幸福の既視感

既視感は普通には、記憶の混乱――変奏――であると考えられている。だが、退屈や日常性と結びついたものではない。思うに、既視感はもっと評価されてよい。それによって、相対的な幸福を得ることが出来るからである。……認識者に対して、ある評価を与え続けると、その評価に値した能力が次第に見出されるようになり、ついには全く意識的に、手段として使うことが出来るようになる。これが教育であり、魔法である。悪用すると、洗脳になる。
既視感のような形式における幸福は、人と共有することは出来ない。すなわち全く個人的なものである(決定的に精神がひとつであるという点では、夢もその傾向を持っており――植物の芽、あるいは神殿や回廊に感じられる、ある種の静けさに近い)。それゆえ絶対的なものではない。
既視感においては、幸福の最上の部分が現前するだけである。別の言い方をすれば、脱我の変形した、ないしは最後の和音である。それに対して何かを与えたり、受け取ったりすることは、間接的にのみ可能となる。したがって詩的な精神も、既視感の能力の育成――期待から実験し、発見し、発見から批判を経て、意識へ――と同時になされるかもしれない。どんな人も既視感を持つことが出来る(最初はあまりに微かな、この種の能力は、気づかれないせいで簡単に否定されてしまう。そうなると、その能力が次に姿を現すときには、全然別の見知らぬものとして現われるかもしれないし、幸運や努力を傾けるしか方法は無いだろう)。

既視感を持った時、人は、予感の能力――予言の能力――そしてまた信仰へと高められうる、帰依の感情を持っている。既視感は、いわば、既視感の既視感でもあり、可能性の現実化の可能性の現実化なのだ。天国――地上的な――天国。

もちろん、既視感が幸福なものであるためには、日常的に、幸福を理解する努力をすべきである。(現世での)幸福は、不幸を考えればよりわかりやすいが、享受ではなく、理解を求めている(この理解を自然な欲求にしてしまうと、そのほうがより幸福であることが明らかになる)。そのように注意力を自分と外界の接点に置き続けると、幸福そのものが、今まで考えられたものよりも幸福なものとして、しかも同時により親しみやすく、それゆえに気高く、現実的なものとなってくる。そこまでくると、幸福は、現在するだけでなく、永遠に存在するものとして感じられる。いや、永遠と幸福とが永遠に幸福のまま、ひとつのものであることが、あるいは近似的にそうであるということまでが、理解できる。幸福を感じないときに不幸を感じたり、その心配をし始めるならば、既にその人は幸福から身を離し始めている。





























おいおい
最終更新:2008年11月14日 16:35