すべてを無くしたと思っても意外と人は平気で生きていけるものなのだと幸村はこの二年で知った。
あれほど己が人生のすべてと慕った信玄の死は確かに幸村を打ちのめしたし、常に傍らに在った忍びの『死』は幸村に耐え難い孤独を刻んだ。
けれど幸村は父から受け継いだこの上田でごく普通に生きて、暮らしていた。
どんな顔をして会えばよいのかとあれほど悩んでいた『ゆき』の元にも頻繁に通い、当たり前のようにその身体を開いた。
あまりにも通いつめたもので噂になり、『真田殿が愛でる花はいかなるものか』とからかわれる羽目になったのは記憶に新しい。
『触れなば落ちん可憐な花だが毒がある』
日陰に咲く花のようにひっそりと控え目な女の顔は以前とあまりにも違いすぎた。
『佐助は忍びの名だから、もう名乗れないんだ』
俺はもう忍びじゃないから、恥ずかしいのだと佐助は笑っていた。
名も命も持てない忍びに残されたものはいったい何なのだろうか。
随分と久しぶりに槍を握った気がした。
あの手痛い敗戦からこっち荒れる領内を静めるのに手一杯で戦もなかった。
いよいよ徳川が武田を滅ぼさんと攻めてくると言う。
あの頃より徳川は威勢を増し、逆に武田は信玄を失い弱くなった。
徳川に寝返った者も多い。
幸村の元にも寝返り、もしくは静観を求める使者が来た。
提示された条件は破格だったが幸村は静かに断った。
戦の気配に気が高ぶるのは幸村の業だ。
部下たちには勝ち目がない戦ゆえに好きにしろと告げている。
『ゆき』には会いに行かなかった。
己の勝手で死なせなかった癖に、己の勝手で置いて死のうとしているのだ。一体どの面下げて会いに行けるというのか。
「準備は整ったか」
すっと背後の襖が開いた気配に幸村は口を開いた。
「うん、後は旦那だけだよ」
柔らかく、戦の緊張など微塵も感じさせぬ声が答えた。
信じられぬ声に幸村は弾かれたように振り返った。
確かにそこに立っているというのに、まるで影のように気配は薄く、体重を感じさせぬ所作をしている。
朽ち葉色の忍び装束に、橙の髪がうつくしく映えた。
「さ、佐助…?」
「うん?」
「お主、なにを…」
にんまりと笑い、肩を竦めるその姿は、確かにあの日失われたはずの真田忍び隊の長、猿飛佐助だった。
「なにって、旦那ぁ、ひどいじゃないのさ。俺を置いて戦に行くなんてさ」
後ろから刺されて死んじゃうよ?と佐助はおどけてみせた。
あれほど己が人生のすべてと慕った信玄の死は確かに幸村を打ちのめしたし、常に傍らに在った忍びの『死』は幸村に耐え難い孤独を刻んだ。
けれど幸村は父から受け継いだこの上田でごく普通に生きて、暮らしていた。
どんな顔をして会えばよいのかとあれほど悩んでいた『ゆき』の元にも頻繁に通い、当たり前のようにその身体を開いた。
あまりにも通いつめたもので噂になり、『真田殿が愛でる花はいかなるものか』とからかわれる羽目になったのは記憶に新しい。
『触れなば落ちん可憐な花だが毒がある』
日陰に咲く花のようにひっそりと控え目な女の顔は以前とあまりにも違いすぎた。
『佐助は忍びの名だから、もう名乗れないんだ』
俺はもう忍びじゃないから、恥ずかしいのだと佐助は笑っていた。
名も命も持てない忍びに残されたものはいったい何なのだろうか。
随分と久しぶりに槍を握った気がした。
あの手痛い敗戦からこっち荒れる領内を静めるのに手一杯で戦もなかった。
いよいよ徳川が武田を滅ぼさんと攻めてくると言う。
あの頃より徳川は威勢を増し、逆に武田は信玄を失い弱くなった。
徳川に寝返った者も多い。
幸村の元にも寝返り、もしくは静観を求める使者が来た。
提示された条件は破格だったが幸村は静かに断った。
戦の気配に気が高ぶるのは幸村の業だ。
部下たちには勝ち目がない戦ゆえに好きにしろと告げている。
『ゆき』には会いに行かなかった。
己の勝手で死なせなかった癖に、己の勝手で置いて死のうとしているのだ。一体どの面下げて会いに行けるというのか。
「準備は整ったか」
すっと背後の襖が開いた気配に幸村は口を開いた。
「うん、後は旦那だけだよ」
柔らかく、戦の緊張など微塵も感じさせぬ声が答えた。
信じられぬ声に幸村は弾かれたように振り返った。
確かにそこに立っているというのに、まるで影のように気配は薄く、体重を感じさせぬ所作をしている。
朽ち葉色の忍び装束に、橙の髪がうつくしく映えた。
「さ、佐助…?」
「うん?」
「お主、なにを…」
にんまりと笑い、肩を竦めるその姿は、確かにあの日失われたはずの真田忍び隊の長、猿飛佐助だった。
「なにって、旦那ぁ、ひどいじゃないのさ。俺を置いて戦に行くなんてさ」
後ろから刺されて死んじゃうよ?と佐助はおどけてみせた。