2012.12.31
«マルコによる福音書»の第5章より引用します:
イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。 安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。
イエスの衣に触れた女の病気が治るシーンです。病気が治したのでは、神の力ではなく、信仰であるとしています。このシーンには、〝イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて〟という説明記述がありますが、それはイエスの言葉とは矛盾しています。
«マタイによる福音書»の第14章より引用します:
イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
水の上を歩いていたペテロが、風を見て恐ろしくなり、おぼれかけるシーンです。水の上を歩く奇跡が神やイエスの力によるものであれば、ペテロの信仰とは関係がないはずです。ペテロが自分の信仰の力で水の上を歩いていたからこそ、信仰が薄くなると奇跡が失われてしまったのです。
«ルカによる福音書»の第17章より引用します:
使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。そこで主が 言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け 出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。
イエス自身は〝神への信仰〟という言葉を使っていません。«ルカによる福音書»での〝信仰〟は超能力の源のようなものとして説明されています。いくつかの奇跡の主体は、神ではなく、明らかに人間なのです。
神を肯定しつつも、社会において人間を主体とするイエスの思想を近代において真に甦らせたのは、カール·マルクスでした。
カール·マルクス曰く、
神が人類および人間自身を最高たらしめる普遍的な目的をあたえたのであるが、 神はこの目的を達成しうるための手段をさがしもとめることを人間自身にゆだね た。神は、人間にもっともふさわしい。そして人間が人間自身と社会とを最もよ く高めることができるような立場を社会の中でえらぶことを人間にゆだねたので ある。