結合術、または低い錬金術。
ある観念(性質)が、またある語(溶液)がどういったものであるかを知るためには、むしろ逆に、一般には明らかに不釣合いな、不慣れな語と掛け合わせて見るのがよいだろう。しかしその際、掛け合わせる語がよくわからないものであってはならない。それは明晰でなければならない。なぜならそれは試薬にならねばならず、従って性質も効果もよくわからない語では、いつまでたっても進むことがないからである。むろんそういう場合にも、ごくごく稀ではあるが、非常に美しい結晶化を始めたり、黄金や生命が生まれたりすることもあろう。そうすれば、これは永遠のものであるから、これを起点にして、事物の本質から語りだすことも出来ようが、そもそもそのようなものが出来かかったときに、私がそれを見極められるかどうかは疑問である。
例えば――生とは何か。それは除光液である。
この第一段階では、まだ混乱があまりに複雑すぎる。それゆえ人は、何度もこの試みを繰り返してみるべきである。しかし元に戻ること(生とは何かと問い始めた段階、いわば、無限の可能性を内に秘めた段階)はできない。今ではこの生は、緊密とも完全ともいえないが、除光液と混ざり合っている。生のまったき意味が分からねば、両者の結合も完全に分離されることはない。
さて、この、生と除光液の混合物に対し、更に離れた語を使用してみる。
除光液とは何か。きめ細かい泡の謂である。――つまり、生とは、きめ細かい泡であろうか。
第二段階では、ある程度純粋な作用を得られたようにも思えるが、しかしまだ多くのことが不明瞭であり、同じことだが、美しくはない。それゆえ、最後の結論を得られるまで何度も繰り返さねばならないが、または、この結論を今度は厳密な思考によって分析し、命題の不合理を証明する(逆のことは全くする必要がない)ことでもなされる。
以上までの試みは、微分と積分、振り子運動、などの変形であった。
おいおい
最終更新:2008年11月13日 21:47