帰らないつもりだ。解放感を味わおう。
しかし僕は30分後には公園のベンチに座ってぼんやりと空を眺めていた。自分がどこへ行きたいのか、どこへ行くべきなのかが分からなかった。どこへでも行けるのに行きたい場所がない。それは何よりもつまらなく不安なことだ。縄が深く食い込むのを感じた。
公園はそんなに大きくないけど、年寄りや若いカップルたちがけっこういて、それぞれ話しをするか夕焼けの終わりを眺めるかしていた。僕と同じくらいの年頃のグループもいて、周りの目を気にせず大声で騒ぎ笑い合っていた。僕はうらやましく思いながら空を見た。
そのとき、にゃあと細く高い鳴き声がした。見ると小さくて真っ白な猫が僕の前にいた。それは箱から出したばかりのガーゼみたいに清潔な白で、オレンジ色の景色の中で浮き上がって見えた。猫は前脚を立てて座り、細長いしっぽで地面をなでながら僕の方を見ていた。子猫特有の円い大きな瞳で、じっと見つめていた。
数秒間観察したあと、猫は立ってくるりと振り返り歩き出してしまった。僕は少し残念な気持ちで見ていた。しかし猫はそのまま立ち去らずに、首だけ振り向きにゃあと鳴いた。そしてまた歩き出す。まるで僕を誘っているようだった。猫が何度かそれを繰り返したあと、僕はその誘いに乗ることにした。誘いを受けるのはうれしかったし、このまま座っているよりはどこかへ向かって歩く方がよっぽど気が楽だった。