「ぐうっ……」
肩を踏みつけていた足が顔面を蹴り上げ、信玄は頬を裂かれながら横向きに転倒した。
手は後ろ手に、両足首はまとめて括られていて受身もとれない。湿っぽい地面に頭をしたたかに
打って、一瞬意識が遠くなった。
「無様ね。まるで芋虫みたいよ?」
狭く暗い牢の中、濃姫のわざとらしい高い声が幾重にも重なって耳に刺さる。信玄は痛みに
顔を強張らせながら濃姫を見上げ、己の意思を示した。
――それが何だというのだ。真に無様なのはお主の方よ。
という侮蔑の眼差しで。
「そんなに眉間にしわを寄せて……」
つま先が信玄の額をつつく。
「駄目よ、いい男がだいなしじゃないの。うふふっ」
濃姫に対してひるまず言葉を投げはしたが、すでに信玄の胸中は穏やかなものではなかった。
女に足蹴にされるというのは、相当の屈辱だった。それでも、屈辱感が泥水のように渦巻いて
濁る己の心を、濃姫の前に晒すわけにはいかなかった。
弱みを見せればそこから崩れて、さらにつけ入る隙を相手に与える。
合戦と同じだ。崩れた間隙は容易に埋まらず混乱を招き、それは疫病のように増殖して兵らを
食いつくす。
戦場において隙が生じることは死と同義ということを、信玄は熟知していた。
「…………」
信玄は目を閉じる。
勝つ見込みがなければ退くのが最善の策と思うが、あいにく今の信玄に退くという選択肢は
なかった。
死を覚悟させるほどの負け戦と決まっているようなものに、信玄は挑んでいた。死とは、
精神の死。誇りを失い、この女のくだらぬ復讐心を満たすことこそが最大の恥辱であり、死だ。
いかなる辱めを受けようと決して屈してはならない。
武田の旗のもと死んでいった武将らの、ひいては彼らの主たる武田信玄という一個人の誇りを
守るためである。
この場でいくら抗おうと、数日のうちに己の命は露と消えるのは分かっていた。だからこそ、
最期に無様な醜態を晒したくないと思うのだ。
負けという結果を勝ちに変える手段はないか。信玄はそれを探るために目を開き、額を
踏みにじる女に視線を投げた。
マムシの娘、魔王の妻という割に、この女は残忍な者特有の暗い影と狂気を持っていない。
漠然とだが、そう感じる。
身内に対しては優しく従順、ゆえに敵対する者へは過剰な瞋恚をあらわにするような――彼女の
気性は、先刻指摘したとおり、むやみに吠え立てて相手を威嚇する弱い犬と同じにおいがした。
信玄はそう読み取り、先に弱音を吐くのは案外、女の方かもしれないと考えた。
考えの中に、そうなって欲しいと願う己の希望が過分に含まれていることを自覚せぬわけでは
なかったが。
肩を踏みつけていた足が顔面を蹴り上げ、信玄は頬を裂かれながら横向きに転倒した。
手は後ろ手に、両足首はまとめて括られていて受身もとれない。湿っぽい地面に頭をしたたかに
打って、一瞬意識が遠くなった。
「無様ね。まるで芋虫みたいよ?」
狭く暗い牢の中、濃姫のわざとらしい高い声が幾重にも重なって耳に刺さる。信玄は痛みに
顔を強張らせながら濃姫を見上げ、己の意思を示した。
――それが何だというのだ。真に無様なのはお主の方よ。
という侮蔑の眼差しで。
「そんなに眉間にしわを寄せて……」
つま先が信玄の額をつつく。
「駄目よ、いい男がだいなしじゃないの。うふふっ」
濃姫に対してひるまず言葉を投げはしたが、すでに信玄の胸中は穏やかなものではなかった。
女に足蹴にされるというのは、相当の屈辱だった。それでも、屈辱感が泥水のように渦巻いて
濁る己の心を、濃姫の前に晒すわけにはいかなかった。
弱みを見せればそこから崩れて、さらにつけ入る隙を相手に与える。
合戦と同じだ。崩れた間隙は容易に埋まらず混乱を招き、それは疫病のように増殖して兵らを
食いつくす。
戦場において隙が生じることは死と同義ということを、信玄は熟知していた。
「…………」
信玄は目を閉じる。
勝つ見込みがなければ退くのが最善の策と思うが、あいにく今の信玄に退くという選択肢は
なかった。
死を覚悟させるほどの負け戦と決まっているようなものに、信玄は挑んでいた。死とは、
精神の死。誇りを失い、この女のくだらぬ復讐心を満たすことこそが最大の恥辱であり、死だ。
いかなる辱めを受けようと決して屈してはならない。
武田の旗のもと死んでいった武将らの、ひいては彼らの主たる武田信玄という一個人の誇りを
守るためである。
この場でいくら抗おうと、数日のうちに己の命は露と消えるのは分かっていた。だからこそ、
最期に無様な醜態を晒したくないと思うのだ。
負けという結果を勝ちに変える手段はないか。信玄はそれを探るために目を開き、額を
踏みにじる女に視線を投げた。
マムシの娘、魔王の妻という割に、この女は残忍な者特有の暗い影と狂気を持っていない。
漠然とだが、そう感じる。
身内に対しては優しく従順、ゆえに敵対する者へは過剰な瞋恚をあらわにするような――彼女の
気性は、先刻指摘したとおり、むやみに吠え立てて相手を威嚇する弱い犬と同じにおいがした。
信玄はそう読み取り、先に弱音を吐くのは案外、女の方かもしれないと考えた。
考えの中に、そうなって欲しいと願う己の希望が過分に含まれていることを自覚せぬわけでは
なかったが。




