be動詞の否定においては、肯定の否定が行われているわけではない。
例:I am not free.
この語は通常、私は自由ではないとか、暇ではないなどと訳される。このようなbe動詞と形容詞との結びつきは、本来的な存在レベルにおいてなされる。ということは、(私は自由そのものでもなく、また)私は自由な存在ではないというのが正しい意味であろうか。
果たしてそうではない。なぜなら、そこで言われている現象を否定することは、独断なのであって、肯定においては何事も肯定されるが、否定においては、否定の可能性が否定されることは無いからである。
つまり、本来上の否定文は、このようになるはずだ。
Not I is free.
私でない者が自由である。この言い方は、ややもすれば卑下に見える。しかし自分自身の自分自身における肯定可能性を考えるならば(否定可能性を考える意味はあるだろうか?あるとすれば、否定可能性を否定することに全てを傾けるべきではないだろうか)、運動は相対的なものであって、卑下といっても何者かを高めていることは間違いない。それゆえ気高い卑下、というよりも天上的なつつしみにおいては、自信、自我の確信が見られるのである。つつしみと確信が協働し、同じものに向っていることが必要である。
だとすると、語はこうなるかもしれない。このように高められるかもしれない。
I am nothing but free.
私は自由以外の何者でもない。ここで、以前、私でない者であった彼は、いまや、何者でもない者になった。何者でもないということは、自分自身でもないということになるが、形容詞だけが浮遊するということにはならない。これは円ではなく、回転なのであり、その力動的な部分を意図的に省くことは悪意であろう。とすると、ある段階で自分自身から抜け出た彼は、しかしそれでも自由という形容を失わない。なぜなら、それこそが彼の自己であり、自分自身が完全に外的な姿で現われるようになったからである。
結論。
I am not free.
とは、I am nothing but free. の略である。thingbuとは、thing be you 「物事よ、汝になりなさい」または、「汝は石化する」の略である。この核に当たる部分が、I am nothing but free. に至って開花するのだ。
おいおい
最終更新:2008年11月14日 08:21