外から見たソーシャル
懐疑的
ソーシャルと呼ばれる場に入っている人達は楽しんでいるが、外からはどの様に見られているのか。人は自らが参画していない事柄に対しては否定的になることが多い。怪しい、胡散(うさん)臭いという表現をされることがある。
理解できないために敬遠され、時には宗教っぽいとも言われる。変に仲間意識が見え、暑苦しい感じがする。一旦中に入ってから抜ける人もおり、どっぷりと入り込んで抜けた人達は、ソーシャル疲れなどと言われる。
都合よい
ソーシャルという言葉が都合よく使われることがある。ソーシャルと言っておけば良いという風潮、いわゆる何でもソーシャルな状態である。ソーシャルの定義が曖昧なだけに、その使われ方は様々である。
少し現実から遠ざけて、実態を直視しないようなことにも使われる。言葉にだまされてしまい、中身は空っぽという状態である。バズワードと言われることもあるように、積極的に使わない人達も多い。
表面的
ソーシャルに集う人達はうわべだけの付き合いに見える。一時的な流行であり一過性のものである。表面的に動いているように見えるが、根が張られていなく時間の経過と共に忘れ去られてしまう。
仲良しだけの集まりであり、そこでは何も生まず単なるワイガヤ議論をしているだけのようである。都合のよいときだけ集まり、いざと言うときに逃げてしまう。責任の無い集団ではないかとの見られ方をする。
嫌悪感
ソーシャルに対して嫌悪感を抱き、意識的に遠ざける人達がいる。他人とは繋がりたくなく、誰かに自分の情報を知られるのが嫌であり、極力関わらないようにする。犯罪にも繋がるケースがあり、情報は必要最低限にしたという思いがある。
目的が見えないため、時間の無駄に思える。お金がもらえるわけではなく、具体的に何かに打ち込むわけではない。ただ単に話を伝え合っているだけである。
全てが丸見えの状態であり、プライバシーがない気がする。一部始終を見られている感覚で、人の目が気になる。個人情報が漏れてしまい、コントロール外のところで自分に関する情報がやり取りされることは嫌な気持ちにさせる。
恐怖心
一旦情報が展開されると歯止めが利かなくなる。そういったことに対する恐怖心が離れない。とくに最近は実名が使われることが多くなり、簡単に自分を特定されてしまう。何から何までも情報が筒抜けである。
自分を殺される感覚となり、本来の自分の姿から遠ざかってしまう。自由すぎる環境であり、統制されないことによる負の部分が生じてしまう。自分が何者かが分からなくなってしまう危険性を感じる。
うらやましい
実はソーシャルに入りたく、うらやましいとも感じている。傍から見ても楽しげであり、本来的にはその和に加わりたい。一歩踏み出す勇気がいるが踏み出せない人も多い。。趣味もなく、ちゃんとした意見も言えないので、なかなか入っていけないという気持ちになる。
デジタルデバイドならぬ、ソーシャルデバイドな状態も出てきている。自由に使える装置が無かったり、企業ネットワーク等でソーシャルネットワークへの接続が遮断されることがある。本来的には入りたいのであるが、何かの制約で入れない人もいる。
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最終更新:2012年02月24日 16:46