宗教

愛は応用された宗教である。宗教は応用された愛である。哲学が愛知であるのは、まさにこのためである。人間は愛によって外界に働きかける――理念を応用する――間接的なものを作り出す。
現代の人はとかく忘れがちだが、宗教の儀礼は、古代から分析され吟味されつくした、何者かの、あるいは何かの現象の比喩であり――しかし愛にも哲学にも儀式がある。愛の儀式はあまり言葉で説明するには及ばない。とにかく実践――だが、哲学の例を良く思い起こすべきだ。
確かに、眼に見える壁や障害物に向って突進したり、すり抜け(非常に稀だが不可能ではない)ようとする者は愚かである。しかし哲学においてもその様な壁や障害物、更に標識や奇妙な看板、昼と夜、海と霧(観念論)、様々に比喩化した――つまり儀式化された、あるいは虚構の――実在がある。
自分の思考力を鍛錬するには、この迷路、あるいは哲学のバラ園において、完全に現実的な規則に則って行動しなければならない。そもそも、哲学の開始は、その時点である儀式ないし秘儀への参入が許されているのであって、その時渡された鍵は、ペテロの天国を開ける鍵――鍵の王もしくは王の鍵――と較べるとかけ離れた、小さなものかもしれないが、最初の門と、ある程度の謎をすり抜けることが出来る。
そして、きみがすり抜けることの可能な壁がそのようであるのは、そしてそのようにすり抜けられるのは、きみが唯一人であり、宇宙の完全な価値にきみの価値が不可欠だからだ。……鍵よりは星を見ているほうが間違いは少ないだろうが。
事物の本質を深く洞察したり、永遠なものに憧れる――それは愛が作る。だから愛はもしかすると、嫉妬や独善に陥ることなくいわゆる隣人愛に高められうる、最も自然な――本来的自由であるところの――自らの守護霊の、独特な霊的運動なのではないだろうか。





























おいおい
最終更新:2008年11月16日 13:06