世界1

世界はひとつである――少なくとも、ひとつであると確信し、考える人たちの思考は結局このひとつの世界から出来ている。この考え方は一見不条理である。まず、考える人たちの思考をいわば全部見通す人はいないであろう。普遍的な全体を特殊的なものと同じように見られる人は――全体から離れているか、さもなければ神的な仕方でそうであるしかないであろう。しかし前者は矛盾しており――後者は立場が明確ではない。
次に、この世界から出来た思考は、始点がひとつであるにもかかわらず、何故かくも多様になるのか。最後に、この思考が有効性を持つ世界は、この思考が定立した世界だけであるのに、何故それが広がり、殆ど客観的世界まで進めることが出来るのか。

第一の点に対して。確かにこの限りではその通りかもしれない。しかしこの人は思考を何か蒼ざめた塊として考えているに違いない。それも、所属がこの人にあるような塊である。このように考えた時、人のもの――何か物体的な――思考とは、時間や空間などの制限をもち、更には脳や神経細胞などの直接的原因を持ち、ついで周囲の環境、社会、外界としての諸々の事物と、人間としての種類が規定した精神構造を間接的原因としたものである――あるいはこのような説明の節々に魔術的な推論が混じっているとしてもである。おそらく神経のような、頭と物をつなげるひものようなもの――。
しかし、思考はそのような性格を持たない。それは純粋な作用である――その働きについてどのような結論が下されるとしても、作用の始点が直接的に思考に含まれるのだから、制限、原因は――面白いことに――思考の後にある。後にというのは、時間的な意味というよりもむしろ構造的な意味。とすると、思考はいかにして自己自身を規定するのかということになる。しかしその場面で例えばそれは道徳法則に従うとすれば、思考の規定としての道徳法則は、思考自身が見出す全ての事物、観念と同じようなものではない。観念としてはそれは信念、理念となりうる――がしかし、思考と共に現に働いているこのような法則は、絶対に制限にはならない。なぜなら、幼児だったときはこの法則を知らなかったであろうが、そのときにもこの法則が働いていたということは確実であるからである。それゆえ思考の法則は――思考を豊かにしたり、止めたり、無意味にしたり、などはしない。それをするのは思考自身である――思考自身がそうであると確信を込めて自己を限定するとすれば――その立法者、裁定者、施行者、あるいは廃棄者はこの思考だけであるから――実際にその限定が有効であるということになる。ただし基体は、思考が何かを植えつける材料のことだが、それは彼自身に留まらない。この限定付与、基本的な判断というか基調は、いまや思考自身がそれに従うところのものである。上述したように、このような信念(の対象)は基本的に超越的なものである。この信念を意識しない状態での思考――その方が普通だが、それが思考たりうるのは、信念の対象が彼自身に留まらないゆえである。この信念の超越的性格から、この思考は、確信を込めて、自らが見出した法則を他者にも付与するのである。

さて、その場合――奇妙なことだが、見出しうる世界観とは、いかなるものでもよいということになろう。思考がそもそも法則を付与するものであり、付与されるものが(まずは――第一には、あるいは最初は)人間であるということについては、誰もがこれを認め、更に実際には前者のような主体的な人間しかいないのだということもまた確かである。付与される人間は消えてしまったのではなく、国民や国家やその他社会的な総体的なものになり――思考は一種の貨幣として流通するものになる。

思考の中に思考を個人的なものにする要素があるにしても、それは普遍から派生している。特殊は全体の中においてのみ特殊と呼ばれるのである。とすると、このような普遍は、端的には思考において目的的な部分、あるいは結果的な部分を作っているというよりも、原因的なものを構成していると考えられる。無論時間的に考えれば、逆ではある。しかしながら、思考が形而下にはないもしくはなかったということから、後者は前者の後にあることになるだろう。

この前者の立場からのみものを思考する人は、既にこの普遍的なるものの上に立っていることになる。それゆえここから哲学が始まる。しかし厳密に哲学といえるかどうかは、この人の思考にかかっている。この人に確実なことがひとつある――この人は、普遍的なもの全てを普遍者から譲渡されている。つまり観念は――観念自体として見ると、普遍的なものである。だからこれを如何様に扱おうとも自由である――全てはここから、道徳的なものを要請することになる。また、誠実な反省によって見出されるような、自己自身に適用される観念については、それは同時に適用されるべきでもある。すなわちこの点において、個人は――個人とは普遍的な実存である――すなわち「ある」ということが「あった」と同義的であり、かつ「見出された」ことを強調するためにそれを「あった」――この場合これこれの観念が自己を指し示していた――と表現するならば、「べきであった」ものを実際に「ある」に変換する主体が「あった」ということになろう。ここに確信の原型が見られる。
















































おいおい
最終更新:2008年11月24日 09:44