観念は、語ではない。人は語によって、観念を示すことは出来るが、語が直接に観念に至るのではない。例:りんごの観念を説明するために、その観念の関係、秩序、形式をあげつらってみる。たとえば、それは果物である。また、一般的に赤く、丸く、甘すっぱく、青森県で美味しいものが取れる。などなど。こういったものを延々と繰り返してみたところで、それは絶対に林檎に行き着くことは無い。要するに、以上の事柄は、観念そのものというよりは、私の経験に属しているのだ。私の経験を、人にどう説明してみたところで、経験したということを理解させることはできないだろう。言語における理解とは、語を通して、理解者自身が観念に気づくことにかかっているのである。
経験は、それ自体独立したものであるのではなく、超経験的なもの、すなわち観念に結びついている。結びついているから、正当な伝達が可能になるのである。それゆえ経験も、普遍的なものである。経験した、ということは、その経験を観念世界に取り入れたということなのである。このことは、最も低次の認識から、より高次の認識に至るまでそうであって、経験の結晶、「これ」が、林檎という語によって示されるのだ。つまり、我々は自分自身の認識を、一人だけのものとして持つことは無いのである。林檎がいかに赤いかということは、一人だけが得られた事実なのではない。その赤さが観念として、常に、誰にでも、通用する、すなわち事実となる、ということが、そもそも全ての認識の根底にあるべき、重要なことである。
我々は基本的に、事実を、外面的なもの、自分と関係のないもの、認識における純粋に受動的、客観的な対象として考える。しかしその様な外面はもはや外面ではない。外面はむしろ内面と外面の境界線であり、端的に内面でないものであって、事実化されていない、生の観念世界そのものである。それゆえ外界は全て真理である。それが真理であるということは、内面世界から結論されるであろう。
……この混じりけのない観念は、私がそれを経験することによって、不純になったり、美しくなったり、神秘的、更には詩的になるかもしれない。……宇宙の諸事実を経験するには、諸事実と連動した感覚や思考のあり方が欠かせない。秩序や法則が、内的にも外的にも協働しているのならば、経験以前にも以後にも、ゆがみや混じりけがない。
おいおい
最終更新:2008年11月13日 22:51