本編#1-5
#1 深紅の審問騎士――ヘレーネ・ヴェロッキオ・フォン・ヴラドシュタイン
「神を気取り、偽りの神罰を下す反逆者よ。世迷言を吐き人々の心を惑わすその行為、許すわけにはいかない。我らが神の御名において貴様を断罪する」
まるで歌い上げるようにそう宣告したのは"赤騎士"……神聖護王教会に属する異端審問殲騎団(ランツェリッター・オルデン)の審問騎士であった。
彼女の声に応えるかのように十指にそれぞれはめられた指輪が、りぃん、と澄んだ音を立てる。重なる音はメロディとなる。この世のものとは思えぬ歌声で、指輪たちが賛美歌を奏でていた。
りぃん、りぃんと静かに調べが紡がれる。屋内闘技場、場所は廃教会。ここには美闘士である赤騎士と異端者、二人の少女以外には誰も居ない。流れるは指輪たちの歌だけ。
今この場には、闘技場というにはあまりに神聖な空気が流れていた。
静謐を打ち破ったのは異端者の少女。
「汚れ仕事専門の赤騎士(ブルートヤッケ)がお上品に止まって。生意気ですわ」
「戯言を……」
赤騎士、ヘレーネは表情を崩さずにそれに答える。それでも、異教の少女が放つ見た目不相応に乱暴な言葉遣いに動揺したか。指輪が奏でる旋律には一瞬だけ、ほんの微かな乱れが生じていた。
その一瞬を少女は見逃さない。背に差した十字剣の切っ先、ちょうど踵に届く部分を思いっきり蹴り上げると、そのままの勢いで剣を大上段に構える形を取った。
少女……ゲーティア・ガンダイツの身長はとても低い。本来扱えないようなサイズの大剣を構えた彼女は、一見剣のほうに振り回されてしまいそうな危うさを放っている。子供が父親の大事な武器で遊んでいる、と言えば状況を知らぬ者は信じてしまうだろう。
しかし、ゲーティアは埋葬聖処女(パニッシュ・メイデン)である。北方の密教の根城に囲われ、人を殺すことだけを学んできた少女。その目には一点の曇りもなく、ただ勝利への確信だけがあった。
少女の背の低さは、むしろ利点。上段構えによる胴体および脚部の無防備さを補う防具となる。構えられた大剣に合わせようとすれば、そもそもの打点が低く打ち込む側に不利を与える。まさに剣士にとっての天敵。彼女の育ての親がそこまでのことを予見していたかは定かではないが、この小さな聖女は兵器として立派に自らの役目を全うしていた。
そして、それを知っているからこそ、ヘレーネは同じ土俵での戦いを避けた。
りぃぃぃ――、という甲高い音がゲーティアの耳を貫いた。指輪の歌だ。格調高い天使の歌声は、突如として神経をかき乱す悪魔の歌声に変貌していた。脳を直接引っかくように歌声が襲いくる。
だが、動けぬほどではない。
「セイレーンの……異名を持つ、赤騎士。噂通りの、卑怯な手口……ですわね?」
苦しげにそう吐き捨てると、ゲーティアは地を蹴った。疾風が駆け抜ける。瞬時にして間合いを詰めると、頭上の十字剣を横薙ぎに払った。必殺の間合い。ゲーティアの目の前で赤騎士がその体を真っ二つに裂かれ、上半身だけが地面に滑り落ちた。赤騎士は唖然とした表情でこちらを見つめている。その表情が変わることはこれから先、二度とないだろう。神速の斬撃を受け、頭が理解するより先に体が死を迎えたのだ。こうしてゲーティアは埋葬聖処女として、今日もひとつ神の試練を打ち破ったというわけである。
(否。――手応えがない!)
妄想。空想。夢幻。幻覚。催眠。自分が受けた攻撃をどう表現すべきなのかは分からなかったが、一つだけ言えること。それは、自分が既に赤騎士の術中に嵌っていたということだった。
何をされたのか。指輪。音。歌。まさか、これがセイレーンの……。
突然、膝の力が抜けた。鍛え上げられた両足は、いつの間にか自分の体重を支えることが出来なくなっていた。しゅうう、と何かが噴き出る音が聞こえる。音の発生源を探すと、何のことはない。ゲーティアの両膝から勢いよく血が噴き出していたのだ。
外傷はない。痛みもない。ただ血が溢れ出ていた。両膝だけではない。みるみるうち、腕から、腹から、頭から、ありとあらゆる部位から出血が始まっていた。
「どういうこと……」
それが終わりの合図だった。
腕から力が抜け、頭上に掲げた十字剣を支えられなくなった。支えを失った剣は、最早武器ではなく金属の塊に過ぎない。頭上から物が落ちれば、真下に落下するのが道理。野菜を真っ二つに割ったような音がして、十字剣の刃がゲーティアの頭にめり込む。さながら墓標のようなシルエット。幸いなことに傷みを感じる間もなく、不幸な少女は静かに事切れた。
「悔い改めよ」
決着。ヘレーネは厳かにそう告げると、なおも歌いつづける指輪をそっと撫でた。するとどうだろう、指揮者の合図に合わせたかのように指輪たちはその歌をぴたりと止めたのだ。それは単なる金属製の指輪ではない。彼女をセイレーンと呼ばしめるだけの力を秘めた、心強い仲間たちなのだった。
まるで歌い上げるようにそう宣告したのは"赤騎士"……神聖護王教会に属する異端審問殲騎団(ランツェリッター・オルデン)の審問騎士であった。
彼女の声に応えるかのように十指にそれぞれはめられた指輪が、りぃん、と澄んだ音を立てる。重なる音はメロディとなる。この世のものとは思えぬ歌声で、指輪たちが賛美歌を奏でていた。
りぃん、りぃんと静かに調べが紡がれる。屋内闘技場、場所は廃教会。ここには美闘士である赤騎士と異端者、二人の少女以外には誰も居ない。流れるは指輪たちの歌だけ。
今この場には、闘技場というにはあまりに神聖な空気が流れていた。
静謐を打ち破ったのは異端者の少女。
「汚れ仕事専門の赤騎士(ブルートヤッケ)がお上品に止まって。生意気ですわ」
「戯言を……」
赤騎士、ヘレーネは表情を崩さずにそれに答える。それでも、異教の少女が放つ見た目不相応に乱暴な言葉遣いに動揺したか。指輪が奏でる旋律には一瞬だけ、ほんの微かな乱れが生じていた。
その一瞬を少女は見逃さない。背に差した十字剣の切っ先、ちょうど踵に届く部分を思いっきり蹴り上げると、そのままの勢いで剣を大上段に構える形を取った。
少女……ゲーティア・ガンダイツの身長はとても低い。本来扱えないようなサイズの大剣を構えた彼女は、一見剣のほうに振り回されてしまいそうな危うさを放っている。子供が父親の大事な武器で遊んでいる、と言えば状況を知らぬ者は信じてしまうだろう。
しかし、ゲーティアは埋葬聖処女(パニッシュ・メイデン)である。北方の密教の根城に囲われ、人を殺すことだけを学んできた少女。その目には一点の曇りもなく、ただ勝利への確信だけがあった。
少女の背の低さは、むしろ利点。上段構えによる胴体および脚部の無防備さを補う防具となる。構えられた大剣に合わせようとすれば、そもそもの打点が低く打ち込む側に不利を与える。まさに剣士にとっての天敵。彼女の育ての親がそこまでのことを予見していたかは定かではないが、この小さな聖女は兵器として立派に自らの役目を全うしていた。
そして、それを知っているからこそ、ヘレーネは同じ土俵での戦いを避けた。
りぃぃぃ――、という甲高い音がゲーティアの耳を貫いた。指輪の歌だ。格調高い天使の歌声は、突如として神経をかき乱す悪魔の歌声に変貌していた。脳を直接引っかくように歌声が襲いくる。
だが、動けぬほどではない。
「セイレーンの……異名を持つ、赤騎士。噂通りの、卑怯な手口……ですわね?」
苦しげにそう吐き捨てると、ゲーティアは地を蹴った。疾風が駆け抜ける。瞬時にして間合いを詰めると、頭上の十字剣を横薙ぎに払った。必殺の間合い。ゲーティアの目の前で赤騎士がその体を真っ二つに裂かれ、上半身だけが地面に滑り落ちた。赤騎士は唖然とした表情でこちらを見つめている。その表情が変わることはこれから先、二度とないだろう。神速の斬撃を受け、頭が理解するより先に体が死を迎えたのだ。こうしてゲーティアは埋葬聖処女として、今日もひとつ神の試練を打ち破ったというわけである。
(否。――手応えがない!)
妄想。空想。夢幻。幻覚。催眠。自分が受けた攻撃をどう表現すべきなのかは分からなかったが、一つだけ言えること。それは、自分が既に赤騎士の術中に嵌っていたということだった。
何をされたのか。指輪。音。歌。まさか、これがセイレーンの……。
突然、膝の力が抜けた。鍛え上げられた両足は、いつの間にか自分の体重を支えることが出来なくなっていた。しゅうう、と何かが噴き出る音が聞こえる。音の発生源を探すと、何のことはない。ゲーティアの両膝から勢いよく血が噴き出していたのだ。
外傷はない。痛みもない。ただ血が溢れ出ていた。両膝だけではない。みるみるうち、腕から、腹から、頭から、ありとあらゆる部位から出血が始まっていた。
「どういうこと……」
それが終わりの合図だった。
腕から力が抜け、頭上に掲げた十字剣を支えられなくなった。支えを失った剣は、最早武器ではなく金属の塊に過ぎない。頭上から物が落ちれば、真下に落下するのが道理。野菜を真っ二つに割ったような音がして、十字剣の刃がゲーティアの頭にめり込む。さながら墓標のようなシルエット。幸いなことに傷みを感じる間もなく、不幸な少女は静かに事切れた。
「悔い改めよ」
決着。ヘレーネは厳かにそう告げると、なおも歌いつづける指輪をそっと撫でた。するとどうだろう、指揮者の合図に合わせたかのように指輪たちはその歌をぴたりと止めたのだ。それは単なる金属製の指輪ではない。彼女をセイレーンと呼ばしめるだけの力を秘めた、心強い仲間たちなのだった。
#2 乾坤の血族――カリカシュネ
この世に人ならざる者たちが存在するという事実は、少々この世界で宗教史を学んだ者であり、それから少々人より鋭い見識を持っているのならば誰でも気付くことが出来る類の事実、俗に言う「歴史の暗部」にあたる真実であった。
そも、神聖護王教会ら「正統教会連合(エクレシア・リソナ)」加盟教団の隆盛発展の歴史は、そのままその時代時代において金銭がどう動いてきたかの歴史と完全に符合する。
正教連内で取り決められる保護貿易ルートと、それに起因する利権争い。宗教戦争。特権階級の利潤構造。あらゆる行動は富を生み、生まれた富によって彼らの勢力はますます磐石なものとなっていくのだ。
さて、それが何故「人ならざる者」の存在を示唆するのか。それを理解するには、「正教連の富が単純に一部特権階級を庇護するためのものではない」ということを知らなければなるまい。
正教連は、単純な宗教連合体ではない。とある究極目的のために動く運命共同体である。例え宗派の違いからいがみ合うことがあろうとも、全力を出して滅ぼしあうようなことはなかったこともそれを証明している。
全ては、来るときのために。
クイーンズブレイドという殺し合いを前提とした低俗な闘技に正教連がスポンサーとして名を連ねているのにもその「究極目的」が関係しているのだ、と噂されるが、その真意はいまだ知れぬ。
そも、神聖護王教会ら「正統教会連合(エクレシア・リソナ)」加盟教団の隆盛発展の歴史は、そのままその時代時代において金銭がどう動いてきたかの歴史と完全に符合する。
正教連内で取り決められる保護貿易ルートと、それに起因する利権争い。宗教戦争。特権階級の利潤構造。あらゆる行動は富を生み、生まれた富によって彼らの勢力はますます磐石なものとなっていくのだ。
さて、それが何故「人ならざる者」の存在を示唆するのか。それを理解するには、「正教連の富が単純に一部特権階級を庇護するためのものではない」ということを知らなければなるまい。
正教連は、単純な宗教連合体ではない。とある究極目的のために動く運命共同体である。例え宗派の違いからいがみ合うことがあろうとも、全力を出して滅ぼしあうようなことはなかったこともそれを証明している。
全ては、来るときのために。
クイーンズブレイドという殺し合いを前提とした低俗な闘技に正教連がスポンサーとして名を連ねているのにもその「究極目的」が関係しているのだ、と噂されるが、その真意はいまだ知れぬ。
ちり、と何かが焦げるような音がヘレーネの耳に入ったのは、異教の少女……ゲーティア・ガンダイツがその小さな頭に剣をめり込ませてから間もなくのことだった。
試合はとうに決着がついている。予選会場として選ばれたこの場所はクイーンズブレイド運営委員会の根回しにより人払いがされており、自分と目の前で息絶えた少女以外の人間がいるはずがない。
ならば答えは簡単だ。「何かよくないことが起きる」。神聖護王教会の教義の文中に度々使用され、そのために「子供が両親の名より先にこの台詞を覚える」と評判の文言を呟くと、ヘレーネは指輪を再起動させた。
たちまち歌声が響き渡る。先ほどよりも大分音程の低い合唱が、ヘレーネの警戒の意思を代弁していた。
劇的な変化が起きたのはその直後のことだった。
まず起きたのは温度の上昇。急激に発生した熱が風を生み、轟音を伴ってヘレーネの肌に吹き付けた。爆弾の類か? だが、いくら辺りを見渡しても熱の発生源らしきものは見当たらない。
次に起きたのは、空間の揺らぎ。それは上り立つ熱が生む陽炎だった。何もない空間が突如として炎上しはじめのだ。
りぃぃ――。指輪が歌い始める。しかしそれはヘレーネの意思ではない。彼女は弱弱しい少女の表情を浮かべ、先ほどまでの余裕をかなぐり捨てて必死で指輪を覆い隠そうとしていた。その目の端には涙の粒すら浮かんでいる。
指輪の歌が一層甲高くなる。やめろ、と掠れた声でヘレーネが言った。その声に応えるものはいない。炎の舞はさらに激しさを増し、ヘレーネの周囲で踊り狂っている。そして、炎が巻き起こるたび、何かが焼けるような音がしていた。
幻聴ではない。「指輪の歌」の正体。それは目に見えないほどに小さな虫の集合体であった。ヘレーネの指輪は彼らを制御するための器具であり、歌声は虫たちが飛翔する羽音なのだ。それがセイレーンの正体なのであった。
それらが今、燃え尽きていく。ヘレーネを赤騎士たらしめた象徴が、次々と消えていく。
「期待外れもいいとこだよ。教会の審問騎士も質が落ちたものだ」
いずこかから声が響いた。見れば、廃教会の隅で炎がうねり、何かを形作ろうとしていた。
人だ。
それは人であって人ではないことをヘレーネは理解していた。それは人間ではない。歴史の影に隠れ、教会と戦いを繰り広げてきた別世界の住人たち。「究極目的」の殲滅対象。それを一言で言い表すなら、とてもシンプルな言葉がある。
試合はとうに決着がついている。予選会場として選ばれたこの場所はクイーンズブレイド運営委員会の根回しにより人払いがされており、自分と目の前で息絶えた少女以外の人間がいるはずがない。
ならば答えは簡単だ。「何かよくないことが起きる」。神聖護王教会の教義の文中に度々使用され、そのために「子供が両親の名より先にこの台詞を覚える」と評判の文言を呟くと、ヘレーネは指輪を再起動させた。
たちまち歌声が響き渡る。先ほどよりも大分音程の低い合唱が、ヘレーネの警戒の意思を代弁していた。
劇的な変化が起きたのはその直後のことだった。
まず起きたのは温度の上昇。急激に発生した熱が風を生み、轟音を伴ってヘレーネの肌に吹き付けた。爆弾の類か? だが、いくら辺りを見渡しても熱の発生源らしきものは見当たらない。
次に起きたのは、空間の揺らぎ。それは上り立つ熱が生む陽炎だった。何もない空間が突如として炎上しはじめのだ。
りぃぃ――。指輪が歌い始める。しかしそれはヘレーネの意思ではない。彼女は弱弱しい少女の表情を浮かべ、先ほどまでの余裕をかなぐり捨てて必死で指輪を覆い隠そうとしていた。その目の端には涙の粒すら浮かんでいる。
指輪の歌が一層甲高くなる。やめろ、と掠れた声でヘレーネが言った。その声に応えるものはいない。炎の舞はさらに激しさを増し、ヘレーネの周囲で踊り狂っている。そして、炎が巻き起こるたび、何かが焼けるような音がしていた。
幻聴ではない。「指輪の歌」の正体。それは目に見えないほどに小さな虫の集合体であった。ヘレーネの指輪は彼らを制御するための器具であり、歌声は虫たちが飛翔する羽音なのだ。それがセイレーンの正体なのであった。
それらが今、燃え尽きていく。ヘレーネを赤騎士たらしめた象徴が、次々と消えていく。
「期待外れもいいとこだよ。教会の審問騎士も質が落ちたものだ」
いずこかから声が響いた。見れば、廃教会の隅で炎がうねり、何かを形作ろうとしていた。
人だ。
それは人であって人ではないことをヘレーネは理解していた。それは人間ではない。歴史の影に隠れ、教会と戦いを繰り広げてきた別世界の住人たち。「究極目的」の殲滅対象。それを一言で言い表すなら、とてもシンプルな言葉がある。
「――"悪魔"」
悪魔と呼ばれた存在――年端もいかぬ少女の姿を取っていた――は、にやりと笑みを浮かべて言った。
「乾坤の血族、ムスッペルが直系カリカシュネ。私の炎は全てを食らい尽くすまで決して消えない」
ごう、と一際大きな炎が舞った。
絶望的な第二ラウンドの幕開けだった。
「乾坤の血族、ムスッペルが直系カリカシュネ。私の炎は全てを食らい尽くすまで決して消えない」
ごう、と一際大きな炎が舞った。
絶望的な第二ラウンドの幕開けだった。
#3 重闘姫――コルネイア・ディトネル
ずどん、と何か重いものが落下したような音がして、巨大な鋼の塊がカリカシュネの胴体に突き刺さった。
カリカシュネの体に深々と突き刺さった鋼――ヘレーネはようやくその塊がかの高名なバトルアックス「デストロイア」なのだと気付いた――は彼女の体に次々と罅を走らせる。そうしてしばらくの間骨が砕け、肉が裂ける音が断続的に響いたかと思うと、とうとう悪魔の体はバラバラに吹き飛んだのだった。
カリカシュネの体に深々と突き刺さった鋼――ヘレーネはようやくその塊がかの高名なバトルアックス「デストロイア」なのだと気付いた――は彼女の体に次々と罅を走らせる。そうしてしばらくの間骨が砕け、肉が裂ける音が断続的に響いたかと思うと、とうとう悪魔の体はバラバラに吹き飛んだのだった。
静寂が戻り、再び場を支配する。
「どうして私を助けた?」
力なく床にへたり込んでいたヘレーネが尋ねた。その質問を受け、ドワーフ族の少女……コルネイアはさも心外そうな表情を浮かべ、ふふん、と鼻を鳴らすとこう言った。
「愚問じゃな。悪魔から同族を守らぬ人間などおらぬ。例えそれが異教の審問騎士であろうと、我ら誇り高きドワーフ族は決して人間を、仲間を見捨てぬのじゃ」
「仲間……」
最後にそんな言葉を聞いたのはいつだったろう? 審問騎士として数々の異端者を断罪する中で、気の許せる相手などほとんどいなかった。同じ仲間である同僚たちですらも油断ならぬ世界。そういう生き方をしてきた自分が、まさか異教者であるドワーフにそんな言葉を掛けられるとは夢にも思っておらず、ヘレーネは知らず涙を流していた。
「しかしのう。まさか、悪魔が斯様な場所に顕現するとは。教会といえど風化したもの、加護は失われておったということか。この建物が鋼鉄製で、我らの土地にあったならばこのようなことはなかったろうにの」
「貴様っ……、我らが神を侮辱するか!?」
少々鼻声でヘレーネが叫んだ。そんな調子なので、そこにはもう威圧感の欠片も存在しない。
やれやれ、といった表情でコルネイアは肩をすくめた。そして、まるで子供に言い聞かせるかのように言う。
「鋼鉄の神々は我らを決して裏切らぬ。彼らにとって、神の与えたもうた物質を利用することこそが最大の信仰。我らは生産という人間にとって最も普遍的かつ文化的な行いをもって神への信仰心を示しておるのじゃ。そこにきて、お主らの神ときたらどうじゃ? 少し信仰心を失ったと見れば手先を送り込んで断罪という名の私刑を行う。信仰心に翳りがなかったとて、救いの手を差し伸べることなどなかろうに。お主らが子供たちに伝える教会史ではかつての「戦争」の真実を語ることもないようじゃし、の」
「く……」
返す言葉もなかった。それはヘレーネ自身も胸の奥に隠し、しかし決して表に出すことはない疑問をそのまま代弁する台詞だったからだ。
「どうして私を助けた?」
力なく床にへたり込んでいたヘレーネが尋ねた。その質問を受け、ドワーフ族の少女……コルネイアはさも心外そうな表情を浮かべ、ふふん、と鼻を鳴らすとこう言った。
「愚問じゃな。悪魔から同族を守らぬ人間などおらぬ。例えそれが異教の審問騎士であろうと、我ら誇り高きドワーフ族は決して人間を、仲間を見捨てぬのじゃ」
「仲間……」
最後にそんな言葉を聞いたのはいつだったろう? 審問騎士として数々の異端者を断罪する中で、気の許せる相手などほとんどいなかった。同じ仲間である同僚たちですらも油断ならぬ世界。そういう生き方をしてきた自分が、まさか異教者であるドワーフにそんな言葉を掛けられるとは夢にも思っておらず、ヘレーネは知らず涙を流していた。
「しかしのう。まさか、悪魔が斯様な場所に顕現するとは。教会といえど風化したもの、加護は失われておったということか。この建物が鋼鉄製で、我らの土地にあったならばこのようなことはなかったろうにの」
「貴様っ……、我らが神を侮辱するか!?」
少々鼻声でヘレーネが叫んだ。そんな調子なので、そこにはもう威圧感の欠片も存在しない。
やれやれ、といった表情でコルネイアは肩をすくめた。そして、まるで子供に言い聞かせるかのように言う。
「鋼鉄の神々は我らを決して裏切らぬ。彼らにとって、神の与えたもうた物質を利用することこそが最大の信仰。我らは生産という人間にとって最も普遍的かつ文化的な行いをもって神への信仰心を示しておるのじゃ。そこにきて、お主らの神ときたらどうじゃ? 少し信仰心を失ったと見れば手先を送り込んで断罪という名の私刑を行う。信仰心に翳りがなかったとて、救いの手を差し伸べることなどなかろうに。お主らが子供たちに伝える教会史ではかつての「戦争」の真実を語ることもないようじゃし、の」
「く……」
返す言葉もなかった。それはヘレーネ自身も胸の奥に隠し、しかし決して表に出すことはない疑問をそのまま代弁する台詞だったからだ。
コルネイアはドワーフの貴族、ディトネル家の後継ぎであった。
幼き時分より蝶よ花よ……ではなく、鉄よ槌よと可愛がられ、何不自由なく育ってきた少女。好きなことは神話学の勉強。この頃の彼女は鋼鉄の神々の活躍に心躍らせるただの少女に過ぎず、重闘姫と呼ばれ恐れられる今の面影はここにはない。
彼女の全てを奪ったのは、十年前に開戦し、二年前にようやく終結した「戦争」。ヒューマン族を中心とした正教連、正教連外の「異端」勢力、ドワーフ族を中心とした鋼鉄山勢力、エルフ族を中心とした「森の一族」ら四大勢力を巻き込んで起きた宗教戦争がその戦争の正体だった。
戦争の概要は単純なものだ。来るべき時に向け、正教連が他宗教を一挙に取り込むべく起こした一斉弾圧を発端とした大戦争。当初の試算では二ヶ月以内に終わるとされていた戦争は、正教連内での権力闘争、宗教弾圧の名を借りた殲滅戦争をよしとしない各国家の思惑、エルフ、ドワーフらと蜜月のある国家の動向など、様々な要素を巻き込み泥沼化していった。
そもそも、人類最大の脅威たる悪魔の存在自体をごく限られた者たちしか知らなかった、というのも原因の一つだ。正教連に所属する高位の人間ですらそれを知らず、ただ自らの欲望のために宗教を利用しているような状態だ。その状態で「脅威に対する人類の団結」など求むべくもないのは当然の結果である。
そしてコルネイアの一族もまた、鋼鉄山に住まうドワーフというだけで戦争に巻き込まれた被害者であった。一族のほとんどは戦火の中で討ち死にし、コルネイア自身も重傷を負い生死の境を彷徨う羽目になった。彼女を助けたのは、一族秘伝の強化外骨格「金剛発破」。生命のほとんどを外骨格に内蔵された人工筋肉と人工臓器に頼り、彼女は生き長らえた。
そんな状態になってなお、彼女は同じ人間を憎まなかった。彼女の憎悪の対象はただ一つ、この戦争の発端となった存在。かりそめの命を手に入れたのち、悪魔達を殺すことだけが彼女の生き甲斐となったのだ。
幼き時分より蝶よ花よ……ではなく、鉄よ槌よと可愛がられ、何不自由なく育ってきた少女。好きなことは神話学の勉強。この頃の彼女は鋼鉄の神々の活躍に心躍らせるただの少女に過ぎず、重闘姫と呼ばれ恐れられる今の面影はここにはない。
彼女の全てを奪ったのは、十年前に開戦し、二年前にようやく終結した「戦争」。ヒューマン族を中心とした正教連、正教連外の「異端」勢力、ドワーフ族を中心とした鋼鉄山勢力、エルフ族を中心とした「森の一族」ら四大勢力を巻き込んで起きた宗教戦争がその戦争の正体だった。
戦争の概要は単純なものだ。来るべき時に向け、正教連が他宗教を一挙に取り込むべく起こした一斉弾圧を発端とした大戦争。当初の試算では二ヶ月以内に終わるとされていた戦争は、正教連内での権力闘争、宗教弾圧の名を借りた殲滅戦争をよしとしない各国家の思惑、エルフ、ドワーフらと蜜月のある国家の動向など、様々な要素を巻き込み泥沼化していった。
そもそも、人類最大の脅威たる悪魔の存在自体をごく限られた者たちしか知らなかった、というのも原因の一つだ。正教連に所属する高位の人間ですらそれを知らず、ただ自らの欲望のために宗教を利用しているような状態だ。その状態で「脅威に対する人類の団結」など求むべくもないのは当然の結果である。
そしてコルネイアの一族もまた、鋼鉄山に住まうドワーフというだけで戦争に巻き込まれた被害者であった。一族のほとんどは戦火の中で討ち死にし、コルネイア自身も重傷を負い生死の境を彷徨う羽目になった。彼女を助けたのは、一族秘伝の強化外骨格「金剛発破」。生命のほとんどを外骨格に内蔵された人工筋肉と人工臓器に頼り、彼女は生き長らえた。
そんな状態になってなお、彼女は同じ人間を憎まなかった。彼女の憎悪の対象はただ一つ、この戦争の発端となった存在。かりそめの命を手に入れたのち、悪魔達を殺すことだけが彼女の生き甲斐となったのだ。
#4 砂の城――メフィス・ネフィスカフィス
砂漠の国スジャラートで傭兵として慣らしたメフィスにとって、局地戦とは特に変わった戦場を指す言葉ではない。そこが砂塵吹き荒れる死の砂漠のど真ん中であろうと、崩れかけた前時代の遺跡であろうと、あるいは民間人が溢れ返る街中であろうと、彼女にとっては等しく戦場であった。
あるいは、自らの命を張る場所そのものを「戦場」という概念として捉えていたのかもしれない。彼女は金目当てに傭兵稼業を営んでいたのではない。彼女はただ、命の奪い合いという行為そのものに極上の興奮を覚えていたのだ。だから彼女は戦場に立った。どこが戦場になるのか、ではない。どこでなら戦えるのか、それだけが彼女の興味の対象だった。
戦うこと。それ自体が彼女の生きる糧であり、拠り所であったから。
あるいは、自らの命を張る場所そのものを「戦場」という概念として捉えていたのかもしれない。彼女は金目当てに傭兵稼業を営んでいたのではない。彼女はただ、命の奪い合いという行為そのものに極上の興奮を覚えていたのだ。だから彼女は戦場に立った。どこが戦場になるのか、ではない。どこでなら戦えるのか、それだけが彼女の興味の対象だった。
戦うこと。それ自体が彼女の生きる糧であり、拠り所であったから。
さて、「戦争」の終結とともに混乱の時代は幕を閉じたが、各宗教組織が主体となり動かされるようになった平和な時代にも争いの火種は存在した。見せ掛けの世界平和の裏で巻き起こる民族紛争、武力すら行使される政治闘争。それら全ては人間同士の内輪揉め、「戦争」のそれよりもさらに人間の醜さを象徴するような戦争と言えた。
そんな時代だからこそ、求められる人材がある。主義でも主張でもなく、ただ自らのためだけに戦うことが出来る者たち。傭兵という職業が成立した背景には、現代と言う複雑な時代背景が存在するのだ。
傭兵とは単純な力の強さだけではなく、自らを貫き通す意志が要求される。それは私利私欲のために戦うことと――金で簡単に寝返るような傭兵は裏切る前に雇い主に切り捨てられるが――イコールではない。言うなれば、信念。それがどのようなものであれ、戦うことに意味を見出せる人間は傭兵として充分な器を持っている。メフィスもその内の一人であり、そしてその信念が強いからこそ傭兵としての信頼も高い。
何者にもなびかぬ傭兵という存在は雇い主にとっては心強く、だからこそ危険な存在でもあるのだ。
そんな時代だからこそ、求められる人材がある。主義でも主張でもなく、ただ自らのためだけに戦うことが出来る者たち。傭兵という職業が成立した背景には、現代と言う複雑な時代背景が存在するのだ。
傭兵とは単純な力の強さだけではなく、自らを貫き通す意志が要求される。それは私利私欲のために戦うことと――金で簡単に寝返るような傭兵は裏切る前に雇い主に切り捨てられるが――イコールではない。言うなれば、信念。それがどのようなものであれ、戦うことに意味を見出せる人間は傭兵として充分な器を持っている。メフィスもその内の一人であり、そしてその信念が強いからこそ傭兵としての信頼も高い。
何者にもなびかぬ傭兵という存在は雇い主にとっては心強く、だからこそ危険な存在でもあるのだ。
「おい、砂喰い。次の相手ってのはテメエか?」
ヴェルローズが答えを待たず抜刀した。轟音を上げ引き抜かれる長剣は、一見竜の顎にも似た姿をしている。ドラゴンクリーバー。かつての「戦争」で多くの人命を食らった魔剣だ。
剣戟一閃。牙のように波打つ刃が決して美しいとは言えぬ荒々しい軌跡を描き、砂喰いと呼ばれた女……メフィスに襲い掛かる。
メフィスが構えるのは短剣一本。芸術的な意匠の施されたその短剣は恐らく本来儀礼剣として用いられるもので、ヴェルローズの暴力的な長剣の前ではあまりに迫力負けしていた。まるで竜に睨まれたトカゲのような迫力の差がそこにはある。
しかし、メフィスは一歩も引かない。否、むしろ前進していた。華奢な体で暴力の嵐に立ち向かう様は、さながら暴風雨に巻き込まれた航海士だ。決定的に違うのは、その目に宿った強固な意志。まるで死など恐れてはいないかのような、というより、負けることなど考えもしないようなその様子に、ヴェルローズの振るう長剣がほんの一瞬だけ速度を緩めた。
全てが一瞬の出来事。刃が振り下ろされるまでの一瞬の間、その中のさらに一瞬。常人には理解できぬ刹那、そこが分岐点だった。
メフィスが不意に動いた。ヴェルローズの目には、彼女の姿が突然揺らいだように映った。そして次の瞬間には、メフィスは全身の関節という関節をバネにして文字通り「跳ねた」。人間業とは思えぬ静から動への切り替わりが、歴戦の戦士であるヴェルローズの反応速度を僅かに上回った。竜の顎がそのまま大地を噛み砕き、抉る。
跳躍したメフィスは、流れるような動きで背後に回りこむ。腕を交差させ、右手には短剣を構え、左手でヴェルローズの背中を力強く押し付ける。すぐに反撃に移ろうとしたヴェルローズは、しかし自分が身動きが取れなくなっていることに気付いた。
「なん、だ?」
殴りつけられたわけではない。ただ手を触れただけでヴェルローズは動きを止めた。止めざるを得なかった。ただ手で触れられただけだというのに、臓器が圧迫され、手足が麻痺し、血液が逆流するような感覚が彼女の全身を襲ったのだ。
ヴェルローズはふと、スジャラートは医学が発達した国である、ということを思い出していた。人体の構造を知り尽くした人間が、医術を殺人術に転化させる。良くある話だ。
メフィスは勝利を確信し、短剣を振りかざした。さきほど押した背中の一点は、脳神経のごく一部だけを活性化させるツボだ。その脳神経が司るのは、「恐怖」という感情。今のヴェルローズはかつて修羅薔薇と呼ばれた戦士ではなく、ただ戦いの恐怖に縛られた一人の女に過ぎない。相手が相手ならばたちまち廃人にまで落とす事ができる、ネフィスカフィス家に伝わる秘術だった。
「誇り高きスジャラートの民を「砂喰い」などと蔑んだ報いを受けよ」
「そうかい。テメエ砂喰いの傭兵だろ? なってねえな。そんなに感情を剥き出しにしてよ」
「な……!?」
次に驚愕するのはメフィスの番だった。
勝負の流れが変わるのが一瞬ならば、決着が付くのも一瞬。メフィスはまじまじと見つめていた。信じられない、何故だ、何が起こった、そういった疑問を全て含んだ瞳で。
腹部を食い破り、背中へと突き抜けた牙を。殺せなかった暴竜を、ヴェルローズの魔剣を。
「恐怖、か。長いこと忘れてた感情だったぜ」
対するヴェルローズの瞳にたゆたうのは、底なしの狂気。メフィスは知った。目の前の女が既に正気を失っているという事を。恐怖も絶望も知り尽くし、彼女は既に人ではなくなっているのだという事を。
人間ならば動くことは絶対に叶わぬはず。その一点、絶対の、完全なる、曇りひとつ浮かびようのないほどに磨かれた自信を打ち砕き、ヴェルローズは剣を持つ手を動かした。……「私を殺した」!
メフィスは自分のスキルが既に人間の域を超えたものであると自負していたが、彼女のそれもまた人間業ではなかった。否、人間の域を超えた、と考えているだけで、あくまでそれは人間が行えるだけの超人間的な動作に留まっているのだ。
(100%人間としての構造を持つ生物として、人間ならば、あの衝動に逆らうことは不可能)
消え行く意識の中、冷静になった頭の一部分が思い出していた。ヴェルローズ・ロンブローゾ、その名を。そうか、奴は。スジャラートの地にもその名は伝わっていた。「戦争」の最中においては敵国を、最終的には自分の国までも滅ぼしたという伝説の悪鬼羅刹。人間には出来ぬ所行。人間業を超えた、所業。
(……そう、"人間"ならば、だ)
ヴェルローズが答えを待たず抜刀した。轟音を上げ引き抜かれる長剣は、一見竜の顎にも似た姿をしている。ドラゴンクリーバー。かつての「戦争」で多くの人命を食らった魔剣だ。
剣戟一閃。牙のように波打つ刃が決して美しいとは言えぬ荒々しい軌跡を描き、砂喰いと呼ばれた女……メフィスに襲い掛かる。
メフィスが構えるのは短剣一本。芸術的な意匠の施されたその短剣は恐らく本来儀礼剣として用いられるもので、ヴェルローズの暴力的な長剣の前ではあまりに迫力負けしていた。まるで竜に睨まれたトカゲのような迫力の差がそこにはある。
しかし、メフィスは一歩も引かない。否、むしろ前進していた。華奢な体で暴力の嵐に立ち向かう様は、さながら暴風雨に巻き込まれた航海士だ。決定的に違うのは、その目に宿った強固な意志。まるで死など恐れてはいないかのような、というより、負けることなど考えもしないようなその様子に、ヴェルローズの振るう長剣がほんの一瞬だけ速度を緩めた。
全てが一瞬の出来事。刃が振り下ろされるまでの一瞬の間、その中のさらに一瞬。常人には理解できぬ刹那、そこが分岐点だった。
メフィスが不意に動いた。ヴェルローズの目には、彼女の姿が突然揺らいだように映った。そして次の瞬間には、メフィスは全身の関節という関節をバネにして文字通り「跳ねた」。人間業とは思えぬ静から動への切り替わりが、歴戦の戦士であるヴェルローズの反応速度を僅かに上回った。竜の顎がそのまま大地を噛み砕き、抉る。
跳躍したメフィスは、流れるような動きで背後に回りこむ。腕を交差させ、右手には短剣を構え、左手でヴェルローズの背中を力強く押し付ける。すぐに反撃に移ろうとしたヴェルローズは、しかし自分が身動きが取れなくなっていることに気付いた。
「なん、だ?」
殴りつけられたわけではない。ただ手を触れただけでヴェルローズは動きを止めた。止めざるを得なかった。ただ手で触れられただけだというのに、臓器が圧迫され、手足が麻痺し、血液が逆流するような感覚が彼女の全身を襲ったのだ。
ヴェルローズはふと、スジャラートは医学が発達した国である、ということを思い出していた。人体の構造を知り尽くした人間が、医術を殺人術に転化させる。良くある話だ。
メフィスは勝利を確信し、短剣を振りかざした。さきほど押した背中の一点は、脳神経のごく一部だけを活性化させるツボだ。その脳神経が司るのは、「恐怖」という感情。今のヴェルローズはかつて修羅薔薇と呼ばれた戦士ではなく、ただ戦いの恐怖に縛られた一人の女に過ぎない。相手が相手ならばたちまち廃人にまで落とす事ができる、ネフィスカフィス家に伝わる秘術だった。
「誇り高きスジャラートの民を「砂喰い」などと蔑んだ報いを受けよ」
「そうかい。テメエ砂喰いの傭兵だろ? なってねえな。そんなに感情を剥き出しにしてよ」
「な……!?」
次に驚愕するのはメフィスの番だった。
勝負の流れが変わるのが一瞬ならば、決着が付くのも一瞬。メフィスはまじまじと見つめていた。信じられない、何故だ、何が起こった、そういった疑問を全て含んだ瞳で。
腹部を食い破り、背中へと突き抜けた牙を。殺せなかった暴竜を、ヴェルローズの魔剣を。
「恐怖、か。長いこと忘れてた感情だったぜ」
対するヴェルローズの瞳にたゆたうのは、底なしの狂気。メフィスは知った。目の前の女が既に正気を失っているという事を。恐怖も絶望も知り尽くし、彼女は既に人ではなくなっているのだという事を。
人間ならば動くことは絶対に叶わぬはず。その一点、絶対の、完全なる、曇りひとつ浮かびようのないほどに磨かれた自信を打ち砕き、ヴェルローズは剣を持つ手を動かした。……「私を殺した」!
メフィスは自分のスキルが既に人間の域を超えたものであると自負していたが、彼女のそれもまた人間業ではなかった。否、人間の域を超えた、と考えているだけで、あくまでそれは人間が行えるだけの超人間的な動作に留まっているのだ。
(100%人間としての構造を持つ生物として、人間ならば、あの衝動に逆らうことは不可能)
消え行く意識の中、冷静になった頭の一部分が思い出していた。ヴェルローズ・ロンブローゾ、その名を。そうか、奴は。スジャラートの地にもその名は伝わっていた。「戦争」の最中においては敵国を、最終的には自分の国までも滅ぼしたという伝説の悪鬼羅刹。人間には出来ぬ所行。人間業を超えた、所業。
(……そう、"人間"ならば、だ)
「"悪魔"……」
充分だ、とばかりにヴェルローズが剣を横薙ぎに払うと、メフィスの最期の言葉は意味を成す前に宙に消えた。
#5 穿つ豪腕――バロル・シェンディニット
「ちょっと、ねえ。まだ始まったばかりじゃあないか。何へばってんの……」艶かしさすら感じる、挑発的な視線。それはサディスティックな彼女の性格をそのまま現した、性的興奮を内包した表情だ。「……さッ!!」
裂帛の気合と共に打ち出された左腕が、文字通り"伸びた"。豪快な金属音を響かせながら刺突に最適な形状に変形したのは左腕、という名の武装。「豪腕グラヴバロール」。錬金術と機械工学の粋を集めて作られた機械化義手であるそれは、彼女を象徴する盾であり矛でもある。
神速で伸びた腕が、カリカシュネと名乗った悪魔の身体を容易く打ち貫く。ぐらり、と揺らいだ悪魔は儚い程にあっけなく、先ほどまでの威勢が嘘のように顔面を蒼白に染めていた。
バロルは拍子抜けし、罠かも知れぬと考え直し、しかしそれはないとすぐに否定。直撃の感触は間違いなくあった。そして、目の前の悪魔は本気で愕然としている。悪魔とはこの程度のものだったのか? 正直なところ、悪魔を過大評価しすぎていたのかもしれないと思う。人類共通の敵、最大の脅威。そんな噂を耳にしたのはまだ五体満足に「戦争」に参加していた時だから、もう五年も前のことになる。
裂帛の気合と共に打ち出された左腕が、文字通り"伸びた"。豪快な金属音を響かせながら刺突に最適な形状に変形したのは左腕、という名の武装。「豪腕グラヴバロール」。錬金術と機械工学の粋を集めて作られた機械化義手であるそれは、彼女を象徴する盾であり矛でもある。
神速で伸びた腕が、カリカシュネと名乗った悪魔の身体を容易く打ち貫く。ぐらり、と揺らいだ悪魔は儚い程にあっけなく、先ほどまでの威勢が嘘のように顔面を蒼白に染めていた。
バロルは拍子抜けし、罠かも知れぬと考え直し、しかしそれはないとすぐに否定。直撃の感触は間違いなくあった。そして、目の前の悪魔は本気で愕然としている。悪魔とはこの程度のものだったのか? 正直なところ、悪魔を過大評価しすぎていたのかもしれないと思う。人類共通の敵、最大の脅威。そんな噂を耳にしたのはまだ五体満足に「戦争」に参加していた時だから、もう五年も前のことになる。
「戦争」は便宜上戦争と呼ばれてはいたが、バロルの所属する部隊が行う戦闘行為はそのほとんどが無力な人間相手の掃討戦で占められていた。そんなつまらない戦いではなく、本物の「敵」との闘争に心躍らせていたあの頃。最早掴むことの出来ぬ過去ではあるが、その頃の少女のような純粋な憧れは今なお胸の奥で燻っていたのだ。
その結果がこれだ。思いは報われぬことなく、憧れは灰燼に帰し、同時に自分を否定されるような感覚。左腕を失い、「戦争」の終結と共に敵までも失い、それでもなお闘うことを諦めきれず、「敵」への募る憧れは徐々に膨れ上がり、そうしてようやく巡り合えたこの相手が、こんなにも脆弱な……そう、殺し尽くした無力な人間達と変わらない貧弱さだった。
クイーンズブレイドなどという見世物では味わえない、本物の興奮。それがただの幻想に過ぎなかったことを知り、バロルは一人絶望した。
その結果がこれだ。思いは報われぬことなく、憧れは灰燼に帰し、同時に自分を否定されるような感覚。左腕を失い、「戦争」の終結と共に敵までも失い、それでもなお闘うことを諦めきれず、「敵」への募る憧れは徐々に膨れ上がり、そうしてようやく巡り合えたこの相手が、こんなにも脆弱な……そう、殺し尽くした無力な人間達と変わらない貧弱さだった。
クイーンズブレイドなどという見世物では味わえない、本物の興奮。それがただの幻想に過ぎなかったことを知り、バロルは一人絶望した。
その時。バロルは自分が今いる大部屋に繋がる通路の一つ、丁度自分が入ってきた方角からは反対の方角から、ひとつの人影が近付いてきていることに気付いた。
そういえば、と考える。そもそも、今打ち倒した悪魔は正規の対戦相手ではなかったのだ。ウォームアップにもならなかったが、あの悪魔はただの可哀想な闖入者だったのだ。
クイーンズブレイド運営委員会により人払いがされているはずのこの場所に、試合参加者以外――さすがの彼らも悪魔の顕現を阻止することは叶わなかったようだが――の人間が紛れ込むことはない。ならば、今歩いてくる人物の正体はただひとつだろう。
だが、バロルにとってはその正体などどうでもいいことだった。それが自分を楽しませることの出来る相手かどうか。それが彼女の興味の全てだった。
「そこの。あたしは今不機嫌なの。やり合うなら命の保証は出来ないよ。……元々生きて帰すつもりは無いけどね」
轟、と豪腕が鳴いた。排熱効率の悪さはグラヴバロール唯一にして最大の欠陥であったが、当のバロルにそれを改善する気はなかった。この豪腕はただの兵器ではなく、あくまで自分の足りない部分を補う体のパーツのひとつだから、というのが彼女の弁。医学や錬金術の発展と共に徐々に解明されてきたことだが、人体は決して構造上完全なつくりとはなっていない。この義手にもあえてそんな不完全な部分を残すことで、自分が欠片も残さず戦闘機械と化したわけではないということを主張しようとしていたのだ。その点について、彼女は必要以上に頑なになる。
「おーおー、そいつぁ怖いねぇ。生きて帰さない、か……こりゃ傑作。久々に聞いたぜ、そんな陳腐な台詞」
「……あァ?」
故郷の漁村では海神にも喩えられたことのあるバロルの美しい横顔が、見る間に憎憎しげに歪んでいく。基本的に堪え性のない彼女は、「戦争」時代に戦闘機械と呼ばれるだけの事件を度々起こしていた。
「上等じゃないさ、名乗りな。墓には刻んでやるよ。「大馬鹿」ってね」
グラヴバロールを構えると、ドスの利いた問う。臨戦体勢。常人ならばその迫力に圧倒され声も出せぬほどの、濃縮な殺意の気配が溢れ出した。
対する人影は、その殺意を意にも介さず答える。
「元シュッツヴェルグ王国神衡騎士団長、ヴェルローズ・ロンブローゾ。修羅薔薇って名乗った方が聞こえがいいか? なぁ……“豪腕”バロル?」
「――――!!」
その言葉を聞き、バロルが弾かれたように駆け出した。軋むように歯車が噛み合う音が響き、豪腕が機械音を立てて変形する。先程よりも巨大で、無骨で、何より攻撃的なフォルムへと。科学という人外の力が顕現したのだ。
しかし振り上げられた豪腕は、ヴェルローズの神速の抜刀により食い止められた。それぞれの得物が火花を散らすと、ヴェルローズは楽しそうに、バロルはさらに怒気を強めた表情で相手を睨み付ける。互いが後ろへ飛びのき、間髪入れず一合。そのまま二度、三度と鉄塊がぶつかり合う。頭、首、心臓。クイーンズブレイドにおいては相手の戦意がなくなることが即ち勝利を意味し、必ずしも命を奪う必要はない。しかし、そんなルールなどこの場には存在しない。全てが急所を狙う必殺の一撃だった。
「ヴェルローズ……生きてたなんてね……。雰囲気が変わりすぎてて気付かなかったよ。アンタをずっと探してたんだ。今のあたしにとって、アンタだけが命を賭けるに相応しい相手なんだ。アンタを殺せば、ようやく証明されるんだ……こんなできそこないの姿に身をやつしてまで生きていたことの意味が……」
「くだらねぇな。結局はテメエ、自分に都合のいい言い訳が欲しかっただけなんだよ。昔からそうだった。神衡騎士団の一団員だった頃から、テメエはさ」
「黙れ!! アンタがあたしをそう作り変えたんだ。今のあたしには戦うことしか出来ない。戦うことにしか生きる意味を見出せない。命を賭ける戦いの中、その時だけは全てを忘れられる……」
そう言うと、バロルは一瞬だけ目を細めて哀しげな表情を浮かべた……もしかすれば錯覚だったかもしれない、それぐらいの刹那だけ。次の瞬間には獣にも似た暴力的な表情を取り戻したバロルは豪腕で眼前を大きく薙ぐと、間隙を縫って背後へと大きく跳躍した。
豪腕が変形する。より攻撃的に。より荒々しく。もはやそれは腕としての原型を留めていない。義手でもなく、兵器でもない形への変形。それを何かに喩えるならば、まるで狼の頭部のような形状に"変質"していた。まるで生命の進化を見るようなその変化に、さしものヴェルローズも言葉を失う。勿論それは恐怖のためではなく、戦いの予感への愉悦ゆえであったが――。
「あたしには戦うこと以外、何もない。空っぽだ。あの時、あの「戦争」で……」
豪腕が咆哮する。爆発的なエネルギーの奔流。「義手」であることを捨てた豪腕は「武器」でしかないものになる。それはバロルにとって、自分と日常を唯一繋ぎとめていた接点を失うことを意味していた。
「……アンタはあたしの心を壊したんだ!」
「“目を背けるな”……。覚えてるか? それがテメエの出した答えだとしたら、そうかい。残念だな」
何が。バロルがそう尋ねる暇もなく、ヴェルローズは剣を構え、轟然と突進を開始していた。
そういえば、と考える。そもそも、今打ち倒した悪魔は正規の対戦相手ではなかったのだ。ウォームアップにもならなかったが、あの悪魔はただの可哀想な闖入者だったのだ。
クイーンズブレイド運営委員会により人払いがされているはずのこの場所に、試合参加者以外――さすがの彼らも悪魔の顕現を阻止することは叶わなかったようだが――の人間が紛れ込むことはない。ならば、今歩いてくる人物の正体はただひとつだろう。
だが、バロルにとってはその正体などどうでもいいことだった。それが自分を楽しませることの出来る相手かどうか。それが彼女の興味の全てだった。
「そこの。あたしは今不機嫌なの。やり合うなら命の保証は出来ないよ。……元々生きて帰すつもりは無いけどね」
轟、と豪腕が鳴いた。排熱効率の悪さはグラヴバロール唯一にして最大の欠陥であったが、当のバロルにそれを改善する気はなかった。この豪腕はただの兵器ではなく、あくまで自分の足りない部分を補う体のパーツのひとつだから、というのが彼女の弁。医学や錬金術の発展と共に徐々に解明されてきたことだが、人体は決して構造上完全なつくりとはなっていない。この義手にもあえてそんな不完全な部分を残すことで、自分が欠片も残さず戦闘機械と化したわけではないということを主張しようとしていたのだ。その点について、彼女は必要以上に頑なになる。
「おーおー、そいつぁ怖いねぇ。生きて帰さない、か……こりゃ傑作。久々に聞いたぜ、そんな陳腐な台詞」
「……あァ?」
故郷の漁村では海神にも喩えられたことのあるバロルの美しい横顔が、見る間に憎憎しげに歪んでいく。基本的に堪え性のない彼女は、「戦争」時代に戦闘機械と呼ばれるだけの事件を度々起こしていた。
「上等じゃないさ、名乗りな。墓には刻んでやるよ。「大馬鹿」ってね」
グラヴバロールを構えると、ドスの利いた問う。臨戦体勢。常人ならばその迫力に圧倒され声も出せぬほどの、濃縮な殺意の気配が溢れ出した。
対する人影は、その殺意を意にも介さず答える。
「元シュッツヴェルグ王国神衡騎士団長、ヴェルローズ・ロンブローゾ。修羅薔薇って名乗った方が聞こえがいいか? なぁ……“豪腕”バロル?」
「――――!!」
その言葉を聞き、バロルが弾かれたように駆け出した。軋むように歯車が噛み合う音が響き、豪腕が機械音を立てて変形する。先程よりも巨大で、無骨で、何より攻撃的なフォルムへと。科学という人外の力が顕現したのだ。
しかし振り上げられた豪腕は、ヴェルローズの神速の抜刀により食い止められた。それぞれの得物が火花を散らすと、ヴェルローズは楽しそうに、バロルはさらに怒気を強めた表情で相手を睨み付ける。互いが後ろへ飛びのき、間髪入れず一合。そのまま二度、三度と鉄塊がぶつかり合う。頭、首、心臓。クイーンズブレイドにおいては相手の戦意がなくなることが即ち勝利を意味し、必ずしも命を奪う必要はない。しかし、そんなルールなどこの場には存在しない。全てが急所を狙う必殺の一撃だった。
「ヴェルローズ……生きてたなんてね……。雰囲気が変わりすぎてて気付かなかったよ。アンタをずっと探してたんだ。今のあたしにとって、アンタだけが命を賭けるに相応しい相手なんだ。アンタを殺せば、ようやく証明されるんだ……こんなできそこないの姿に身をやつしてまで生きていたことの意味が……」
「くだらねぇな。結局はテメエ、自分に都合のいい言い訳が欲しかっただけなんだよ。昔からそうだった。神衡騎士団の一団員だった頃から、テメエはさ」
「黙れ!! アンタがあたしをそう作り変えたんだ。今のあたしには戦うことしか出来ない。戦うことにしか生きる意味を見出せない。命を賭ける戦いの中、その時だけは全てを忘れられる……」
そう言うと、バロルは一瞬だけ目を細めて哀しげな表情を浮かべた……もしかすれば錯覚だったかもしれない、それぐらいの刹那だけ。次の瞬間には獣にも似た暴力的な表情を取り戻したバロルは豪腕で眼前を大きく薙ぐと、間隙を縫って背後へと大きく跳躍した。
豪腕が変形する。より攻撃的に。より荒々しく。もはやそれは腕としての原型を留めていない。義手でもなく、兵器でもない形への変形。それを何かに喩えるならば、まるで狼の頭部のような形状に"変質"していた。まるで生命の進化を見るようなその変化に、さしものヴェルローズも言葉を失う。勿論それは恐怖のためではなく、戦いの予感への愉悦ゆえであったが――。
「あたしには戦うこと以外、何もない。空っぽだ。あの時、あの「戦争」で……」
豪腕が咆哮する。爆発的なエネルギーの奔流。「義手」であることを捨てた豪腕は「武器」でしかないものになる。それはバロルにとって、自分と日常を唯一繋ぎとめていた接点を失うことを意味していた。
「……アンタはあたしの心を壊したんだ!」
「“目を背けるな”……。覚えてるか? それがテメエの出した答えだとしたら、そうかい。残念だな」
何が。バロルがそう尋ねる暇もなく、ヴェルローズは剣を構え、轟然と突進を開始していた。
本編#6-10(別ページへ)
.