ユダヤ人たちは昔日の栄光を取り戻しつつあるのに、あの神殿を建て直そうとは考えていないようだ――このことは何かを暗示しているように思われる。
あの神殿が経っていた頃は、今よりもずっと事物と人間の精神が協働していた。それゆえ感覚は外界と内界を隔てるものではなかったはずだ。それゆえ神殿の材料は、今で言うところの観念そのものであったかもしれない。
しかしそれ以降は、そのような建築術は――眼に見えぬものを作るものとして知られるようになった。それはある意味では私たちの深化かもしれない。人間の進歩とは、絶えざる後退、反省、客観化のことである。
あの神殿が目指していたもの、象徴していたもの、礼拝していたものは、今では非常に捕捉が困難で――神殿の発見こそが人間に許された最大の栄誉であると考えられるようにさえなった。この探索は――すなわち巡礼は――キリスト教においては、中世までは徒歩でなされていたが、巡礼の意味は次第に、歩くことよりも、人間が歩くことに重きを置くようになっていったようだ。つまり内面の道が、求められるようになっていった。
そういう中で、一人の哲学者が、自分を哲学者であると信じることから始めた哲学によって、ひとつの発明を提出した。これはあの隠された建築術を、もう一度復活させることが出来るかもしれないという素晴らしい思い付きだった。人間は自我の巡礼ではなく、自我の大工になるべきであるというこの教えは、逆説的だが、巡礼の意義を更に高めた。すなわち、巡礼者が見聞きしたものは、すべて大工の材料になる。しかしそれはそのままそうなるのではなく、ある呪文――これこそかの人の業績だが――というのも彼以降の真の人類の指導者は皆それを知っているし活用している――によって、というよりもむしろ彼の言葉が呪文になった段階で――自然は一挙にその隠された設計図――秘密文字――地下と天上の門――それから黄金と亜鉛と骨の鍵――などなどが完全に明らかになり――それを使って彼は、知識と自然と記号とを、知識学、自然学、及び数学に高める――彼は永遠の王宮、久遠の神殿を、再び見出し、全宇宙はこれに完璧に照合する――自我=非我。
おいおい
最終更新:2008年11月18日 17:31