ペリー来航から太平洋戦争終結までを一連の戦争として捉えるのはとても現実的だと思います。林秀雄の«大東亜戦争肯定論»ではペリー来航からの約100年間を「東亜百年戦争」と呼び、この表現は、歴史研究の深まりから著書に批判にされる点が少なからずみられるようになった今でも、思想家に幅広く支持されています。残存左翼である栗原幸男さえ、«大東亜戦争肯定論»の復刊を強く支持しています。
しかし、アヘン戦争と満州事変を同列には扱えません。1919年に「植民地問題の解決」、1922年に「民族自決の原則」が国際法上確立し、1922年にはエジプトが、1925年にはイランがイギリスから独立しています。これはイギリスの善意や紳士性ばかりゆえのことではなく、近代的自我の強まりで、「帝国の義務」(the Imperial Responsibilities)の1つとして、国民に植民地に生きて死ぬような協力を求めるのが難しくなったことも背景としてあります。政治支配から経済支配への転換が必要になったのです。
どの宗主国も、自分だけが撤退すると、他の国が植民地を広げる懸念がぬぐえないので、誰も植民地を広げてはいけないというルールを作りました。日本もそのルールメーカーたちの一員だったことを忘れてはいけません。
植民地からのイギリスの撤退は比較的速やかで、植民地だった国々の民にも「栄誉ある撤退」と讃えられています。イギリス連邦に残っている国も多い。そういう中で、歴史に逆らった日本は孤立し、宗主国からはならず者と見なされ、植民地からは解放者ではなく抑圧者だと捉えられるようになりました。
2013.09.01