「……寝たくねぇ」
「わかるとも」
「そうじゃねぇよ」
とノクト・サムスタンプが吐き捨てた。
……これだけではいくらなんでも何が何やらであるから、少し時間を巻き戻しつつ解説をしていかねばなるまい。
場所は、台東区にあるホテルの一室。
ノクトはある程度の期間ごとに宿を変え、東京を転々と移動しながら暮らしていた。
そしてこの会話がかわされたのが、昼前のことである。
サムスタンプ家の魔術刻印に紐づく幻想種『夜の女王』との契約により、ノクトは夜間に眠ることが許されていない。
ならば夜間に眠れない人間がいつ眠るのかと言えば、当然日中になるわけで。
日にもよる話だが、ノクトは午前中に眠り始めて三~六時間ほどは睡眠に充てることにしていた。
数日程度の徹夜ならパフォーマンスを維持することも難しくはないし、短めの睡眠でも活動できるように慣らしてはいるのだが……既にこの聖杯戦争も一ヵ月。これほどの長丁場でわざわざ睡眠時間を削るほど愚かなこともあるまい。
早寝早起きの老人を、きっかり昼夜逆転させたような生活――――それが、幼少期よりサムスタンプの魔術師に課せられたスケジュールである。
……といっても、ノクトもかれこれ四十四年間このスケジュールで暮らしている。
ノクトにとってこれは“当たり前”のことであるし、今更この生活をキツいとか嫌だとか思うことは無いのだが…………
「この戦場だと、他の連中と活動時間が合わせづらいのがなぁ……」
というのが、率直なぼやきであった。
通常、魔術師の戦いは夜間に行われる。
神秘隠匿のため、人目の多い昼間は避けて夜に人払いを行った上で戦うというのが魔術師の戦いのセオリーだ。
故にこれまでの“仕事”でことさらに困る、ということはあまり無かったのだが、この聖杯戦争という儀式は少々事情が異なっていた。特に、
神寂祓葉の設定した針音響く二度目の聖杯戦争では。
まずもって、期間が長すぎる。
既にここまでで一ヵ月――――恐らく最後の優勝者が決まるまで戦い続ける、時間制限のないバトルロイヤル。
いつ終わるともしれないこの舞台で戦う以上、毎日の“生活”を軽視することはできない。
まるで「すぐに終わったらつまらないでしょ?」と無垢に笑う少女の顔が目に浮かぶようだ。かわいい顔しやがって。
人数も膨大だ。
ノクトが観測できた範囲に予測を加えて、どう考えても数十人はこの儀式に参加している。三桁に届いていたかもしれない。
流石に大分数も減ってはきたが、まだ二十人以上は盤面にいると見て間違いないだろう。
元々の聖杯戦争がたった七人で行われるものだったことを思えば、この人数はいくらなんでも多すぎる。
まるで「遊び相手は多い方が楽しいよ!」と無垢に笑う少女の顔が目に浮かぶようだ。花みたいな笑顔しやがって。
人選もよくない。
どうもこの聖杯戦争、それなりの数の素人が混ざっている。
神寂祓葉のような“例外”を除けば、基本的に魔術師が集まって魔術師の
ルールや暗黙の了解に従って魔術師として戦うのが、本来の聖杯戦争だ。
だというのに、神寂祓葉というこの世界の“神”は手当たり次第に人を集め、即席の力まで与えて素人を舞台に上げている。
まるで「色んな人がいた方が絶対面白いもん!」と無垢に笑う少女の顔が目に浮かぶようだ。妖精だってそんなに可憐じゃねぇぞ。
極めつけは舞台設定だ。
聖杯と祓葉とキャスターの力で作られたこの偽りの東京は、まさしく現実世界ではないというのが問題だ。
魔術師のルールというのも神秘の流出によって劣化がどうのこうの、社会に対する影響がどうのこうの、魔術師の家同士の関係がどうのこうの、そういう理由で設定されたものであって、全てが虚構、勝者がひとりというこの世界ではまったく意味を成していない。
なにせ全てが仮想空間、住民は祓葉が作った人形に過ぎず、どんな手段を取ろうがそれが外に漏れることは無いのである。
守る意味の無いルールなど、一体誰が守るのだろう。
あまり無法に動きすぎても盤面が混沌に飲まれるだろうが、事実としてイリスなどは蝗の群れを各地に放っているのだ。
通常なら忌避されるあの戦略も、この戦場の特異性を思えば肯定されてしかるもの。まぁ、本人がどこまで考えてやっているのかは不明だが。
ともあれこれだけの大舞台を、聖杯とサーヴァントの補助込みとはいえ作ってのけた祓葉の規格外に頭が痛くなる。
まるで「えっへん! がんばりました!」と無垢に笑う少女の顔が目に浮かぶようだ。その内かわいさで人が殺せるかもしれねぇな。
総じてそれがどういう影響を及ぼすのかと言うと――――やることが多いのである。
戦う時間が長い。
戦う敵が多い。
しかもそこにはあまりに多様な人種がごちゃ混ぜに放り込まれていて、魔術師の戦いのセオリーが通用しない。
つまり昼間でも平然と戦闘が発生するし、それがあちこちで発生するし、それがあまりに予測不能である、ということだ。
……ノクト・サムスタンプは計算高い合理主義者。
入念に情報を収集し、最も確実な作戦を立案し、契約の罠と的確な暴力の両輪で勝利を掴まんとする狩人である。
そのノクトにとって、あまりに掌握が困難なこの舞台は極めて“やりづらい”ものと言わざるを得ない。
彼が昼間のんきに眠っている間にも、他の参加者たちは戦い、交渉し、戦争を進めているのだ。
独自の情報網を作り上げることで多少のカバーはできているが……ノクトがこの聖杯戦争を勝ち抜くにあたって、必要な情報が集まっているとは言い難い。
率直に言って歯がゆい事この上無いが、サムスタンプの魔術師に生まれた以上、昼間に動けないのは仕方のないことでもある。
「…………ま、ぼやいてても仕方ねぇ。あるもんでどうにかしねぇとな」
結局は、それだ。
できないことやどうしようもないことにああだこうだ文句を垂れても仕方ない。
現実を受け入れて、その中で最善を尽くすしか無いのだ。
「それで、今後の方針はどうするんだい、マスター?」
ぼやきに反応を示したのは、サーヴァントのロミオである。
恋に狂える彼ではあるが、一応は聖杯を求めるサーヴァント。
それ以上に優先するものがあるというだけで、一応……本当に一応、とりあえず聖杯戦争については前向きな姿勢を示している。本当に一応だが。
「あの、屈強な医者の老人と協力して戦うんだろう?」
「……蛇杖堂の爺様と? ハッ!」
そしてノクトはその確認を、嘲笑うように笑い飛ばした。
「確かに持ちつ持たれつ、仲良くやろうとは言ったがね……」
協力関係を結んだし、今すぐ積極的な敵対はしないだろう。
要請があれば手を貸すつもりだし、情報交換にだって応じよう。方針のすり合わせだってしたっていい。
電話ひとつであの暴君を呼び出して戦力に数えられるかもしれないし、それはあちらにとっても同じこと。
ノクト・サムスタンプと
蛇杖堂寂句の間で交わされた協力の取り決めは、おおよそそのような緩やかなものである。
客観的に言って自分は中々優秀な魔術使いだし、あの老人も恐るべき魔術師だ。
従えるサーヴァントもお互い真名や詳細までは開示していないが、十分に強力なサーヴァントを従えていると見ていいだろう。
……まぁロミオはいささか以上に扱いにくくはあるが、白兵戦における爆発力で言えば随一のものだ。恐ろしいことに。
ともあれそんな二陣営が協力関係にある、という事実はそれだけで他の陣営に圧力をかけられるものではあるが……
「――――少しでも甘えた動きを見せれば、あのジジイは即座に俺を殺すだろうよ」
決して、背中を預けることはできない。
それをお互いに了承した上で結んだ、薄氷の協力関係。
「……彼はそんなに恐ろしい人物なのかい?」
「怖いぜェ? 強くて傲慢で、査定も厳しいと来た。
やっこさんが協力に乗ったのも、“前回”で俺の有用性が証明できてるからってのが大きいだろうよ」
寂句の傲慢は本物だ。
なにが本物って、他者を見下す論拠たる実力が本物だ。
神寂祓葉を含めた七人の“前回”参加者たちの中で、魔術師としての総合力で言えば間違いなくあの老人こそが頂点に位置していたであろうとノクトは見ている。
戦闘力で言って
赤坂亜切、謀略で言ってノクトが次点として追随するだろうが、逆に言ってこの二人の戦力を足してもあの化け物に届くかどうか。
引きこもって膨大な経験値を生かしきれないガーンドレッドの魔術師どもも、その後継たる不出来なホムンクルスも、扱いにくい魔術に苦心する
楪依里朱も、真面目に勝ち抜く気の無い奇術師山越風夏も、それぞれ強力な一芸こそ持つものの総合力では明確に劣っていた。
もちろんそれが勝敗を決定付けるワケではない――事実として優勝したのは総合力としてみれば底辺の神寂祓葉だ――が、格上の対戦相手には違いない。
故に“前回”は彼の地盤から崩して引っ繰り返す策を取ったワケだが……あの戦術が取れる人物である、という点を寂句は評価したのだろう。
全てを見下す彼は根本的に他者に期待をかけていないのだろうが、使えるものを使わないほど怠惰では……彼の言葉を借りるなら、“無能”ではないということだ。
「ま、そこはお互い様だけどな……俺たちはお互いをいいように扱って、丁度いいタイミングで先に喉笛を掻っ切る算段を立てる。そういう“協定”なんだよ、あれは」
ちなみに、蛇杖堂の一族が全員既に東京から退去済みなのは確認してある。
当たり前だが、同じ轍は踏まないということらしい。
彼らをまた手駒にできれば、随分便利だったのだが。
「……並行して使える手札をもう一枚か二枚は増やしてぇな。
何人かのマスターのヤサは割れてるが、どいつとどう交渉するかが問題だ……」
目を瞑り、ノクトは己の使い魔に意識を向ける。
……ロミオのことではなく。
この“東京中に放たれた”、小動物や鳥のカタチをした無数の使い魔たちに、だ。
魔術師にとって、使い魔と契約を結んで使役するなど初歩も初歩。
凡百の魔術師でも十全に扱えるこの基本的な魔術を、契約の専門たるサムスタンプは遥かに高次に行使できる。
複数の使い魔の多角的同時使役。
ノクトが東京に形成した偵察網は、既に複数の陣営の拠点やおよその戦力を把握するに至っている。
使い魔だけではない。
このホテルの従業員を始めとしたそこそこの数の一般人に暗示をかけて契約を結び、無意識の協力者に仕立て上げている。
彼らは暗示によって契約の事実そのものを忘れているが、条件さえ満たせば強制的にノクトに奉仕する手駒へと変貌する。
この一ヵ月、ノクトはこういった“下準備”に手間をかけてきた。
これらの暗躍は、ノクトを知る“前回”の連中であれば即座に下手人を看破するであろうし、それでなくともいっぱしの魔術師であれば何者かの監視に察することもできようが……それが、どうしたというのだろう?
戦争なんだ。監視ぐらいされて当然だ。
使い魔を潰されようと、手駒を消されようと、ノクト自身はさして痛くも無い。
イリスとアギリの戦いのように、大規模すぎる戦いの余波で偵察用の使い魔が全滅してしまい詳細がまったくわからないこともあるが……だとしてもそれで、やはりノクト自身が何かを失うワケではない。
「イリスの“蝗害”でも、祓葉は殺せなかったらしい。
ざまぁみろとは思うが、俺達も最終的に聖杯を取る以上は祓葉をどうにかせにゃならん。
蛇杖堂の爺様をうまく使い潰しつつ、祓葉を倒す算段も立てねぇとなァ……」
契約を極めるということは、他者を操れるようになるということである。
交渉と契約によって動かせる手駒を増やし、確実な勝利を収める。
そういった、盤面を掌握せんとする地道な暗躍と、それに基づく戦略の形成こそがノクトの真骨頂であり――――
「……寝たくねぇ」
それ故にやはり、睡眠によって情報掌握が滞るのは望ましいことではなかった。
起きた後に使い魔から情報を受け取ることはできるが、リアルタイムで情報を整理して対応を取れないというのは実に歯がゆい。
寂句の裏をかくため、祓葉をこの手に掴むため、他の陣営を出し抜くため。
なにか決定的な、規格外になり得る鬼札が盤面から得られればいいのだが。
言っても仕方のないことだとわかりつつも、忌々しげにぼやきを零す。
するとここまでノクトの言葉を静かに聞いていたロミオは、神妙な顔で頷きつつ、
「わかるとも」
と返した。
ノクトにはわかる。
この男、確実に寝たくない理由を恋煩いかなにかだと思っている。
そりゃあ確かに祓葉のことを思えばどうしようもなく胸は高鳴り、自分が寝ている間に彼女が他の誰かと関わっているかもしれないと思うとはらわたが煮えくりかえるような想いだが、なにもノクトはそういう意図でぼやいたワケではない。
「そうじゃねぇよ」
と吐き捨てたものの、果たしてロミオに伝わったのかどうか。
多分伝わってはいないのだろう。
「フフ、相変わらず照れ隠しが多いね、キミは」
やっぱり伝わっていない。
まるでノクトが祓葉のことを恋しく思ってたまらないようではないか。馬鹿馬鹿しい。
狂戦士とはいえ、話が通じないサーヴァントとはなんともやりにくいものである。
前回の相棒であるアサシンが恋しかった。
あれは真面目なサーヴァントであった。
ロミオに比べれば大抵のサーヴァントは扱いやすいだろうが、それにしたってあれはノクトの気性に合っていた。能力的にも、人格的にも。
とはいえそれもやはり、言ってもしょうがないことだ。
結局のところ、人は配られたカードで戦うしかないのだから。
「…………じゃあ俺は寝るが、あんまどっか行くなよ」
「はははっ! 当然じゃないか! 僕がどこに行くって言うんだい?」
「………………………そうだな」
知っている。
このバーサーカーはそこそこの確率で“ジュリエット”を探して街へ繰り出す。
今この瞬間、本人は確かに心からどこにも行かないつもりなのだろうが、暴走する恋心は簡単に心変わりを引き起こすのだ。
これもノクトが眠りたくない理由の大きなひとつなのだが、これこそ本当に言ってもしょうがないことであろう。それがバーサーカーなのである。
幸いにして、真っ当な白兵戦でロミオに敵うサーヴァントはそう多くない。
睡眠中とはいえ大幅な魔力消費があれば咄嗟に起きる程度の気の張り方はできるし、永遠に起きているワケにもいかないのだからここは眠るしかない。
前回の相棒である、アサシンが恋しかった。
せめて夢に祓葉が出てきてくれねぇかなぁ、と思った。
◆ ◆ ◆
煌星満天は、コミュ障である。
臆病で、人見知りで、内向的で、アドリブに弱い。
ファンとの交流などまともにできた試しがないし、スタッフとの連携も、他のアイドルとの共演も、偉い人とのお話だって、どれもこれもロクなことにならない。
それでも、最近はちょっとだけマシになったと思う。
マネージャー兼トレーナー兼プロデューサー兼CEOであるファウストのレッスンと、炎上まがいのバズりによって獲得した承認欲求と、アイドルとして“推し”と会って話せた時間は、ほんの少しだけ満天に自信を与えていた。
まぁ元来のコミュ障は全然そのまんまではあるのだが、ちょっとずつ……ちょっとだけ、人の前で話すことに前向きになれてきている。気がする。
そう、マシになった。
マシになったのだ。
前よりは多分、きっと、絶対、ちょっとぐらいは他人とコミュニケーションが取れるようになったはずなのだ。
…………取れるようになったはずなのだけれど。
「おい」
「ハイ…」
「知ってるぞ、お前……キラボシマンテンとかいうアイドルだろ」
「ハイ、ソウデス……」
流石にこれはちょっと、無理である。
昼、事務所へ向かうために移動中だった満天は、街中で男性に呼び止められた。
ファウストには「注目されているのだから、変装を心掛けるように」と言われていたが……正直、甘く見ていた部分が無いと言えば嘘になろう。
だって今までロクな注目浴びてこなかったし。
だいたい何をすればいいのだ、変装って。
あんまり露骨に隠すと逆に目立つし、なんか自意識過剰っぽくて恥ずかしい感じもするし、丁度いい塩梅がよくわからない。
よくわからないまま適当な変装で妥協していたせいで、全然一般人にバレた。
……バレた、までならまだよかった。
へたくそなファンサを試みて、滑って、別れて、それでおしまいだっただろう。いや全然よくはないなこれ。
ともあれ、実際起こった事象はそれどころではなく。
「――――――――お前、バケモンだろ」
……………路地裏に連れ込まれて、詰問を受けている。
何故だ。
どうしてこうなった。
巡る思考に答えを求めても、まともな回答は出てこない。
詰める男性は、なんだか目が血走っている。
興奮状態……とはまた違うのだろうか。
まるで血に飢えているかのような、爛々とした瞳の輝きが嫌に印象的だった。
「見たぞ。お前。角と尻尾を隠してるだろ。
人間じゃねぇ。バケモンだ。そうだろ、お前」
「いや……あの……あれはその……特殊効果? みたいな……ハハ……」
「俺は騙されねぇぞッ!!!」
「ひっ」
バン、と男が壁を殴る。
ヤバい。
あまりにもヤバい。
何がヤバいのか説明するまでもなくこの状況は明らかにヤバすぎる。
「イナゴがよ……俺の親の家を全部食っちまったよ……親父もお袋も見つからねぇ……」
現在、東京を蝕む蝗害――――彼は、それによって家族を失ったのだという。
「近所じゃよ……最近メチャクチャ喧嘩が多いんだよ……昨日まで普通にしてた奴らが、急に殺し合いかってぐらいの喧嘩してんだ……」
現在、東京を脅かす暴徒の群れ――――彼は、その渦中で暮らすことを余儀なくされているのだという。
「意味わかんねぇよ……東京は、一体どうなっちまったんだ……?」
彼は“書き割り”である。
この偽りの東京で生成された、無数に存在する仮想の人形のひとつに過ぎない。
だがそれでも、神寂祓葉という絶対の神が仮想した命は本物とそう違わぬ心を有し――――
「お前みたいなバケモンがいるから、おかしくなっちまったんじゃねぇのか?」
――――聖杯戦争の余波によって衰弱し、僅かながらも“戦場”の狂気に当てられた彼の心はもう、壊れかけていた。
「ちっ、ちがっ、私は関係な――――」
……本当に?
確かに満天が聖杯戦争でやったことと言えば、ファウストと契約して事務所をやめてファウストが作った事務所に入ってレッスンしてオーディションしてステージ爆破してバズって推しに会った。それだけである。
だが、知っている。
今の東京で起きている異常が、多分他の参加者の仕業であることを。
知っているだけで関わってはいないが、同じ戦いに参加する“異常”の側の存在である。
悪魔の姿を全国区(といってもこの仮想世界は東京二十三区しか存在しないらしいが)で晒した満天が、本当に彼らの不安や憔悴と無関係であると、言えるだろうか?
言える――――――――と満天は思っている。
そんなこと自分に言われても困る、と思っている。
実際問題一介の底辺アイドルに過ぎない満天になにができるのかと言われたらなにもできないし、なんだったら満天も被害を受けている側である。最近野菜が高いのだ。
だが、彼の壊れた心は納得しないだろう。
満天はまさしく悪魔で、彼の日常を脅かす異物に過ぎないのだから。
どうする。
逃げることは……まぁ、できる。
ファウストとの契約で手に入れた力の一部。
『微笑む爆弾(キラキラ・ボシ)』と満天自らが名付けた、虚仮威しの爆弾もどき。
せいぜい目眩まし程度にしかならないこれも、正しく目眩ましとして使うのなら十分な結果が望めるだろう。
爆破で注意を逸らして、その隙に逃げる。
たぶん、それでこの窮地は脱することができる。
……できるが、気が引ける。
それは異常に押し潰されてしまった男性の心を想ってのこと……ではなく。
もっと単純に、それによる周囲への影響を鑑みての抵抗感である。
幻とはいえ爆弾は爆弾。
注意を逸らすに足る規模で使えば、相応の音も光も出る。
目立つ、ということだ。
それもかなり。
この男性に限らず、今の東京は大分ピリピリしている。
そんな街の中で堂々と爆弾の音を鳴らせば、周辺住民のパニックを引き起こしかねない。
そして満天が爆弾の主だと露見すれば、それはもう大変なことになるだろう。間違いない。
下手をすれば爆弾魔系アイドルとして牢屋の中である。そんな未来は流石に御免だった。
あるいはそうなっても、ファウストならうまくフォローしてくれるのかもしれないが……
……「あまり目立たないように」と言った当人に頼るのは、流石に。
ものすごく怒られると思う。
ちくちくと小言を言われまくると思う。
最悪、見捨てられるかもしれない。
あの悪魔のような悪魔契約者の甘言に乗って事務所を移籍した満天にとって、それはそのまま人生のゲームオーバーを意味している。
とはいえ、このまま手をこまねいていてはなにをされるかもわからない。
できるだけ出力を抑えて、目立たないようにして……いよいよ己に宿る悪魔の力に手をつけようと決心した、その瞬間。
「――――――――やめたまえよ、キミ」
男の肩を、掴む手があった。
「あぁ……ッ!?」
「やめたまえ、と言ったんだ……大の男がレディにすごんで、恥ずかしいと思わないのかい?」
現れたのは、美青年である。
輝きを宿す金髪、健康的ながらも妖艶に煌めく白い肌。
薔薇の刺繍を入れた仕立てのいいコートからは、まさしく薔薇の香りが漏れる。
信じられないほど長い睫毛の奥には、憂いを孕んだアンニュイな瞳が、しかし強い意思を覗かせていた。
物語の世界から出て来たかのような、絵に描いたような美青年――――それが今、満天への詰問を咎めている。
「っ、うるせぇっ!! でしゃばってんじゃねぇよ!!!」
当然、男性は美青年の手を振り払った。
そして怒りのまま、美青年へと拳を振りかぶる。
危ない、と満天が言葉を発するよりも早く。
「ぶげっ」
「……暴力も良くない。せっかく平和な時代なのだから……」
美青年の素早い拳が男性の顎を打ち抜き、一瞬で彼を昏倒させた。
目にも止まらぬアッパーカット。
そしてそれ以上に、明らかに喧嘩慣れした体捌き。
「すご……」
と、思わず感嘆の言葉が漏れる。
それに応じて、美青年の視線が満天へと向いた。
直接向き合うと、本当に信じられないほどの美形だ。
曲がりなりにも芸能界に属する人間として、それなりに“美形”を知識として入れてきたが、男性というくくりでこれ以上の美形はちょっと知識に無いかもしれない。
顔の造形そのものの美しさもさることながら、パーツの端々に宿るアンニュイな雰囲気がなんとも言えぬ妖しさを演出している。
恋愛などに現を抜かすつもりは毛頭無い満天にあってなお、それでも目を惹かれざるを得ない美形であった。
「あっ、あのっ、あ、ありがとうございましたっ!!」
とはいえ、いつまでも見惚れているワケにもいかない。
助けてくれた礼を伝え、頭を下げる。
まるで颯爽と現れた白馬の王子様。
恋愛ドラマならここから恋が始まるような場面だが、そんな都合のいい展開は転がっていないだろう。
先述の通り、アイドルたるもの恋愛に現を抜かすべからず……というか、そもそもそんなものにかまけている余裕が一切無い満天は、かなりフラットにこの美青年を受け入れられていた。
助けてくれたから、お礼を言う。
本当に純粋にただそれだけの、感謝の気持ちを込めて頭を下げた。
ちょっとどもってしまったけれど、ちゃんとお礼を言えたと思う。
そんな安堵を胸に、満天がゆっくりと頭を上げると――――
「――――――――ジュリエット……」
うん?
「嗚呼っ!! 冷たくはにかむ太陽、不動に揺らぐ草原、天高く輝く地上の花……」
うん????
「ジュリエット……キミの美しさを表すのに、言葉という絵の具のなんと役立たずなことだろうか……」
おかしい。
具体的に言うと様子がおかしい。
先ほどまで憂いを帯びつつも強固な意志を宿していた瞳は、今は興奮に潤んで爛々と輝いている。
詰問してきた男性の血走り方とか目じゃないぐらいに爛々と輝いている。
それでも美形故に絵にはなるのだが、率直に言ってちょっと怖い。
「ああ、愛しのジュリエット……またキミに遭えたこの幸福を、僕はなんと言い表せばいいのだろう?
掌の中のリスよりも愛らしく、窓の桟に佇む猫よりも優雅で、空を舞う鷹よりも気高く美しいキミ!
キミの前ではこの世の全てが色褪せて見えてしまうよ……」
ちょっと怖い、は嘘だ。
率直に言って大分怖い。
美青年は熱に浮かされたように口説き文句を……これは口説き文句でいいのだろうか?
まぁ多分口説き文句。それを口走りながら、歓喜に打ち震えつつ距離を詰めてきて待て近い近い近い近い。
「あっ、あのっ」
「ジュリエット!! どうかまた僕の手に口づけをおくれ!
そして僕の巡礼がキミの手を渡り、唇の門を訊ねることを許して欲しい!
愛の巡礼はキミという門をくぐり、永遠の幸せの中に包まれるんだ……」
「ひっ」
もはや美形がどうこうではない。
ヤバい男である。
どこからどう見ても狂人であり、多分性犯罪者である。
一難去ってまた一難。
再び窮地に立たされた満天は、ほとんど無意識に美青年から距離を取る。
「ひ――――――――――――人違いですっ!!!!!!!」
距離を取って、逃げた。
いくら顔が良くても、それで誤魔化せる限界と言うものがあった。
◆ ◆ ◆
「………………それで、煌星さん」
そして、事務所。
プロデューサーにしてCEOであるファウストは、優雅に足を組んで座ったままひとつ嘆息を零した。
満天は、バツの悪そうな顔で床のシミの数を数えている。
「そのまま彼を連れてきてしまったと」
「いやっ、連れて来たっていうか、ついて来ちゃったっていうか……」
「僕の居場所はジュリエット、いつでもキミの隣さ」
「ずっとこういう感じで……」
そして満天の隣には、様子のおかしい美青年がいた。
逃げたのだ。
もちろん頑張って逃げたのだ。
でも全然逃げきれなかったのだ。
途中お巡りさんに助けを求めたりもして、一瞬それでなんとかなった感もあったのだが、気付けばお巡りさんの追跡から逃れて隣にいるのだ。
本当に意味がわからない。かなり怖い。
「まったく…………いえ、ついてきてしまったものは仕方ありません。
注目度の上がった貴女をひとりで歩かせたのは私のミスでもあります」
「えっキャスターが珍しく優しい……」
「私はいつでも貴女に優しいですよ」
ややそう。
部分的にそう。
スパルタで毒舌ではあるが、ファウストは満天のために色々とやってくれている。
彼は基本的に満天に優しい、と言っていいだろう。
でもスパルタで毒舌である。
そんな思考も、ファウストは全て読み取っているのだろう。
これ見よがしに大きなため息をまたひとつ、深く吐き出した。
「ため息が多いね。キミも恋をしているのかな」
「いえ、残念ながら。…………ロミオさん、でよろしいですね?」
「えっ」
ロミオ、と呼ばれた美青年は――――にこりと微笑を浮かべると、少し誇らしげに頷いた。
「ジュリエットとの愛を引き裂こうとした呪わしき名だが、中々どうしてついて離れないものだ。
いかにも、僕はモンタギューのロミオ。知っていただけて光栄だよ」
「有名人ですからね、貴方は。貴方のことを知らない現代人はいませんよ」
「えっ、あっ、ああー、ああーーーーー!! そっかそっかそっか、ロミオ!!!」
「フフ……キミのロミオさ、ジュリエット。
この忌まわしき名前も、キミの口から放たれれば祝福に変わってしまうね!」
「……まさか今まで気付いていなかったんですか、煌星さん。
誰がどう見たってロミオ以外ありえないでしょう……いえ、これも他陣営との接触を避けた弊害ですか」
そう。
冷静に考えて人のことをジュリエット呼ばわりしてくる美青年、ロミオ以外にまずありえない。
いや普通ロミオは初対面の女性をジュリエット呼ばわりしないだろうとも思うのだが、とにかくそういうことらしい。
この偽りの東京に招かれてからこっち、サーヴァントという存在とはファウスト以外まったく接してこなかったし、そのファウストも過去の偉人というよりは敏腕プロデューサーという感じの態度と格好なので、全然ピンと来ていなかった満天である。
ファウストは絶対零度の視線を満天に向けたが、すぐに気を取り直して社交的な笑みを作る。
「申し遅れました。私はキャスター。
人の世を忍ぶ名としては、ヨハンと名乗っています」
ヨハン……ヨハン・ゲオルク・ファウストの、ゴリゴリに本名である。
本名であるのだが、世にヨハンというドイツ人が何人いるのかという話だ。
英語で言えばジョン、仏語で言えばジャン。
そのあまりに没個性な名前は、名乗ったところで真名に繋がる情報にはほとんどなり得ない……というのが、ファウストから満天になされた説明である。
あるいはもしかすると、彼以外にも一人ぐらいは“ヨハン”が聖杯戦争に参加しているかもしれないぐらいに、没個性的な名前なのだ。
「彼女のサーヴァントであり、プロデューサー……
貴方にもわかりやすく言い換えるなら、従者にしてお目付け役といったところでしょうか」
「ああ、なるほど!
ジュリエットが随分と頼りにしているようだから、何者なのかと思っていたけれど……よほど信頼されている従者なのだね」
「恐縮です」
貴族の子弟であるロミオにとって、従者という存在は飲み込みやすかったらしい。
すんなりと理解を受け入れたロミオを、ファウストは油断無く観察していた。
既に戦いは始まっているのだ。
敏腕アイドルプロデューサー、ファウストPの戦いは。
「さて、それでは……ジュリエットさんの話なのですが」
「? 彼女には“煌星満天”という名前があるのだろう?」
出鼻を挫かれた。
「………………ええ、失敬。ちょっとした比喩表現です」
「キラボシマンテン……宝石が転がるような煌めきに満ちた、美しい名前だねジュリエット」
「???????」
軌道修正。
狂人との会話は難しい。
基本的に彼らには独自の世界観があり、その世界観に基づいて行動している。
原則として狂人と会話を試みるべきではないが、もし会話の必要があるのなら、彼らの世界観に寄り添う必要がある。
満天は既に理解を放棄して背景に宇宙空間を描いているし、自衛としてはそれで正しいだろう。
しかしファウストは、踏み込むことを選んでいる。
見極め、しかし飲み込まれないように。
極めて繊細な、爆弾解体じみた工程。
「アイドル、というのですがね。彼女は歌姫を目指しているのですよ」
「歌姫! 確かに彼女の声は天使の調べも雑音に聞こえてしまうほどに美しいが……」
「ええ、まさしく」
一手ずつ、反応を確かめながら。
「彼女はその歌声と可憐さで、この街の人々を元気付ける仕事をしているのです。
貴方もご存じでしょう。この街が今、どれほど恐怖と不安に包まれているか……
彼らのために、彼女は自分なりの戦いをしているのですよ」
そして時には、巧みに言葉を繋げて踏み込む話術。
例え相手が精神に異常を来した狂人だとしても、悪魔の弁舌はパーフェクトコミュニケーションを探り当てる。
「ジュリエット……彼の言っていることは本当なのかい?」
「………………えっ? あ、いえ。歌姫っていうかアイドルで、そもそも昔からの夢っていうか……」
『否定から入らない。適当に肯定してください。難しいなら微笑んで頷く』
失言を飛ばしそうになった満天には、念話で指示を。
彼女はこの場に必要だが、彼女の言葉は必要ない。
なにやらぼうっとなにかを考えていたようだが、それも後回しだ。
「……そ、そうなんですよ!
昔からの夢だったんですけど、今しかないって思って!
やっぱりアイドルって……」
『続けないでください。ボロが出ます』
「…………そ、そんな感じです。はは……」
コミュ障の満天に会話を続けさせるのはリスキー過ぎる。
あくまで適当に、ほどほどの返答をさせる。
その“ほどほど”が難しいのは承知の上だから、適時指示を出す。
あまりおんぶにだっこであれこれと指示を出しても意味がない……彼女との契約である『このファウストに、再び"瞬間に留まることを願うほどの希望と充足"をもたらす』を満たせなくなるため、あくまでサポートに徹してきたファウストだが今回は話が別だ。
これはアイドルプロデュースとは別の、聖杯戦争の領分。
東京を侵食する規格外の破壊の嵐から満天を守るために、ファウストには弁舌を振るう義務がある。
「ああっ、ジュリエット……キミは心まで聖母のように美しいのだね……!
見ず知らずの人々の安寧のために、キミの美しさという良薬を配り歩こうと言うのか……!!」
かかった。
「ええ、ですが……うまくいくことばかりではなく……」
ファウストは内心でほくそ笑みつつ、悲しげな表情を作る。
あと少し。
決定的な引きを作るために、あと少し布石がいる。
「先ほど、貴方も見たでしょう……煌星さんは徐々に知名度を上げているのですが……その分、厄介なファンもついてしまいましてね」
「――――なんだって?」
ロミオの美しい瞳が細く、鋭く輝いた。
愛する女性を狙う不埒者の存在を認知したことによる、憤怒。
その感情の動きは当然、悪魔の掌の上だ。
「彼女を狙う者が、出てきたようなのです。
それでも彼女は人々のために歌いたいと……誰か、彼女を守る騎士がいればいいのですが」
「ならっ!!!」
その言葉を聞くのと、ロミオが言葉を発したのはほとんど同時。
いっそ食い気味に、恋に狂う美青年は高らかに宣言する。
「――――彼女の騎士はこの僕だッ!!
この世のありとあらゆる危険と悪意から、僕がこの手で彼女を守ってみせる!!
例え悪魔が彼女の魂を取り立てに来たって、決して渡してやるものか!!!」
……悪魔、という表現は、クリスチャンとして特に意識せずに出した慣用句であろうが。
皮肉なものだ。
悪魔が魂を取り立てようとしているのは、“彼女だけではない”というのに。
「素晴らしい……まさしく愛のなせる言葉だ、ロミオさん。では――――」
微笑みと共に、悪魔は一枚の紙を取り出した。
会話の裏で作成していた、“契約書”を。
「――――――――――――その言葉、誓えますね?」
――――契約を極めるということは、他者を操れるようになるということである。
◆ ◆ ◆
『……えっ待って待ってキャスター』
見事に丸め込まれ、契約書にサインするロミオの背中を、ああ、自分もこんな感じだったのかな……とちょっとだけ複雑な気持ちで眺めつつ、満天はファウストに念話を送った。
念話というか、厳密には内心で話しかけただけなのだが、この距離ならば満天の思考は彼に筒抜けのはずなので問題ない。
『はい、なんでしょう煌星さん』
ファウストは口頭で契約の詳細をロミオに説明しながら、念話に応じた。
器用なマルチタスク。敏腕プロデューサーである彼にとって、この程度の分割思考は児戯にも等しい。
『ちょっと状況が飲み込めなくて反応遅くなっちゃったんだけど……えっそれどういう契約?』
『彼を貴女の護衛として雇う契約です』
護衛として。
このロミオを。
“この”ロミオを、満天の護衛として?
………………………………たっぷり数秒、ちょっとシミュレートしてみた。
朝起きて、ごはん食べて、事務所に来て、レッスンして、たまに仕事をする(すごい!)満天。
そんな生活の隣に常にいる、“これ”。
『――――――――ヤダーーーーーーーーッ!!!!!』
これを言葉にせず内心に抑えられたのは、ものすごい快挙と言っていいと思う。
『ちょっ、キャスター正気!?
この変質者が私の護衛やるの!?
いくらイケメンって言っても限度があると思うんだけど!?』
ダメだと思う。
絶対色々ダメだと思う。
『ええ、ダメです。もうサインしてしまいましたから』
だがそんな満天の抗議を、ファウストは片手間に拒絶した。
確かに説明を受けたロミオが満足げに契約書にサインし、拇印まで押している。
『安心してください。貴女が夢を叶える時まで、一切の接触はしないということで合意が取れています。貴女が彼に襲われることはありませんよ』
『い、いやっ、でもでも、こんなの連れてたらスキャンダルとかさ!
“あの子”がそれで大変なことになってるの、キャスターも知ってるじゃん!
事実がどうあれ、世間は信じてくれないんだよ!?』
『その点もご安心を。人前では姿を隠す契約にしました。彼が気配遮断スキルを持っていたのは嬉しい誤算でしたね』
流石は敏腕プロデューサーである。ソツがない。
『……いいですか、煌星さん。
何度も言いましたが、聖杯戦争参加者としての私たちには致命的に足りないものがあります。それがなんだかわかりますか?』
『…………戦う力でしょ』
『そうです。現状、私たちの戦闘力は全陣営の中でも最下位でしょう。
そしてアイドルとして露出が増えるということは、それだけ他陣営にも目立つということです。
先ほどはただの暴漢で済みましたが、これが他の陣営であれば逃げることもままならずに貴女は殺されていたでしょう』
『それはわかるけど……』
確かに、今の満天たちは弱い。
先日のバズりで少しは力もついたが、まだまだまともに戦えるほどではない。
刻一刻と異変に見舞われるこの東京で、悠長にアイドル稼業に専念する時間がどれだけ残されているかというのは、正直かなり疑問だ。
『幸いにして、彼は貴女をジュリエットだと思い込んでいるようです。
契約を抜きにしても、勝手に貴女を守ろうとしてくれるでしょう』
『そこが問題だと思うよキャスター……!?』
『ははは』
『流された!?』
そう、そこが問題なのだ。
どういう理由なのかはわからないが、この美青年はなぜか満天を運命の恋人だと思い込んでいるようで。
そんなデカい矢印をこちらに向けてくる狂人を常に傍に置くなんて! 生理的嫌悪がものすごい。
だいたい、あくまで彼が恋をしているのは“ジュリエット”だろう。
満天に囁く愛は誤認に過ぎず、どこかで真実に気付いてしまう可能性もある。
あるいは満天が心から彼を魅了することができれば、その心配もなくなるのかもしれないが……
『………………ん、あれ。もしかして……』
『ああ、気付きましたか。そうですよ?』
そう。
そうなのだ。
煌星満天の勝利条件は、最高に輝くトップアイドルの座を掴むこと。
生存条件は、その可能性をファウストに示し続けること。
そして今、生存条件に追加されたのは――――ロミオの心を掴んで離さない、魅力的なアイドルであること。
『貴女の本気を疑いはしていませんが、いささか危機感に欠けるとは思っていましたからね。
渡りに船とはこのことです。少々リスキーなプランですが、貴女なら乗り越えてくれると期待していますよ、煌星さん』
『なっ……なな……』
それは落第点の見えぬ無限飛行。
今この瞬間から、煌星満天はアイドルとしてのレベルアップを命懸けで行わなければならない。
できなければ?
……どうなるのだろう。
この狂える美青年の期待を裏切った時、自分はどうなるのだろう?
「ジュリエット……キミの夢のためとはいえ、またキミと触れ合えなくなるのはとてもつらいよ。
でもキミがいつか夢を叶えた時、また二人で結婚式を挙げよう……そして僕らは幸せに暮らすんだ」
…………これを、魅了し続けろと言うのか?
「い…………」
「い?」
「―――――――――嫌ァァァァァーーーーーーーーーーーッ!!!!!」
流石に今度は我慢できずに、満天はちょっと泣いた。
◆ ◆ ◆
……さて。
実際のところ、ファウストは単純にこの護衛契約を持ちかけたワケではない。
無論、他の陣営の襲撃に備えて護衛を求めていたというのも事実。
理性無き美青年も、契約という枷に嵌めてしまえばある程度はコントロールできる。
彼という護衛を手に入れたことで、他陣営からの襲撃によって即敗退というリスクは大幅に低減された。
また危機感を与え続ける身近な監視者の存在は、満天の成長を促すことができるだろう。
加速を始めたこの聖杯戦争、少しリスキーな手段を取ってでも彼女をトップアイドルに仕立て上げなくてはならない。
ここまでは、彼が満天に説明した通り。この方針に嘘はない。
だがもうひとつ、この契約には重大な意味がある。
ロミオはサーヴァントである。
ということは、マスターがいる。
今は休んでいる、とはロミオの弁だが……自分のサーヴァントが他陣営のキャスターに“取られた”と認識したマスターが、慌てないはずもなく。
いずれ、向こうから接触があるだろう。
その時に、改めて――――そのマスターと、契約を結ぶのだ。
契約を極めるということは、他者を操れるようになるということである。
既に契約によって手中に収めたロミオの存在は、交渉において極めて強力なカードになるだろう。
労せずして、ファウストは陣営をひとつ契約によって束縛し、使役することができるというワケだ。
期せずしての幸運であった、と言わざるを得まい。
満天が暴漢に襲われたのも、そこを通りがかりの狂戦士に助けられたのも、完全に意図しない偶然であったのだから。
聖杯戦争は急加速し、混迷を極めていく。
なれば悪魔は、その混沌を嘲笑おう。
悪魔とは、混沌の中で巧みに人の魂を奪うものなのだから。
…………………ところで。
ここまで契約の話が続いたわけだが、もしかすると疑問に思った者もいるかもしれない。
即ち――――なぜノクト・サムスタンプは、お得意の契約魔術でロミオを制御しないのか?
現に今、彼はロミオの制御不能故に危機に陥っている。
お得意の契約魔術を用いれば、少なくとも寝ている間に外出しない程度の制限はかけられたはずだ。
もちろん理由がある。
己のサーヴァントとの関係は良好に保っておきたいとか、仮にも味方に対して制限をかけて咄嗟の対応に支障が出ることを避けたいとか、色々と理由がある。
中でも特に大きく、根本的な問題として――――
意味が無いのである。
…………意味が、無いのである。
何故か?
単純だ。
ロミオの宝具『恋は盲目(ブラインド・アローレイン)』は、愛する者のためであれば際限なくステータスの強化が行われるというシンプルな能力。
この、“際限なく”というのが曲者であり……“ステータスの強化”というのが問題であった。
具体的かつ端的に言うと、魔力と幸運のステータスも向上してしまうのだ。
向上するとどうなるか?
魔術に対しての抵抗力が高まる。
つまり、“契約”がロミオにとって恋の障害と認定されたが最後――――彼の恋心は契約違反のペナルティを跳ね除けて、自由に暴走を始めるのだ。
彼の暴走に際限はなく、限界も無い。
故に、契約で縛る意味が無い。
罰則の機能しない契約に、一体どれほどの意味があるというのだろうか?
そんなことをするだけ魔力の無駄であることを、ノクトは半ば感覚的に理解していて、だからロミオを放っておいているのだ。
――――契約を極めるということは、他者を操れるようになるということである。
――――――――しかし恋心は、誰にも止められない。
【台東区・ビジネスホテル/一日目・午後】
【ノクト・サムスタンプ】
[状態]:健康、恋
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:莫大。少なくとも生活に困ることはない
[思考・状況]
基本方針:聖杯を取り、祓葉を我が物とする
0:zzz……(睡眠中)
1:戦況を把握し、戦場を掌握し、勝利への算段を立てる。
2:当面の課題として蛇杖堂寂句をうまく利用しつつ、その背中を撃つ手段を模索する。
[備考]
- 現在、睡眠中です。夕方までには起きます。
- 東京中に使い魔を放っている他、一般人を契約魔術と暗示で無意識の協力者として独自の情報ネットワークを形成しています。
- これによって大きな戦いなどはおよそ把握できているようですが、把握漏れも多いようです。
【台東区・芸能事務所/一日目・午後】
【バーサーカー(ロミオ )】
[状態]:健康、恋
[装備]:無銘・レイピア
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:ジュリエット! 嗚呼、ジュリエット!!
1:ジュリエット!! また会えたねジュリエット!! もう離しはしないよジュリエット!!!
2:キミの夢は僕の夢さジュリエット!! 僕はキミの騎士となってキミを影から守ろうじゃないか!!!
[備考]
- 現在、煌星満天を『ジュリエット』として認識しています。
- ファウストと契約を結びました。
内容としてはおよそ『煌星満天を陰から護衛する』『彼女が夢を叶えるまで手を出さない』といったもののようです。
- 契約違反にはペナルティが課されますが、彼は宝具による自己強化でそれを跳ね除ける可能性があります。
【煌星満天】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:『微笑む爆弾』
[道具]:なし
[所持金]:数千円(貯金もカツカツ)
[思考・状況]
基本方針:トップアイドルになる
1:嫌アアアアアアアアアッ!!!
2:魅了するしかない。ファウストも、ロミオも、この世界の全員も。
3:この街の人たちのため、かぁ……
[備考]
【プリテンダー(ゲオルク・ファウスト/メフィストフェレス)】
[状態]:健康
[装備]:名刺
[道具]:眼鏡
[所持金]:莫大。運営資金は潤沢
[思考・状況]
基本方針:煌星満天をトップアイドルにする
1:ロミオとの契約を足掛かりに、そのマスターも従属させたい。
2:時間が無い。満天のプロデュース計画を早めなければならない。
[備考]
内容としてはおよそ『煌星満天を陰から護衛する』『彼女が夢を叶えるまで手を出さない』といったもののようです。
- ロミオの宝具には気付いていません。
- 対外的には『ヨハン』と名乗っているようです。
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最終更新:2024年09月17日 23:55